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Side・1 エミール



 恐怖心は、その会場に入る前がクライマックスだった。


「大丈夫。だいじょうぶよ」


 天使のような造形の女性が、天使のような声で僕達を励ましてくれていた。


 そして今度は僕の番。


「大丈夫よエミール。きっと大丈夫。あなたは優秀だもの。あなたを買うことが出来る人は本当に幸運だわ」


 暗い荷台の中で、色々なすすり泣きが聞こえる。


 このトラックに詰められた者は幼い者ばかりだ。反逆しても即座に制圧出来るので、まとめて搬入させられている。


 ただ一人の例外、天使。彼女だけ年齢が上なのは、子供達を落ち着かせる役割のためだろう。事実、これから売られるというのに大声で泣き叫んでいる者はいない。不安だけはどうしても消せなかったけれど。


 彼女は出会った時からずっと、優しく微笑んでいる。


「僕たちは……これから、どうなるの?」


 分かりきった質問だと自分でも思う。でも僕は、彼女にそう尋ねざるを得なかった。僕たちはこれからどうなるのだろう。どんな酷い目に合わされるのだろう。きっと想像以上の苦しみが待っているんだろうけど。


「ああ、エミール。そんな顔をしないでちょうだい。そんなに可愛らしい表情を浮かべていると、悪魔に連れ去られてしまうわよ?」


 天使のような女性はそう応じる。質問にはまったく答えてくれない。なので僕は質問を変えることにした。


「あなたは、どうしてそんなに落ち着いていられるの? 見てよ。僕は全身の震えが止まらないっていうのに」


「どうしてですって? おかしなエミール。これから私達は、幸せになれるのよ?」


 そして彼女は、ものすごく小さなささやきでこう言い足した。


(ここにいる他の子たちとは違って、ね)


「……分からない。誰に買われるのかも分からないのに。とても酷いことをされるかもしれないのに。どうして幸せになれると思うの?」


「だって私達は、他の人と違うのだから」


 分からない。違うと言われても、何が違うのか分からない。ただ普通でないことは確かだ。奴隷として売られてしまうだなんて。


 僕が沈んだ顔を見せると、天使は微笑んだ。


「大丈夫だって言ってるのに。ねぇ、エミール? もうお勉強・・・は済んでいるのでしょう?」


 お勉強。なんのことだろう。


「困った子ね。棒と穴の愛し方よ」


 天使は、微笑み続ける。その美しい顔立ちで、信じられないことを言う。


 一瞬僕は彼女が何を言っているのか理解出来なかったけど、すぐに受け止めた。


「………………何度も吐いたよ」


「あら、そう? 私は楽しみなのだけれども」


 天使は、わらう。


「きっと気持ちが良いわよ」


 天使は、壊れている。




 父さんと母さんが死んで何年経っただろうか。


 下っ端ギャングの使いパシリになって、小さな悪事をたくさんこなして。


 そして僕が「仕事が出来るヤツだ」という評判が高まるにつれて、悪事のサイズは大きく、醜く、そして度しがたいものになっていった。


 だけど生きるために必死でそれをこなして、こなして、僕の中にはスイッチが作られた。


 僕はそれを「仕事すいっち」と呼んでいる。


 それを押せば、僕は僕じゃなくてもよくなるのだ。許されるのだ。




 一時期、ギャングの幹部の子供の面倒を見ていたことがある。僕はその子の持っている絵本をたくさん読んだ。


「ほら、これがアーサー王だよ」


「おうさまー?」


「そう。すごい人なんだよ。きっとお金もたくさん持ってる」


「この人のまわりにいるのは、おともだちかなぁ」


「どうだろうね。でも王様はとっても偉いから、奴隷かもしれないよ」


 子供に合わせつつ、僕自身も童心に返っていたので素直な気持ちを口にする。王様は特別な存在なのだ。とても偉いのだ。きっとそうに違いないと、七歳になった僕は思っていた。


