第三話 奴隷
エミールと過ごして一年ぐらい経った。
まぁ、色々あった気がする。
児童福祉的な観点で言えば色々と違法だが、弁護士に任せてはい終わり。
二人で並んで歩いていると、肌の色の違いと、年齢の大きな差から職務質問される事なんてしょっちゅうだ。『お二人はどういうご関係で?』しかしエミールの演技は完璧で『お母さん違うけど、兄弟なんだよ。えへっ』と微笑めば大体は解決する。熱心な警官が身分証の提示を求めてくる事もあったけど、そんな時は電話一本で即解決。職務ご苦労。励みたまえ。
そんな感じで、トラブルは一切無かった。
エミールとの関係は良好だった。冗談も言えるし、それなりに真面目な会話も出来る。出会った瞬間は俺も非常にドライな言葉を投げかけていたが、今じゃお互いフランクに喋っている。とても良好だ。健全だ。そして普通だった。
そして普通でありながら――――俺が望んだ以上に楽しい日々だったと断言しよう。
公園に行った。ベースボールも観に行った。映画館に行った。ネズミの王様にも会いに行った。ハワイにも行った。車でハイウェイを爆走して、意味も無く二百マイル先の街にも遊びに行った。
俺達はずっと笑っていた。
金があるせいで普通の人生が送れなくなった俺。だけど根っこが一般人な俺は、元いた場所の空気感が恋しかった。小汚いソファーの上で、色映りの悪いテレビを見ながら食う冷凍ピザの味が忘れられなかった。
だから俺はそれを望んだ。故に金で買った。
エミールという奴隷を活用し、自宅では普通の時間を過ごせるようになった。
しかし、その時間は金があるから結ばれた縁であり、金がないと保てない生活でもあった。つまるところ金・金・金。
大変不本意ながら――――俺は普通を求めつつ、何不自由のない生活に慣れきってしまっていたのだ。俺だってもう大人だ。流石にもう30セントの菓子を食おうとは思わない。だが問題はそんなレベルじゃない。
俺は普通が恋しいと言いながら、高級ソファーで、窓よりも巨大なテレビでブルーレイを観ながら、本場イタリアンのピザをウーバーイーツしているのだ。
映画が終わって、ふと窓に映った楽しそうな自分を見て思った。
果たして、これは本当に普通のことなのだろうか。
二代目・石油王と呼ばれたくないと思いながら、やっていることは何だ?
次元の違う金銭感覚のステージで働く日常。少なくとも俺は肉体労働なんてもう出来ないだろう。だってそうだろう? 低賃金労働者の日給を、俺は数十秒で稼ぐのだから。
俺は悩んだ。
エミールとの生活は楽しい。
だけど、ああ、そうだ。これは普通じゃない。
生活レベルは超高水準。住まいは超高層。着ている服はオーダーメイド。マクドナルドのハンバーガーは珍味の一種だとすら思っている。
そして何より、エミールは奴隷だ。
――――奴隷を飼うなんて行為が、普通であってたまるか。
俺とエミールの共同寝室で、先に眠りに落ちたエミールの髪をそっと撫でながら思った。
普通ふつうフツーって。そんなに普通が恋しいのなら、二代目・石油王の肩書きなんて捨てちまえ。俺はもう成人してるんだ。投票権だって持ってる。母さんの期待を裏切るのは申し訳ないが、もう十分なんじゃないか? 野良犬に戻ろうじゃないか。
だが俺は他の生き方なんて知らない。金持ちに毒された今の俺は、一般的なサラリーマンの生活を受け入れられるのだろうか。
大半は借り物かもしれない。俺の人生は薄いのかもしれない。だが、絶対的に、俺は多くの人々から羨望の目で見られる生活を享受しているのだ。野良犬に戻ったところで、果たして俺は貧しい猛者達に囲まれて狩りをすることが出来るのだろうか。
そして何より、エミールがいる。
こいつはどうする。最近じゃすっかり甘えん坊というか、俺がいないと寝ないぐらいの勢いだ。起きた時にうっかり抱き枕の代わりのようにしてても、嬉しそうに俺の寝顔を見つめてたりする。
