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Side・2 居場所の作り方




 二日目。


 アレックス様は朝から仕事の準備で忙しそうだった。少し寝坊したらしい。そんな彼の隙を狙って少しだけ質問をしてみる。


「アレックスがいない間、僕は何をしたらいいの?」


「……とりあえず、家から出なければいい。後は好きに過ごせ」


 二日酔いだと顔に書いてあるアレックス様。頭痛がしているのだろう、表情が険しい。


(体調が悪いのは明白だ。僕がアレコレと質問するのは嫌がるだろうな)


 余計な質問は一切しないほうが良い。そう判断したので「分かりました」と言って微笑んでみた。


 するとアレックス様は「ふむ」と呟いて、それから面倒臭そうに言葉を重ねた。


「テレビを観てもいいし、映画を観てもいい。本もあるが、お前が読むようなタイプの本ではないだろうな。寝て過ごしても構わん。ああ、それと食事に関してだが、冷蔵庫の中の物は勝手に食っていい。ちなみに遠慮はするな。気を遣われると逆に不愉快だ。分かったな? ……とにかく好きに過ごせ」


「えっ、と」


「もう一度言うが、家からは出るな。もし何か問題があればこのナンバーに電話しろ」


 命令はそれだけだった。寝て過ごしてもいいらしい。


 どうしたらいいのか分からなかったので、とりあえずテレビをつけてニュースと天気を確認。その他には窓から周辺の地理を把握したり、逃走の際に現金が必要になる可能性を考慮して金目のものを漁った。収穫は上々。どこに何があるのかを理解した僕は、こうやって一つの安心と希望を手に入れた。


 逃走は、可能だ。


 だが今すぐ逃げるのはどうだろうか?


 ここで逃げても、即座に追っ手がかかるだろう。あるいは警察に保護されて、アレックス様が直接迎えに来るかもしれない。そうなれば今度こそ僕はボロ雑巾コースだ。


 どうか今夜も、酷いことをされませんように。



 帰って来たアレックス様は、両手一杯の荷物を持っていた。


「冷凍食品……?」


「お前の好みが分からんので、色々買ってきた。これは全てお前の食事なので、自由に食え。とりあえず今夜はハンバーグだ」


 昨晩の酔っていた時と違い、冷徹な印象。その手にある凍り付いたハンバーグと良い勝負だ。


 僕は「ありがとう」とだけ告げた。



 その日も酷い事はされなかった。


 新しい下着と、いろいろな着替えが増えた。




 三日目。


 冷凍食品が増えた。それはいいのだが、お肉系ばかりだ。ウキウキして食べたけど、少し僕には味付けが濃いみたいだ。冷蔵庫をあさってみたけど、野菜類やフルーツは無かった。でもレモンがあったので、それに砂糖をまぶして囓ったりした。ふぁぁ……すっぱい……。


 本棚を改めて眺めてみたけど、アレックス様の言うとおり、僕が読めるレベルの本はほとんどなかった。お仕事とか、メンタル系の本が並んでいるようだったけど、どれもこれも高度すぎる。


 次にブルーレイが並んでいる棚を見てみる。並んでいるのは大作アクション映画……ヒーロー系が多いような気がする。コウモリ男とか、クモ男とか。その他にはサスペンスかな? ラブストーリーみたいなのはほとんどなかった。あと、一本だけジャパニーズアニメがあった。観てみようかな……。


 でも結局この日はニュースを観て、外の景色を観察して、なんとなくソファーの上で座って過ごした。


 ……僕は本当に、無事に過ごせるのだろうか? 初日と二日目は叩かれたりせずにすんだけど、この先では何が起こるか分からない。


 僕は一本だけ、食事用のナイフをソファーの隙間に隠した。でもやっぱりやめた。この家には食事用ナイフが三本しか無かったから。きっとすぐにバレてしまうから。



 その日の晩、アレックス様はまた僕の衣服を買ってきたようだった。


 サイズは合ってるか? よし、合ってるな。ちなみにコレとコレだと、どっちがお前の好みだ? と聞かれたので、僕はアレックス様が微妙に推している風のシャツを選んだ。彼は満足そうに「やっぱりこっちか」と言って笑った。