 だけど、四歳になったばかりの子供は首を傾げる。


「おうさまは、そんなことしないと思うよ?」


 僕よりも年下の、無邪気な子供。


 彼にはきっと世界がキラキラと輝いて見えるんだろうな。


 本当はもっとレベルの高い本を読みたかったけど、僕に許されているのはその子が好む本の朗読だけだった。



 そして僕が八歳になると同時。


 とあるマフィアが、僕を売りさばいた。


「おめぇの才覚なら絶対大丈夫だと思うんだよ。ちょいと根暗だが顔も良い、何より頭がいい。こんなチンケな仕事してないで、次の雇い主のところでは優雅に暮らせよ?」


 僕はその言葉を信じていた。その人は僕に仕事とパンをくれる、とても親切な人だったから。


 だけど実際は違った。僕は二束三文で売られて、その次の人に転売されて、また転売されて、繰り返すうちに僕の金額はどんどん高くなっていった。


 誰しもが僕を下卑た表情で買い、だけど少し会話しただけでその欲望を引っ込めていったのだ。当時の僕はその理由が分からなかったけど、印象的な言葉を一つ取り上げるなら僕は『未開封のトレーディングカードのレアパック』だそうだ。開けるよりも、そのまま売った方が高値がつく、と。そういう事らしい。


『仕事すいっち』を入れっぱなしにしていた僕には、どうでもいいことだったけど。



 そして、転売され続けた僕の、最後の購入者が僕にこう言った。


「お前はパッと見は普通なんだが、少し話すだけでその価値を示せる才能がある。真っ当に生きてれば、とんだ人タラシになっただろうな。だが残念ながら、転売されまくったお前には社会的地位が存在しない」


「…………なら、僕はこれから何をすればよろしいのでしょうか?」


「話が早いな。そういうところだぞ。本当に九歳なのかよお前」


 そんなことを言われても。


「思えば、お前を買ったヤツ等は、買った後にその価値に気がついたんだろうな。はっはっは! こんな肥だめみたいな世界で、奇跡的なことだ! ケツを掘って壊すよりも、新品のままで売った方が金になる(楽しい)だなんて、ダイヤの原石みたいなヤツだよ!」


 褒められてる気が全くしない。だけど、口を開くのも得策ではない。


 僕が黙って微笑んでいると、男は舌打ちをした。


「まったくもって不気味なガキだ。だが、金にはなる。それなりに高い買い物だったが、信頼出来る友達っていうのはいいものだな? 前評判に偽り無しだったぜ」


「……前のオーナーは、ご友人だったんですか」


「おう。生粋の人でなしで、とびきりの変態。我が愛すべきクソッタレだよ。アイツがお前さんに手を出さなかったのは、本当に奇跡だと思う」


「……そう、ですか」


「だが誇るがいい、少年。お前は価値を示した。だから俺のダチは、俺の所にお前を寄越したんだ。この世で最高峰のオークションにツテを持つ俺をな。……そういうわけで次のオークションが、お前の最後のステージだ」


「最後?」


「大国の、VIPしか知らない裏オークションだ。それこそ王様しかいないってレベルだぞ」


 王様。その言葉は、僕にあの絵本達を思い出させた。


「………………そこで僕は、どんな目に合うと思いますか?」


「さてな。ツテがあるとは言え、完全秘密主義のオークションだ。どんなヤツ等がいるかは知らないが、まぁ概ね二種類だろうな」


 二つ。僕の未来はそこで分岐するのか。


「一つ。最高級の肉便器として利用される。こんな肥だめに比べると相当なレベルアップだぞ。最初は苦痛だろうが、慣れれば気持ち良いし、楽しいぞ。嬉しいだろう?」


「……ツッ」


「だが気を付けろ。ただヤるだけなら、なんぼでもヤれる。しかし高級な娼夫っていうのには知識、センス、話術、器のデカさ。あと色々な・・・デカさが必要になる。アソコか、ケツか、立派な筋肉か、あるいは逆に神々しいまでの儚さか。……まぁ、いずれにせよお前はダイヤの原石だ。みっちり仕込まれて、色んな人がお前を可愛がってくれるだろう」