素養の賢さは変わらず。むしろ成長した。一般常識的なことも十分に教えたし、そろそろ学校に入れても問題無いだろう。
同年代の友達とのコミュニケーションは……まぁ、あまり人付き合いが得意と言える性格ではないが、話を合わせることぐらいは余裕のはずだ。会話の際に自らの知的レベルを下げることで、人気者にはならずともハグレ者にはならないだろう。ただしめちゃくちゃストレスが溜まるだろうなぁ……。
そして、野良犬じゃエミールを幸せにしてやれない。
こいつとホームレスをするなんて……いや、まぁ、それはそれで楽しいのかもしれんが……とにかく、こいつを飢えさせたり不安がらせるような真似はしたくない。
繰り返す。
エミールとの生活は本当に楽しかった。失いがたく、俺にとって大切な時間だった。
それはもう生活水準関係なく俺にとっての日常ではあるが、とても『普通』とは言えないぐらいの幸福感があった。
どしたものか。
どうしたらエミールとこのまま愉快に暮らせるだろうか。
この数ヶ月間、奴隷扱いなんて一秒もしてない、俺の奴隷と。
答えは明白。二代目・石油王の道を貫くしかない。
だけどもうしばらくは、この幸せが続きますように。
そんな考えを持つようなった俺は、ある日成人を迎えた。
だから、転機が訪れるのも当然のことだった。
「ただいまー」
「おかえりアレックス!」
見えない尻尾をふりながらエミールが出迎えてくれる。俺が脱いだジャケットを自然な手つきで受け取って、クローゼットに仕舞いに行く。
「晩ご飯作っておいたよ!」
「ああ、いつもありがとうな」
最初の二ヶ月で掃除を極めたエミールは、次に料理に手を出した。現在も修業中だ。楽しいらしい。
最初はとても食えたもんじゃなく、包丁を握らせるのも怖かったぐらいだ。しかしエミールはすぐにコツを掴んだ。小さな身体ながらも踏み台を使い、野菜を切るのが上手になった。
今じゃ週の半分はこいつが台所の主である。今じゃ手伝おうとすると「あっち行ってて! ソファーでゆっくりしててよ!」とぷんすこ怒るのだ。ちょっと寂しい。
言われた通りに、ソファーに身体を沈める。
途端にため息が出そうになった。
エミールは気がついてないだろうが、この一週間はずっとそうだ。――――毎晩、彼が寝息を立て始めた後でこっそりと酒を飲んでいる。
でないと夢に出てくるからだ。あのヒキガエルが。
珍しく本社に出勤していたヒキガエルに呼び出された俺。
指定された王様ルームに向かうと、彼はエログラビア満載の本を読みながら軽い口調で俺に命令を下した。
『転職、ですか』
『ああ。お前が現在管理している子会社だが、別の者に任せることになった』
コカコーラを飲みながら、折りたたみ式のピンナップを広げて『うひょー』と変な鳴き声を上げる蛙。もう散々遊び尽くしただろうに、まだ女体の神秘に夢中とは恐れ入る。
『来週はこの子と遊ぶか』
恐れ入る。
俺は嫌味にならない程度の音量で「パン」と両手を打ち合わせて、口を開いた。
『ところで私はfireですか? 大変だ。消火器を買ってこないと』
『お前にはもうワンランク上の会社を任せることにする』
『……早いのでは? まだ成人したばかりですが』
『心配するな。ただの、ワシ専用のメッセンジャーに等しい。お前の将来に必要なキャリアを用意しただけだ。――――何なら社長室でプレイステーションをしてても構わんぞ。親の七光りのバカ息子、と呼ばれる覚悟があるのならな』
『それは結構なことです。バレないように、こっそりやりましょう』
『グッボーイ』
満点の解答を示した俺に、彼は満足げなゲップで応えた。
『赴任先はシカゴだ。季節で気温差が激しいので注意しろ』
……シカゴ!?