 その日は僕がソファーで寝た。アレックス様は最初は嫌がっていたが、仕事で疲れているでしょう? 交代で寝るようにしようよ、と僕ははっきりと表明した。


 彼はものすごく微妙な、悩むような仕草を見せたけど「分かった」と言って、素直に寝室に消えていってくれた。


 初めてソファーで寝た時に思った。


 広々としたリビングで寝ると、時計の音が気になった。試しにウソ咳き込みをしてみると、音が響いた。――――この家は、とても静かだ。


 落ち着かない夜を僕は過ごした。



 四日目。


「今日はでかい荷物が届く。お前のベッドだ。この部屋に設置するよう指示しろ。コンシェルジュに立ち会わせるよう指示しているから、何か困ったことがあったら彼に頼れ」


 コンシェルジュというのはそこまでするのだろうか? そんな疑問があったけど、設置作業はすぐに終わった。


 物置のような部屋。そこに僕のベッドが置かれて、なんだか不思議な気持ちになる。


 アレックス様は僕と一緒に寝ようとしない。もっと直接的に言うのなら、いやらしい事をしてこない。それどころか叩かない。悪口も言ってこない。僕に触れようとすらしない。


 仕事も与えてこない。外に出るな、という事以外に命令された覚えもない。遠慮無く食事をしろというのは命令じゃないよね。


 ……なぜ、僕を買ったんだろう。


 アレックス様は言うには「父が買えと言ったから」だそうだ。でもあんな大金をただ支払うだけとは考えられない。僕の価格の十分の一以下の金額で殺人を請け負う人だってこの世にはいたのに。


 アレックス様の命令は「外に出るな」。


 しかし、それを守るだけで果たしてこんな立派なベッドを買ってもらえるものだろうか?


 ……もしかしたら、今夜こそ、このベッドの上で何かされるのではないだろうか。


 消えない不安が強くなる。


 僕はいつ、どんな風に、襲われてしまうのだろうか。



 その晩、アレックス様は酔って帰ってきた。どうやらトモダチと飲んできたらしい。


「ねーむーい……」


「あ、アレックス。せめて上着は脱いだ方が……」


「あー? うーん。そうだな。これかけといて?」


 ぽいっとジャケットを渡される。見よう見まねでクローゼットに仕舞うと、彼はニコニコして言った。


「おお。すごいなエミール。よくそこがクローゼットだと分かったな。流石は優秀だ」


(この程度で!?)


 彼は僕を何だと思っているのだろうか。


「よしよし。優秀なエミールが仕事をしたのだから、報酬をやらないとな。うん。働けば金がもらえる。とっても普通な話だ。……ありゃ。百ドルしかない。これは流石に多すぎる。えーと、どっかに十ドル札無かったか……」


 彼は僕がしまったジャケットのポケットを漁りはじめた。


「むぅ。無い。どうしよう」


「あ、アレックス……別に、ジャケットをしまったぐらいで報酬なんて……」


「あぁ? なんだテメー。誰が酔っ払いだこのやろう」


「よくそんな感じで帰ってこれたね」


「……家に帰って気が緩んだんだよー。おうエミール。外には出てないよな?」


「ずっとこのお家にいたよ。外に出てもすることないし」


「――――そうか。まぁいい。ほれ、チップだ」


 彼はぬっ、と僕に百ドル札を手渡してきた。


「えぇ……? こ、これをどうしろと。お金を使う機会が無いんだけど」



「もしも使うつもりがあるのなら、せいぜい上手く使え」



 ドキリとするぐらい、冷たい言葉だった。その視線もまた同様に冷ややかだ。


「あ。眠い。おやすみ」


 そう言ってアレックス様はソファーに倒れ込む。飛び込んだ感触が気持ち良かったのか、小さく笑っている。


「あ、アレックス。そこはベッドじゃないよ。ほら、シャワーはともかく、せめてベッドで寝て?」


「あー? うるせぇ。お前がベッドで寝ろ。昨日俺が……ベッドで寝た……し……」


「いや、僕用のベッド買ってくれたじゃない。そうだ、お礼を言ってなかった……あんな立派なベッドを買ってくれて……ありがとうございます」


 そう告げるとアレックス様はクスクスと笑った。


「ベッドって。ははは。この家には俺しかいないのに、ベッドを二つ買う馬鹿がどこにいる……んだ……ぐぅ」


 寝た。


 寝てしまった。


『この家には俺しかいないのに』


 その言葉が、少しだけ引っかかった。



 彼は僕のことを、何だと思っているのだろう。




 五日目。


 ものすごい二日酔いです、という顔でアレックス様は仕事に向かっていった。


 あんなにお酒が弱いのに、どうして飲むのだろうか。確か彼は「味はともかく気分が良い」みたいなことを言っていたけど、それにしたってさっきまでは死にそうな顔をしていた。


