第二子誕生
ヘンドリック・ドゥーフにとって二人目の子どもは男子だった。
名前を道富丈吉と付けたのも、将来、子どもを本国へ連れ帰られないからだった。
日本の法律によって……日本人は国外へ出られないからだ。鎖国令である。
だから、娘も息子も日本人として生きねばならなかった。
生きねばならないのなら日本人としての名前が必要だったのだ。
女の子は将来、嫁ぐから「おもん」だけにした。
男の子は将来、妻を娶る立場である。
職に就かねばならない。
その時のために苗字を作ったのだ。
道富はドゥーフを当てた漢字である。
ドゥーフ家であることを忘れないで欲しいとの父としての願いがこもっていた。
丈吉が生まれた頃に大きな事件があった。
1808年の「フェートン号事件」である。
イギリス海軍のフリートウッド・ペリュー率いるフェートン号がオランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ侵入した。
フェートン号は、オランダ船と誤認して近づいてきたオランダ人2名を捕縛、彼らを人質にして長崎に対して食料や飲料水の提供を求めた。
港内の和船を焼き払うと脅迫までしてきたイギリス船を前に、動員令を受けたがしかし泰平に慣れ過ぎていた鍋島藩や福岡藩らの兵ではイギリス船を追い払うことが出来ず、長崎奉行松平康英はそれでも交戦も止む無しと考えていたが、ドゥーフの説得により幕府側は英国船に食料や飲料水を供給、オランダ商館も食料として豚と牛を送ったことから2名は無事に保釈され、フェートン号は長崎を去った。
しかし、国威を辱めた責を感じた松平康英らが切腹するなど、日本の幕府側でも混乱が続いた。
この事件を「フェートン号事件」と呼ぶ。
また、この年から、ヘンドリック・ドゥーフは本木庄左衛門ら6人の日本人にフランス語を教えた。
この年に丈吉はこの世に生を受けた。
ドゥーフの祖国オランダは、フランスによって倒されたことにより、日本と直接の貿易が出来なくなった。
そのため、ドゥーフ達長崎のオランダ人の立場は微妙な物となった。
鎖国政策を採っている日本の立場に立てば、利益を生み出さない外国人を国内に留めておく理由がないからである。
ドゥーフやオランダ東インド会社は知恵を絞った結果、ヨーロッパの戦争からは距離を置き中立の立場を取っていたアメリカ合衆国の船に目を付けた。
アメリカ船をオランダ船に見せかけ、貿易の代行をしてもらうことによって、何とか細々と日蘭貿易を続けることに成功した。
長崎のオランダ人は、本来生活必需品をオランダから送られる物資に頼っていたが、本国が消滅している以上、もはや本国からの援助は期待できなかった。
ドゥーフは許可を得て長崎市中を出歩いて、日本人との友好に務め、日本の好意を得て生活物資を日本から「借金」という形で援助して貰うことで、この危機を切り抜けた。
ドゥーフの所蔵している本を、幕府や長崎奉行が相場以上の値段で買い取るなど、日本側も祖国を失いながら祖国の矜恃を保ち続けるドゥーフには同情的であった。
幕府からの命令で、オランダ人の生活費は長崎会所が払っていた。西洋の食べ物が来ず、ドゥーフ自身手元のノエル・ショメルの辞典からビールを作った。
この時期も日蘭関係が維持されたのは、ドゥーフの努力の賜と言っても過言ではない。
そんなヘンドリック・ドゥーフの子どもでも、やはり偏見が顔を覗かせた。
青い目、黒くない髪、鼻筋が通った顔立ち……丈吉もまた「オランダさんの青目ん玉ぁ~。」と日本人の子ども達に囃し立てられた。おもんと同じだった。
姉と弟は二人でその言葉を聞いた。そして聞かなかったことにしたようにその場を去る。
それが、この姉弟の生活の一部だった。
ドゥーフは子ども達を長崎くんちに連れて行きたいと思った。
出島から出られないオランダ人のために大波止御旅所に桟敷が設けられている。
そこでヘンドリック・ドゥーフは家族で見たのだ。
「龍踊」「太鼓山」などを……。
家族での楽しい時間だった。
おもんが元気だったからだ。