それは明確な転機だった。
遠い地で暮らす。まぁいい。そういうことも予想はしていた。
だけど予想してたくせに、俺まっ先に「エミールはどうしよう」と思ったのだ。
あの日、闇オークションで買った奴隷をことをヒキガエルは一切聞いてこない。興味がないのだろう。あるいは「義理の息子の性癖とか知りたくないでゲロ」とか思っているのかもしれない。そんなわけで、エミールを連れて行くことは全く問題がない。
俺は彼を手放すつもりはなかった。
だけど、心のどこかで小さな声が聞こえた。
最初は何て言っているのか分からなかった。
そしてその声はだんだんと大きくなっていく。
『ヘイ、二代目・石油王。このままでいいのかい?』
「ご飯ができましたよー」
「待ちくたびれたぜ」
そう言いながらテーブルに着く。今夜の料理はチキンステーキと、サラダだ。育ち盛りのエミールにはパンがついている。
「宗教的なお祈り・アーメン」
食事の時はお静かに、なんてルールは我が家にはない。
エミールは狭い活動範囲内だとしても、このタワーマンションにあるジムや図書館で多いに活動しているし、テレビも観たりするので話題はそれなりに多い。
「今日はミス・グレースと、広場でランチを食べたよ。バーベキュー味のケバブ」
「へぇ。グレース……最近よく聞く名前だな」
「僕がバスケットしてるとたまに遊んでくれるんだ。二十六歳って言ってたかな?」
「どんな人なんだ?」
「うーん? 良い人。いつもお菓子を持ってて、それを僕にくれるんだ。でもおっかしいの。ミス・グレースは大人なのに、子供が好きそうなお菓子ばっかり食べてるんだよ」
日本語由来だと聞くが、shoutarou complexじゃあるまいな。
「…………その人に身体を触られたりは?」
「しないよ。ああ、でも一緒にアイフォンで写真を撮ったりする時は肩を抱かれることもあるかな。フェイスブックに上げるんだって。投稿した記事を見せてくれたけど、ちゃんと顔は隠してくれてるから大丈夫だと思う」
「……グレーゾーン判定」
まぁこのマンションには金持ちしか住んでないから、短絡的に犯罪行為に走る者はいないだろう。俺は心のブラックリストに新たな人物名を記入しながら、ひっそりとため息をついた。
こいつと公園でパンを食べてたりすると、隣りのベンチに座った老人とかに声をかけられる事が多い。職務質問みたいなもんだ。「パン美味しいかい?」「はい!」みたいな。
その時の様子を観察して気がついたのだが、エミールは他人とある程度の距離を保つのは上手いけど、少し「壁」を感じさせる傾向がある。もちろん受け答えは丁寧だし、子供っぽく振る舞うのだが、どこかアンバランス。それが大人達の保護欲をそそるのかもしれない。気の強い人だと俺に「あんたはこの子の何なんだい?」とか不躾に聞いてきたりする。
まぁそんな時は、すかさずエミールが無邪気なフリして「えっと、お母さん違うけどお父さんが一緒なんだよ!」という呪文を唱えるわけだが。(効果・相手は気まずそうに黙る)
まぁ余談だ。
そしてまたいつものように、心の声が聞こえる。
『ヘイ、二代目・石油王。腹違いの兄弟? 笑わせる。実際のところ、あんたはエミールの何なんだ?』
俺は「このチキン美味いな」と言いながら、エミールの表情をじっと見つめた。
「…………な、なに?」
「いや別に」
「…………もう。急に見つめてくるから何かと思ったよ」
ニッコニコしてる。
「アレックスは本当に僕のことが好きだよね」
ドヤ顔で言っているわけではない。こいつがこう言う時は、言葉のケツに「?」のマークが巧妙に隠されているのだ。要するにこれは「僕はここにいてもいいんだよね」という確認に等しい。
「おう。好きだぞ」
「………………もー」
ただ最近は、そういう意味合いも減ってきているのかもしれないな。案外ただの照れ隠しなのかもしれない。ほらあの顔を見てみろよ。普通に嬉しそうだ。
『へい、二代目・石油王』
パーフェクトコミュニケーション。しかしこのやり取りは一体何回目だろうか。他のバリエーションとかないの?
いつもならそのぐらいの軽口ぐらい言っていただろう。
『あんた一生、こうやってエミールを飼い続けるのかい?』
だけど今夜の俺は、少しばかりシリアスな表情を隠すのが難しかった。そしてそんな俺の様子をエミールは敏感に察知する。
「……どうかした?」
「聞かれるのならば答えよう。エミール、そろそろ学校に通ってみないか?」
「…………うん。そうだね。それが普通だよね」
「そりゃな。このマンションに居れば勉強も運動も問題無いが、それだけだ。お前という『個人』は十分に育った。そろそろ『集団』にも慣れるべきだろう」
「ちょっと不安だけど、うん。僕がんばるよ」
嘘の笑顔を貼り付けて、エミールは「正解」を口にする。
……まぁ嘘と断定するのもちょっと違うか。これは気遣いの笑顔だ。
だが、確認はすんだ。
エミールはわがままを言わない、素直で良い子だ。
「食事が終わったら、真面目な話をする。ジョークを飛ばしたければ今のうちに済ませておけ」
「!」
彼の表情が固まった。
「……それは、いい話? それとも悪い話?」
「良い質問だ、とだけ答えておこう」
それきり、会話は途絶えた。
エミールはいつも以上にゆっくりと、とてもゆっくりと、フォークを動かしていた。
食事が終わり、俺達は片付けを済ませたテーブルにて対峙する。
「さて」
「…………」
「エミール。真面目な話をしようか」
「…………うん」
「実は、俺が成人したということで転勤することになった」
「転勤って言うと……どこに行くの?」
「シカゴだ」
「遠いね。じ、じゃあ僕が通う学校はシカゴの方に?」
「――――――――。」
「そ、そっかぁ! シカゴって、冬すごく寒いんでしょう?」
「――――――――。」
「な……流れてるテレビの内容も違うんだろうなぁ。どんなお家に住むとか、もう決まってたりする?」
「――――――――。」
「……ねぇ…………なにか……なにか言ってよ……アレックス……」
喋りたくなかった。
合ってるのか? 間違ってるのか?
