UFOだ!……とても言える状況じゃないんだなあ、これが
「犯人に告ぐ!」
雑居ビルの3階から顔を出す犯人に向かい、長さんが拡声器で説得を試みる。夜の歓楽街を騒然とさせる大事件。犯人は、拳銃を所持し、人質を取って立てこもっている。人質の命が危ない。現場を張り詰めた空気が支配する。
そんな渦中にいて、不謹慎にも、私の胸は高鳴っていた。なぜなら、ベテラン刑事、長さんの交渉術を間近で学べるからだ。新米刑事の私にとって、こんな機会はそうそうない。本音を言えば、今すぐメモ帳を取り出して、事細かに記録をしたいところだ。しかし、そんな流暢なことが出来る状況ではない。衝動をぐっと抑え、長さんの横で、犯人確保の指示を黙って待っている。
「お前は完全に包囲されている!」
長さんは、仕事の鬼。普段は、誰にでも優しい物静かな人物だが、こと事件となれば、恐るべき職務遂行能力を発揮する。昔から集中力が維持出来ず、注意散漫になりがちな私は、日頃から「新米くん、君は、目先の物事に囚われることなく、俯瞰で見る能力に長けているようだ。でも、集中するべき時は、脇目を振らずに集中しないと最後まで責任を持って職務を遂行することは難しいよ」などと指導を受けている。
「無駄な抵抗はやめて、今すぐ出てきなさい!」
「黙れ! 今すぐ現金三千万円と車を用意しろ! さもなくば人質の命は無いぞ!」
錯乱した犯人が、人質のこめかみに拳銃を突き付ける。
「長さん、事態は緊迫しています。大勢で一気に突入し、制圧をするべきでは?」
「新米くん。まあ、そう慌てるな。ここは、わしに任せなさい」
軽く咳払いをした後、再び拡声器を持ち上げた長さんは、これまでとは対照的に、犯人に優しく語りかける。
「犯人よ、お前にも母さんがいるだろう。お前の母さんは泣いているぞ。♪か~さんが~よなべ~をして~」
……童謡を歌い始めた。私の勉強不足なだけで、これこそが最先端のネゴシエーションなのかもしれない。
「♪てぶく~ろあんでくれた~」
おや、よく見ると、犯人が長さんの歌声に聴き入っている。にわかには信じ難い事だが、昔から「1/fゆらぎ」と称される人の心を癒す不思議な声を持つことで有名な長さんなら、有り得ない話ではない。その独特の声音は、横で聴いている私も思わずうっとりしてしまうほどだ。よし、この調子なら、犯人が戦意を喪失して降伏をするかも。
「♪こがら~しふいて~ つめた~かろ~と~ せっせ~と~」
(あ、UFOだ!)
私は、UFOを目撃した。
急展開に戸惑ったのは読者だけではない。当事者の私は、読者の何十倍も戸惑った。雑居ビルの遥か上空を不規則に移動する怪しげな発光体。長さんはこぶしをまわして熱唱をしているし、そこにいる警官、マスコミ、野次馬、みんな立てこもり事件に夢中で気付いていない。でも、あれは間違いなくUFOだ。私は、ただ無言で狼狽するばかり。
「♪あんだだよ~」
(いやいやいや、あんだだよ~、じゃないっすよ、長さん! ほら、あれ、UFOっす! おい、みんな、見ろ、未確認飛行物体だ!)
大声で叫びたい。でも、とても言える状況じゃないんだなあ、これが。
次の瞬間、雑居ビルの遥か上空を浮遊していた発光体は、急降下を始めた。地上に迫るにつれ、円盤型のフォルムがはっきりと確認出来る。あわわわ、緊急事態だ。このままでは巨大なUFOに建物ごと押しつぶされてしまうぞ。
(あれ、小さい?)
そのUFOは、驚くほど小さかった。ぱっと見、ゴルフボールほどのサイズしかない。極めて小型の未確認飛行物体は、立てこもり事件に夢中の群衆をよそに、雑居ビルの敷地内を蛍のように飛び回っている。
(長さん、呑気に歌っている場合じゃ無いっす! ほら見て、UFO! 小さい! めちゃんこカワイイ!)
それからUFOは、雑居ビルの敷地を囲むブロック塀の上を歩いていた一匹の野良猫に接近し、円盤の下部から青白い光線を浴びせると、機体の何倍もある猫を、一瞬にして機内に吸収してしまった。
(怖っ! 長さん! 大変だあ! 猫! 吸い込まれた!)
とても言える状況じゃないんだなあ、これが。
「♪ふるさ~とのたよりはと~ど~く いろり~のにおいがした~」
「……すまねえ、母ちゃん」
夜空にビブラートを轟かせて、長さんは、堂々と一曲を歌い上げた。「1/fゆらぎ」の歌声に心を癒され、正気を取り戻した犯人が、泣きながら手にした拳銃を窓の外に投げ捨てる。
「今だ、犯人確保!」
長さんの合図で、大勢の警官が雑居ビルに飛び込み、犯人を取り押さえる。人質の命に別状はない。こうして事件は解決をした。
署へと戻る車内でハンドルを握り、私は自責の念に駆られていた。犯人が人質のこめかみに拳銃を突き付け、長さんが最先端のネゴシエーションを試みたあの時、そこにいた全員が、事件の動向に注目していたあの時、一人だけ小さなUFOに気を取られていた私は、注意散漫だったのだろうか。職務怠慢だったのだろうか。私には、刑事としての職務遂行能力が欠如しているのだろうか。
そんな時、助手席の車窓から都会の夜空を眺めていた長さんが、ぽつりと言った。
「あの猫、どうなっちゃうのかな……」
……気付いていたのか。
長さんの恐るべき職務遂行能力に、私は、あらためて感服した。