 恐怖しかない未来だ。汚らわしく、おぞましい。


「無垢って所が素晴らしい。ファンが多くつけば、たぶん十代で独立出来るぞ」


 いやだ。本当にいやだ。だけど、僕は売られてしまう。


「……もう一つの未来は?」


「二つ目。俺としてはこっちの可能性も捨ててない。特別な奴隷……つまり、裏家業の構成員だな」


 それは僕が予想していなかった返答だった。


「奴隷で、裏家業とは……?」


「お前の最大の武器はその幼さ、そして九歳とはとても考えられない頭の良さだ。俺ならお前をスパイに育てるね。裏帳簿を任せるのも悪くないだろう」


 肉便器扱いに比べると、段違いの待遇だ。僕はこほんと咳払いをして、男に言った。


「でしたら、このまま貴方に雇ってもらうことは可能でしょうか? 一生懸命に仕事をします。必ず貴方に利益を提供してみせます」


 だからどうか、僕を奴隷にしてください。肉便器なんてイヤです。そんな願いを口にすると、男は「怖っ……」と言って少し黙った。


 怖い? なにがだよ。怖いのは僕の方だよ。


「……俺じゃお前を扱いきれない。たしかに俺は悪人だが、お前と仕事なんてしてたらあっという間にコッチが食われちまいそうだ。なんだよその覚悟をキメるスピード。百戦錬磨の傭兵かっつーの」


「仰っている意味が分かりかねますが、裏切ったりしません。本当です」


「完璧に俺の言葉の意味を理解してるじゃねぇか」


 瞬間、彼が右手を振り上げた。僕はギュッと目を閉じて衝撃に備えた。


「ツッ……」


「…………あー。そうか、そうだったなお前」


 おそるおそる目を開けると、彼はただ頭をかいただけのようだった。


「あの変態が手を出さなかったのも、そういう所だもんな。なんか以前の所有者にめちゃくちゃ殴られたりしてたんだろ? あいつ言ってたぜ。『カワイイ男の子は愛でてペロペロしてスリスリしてジュポジュポするのが楽しいのに、あんなに怯えて可哀相だ』って」


「ひっ」


 思わず悲鳴がもれた。たくさん僕を叩いたとある女性への恐怖と、目の前にいる男のオトモダチに襲われなかった安堵。二つが混ざり合って、心がバラバラになりそうになる。


「……まぁ、いつか慣れると思うぞ」


「ここで死んだ方が幸せな気がしてきた……」


 思わず呟くと、男は小さく笑った。


「すまねぇな。お前の商品価値を知るために会話してきたが、するべきじゃなかったと今は思うよ。いい勉強になったぜ。……売り物に感情移入しちゃいけねぇな」


 男は寂しそうに呟いて、それから表情を改めた。


「どう足掻いても、次のオークションが最後になる。そこの競売レベルを考えるに、きっと目玉が飛び出るような金額が付けられるだろう。だがお前を買ったヤツは『いい買い物をした』って絶対納得すると思うぜ」 