答え合わせが出来るのは数年後……いや、十数年後だ。
分からない。俺は正しいのだろうか。普通なのだろうか。善なのだろうか。
「エミール」
「……いやだ!」
聡明な彼は、椅子から立ち上がって俺に駆け寄ってきた。
「いやだ。ねぇ、いやだよアレックス。そんな顔して黙っていないでよ。笑ってよ。さ、さっきだって僕のこと好きって言ってくれたじゃない」
「…………ああ。そうだな。俺はお前が好きだよ」
ポンと頭の上に手を置く。よしよしと、気持ちを込めてなでる。
「だったら、ねぇ、答えてよ。僕はシカゴの学校に通うんだよね?」
「――――――――違うんだ、エミール」
「…………なぜ?」
「したいことと、しなければならない事は違う」
「分からない……分かりません、そんなこと……」
「お前に必要なのは、普通を知ることだ」
「普通とはなんでしょうか?」
「……朝起きて、学校に言って、ハブられないよう立ち振る舞って、ずる賢さを覚えて、帰り道でファストフードに寄ったり、安いチョコレートをポケットの中でどろどろに溶かしたり……隣りの席の、そばかすのある女の子が妙に頭の中で思い出されたり……」
「それが、普通なんですか? 僕には分かりません」
「……服が破れたら縫ってもらうし、まっずい冷凍ハンバーグが大好物だったり、三十セントのお菓子を食べるために母さんの足にしがみついたり……」
「…………アレックス?」
「異様に甘ったるい菓子パンは、腹がふくれるから好きだった。ボロボロの絵本を一万回は読んでもらっても飽きなかった。大して面白くもない芸人の真似をするだけで、なんであんなに笑えたのか今じゃ分からない」
「落ち着いてください。アレックスが何を言っているのか、分からなくなってきました」
俺は顔をあげて、エミールの顔を見た。
「誕生日プレゼントとして、クレヨンを使って壁に似顔絵書いてビンタされたり」
「分かりません……いったい、何を仰っているのでしょうか?」
「………………少なくとも、な」
俺はこらえきれず、涙がこぼれた。
「こんな風に追い詰められたからって、俺に敬語を使ってしまうことは、普通のことじゃないんだよ」
「!!」
「エミール。やっぱりお前は、自分のことをまだ奴隷だと思ってたんだな」
「ち、ちがっ……」
エミールは気がついた。自分が、ヘマをやらかしたことに。
「すまなかったよ」
「……なにが……?」
「長い時間があった。機会はたくさんあった。なのに、俺はお前の気持ちに気がついてやれなかったんだ。――――ごめんな、お前の家族になってやれなくて」
泣きながらそう言うと、エミールの涙腺が俺以上に爆発した。
「違う。違います。違うよアレックス。私は、本当に貴方様が、僕はアレックスが大好きで、家族だなんて、そんな、私は」
「なぁエミール。俺達の生活と関係は歪んでる。見ろよ。なんだこりゃ? 地球はめちゃくちゃ広いのに、お前の世界はこのマンションでほとんど完結してる。それはお前が子供だからか? 奴隷だからか? 違う。全然違う。何もかもが間違っている」
「なにもっ……間違ってなんか……!」
俺は黙って首をふった。
「俺がお前に与える環境が、間違っているんだ」
泣きながらでも、聞きたくない言葉でも、エミールは正確に理解した。
涙が引っ込んで、顔が青ざめていく。
俺はここでようやく、彼が安心出来るであろう言葉を投げかけた。
「生活は保障する。里親も完璧な人材を用意する。ここでの生活に比べると水準は下がってしまうが、貧しい思いをさせるつもりは一切無い。約束しよう」
だから、笑ってくれエミール。普通に。心の底から、普通に。
「ハイスクールに行け。大学に行け。お前自身の夢を探して、自分の力でつかみ取れ。俺はその努力が出来る環境を用意する。ああそうだ。俺が本当にお前の幸せを願うのならば、そうする以外に道は無いんだ」
「ちがう」
「そうかもな。答え合わせが出来るのは十数年後だ。正しいのか間違っているのかは、お前の努力次第だ」
「いやだ……」
