茜青葉月。
「ねぇ! ちょっと待ってよ!」
そう叫んでも前を歩く彼は歩を緩めようとする素振りさえしない。
「ねぇ! ねぇってば!」
すると彼は振り向いて只一言。
「うるせぇ。ここで待ってろ」
初めて聞くその彼の声に私は足を止めて呆然としていた。
虫取網にカゴを持ち、麦藁帽子を被って、意気揚々と彼は歩いて行く。
そんな彼の後ろ姿を只々見つめていた、あの夏──────。
「ふふっ。もう何年前の話かしらね、懐かしいわあ」
燦々と太陽が降り注ぐ縁側で一人の女性が涼んでいた。
何処か遠くを見つめながら、優しく、笑って。
「今頃こんな夢を見るなんて、面白いことも起こるものね」
そう呟いて、女性はあの夏を思い出す─────。
「わぁ!」
盛大に音を立て、思いっきり膝を打ってしまった。
すると、今まで黙々と進んでいた彼がこちらを振り返った。
「あーくそ。だから着いてくんなって言っただろ!」
「だって……」
「だってじゃねぇ。あーもう、血が出てんじゃねぇか」
見ると、私の膝から何やら赤いものが滲み出てきている。
どうやら、傷というものは見ると痛みが倍増するらしい。
みっともないところを見せまいと堪えていた涙も、堰を切ったように溢れ出てきてしまった。
「泣くんじゃねぇよ。ほら」
見ると私の膝にはでかでかと名前の書かれたハンカチが無造作に巻かれていた。
「あ……」
「おら、さっさと歩かねぇと置いてくぞ」
そう言って彼は私の手を取り、立たせてくれた。
先程と言ってることが真逆のような気がするのは気のせいだろうか。
「行くぞ」
彼はそう素っ気なく言い放ってズカズカと歩きだした。
しばらく歩いて到着したのは、自分達の何倍もある大きさの大木だった。
「おし、じゃあお前は待ってろ」
そう言うと彼はその大木を見事なまでに登っていく。
私が呆然と見上げていると、
「あった!」
彼らしからぬ大声が聞こえた。
だがお目当てのものはいなかったらしく、またすぐに木登りを続行していた。
「おい! 起きろ!」
あれから何分経っただろうか。どうやら私は寝てしまっていたらしい。
瞼を開くと、そこには彼の誇らしげな顔が、そして彼の手には何だか角の生えた生物がいた。
「見ろよ! とうとう捕まえたんだ!」
私の住む村では珍しい、大きなカブトムシ。それがしっかりと虫かごの中に入っていた。
顔を上げるとそこには、初めて見る、滅多に笑わない彼の満面の笑み。
「すごいね! こんな大きいの見たことない!」
彼につられて笑いながらそう言うと、
「さ、帰るぞ」
急に顔を伏せて、もと来た道を歩き始めてしまった。
「今思うとあの頃は可愛かったなぁ」
太陽はもう傾いている。
茜色に染まった空を彼女は見つめていた。
「ただいま」
すると後ろで、戸を開ける音と共に聞き慣れた声が響く。
それを聞いた女性は、悪戯っぽく笑って、
「お帰りなさい。今日の収穫はどうだった?」
カブトムシとあの時の笑顔を思い描いて、部屋へと入っていった。
「あら、お帰りなさい。今日の収穫はどうだった?」
「あのね! 今日は今までよりもずっと大きいカブトムシを捕まえたんだよ!」
「そう。それは凄いわねぇ。どれどれ、見して頂戴」
「はい! ……あ!」
虫かごが開いた、一瞬の隙をついて、それは飛び立っていった。
それが消えた、茜色の空を見つめて、それでも、私達は笑っていた。
それは、遠い夏の思い出───────。