「…………ぼ、僕は…………」


 男は言った。


「少年、たくさん勉強しろよ。その分だけ、お前が幸せになれる確率が上がる」


 それはきっと親切なアドバイスだったのだろう。


 僕の名前を聞くことすらしなかった男は、最後の方だけ、少し優しかった。





 そして運命が決まる日。


 闇オークション会場にて、僕と天使は並んで立っていた。


「二十万!」

「25万ドル」


「三十万!」

「35万ドルだ」


「この野郎、五万刻みで追ってくんじゃねぇよ! 四十五万だ!」

「お望み通りに。55万ドル」



 二人の男が競り合っている。


 片方は、いかにも性格が悪そうな変態のような、ゲスのような。


 そしてもう片方は、とても冷徹な印象を与える男の人だった。



「ごっじゅ……!?」

「そろそろ引き下がってくれるとありがたい」


 冷徹な男に対して、ゲスが吼える。


「舐めんなよ若造が! ろ……六十五万だ!」


 それは最早意地の張り合いだったのだろう。僕にそんな金額があるなんてとても思えない。だけど冷徹な声はばっさりとその印象を斬り捨てた。


「79万ドル」

「は。……はぁぁぁぁ!?」


 司会が絶句している。


 まさかここまで白熱するとは思っていなかったのだろう。


 だが司会は有能だった。彼は〈ゲス〉が罵詈雑言を吐く前に、決着を付けた。


『物事には適正価格というものがあります。購入された後で後悔されるのはこちらとしても不本意。即決価格に至ったということで、これにてハンマープライスッ!』


 ダンダンダン! と、槌が打たれる。


 異様などよめきが広がっていた。


 ただの少年に、79万ドル。前に売られたオークションとは文字通り桁が違う。


 僕が呆然としていると、くいくいとシャツの袖を天使に引っ張られた。


「おめでとう。すごい人に買われたみたいだね」


「えっと……その……」


「大丈夫よ、エミール。貴方ならきっと大丈夫。ここでお別れだけど、貴方の幸せを願っているわ」


「…………」


 黒服に「さぁ、こちらへ」手を引かれる。


 天使みたいな人。僕に優しかった人。もう会うことはないけれど、僕もこの人の幸せを願いたいと思った。


「あなたも、お元気で」


「大丈夫よ」


 それは彼女の口癖なのだろうか。


 天使は可憐に微笑みながら駆け寄ってきて、僕にこっそりと耳打ちをした。


「そしてありがとう。あなたのおかげで、私の落札金額・・・・・・も跳ね上がるはず。嗚呼、あなたは本当に素敵よエミール」


「な、なにを言って……?」


「困ったことがあったら、私を訪ねなさい」


「えっ……」


「私を見つけられたら、助けてあげるわ」


 探せと言われても、どうやって?


 僕が困惑していると、壊れた天使はステージの正面に向き直り、片手を上げた。


「どうか彼の幸福を願って、拍手をお願いします」


 司会でもないくせに、場のコントロールは完璧だった。タイミング、声の張り方、その抑揚。天使の美声が空気を震わせる。


 会場は湧き上がり、拍手が巻き起こる。


 だがそれは僕の幸せを願ってのものではなかった。


 絶対にあの天使を落札してみせるという、狂乱の予兆だった。




 この先にお前のご主人様がいる。失礼のないように、丁寧にだぞ。第一印象で全てが決まる。


 そんな脅し文句を散々聞かされて、僕は扉の前に立たされた。


 僕は買われた。そしてこれからは、飼われていく。


 もう転売されることもない。あの金額以上を出す人間がこの世にいるわけがないからだ。


(運命の分岐点……)


 きっとそんなものは、数年前に終わっている。僕は転げ落ちるばかりで、反比例してその価格だけが上がっていく。


 自分の価値なんて分からないのに、眩暈のするような金額だけが蠢いている。


 肉便器か、奴隷か。


『おめぇの才覚なら絶対大丈夫だと思うんだよ』

『買ったはいいが、気が変わった。お前をこのまま別のオークションに出品する』

『ふぅん? カワイイ坊やだと思ったけど、存外中身は別物ね』

『クソ、予想外に高くついた。おい、本当にお前は売れるんだろうなぁ!?』

『アハハハハハ! いいわ、次の命乞いを聞かせてごらん!』

『可哀相になぁ……大丈夫、何もしないよ。売るけど』


『少年、たくさん勉強しろよ』


 学べ。学習しろ。よく見ろ。よく考えろ。正しく答えろ。間違えるな。本音を悟られるな。大丈夫さエミール。僕ならやれる。今から僕は転売される商品じゃない。もう価格ねだんは上がらない。――――だからこそ、己が価値かちを示せ!