「……俺もイヤだよ。お前と別れるのは辛い」
「だったら、だったらさ、僕と一緒にいてよ。里親なんていらないよ。学校に行く。ちゃんと遊ぶ。正しく学びます。ファストフード店の常連になります。一緒に過ごして、一緒に生きてくれるなら、私は馬小屋で寝たって構いません。だから、どうか」
「命令に従え、エミール」
「僕は!」
「お前は! ……俺の奴隷なんだろう?」
エミールから、言葉が失われた。
青ざめた表情に、凍り付いた涙が一筋。
なぁエミール。お前は賢すぎたんだ。もう少し無邪気だったら。あるいは、俺がお前の素直さをもっと疑っていれば、こんなお別れをしなくても良かったかもしれないな。
「俺はお前を金で買った。そして飼い続けた。そして今じゃ――――大好きなお前の、幸せを願っている」
言葉を絞りだそうとするエミール。だが彼は、言葉を失い続けた。
「――――転勤するにあたり、俺はますますキャリアを積むことになる。それはつまり、俺もあのオイルまみれのヒキガエル同様の化け物になっていくということだ。そうしないと金は稼げないからな。今までの俺は、ちょっと背伸びしたティーンエイジャーでしかなかった。だけど、もうそんな時期は終わってしまったんだよ」
エミールは喋らない。
「金なんていらないだなんて、金があるやつが言うセリフだ。金がなけりゃ飯も食えない、服も買えない、住む家も無い。……お前を学校に行かせてやることも出来ないんだよ」
ようやく彼は、言葉をひねりだした。
「いら、ない……学校になんて、行かなくても……いい……」
「悪いな、エミール」
「アレックスと、一緒にいたい」
「俺はお前が幸せを掴めるように、化け物になることにしたんだよ」
「化け物でもいいから、一緒にいてください」
「お前と一緒にいたら、俺はずっとこのままだ。お前のために、自分のために、普通のアレックスのままでいたいと思ってしまう。だけど商売相手に対して『金に狂ったバカ共め』なんてナメてかかって生き残れるような世界じゃ無いんだよ。俺は、オイルまみれの化け物にならないといけないんだ」
エミールはか細い声で「Please……」とつぶやいた。
「――――今更あのヒキガエルの意向に逆らったところで、俺は他の場所では生きていけないだろう。独立しようにも、奴はプライドの塊だ。絶対に俺をすり潰しにかかる」
Please。
「ファーストフードで働くか? まぁそれも悪くない。生存することは可能だ。老後は知らんがな。ならば株の投資家としてデビューするか? インサイダーを駆使すれば可能だろうな。先物取引で夢を見るか? 一体それで何人破産したことやら。どれもこれも、結局はあのヒキガエルと同じ様な生き方だ。油を買って、油を売って。書類とお金を右から左へ」
Please。
「そんな生き方はな、化け物じゃないと無理なんだよ。アレックスという男じゃ成立しない。そして何より、俺はそんなギャンブルをしてまで、お前と一緒にいたくない。俺は確実にお前が幸せになれる道をゆく」
Please。
「大丈夫だよ、エミール」
俺は彼の手を取った。
「お前の王様が、お前を普通の人間に戻してやるから」
エミールはワガママが言えない。
そして素直であることを強いられた子供だった。
この子はずっと怯えているのだ。一年前から、ずっと。
出会った時は「いつ殺されるのだろう」と怯えて。
家につれてこられた時には「いつ犯されるのだろう」と怯えて。
俺が更に酒を飲み始めた時は「今から殴られるのでは」と怯えて。
目が覚めた時は、「今日からいったいどんな不幸が訪れるのだろう」と怯えて。
仕事の疲れで機嫌が悪い俺を前にした時は「これ以上機嫌を損ねてはいけない」と怯えて。
怯えて、怯えて、怯えて。
賢いからそれを隠して。隠して。隠して。
時間が経つにつれて、不安の種類が変化した。
俺がサラダを作った時は「またパクチーが入っているのでは?」と怯えて。
ハロウィンだからと仮装をしたら、逆に俺が本気でビビらせに来たので涙目になり、「絶対夢に出る......」と怯えて。