 アレックス様が出かけると、この家はシンと静まり返る。


 クセのような感覚でテレビを付けてみるけど、僕はそれをすぐに消した。


 静寂。街の雑音ははるか階下に。


 五日目。もう五日目なのだ。なのに彼は僕に何も求めてこない。それはイコールで「必要としていない」ということでもある。


 はっきり言おう。もしもこのまま生活が続くのであれば、それは僕にとって大変喜ばしいことだ。


 食事が出来て、テレビが見られて、柔らかな寝床で眠れる。


 罵られない、叩かれない、犯されない。それどころか僕に触れてさえこない。


 彼が昨日手渡してきた百ドル札を、そっと枕の下から取りだしてみた。


『もしも使うつもりがあるのなら、せいぜい上手く使え』


 意図が分からなかった。


 外出するなという命令。使うあてのない高額紙幣。


 ストレートに解釈するなら「これで逃げろ」と言っているに等しい。


 だけどそんなことあり得るだろうか? あんなバカみたいな金額で僕を落札しておいて、逃げろだなんて。ただ不気味としか言い様がない。


 逃げてもいいのだろうか?


 しかし、逃げてどうする?


 いや、待て――――もし僕が外に出て警察に保護されたとしたら、彼はどうなる? もし僕が「アレックスという男に奴隷にされた」と訴えれば、逆に彼が社会的に死ぬことになるぞ。


 そうだ。そもそもがおかしいんだ。


 アレックス様は僕を檻に閉じ込めない。だけどもしも僕が逃げてしまったら、彼が牢獄に閉じ込められることになるはずなのだ。


 なのに、なぜ? なぜその可能性を無視した? 気がつかないわけないだろうに。


 もしもかして、もしかしてだけど。


 …………酔っていたから、覚えてないとか?


 正常な判断が下せなかった? なんてこった。アレックス様はアホだ。


 このまま僕が外に出て警察に駆け込めば、百ドルすら不要。そのまま僕は奴隷から解放されるというのに。


 しかし、しかしだ。


 しかし――――どうなのだろう。


 あの人は僕に酷いことをしない。むしろ、冷たくて不気味でもあるが、優しくしてくれているような気がする。


 一体、彼は僕になにを求めているのだろうか。


 ……逃げるだけならいつでも出来る気がする。


 僕はもう少しだけ様子を見ることにした。



 そしてその日の晩、アレックス様は僕にまたお土産を買ってきてくれた。


「お前くらいの年ごろの男の子は、まだディズニーとか好きだろう」


 ドサドサと積み上げられたブルーレイ。ジャンルはバラバラだ。女の子が観るような映画が多い。「人形が動くやつ」はだけはちょっと気になる。……たぶん適当に棚から引っこ抜いてきたんだろうな。


「実はこれ観てみたかったんだよな」


 そう言いながらアレックス様はひらひらと、動物がぴょんぴょんしてそうなパッケージを僕に見せつけてきた。


 ――――ダメだこの人。僕が逃げるなんて全く考えていない。



 その日の夕食は、彼が買ってきたテイクアウト食品を食べた。


 割と粗雑な味付け。普通に美味しくて、僕はいっとき悩みから解放された。


 デザートにはアイスクリームもあったので、それを食べながら「動物ぴょんぴょん」を観た。


 すごく美味しかったし、映画は楽しかった。まさか相棒バディものだとは思わなかったけど。




 六日目。


 アレックス様は少し早めの時間に出ていった。どうやら忙しいらしい。


 僕は再び百ドル札を枕の下から取りだし、それを眺めて過ごした。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう。


 分からない。僕はここで何をするべきなんだろう。


 この空間には「義務」がない。「仕事」もない。


 ただ過ごすだけで、一体何が変えられるというのだろうか。


 与えられた食事。洋服。ベッド。危害を加えられない時間。


 飼い殺し、という言葉が浮かんだ。


 そうか……もしかして、僕は愛玩動物ペットの一種なのだろうか。


 彼にこびを売ったり、甘えたりするのが仕事?