 精一杯の勇気を振り絞って、僕は扉を開けた。



 だけどそんな勇気は、彼を見た瞬間に全てが吹き飛んだ。


 冷徹そうな男の人。まだ若い。というか、すごく若い。身なりは整っているし、立ち姿も立派なものだ。


 だけど、その瞳。


『お前になぞ一切興味が無い』という視線は、難攻不落の城壁のようだった。それが僕の勇気を粉砕していく。


 考えろ。価値を示せ。そうだ。自己紹介しなければ。だけど相手の情報がなさ過ぎる。どんな風に振る舞うのが正解なのだろうか。


「あ……あの……ぼ、ぼくは……」


「こらこら、まず最初に言うべきことがあるでしょう?」


 ブローカーが『殺されたいのか?』という旨の発言をする。僕は初手からしくじった事に気がついて、うっかり悲鳴を漏らした。


 だめだ。立て直さないと。勉強したんだ。口上を述べないと。


「……こ、この度は奴隷である私をお買い上げいただきまして、誠にありがとうございます」


 大丈夫だ。奴隷アピールが出来ている。僕は役割を果たせる。


「旦那様のご期待に添えるよう、誠心誠意尽くさせていただき……ます。どうか、どうか……」


 なんだっけ。なんて言うのが正解なんだっけ。そうだ。思い出した。あの天使が言っていた。こう言えばイチコロだと。


「末永く、可愛がってくださいまし」


 よし。完璧だ。ははは。どんなもんだい。


 だけど、帰って来たのは返事ではなく、視線よりも冷たい息吹だった。


「――――どこの娼婦だ」


「えっ」


「……いいや、何でも無い」


 問題無い。興味が無い。だけど苛立ちはある。そんな気配を隠そうともせず、彼は僕に背を向けた。


「そろそろ帰ってもいいか」


「いえいえ。お洋服のご準備があります。このような無地のシャツとパンツだけという格好は、あまりにも目立ちますので」


「最初から服を着せておけばいいものを……はやく案内してくれ」



 僕は、間違ったのだろうか。



「あ……あの……」


「サイズを測るのも面倒だ。自分で選べ。五分以内だ」


 相づち無用。Yesとだけ答えろと、男の背中が語っていた。


 だけど僕は彼に関する情報を少しでも多く集める必要があった。相手を知らないと、上手な交渉なんて出来ない。それぐらい常識だ。


「……では、一分で選びます。ですので、少しよろしいでしょうか……」


「なんだ」


 ここの噂は聞いている。王様しかいないと。事実、彼が僕を買うために支払った金額は異常だ。この若さで出せるはずもない。ならばやはり王様だろう。


 最初は素直に。


 僕はストレートに、彼という人間の前提部分を尋ねた。


「貴方様は、どこの王様なのでしょうか……?」


「は? …………なんだ、その質問は」


「先ほど旦那様が私をお買い上げになられた金額が尋常のモノでないのは理解しています。そして、それが許されるのは……その……王様ぐらいでしょう?」


 言葉を重ねるたびに、彼の眉間にしわがよっていく。え、違うのかな。


 そうして彼は、深いため息をついた。


「嫉妬の目を持つ者曰く、俺の父は石油王だそうだ」


 お父さんがセキユ王。そうか、この人は王子様だったのか。


「実際に油田を持ってるわけじゃない。アメリカンドリームを掴んだ男の、皮肉としてのあだな。故の石油王だ。オイルマネーに群がるハエ共を駆逐し、そのクソの塊を独占する成り上がりのフンコロガシ。そして俺は、そのフンコロガシが気に入った花に育てられた、蟻だ」


 セキユ王は、ハエを食べるフンコロガシ? 花の子供がアリ?


 僕はパチパチと瞬きをして、彼の言葉を吟味する。詳細なんて一切知らないのに、比喩だけ並べられてもよく理解出来ない。それが僕の正直な感想だった。だから、


「俺は王様じゃない」


 その言葉だけは、すとんと胸に落ちた。


 これ以上ここで時間を使うのは、彼にとって好ましくないだろう。数少ない反応からそれを読み取った僕は、手早く着替えて挨拶をした。


「……どうか、どうかよろしくお願いします」


 お願いだから、ひどいことをしないでください。



 外に出る。


 薄暗い路地裏だったが、自由を感じさせる外気に触れるのは久しぶりのことだった。少しだけ身体が熱を帯びる。


(このまま走って逃げたら、どこまで行けるかな)


 ひょっとしたらコレが最後のチャンスかもしれない。このまま逃げられたら、酷い事をされずに済むかもしれない。


 行くか? 行けるか? ……行っちゃうか!?


 だけど右脚に力を込めると同時、舌打ちが聞こえてきた。ビリッと僕の身体に電流が走る。


「チッ……まぁいい。気が楽だ」


 どくん、どくん。荒れ狂った心臓がなんとかリズムを取り戻そうとする。


 そうこうしてる間に、彼はこちらにネクタイを放り投げてきた。知ってる。エルメスというブランドだ。


「行くぞ」

「あ、あの……どちらに……」


 彼は煩わしげにこちらに振り返ると、僕に最初の命令を下した。


 すなわち「設定を理解しろ」と。


 僕は彼の弟になるらしい。

 彼はアレックスと名乗った。

 そして、適時最善を尽くせと。


 命令の仕方がこなれている。若く見えるが、どうやら人を動かす立場の人間のようだ。そう判断した僕は、これがチャンスだと気がついた。


 とある雇い主が、若い社員を怒鳴っていた時のことを思い出したのだ。


『分からないことがあるなら、最初に聞けよ!!』


 それは道理だと思った。


 だからきっと今なら、質問が許される。



 僕はまず自分の役割ではなく、立場を知ることにした。弟。そんなもの知らないが、彼が望む弟像とはなんだろう?


