オランダ商館長
まだ日本が鎖国していた頃のこと………。
日本で唯一、外国との貿易をしていた場所がありました。
長崎の出島。
その長崎の出島にはオランダ商館がありました。
そのオランダ商館は、日本とオランダとの貿易を担っていました。
オランダ商館長……オランダ本国より送られてきた数少ない日本を知ることが出来た人でした。
江戸幕府が定めた歴代の商館長が1年間。
オランダの戦火によって、その任期が17年もの長きに渡ったたった一人の商館長がいました。
その人の名は、ヘンドリック・ドゥーフ。
彼は日本で様々なことを行なってきたようです。
はじめて俳句を詠んだ西洋人でもあります。
後年、彼はヴァシーリー・ゴロヴニーンの日本に関する著作の間違いを指摘しています。
その彼に日本人との間の子どもが居たのです。
どちらの子も遊女との間の子でした。
当時の長崎、丸山には、オランダ人、中国人のための遊郭があったのです。
丸山遊郭の遊女が出島へ出向いたのです。
1人目の子は、おもんという名の女の子で9歳で夭折しました。母の名は園生。
2人目の子は、道富丈吉という男の子でした。母の名は、瓜生野。
この物語は、ヘンドリック・ドゥーフの現地妻だった遊女とその子どもを描きます。