 いや、それはどうだろうか。彼はいつだって冷徹な印象をまとっている。


 酔った時と、映画を観た時だけは別だった。そしてあれが素の性格なのは間違いない。アレックス様は寂しがり屋で、お酒が弱くて、本音を隠すのが上手いんだろうけど、自宅だからということで気が緩む瞬間がある。


 愛玩動物。


 ……今夜、少しだけ甘える素振りを見せてみるというのはどうだろうか。


 だけど線引きが難しい。ボディタッチなんてしたら、そのままベッドに引きずり込まれる可能性はまだ否定出来ない。


 その日の夕食は出前だった。近所のレストランから配達されたそれはとても美味しくて、アレックス様も興が乗ったのか「コレならワインが合いそうだ」と言って『序曲』という名前のワインを開けていた。


 すぐに酔った。


「アレックスは……お酒が弱いのに、どうして飲むの?」


「ん? ドラッグよりは安いからだ」


「……ドラッグが安かったら、するの?」


「安物のパチモンなんかでキメられっかよ。大体だな、そういうのは一人でコソコソとやるもんじゃない。どんちゃん騒ぎの合間に、うっかりと盛られるものだ」


「そ、そうなんだ」


「そもそも、ドラッグなんか全然楽しくないぞ。スカイダイビングとかの方がよっぽどシビれるわ。なのに特定のご老人共はそういう健全なものより、アングラな雰囲気が未だに好きっぽいんだよな。懐古主義っていうの? とにかく古くさい。あいつら未だに煙草とか吸ってるんだぞ。そりゃ昔の映画とか観る限り格好いい俳優には煙草が似合うが、あいつらはどうだよ。全然似合わない。咳き込むぐらいなら吸うなっての。あー、でも新規の視察とかで工場とかに出向いた時、喫煙所がはるか彼方の敷地外にしかない時の困惑っぷりは超面白い。ははっ、ウケる」


 今夜の酔い具合は、饒舌だ。


 というよりも、どうやらストレスが溜まっているらしい。ナチュラルに、そしてユニークを交えてはいるけど、彼が口にしているのはグチだ。


 僕は「今夜、甘えます」計画をいったん破棄して、別のプランを採用した。


「大変なんだね。アレックスはスカイダイビングが好きなの? それともドラッグが嫌いなの?」


「ドラッグは好かん。というか、それをキメるヤツ等が下品であんまり好きじゃない。でもスカイダイビングはいいぞ~。パラシュートが開かなかったら死ぬなコレ! ってドキドキするし、その感覚が麻痺して、周囲の景色が大きく広く見えた時なんか最高だな。慣れすぎると退屈になるだろうから、半年に一回しかしないが、あれはいい」


 判定。アレックス様は、嫌いなものを語るより、好きなものを語りたいらしい。


「そうなんだ。他にはどんなストレス発散方法があるの?」


「……あー」


 ひゅっ、と。少しだけアレックス様に冷静さが戻る。


「…………そうだな。大人数で行動するのは苦手なんで、実は公園の散歩とか好きだぞ。あとは……格式張ったパーティーは疲れるが、一度だけ面白いパーティーがあった。コテージを借りて、大量の酒とピザを用意して、コメディ映画を観るんだ。全然パーティーじゃなかったなありゃ。だけど面白かったよ。二日酔いで記憶を無くす映画なんだけど、全員が飲み過ぎて映画のオチを覚えていなかった」