「敬語でないほうが?」

「どちらでも構わん」


 なるほど。ディティールに凝るのではなく、僕が自然なリアリティを演出させる事を優先させるのか。……たぶんこの人は、部下をあまり信用しないタイプの人間なんだろうな。


 では次だ。


「アレックスは本名ですか?」


 外出用の偽名、という可能性がある。あんまり熱心にすり込むと、今後の活動に支障が出る。そう判断しての質問だったのだが、これがどうやらクリティカルヒットしたらしい。――――彼の顔つきが変わった。


『ほう、その質問をするのか』という表情。そして彼は「本名だ」という短い返答ではなく、自分の社会的地位情報まで開示した。


 そんな風にして与えられた情報から、彼の人物像と、何を求めているのかを推察する。


 それを元にした返事をすると、彼はますます表情に色を付けていった。


「上等だ」



 その言葉が意味するもの。初めて彼が、アレックスが僕に興味を持った瞬間であるという証拠だった。



 だけど興味を持ったといえども、まだまだ最初の一歩を刻んだにすぎない。


『言葉遣いの訂正。もっとフランクに』


『今夜はもう修正しない』


『最適だと思う判断を見せてみろ』


 親しみの様子など皆無だ。その分、彼の指示はどれも簡潔で分かりやすい。


 それが好ましく思えたので、僕は少し浮かれて返事をした。


 そして彼は、僕に名前を尋ねた。


「お前の名は?」


 エミール。僕はエミールだ。


 だけどこれからは、貴方の奴隷です。愛着がわくように、新しい名前をつけてください。酷い事をしないで済むように。


 そんな願いから、僕は「自分の名前を考えてください」と、少し婉曲えんきょくな表現をして伝えみた。


 そしてその意図は正しく伝わる。――――正しく伝わった上で、否定された。彼は少しだけ獰猛な笑みを浮かべてこう言ったのだ。


『お前の母親が付けた名前が、お前の名だ』と。


 管理番号ではなく。記号的な意味ではなく。新しい名前を考えるのが面倒だから、なんて理由でもなく。彼は僕の名前を認めてくれた。



 僕の名前は、エミールでいいんだ。



 久々に普通の人間に出会えたような気がした。


 うれしかった。僕はエミールでいていいのかと、安心した。


 ブタとか便所とかゴミとか、そういう風に呼ばれたらどうしようという不安が一つ消えて、思わず微笑みを浮かべてしまう。


 そしてアレックスの――――いいや、彼は僕の名に敬意を持ってくれた。ならば僕も彼に敬意を払おう――――アレックス様の反応を見る限り、僕のこの表情は彼を不愉快にさせるものではないらしい。「ヘラヘラ笑うな」とか言われたら別の対応をするまでだけど、笑うことが許されるのであれば、とりあえず笑っておこう。


 ついでにもう一つ。


 九歳であることを告げると、その時だけ彼はポカンという表情を浮かべていた。ここら辺の反応はみんな似てるんだよなぁ。そんなに変なのかなぁ。




 それからアレックス様は、高級というか……入店するのに会員証がいるっぽいお店に僕を案内してくれた。どうしよう。彼はお金持ちのようだけど、僕は違うのだ。こんなお店に来るのは初めてだ。どう振る舞えばいいのか分からない。


 緊張はたぶん隠せた・・・・・・・と思うけど、必然的に僕の口数は少なくせざるを得なかった。今はまだ様子見の時間だ。彼が何を不愉快に思うのかを、今のうちに見定めておかないと。


 そして改めて、明るい部屋で彼の様子をうかがうと色々なことが分かった。


 まず、顔立ちが端正だ。凛々しい……男らしい? そんな感じ。濃紺のスーツがよく似合っている。オーダーメイドには違いないが、着慣れている印象がある。きっと体型維持に努力をしているんだろう。であるのならばストイックなタイプ。言動とも一致する人物像だ。でもネクタイを僕に投げて・・・寄越したことから、粗雑さも見える。


(二面性の性格……なのかな)


 別にプロファイリングを気取るわけではないが、どんなささいな情報も見逃すわけにはいかないし、いかなる推測もし損ねてはならない。


 僕は口数が減ったぶん、脳みそをフル回転させていた。幸い脳みその栄養は次から次にウェイターさんが運んでくる。



 食事をしながら、ささいなことを静かに話ながら。探り探りの時間が続く。


「このお肉、とっても美味しい」

「カモ肉だな。腕はともかく素材が良い」


「カモ!? え、あの鳥って食べられるんだ……」

「むしろ食う以外になんの役に立つ?」


 フッ、と。かすかに笑う。


 僕はアレックス様が放つ冷酷そうな雰囲気が「後天的に作られた物である」ということを感じ取った。


 なんてことはない。彼はお酒を飲めば飲むほど、楽しそうな表情を見せるようになってきたのだ。



 そして何を思ったか、彼は突然自分の家族について語り始めた。


 お母さんのことが好きで、でも変わってしまった彼女に戸惑っていること。


 お父さんのことが苦手で、嫌悪に近い感情を抱いていること。


 なぜ彼がそんな情報を開示したのかはわかないけど、おかげ僕はだいぶ稼げた(・・・)


 この人はたぶん、さみしがり屋だ。


 でも自分が「さみしい」と感じていることに気がついてない。


 言ったら普通に殴られる気がするので言わなかったけど。



 そして最後に、彼は「なぜエミールを買ったのか」ということを自ら口にした。


 ただ、その理由がちょっと常軌を逸している。


 苦手なお父さんが買えと言ったから、あんな大金を払ったのだと。


 嘘であることも疑ったけど、彼の素っ気なさからそれが真実なのは明白だった。



 感じたのは、凄まじいまでの「不平等感」。


 ずるい、とは思わない。だけど「悔しい」とは感じた。テーブルの下で小さく握りこぶしを作ってしまうぐらいに。


「どうした」


「……いや、あの……」


「ウェイターが来るまでは二人きりだ。楽に過ごせ」


 余裕のある表情だった。きっとこの人は、僕が緊張しないようにしてくれている。


 ……お酒のせいだろうか? それで気分が良くなっている?


 だったら、ここらで畳みかけてみるのもいいかもしれない。


「聞きたいことが多すぎるというか」


「時間は有限だぞ」


 確かに。金言だ。間違いない。なので僕は、再び彼の前提・・を尋ねることにした。


「アレックスは幸せ?」


 まぁな、とか。もちろんだ、とか。そういう肯定的な意見が出ると思った。だけど違った。彼はとたんに表情に冷静さを戻し、嘆息した。



「誰かと比較すれば、俺は相当に幸せ者なんだろう。だが主観的に見れば俺の人生は薄い。……借り物ばかりだ」



 謙虚な客観性と、高潔な主観性。


 僕の心の中に、希望の風がふいた。


 もしかしたら、もしかしたら、この人は今までの悪人達と違い、普通の人・・・・なのではないだろうかと。


 我に返ったのか、アレックス様の表情から酔いがさめていく気配を感じ取った。


 だけどこの期を逃すわけにはいかない。


 僕は最後にもう一歩だけ踏み込むことにした。


 とても重要な、確信的な質問を。



「少年を愛する性癖はお持ちですか?」



 ――――返事は「バカじゃねぇのお前」みたいな感じだった。


 ドライな言い方ではあったけど、僕には分かった。


 この人はさみしがり屋だ。


 だから隙を見せると襲われるかもしれない(この世に生きる男の人はみんなオオカミかオークらしい)けど、きちんとガードすれば、たぶん、大丈夫だ。


 アレックス様を値踏み・・・して良かった。この人、たぶんチョロイぞ。やったねエミール。頑張って平穏な生活を勝ち取ろうね!


 ほんの一瞬だけ「えへへ」と本音が漏れてしまったけど、酔ってるから大丈夫だろう。きっとバレてないぞ。ふふふ。


(大丈夫ですよアレックス様。僕はあなたを侮ったりしてませんよ)


 僕の心の中の、小悪魔エミールがけらけらと笑っている。


 なんだか楽しくなってきて、僕の頬が勝手に緩もうとする。だめだめ。油断しちゃダメだぞエミール。いきなり檻にブチ込まれるっていう展開は多分無いけど、家に帰ったらどうなるか分からない。本当の自由を手にするその日まで、キッチリやっていこう。