 微笑みながら彼の話を聞く。そして同時に、脳みそをフル回転させる。


 嫌いな話と、好きな話が混じっている。どうやら僕の質問は彼の酔いを少し醒ませてしまったらしい。……線引きというか、質問の仕方が難しいな。


「二日酔い……僕はお酒を飲んだことがないから分からないけど、楽しそうだね」


「……まぁ、一時は忘れる・・・ことが出来るかな」


 いけない。どんどんクールになってきている。


 僕は方向を切り替えて、『序曲』を手に取った。


「じゃあ、もう一杯飲めば、もっと忘れられるかな?」


「……ははは。二日酔いになりそうになったら止めてくれ」


 王をいさめる、奴隷。


「――――止めていいの?」


「おう。それがお前の仕事だ」


 来た。チャンス到来だ。分からないことは聞いてもいいんだ。


「僕の仕事って、なぁに?」


「まだ何と言ったらいいか分からんが……そうだな、俺が俺であり続けること。そのサポートだ」


「アレックスが、アレックスであるように……?」


「普通でいたいんだよ、俺は。…………おい、注いでくれないのか」


「そろそろ二日酔いになりそうだから、少しだけね」


 ちょっぴりとワインを足す。すると彼は「クックック」と笑った。


「ああ、そうしよう。ありがとうなエミール」



 今夜の彼は上機嫌な様子でシャワーを浴びて、パタリと眠った。


 お酒が弱いのに、ストレス発散のために飲んでいるのだろうか。もう少し仲良くなれば、もっと深いグチと本音が聞けるかもしれない。


(……仲良く?)


 仲良くってなんだ。どうすれば彼の好感度を上げること出来るっていうんだ?


 ちらりと、テーブルの上に残った食事の残骸を見つめる。


 余ったワインの匂いを嗅いでみると、とても不味そうな臭いがした。


 とりあえず片付けるか。




 この家に来てから一週間目。


 アレックス様は片付けられた食器類を見てため息をついた。


「片付けてくれたのか」


「おはよう、アレックス。それぐらいはするよ」


「そうか。悪いな」


 クーール。昨日のヘラヘラ感はお酒が無いと出せないのだろうか。



『俺が俺で在り続けること。普通でいたい』



 なるほど。それが僕の仕事らしい。しかしアレックス様らしいとは、一体何を指しているのやら。


 とりあえず僕は、掃除を覚えることにした。


「そんなことするな」とは命令されなかったから。更には、アレックス様がアレックス様でいるために『掃除』が必要なルーティーンだとは思われなかったからだ。


 そして何より、一番簡単な仕事だからだ。使わない、触らない物に溜まったほこりを拭うだけでも「仕事をした感」が出る。



 この日は床を拭いた。あまり使ってない部屋は埃っぽくて、床磨きだけで一日が終わるレベルだ。僕があまり慣れていないということもあるけれど。


 翌日は埃が溜まっているところを綺麗にした。戸棚や、小物。こまごまとした掃除は、なんだか無心になれて楽しい。


 早速アレックス様はそれに気がついたようだ。


「へぇ。なんか綺麗になってるな」


「……気づくのが早いね」


「流石にな。よし、働けば報酬が出るものだ。ちょっと待ってろ」


 アレックス様がジャケットのポケットを漁り始めたので、僕はそれを片手で制した。


「この前にもらった百ドルは多すぎるよ。だから、気にしないで」


「百ドル?」


 なんてことだ。


 アレックス様は、自分が渡したチップのことなぞ覚えていなかった。やはりアホなのでは?


 とにかく僕は「お金なんて必要ないよ」と力説して、なんとかアレックス様が追加報酬を払ってくるのをお断りした。


「だいたい、ご飯もベッドも用意してもらってるんだよ? 逆に申し訳ないというか……ほら、僕って奴隷でしょう?」


 ぴくり、と彼の肩が動く。


「そうだな」


「だから、気にしないで。掃除してると楽しいし」


「そうか」


「……えと」


「…………そうだな。うん。分かったエミール。ありがとう・・・・・


 不器用にそう言って、彼はジャケットを脱いでソファーに投げた。


 僕は黙ってそれをクローゼットに仕舞う。


「あ。悪い。ついクセでな」


「いいってば。どんどん脱ぎ散らかして。すぐに片付けるし」



 僕はようやく、この家に居場所が出来たような気がした。








 数ヶ月後。


「もぉぉぉ! また脱ぎ散らかして! 靴下は裏返しにしないでって言ってるじゃん!」


「すまんすまん」


「しかも片方だけ裏返しだ! あれでしょ、僕をからかうためにやってるでしょ!」


「ばれた」





 

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