 そんなことを考えていると、アレックス様がじーっと僕を見ていることに気がついた。


「……? え、えっと。なにかな?」


「…………ナンデモナイ」


 ええ。なに。なんなの。なんでそんなちょっと微妙な態度なの。怖いよ。




 それからタクシーの中でうっかり眠気を覚えて、抱き寄せられて驚いたり。


 門番みたいな人にアッサリと「こいつは俺の弟だ」って言ってのけるから驚いたり。


 部屋の窓から見える景色がすごくすごく綺麗で驚いたり。


「風呂に入ってこい」と言われて、僕の警戒心が蘇ったり。


「お前奴隷だったな」ってトンチンカンなこと言われて驚いたり。


 お風呂が不必要なぐらい大きくて驚いたり。


 替えのパンツが無いから、仕方なくさっき脱いだやつを再装着したり。


 アレックス様はお酒がそんなに強くないように見えるのに、また飲んでたから呆れたり。


 特に何の命令をされることもなく、普通に「寝ろ」とか言われたから逆に猜疑心が沸き起こったり。



 ――――寝室にベッドが一つしかないから、すごくすごく驚いたり!



 え、なに? ベッドで寝ろと? アレックス様と一緒に? あれれ? やっぱり、その、襲われる? 僕のあそこに何か入れられる流れなんですか? うそだ。やだ。絶対にいやだ。怖いよ。あ、あんなに大きなものを、いや、違う。アレックス様はそんなことしない。興味ないって言ってたもん。僕まだ子供だもん。


(……窓から飛び降りようかな。最後にすごく綺麗な景色が見られる)


 真剣に悩み始めると、アレックス様が「クックック……」と邪悪な笑み・・・・・をもらした。


 やばい。

 これはもしかして。

 諦め時なのだろうか。



 だけど彼は、


「ほれ、とっとと寝ろ。俺はソファーで眠りたい気分だ」



 そんな風に、何かに満足したかのように苦笑いを浮かべて、しっしと僕を片手で追い払うジェスチャーを示した。



「んだよ。あんまりこの展開グダらせると、添い寝しちゃうぞ」



(き、緊急脱出ー!)


 僕はすぐさま「おやすみなさい!」と叫んで、寝室へと逃げ込んだ。鍵は、鍵はついてないか。ちくしょう、ついてない。引いて開けるタイプだからつっかえ棒も無理だ。


 いざとなったら逃げるしかないと、僕はずっと扉の前に張り付いていた。ソファーの前で寝ると言っていたが、本当だろうか。もし部屋に入って来られたらどうしよう。


『そんな所で何をしている』

『今までずっと床で寝ていたから、ベッドに慣れてなくて』


 よし完璧な言い訳だ。やるじゃないかエミールくん。大人達が賢い賢いと言っていた理由がいま分かったぞ。僕はやるときはやる男の子だ。えっへん。


 あ、でも『そうか。新しい空間で不安か。なら添い寝してやるから、安心して眠れよエミールはぁはぁ』みたいな展開になったらどうしよう。どうしよう。――――やはり飛び降りしか!?



 そんな感じで十五分ほどパニックを引き起こしていた僕だったが、扉の向こうからイビキが聞こえてきたので力が抜けた。


「ほ、本当に……寝た……?」


 静かに、とても静かに扉を開ける。


 そこには酔い潰れたのであろうアレックス様がいた。ちょこんと丸まって寝ている。まるで猫みたいだ。


 冷酷そうな人に見えた。

 何を考えているのか全然分からなかった。

 普通の人のように感じられた。


 そして今。


 とても奴隷を買い上げた王様には見えない姿で、アレックス様が酔い潰れている。



「…………ふふっ、変なひと」



 僕はアレックス様にタオルケットをかけて、寝室に戻った。今度はちゃんと布団の中に。


 男の人の匂いがして緊張したけど、それは清潔な香りだった。


 僕は睡魔の誘いに素直にのる。



 今日はそこそこ上手に出来たんじゃないだろうか。


 ……うん。きっとそうだ。天使が言っていた。僕なら大丈夫だって。


 明日からも油断せずに、がんばろう。











 数ヶ月後。


「サラダの中にパクチー入れるの止めてって言ったよね!? なんで隠し味みたいに底の方に隠すんだよぉぉぉ! もぉぉぉぉぉ!!」


「ぶはははは! 油断したお前が悪いんだよぉー!」





 

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