風呂に入っている時は「急に乱入して驚かせてくるのでは?」と怯えて。
やたら上機嫌で「映画観ようぜ!」と言われた時は「ほ、ホラー映画じゃないよね?」と怯えて。
コミックブックを買ってきてくれた時には「前回みたいにポルノ雑誌を入れてきて、僕が驚くのを見てゲラゲラ笑うつもりじゃないよね?」と怯えて。
怯えて、怯えて、怯えて。
――――笑って、笑って、笑って。
その分だけ「この生活が終わるのが怖い」と怯えて。
ああ、とても充実して楽しい日々だったとも。
エミールのおかげだ。金のおかげだ。悔しいが、ヒキガエルのおかげだ。
「もう大丈夫だぞエミール。お前の不安は、全部俺がなぎ払ってやる」
彼はもう、Pleaseとは言わなくなっていた。
やがて、別れの日が訪れた。
彼はベッドタウンの一角に住むこととなった。
里親はいわゆる一つの超優良物件。金にものを言わせて善良な人間を選び抜いた。死ぬほど面接を繰り返した。
エミール専用の口座も用意した。もし何かあっても、いかなる不幸が訪れても戦えるだけの金額を。
武術も教えさせた。スイミングも完璧だ。優秀な家庭教師もつけた。
憂いは何も無い。
俺は安心して、オイルモンスターへの道をゆく。
憂いは無い。
だけど、あの日以来エミールの笑顔を見ることはついぞ出来なかった。
「それじゃあな、エミール。お別れだ」
「………………」
「今更俺の言葉なんて聞きたくもないだろうが……まぁ、聞いてくれ」
そう言うと、エミールはようやく顔を上げた。
泣きもせず、わめきもせず、ただ粛々と。
「――――いいかエミール。全ての意味において『個』は『集』に勝てない」
プロボクサーだって『一万人の小学生』と戦ったら負ける。
どんな大富豪の年収だって、国がかき集める税金には勝てない。
「富裕層と貧困層の割合は知ってるな? 世の中は不平等だ。それは当然のことだ。世界の富は分散されない。冷徹に偏っている。いいか。金が欲しければアルバイトをして一ドルのパンを売っている場合じゃない。金が欲しければ、百万人から一セントをかき集める方法を考えろ。一億人から一ドルを巻き上げろ」
金は、力だ。
「繰り返す。『個』は『集』に勝てない。――――その感覚さえ身につければ、賢いお前のことだ。きっと上手くやっていけるだろう」
「アレックス」
「お前だって、王様になれるんだ」
「ねぇ、アレックス」
「…………なんだい、エミール?」
「僕と一緒に、いてください」
「――――――――願わくば、お前が幸福でありますように」
それが俺の、別れの言葉だった。
あとに続く言葉は、ただの名残惜しさだ。
「じゃあな。お前が大人になって、もしもどこかで出会えたら……その時に、俺が嫌いじゃなければ、ハグの一つでもしてくれると嬉しい」
「嫌いになんて……きらいになんて、なるわけないじゃないかぁ……!」
「……そうか。ありがとう。お前と出会えて良かった」
「アレックスのばか!」
本音が聞こえた気がした。
車に乗り込んで、運転手に「行け」とだけ命令を下す。
バックミラーに映るのはボロボロと涙を流し、大声で泣く、傷ついた褐色の少年だった。
もう奴隷には、見えなかった。
「あばよ……エミール」
エミールは俺の息子じゃない。兄弟でもない。親戚じゃない。友達ですらない。だけど知り合いというには近すぎるし、ただの同居人と済ませられるほどの間柄でもない。
エミールは、俺の奴隷だった。
結局あいつは俺のことを、家族だとは思ってくれなかった。……いいや、違うな。俺がエミールに、そう思わせてやることが出来なかったんだ。
だが、全てはもう過去のことだ。
エミール。どうか元気で、楽しく、素敵で、豊かで、鮮やかで、何の不安もなく、誰かを愛して、誰かに愛される、そんな幸せな人生を送ってくれ。
俺は泣かなかった。
ただ、小さな心の中にある、更に小さなボウルに注がれた「自己満足」に顔を突っ込んで溺れていた。
アレックスは死んだ。
ここからは、二代目・石油王として俺は生きるのだ。
覚悟は、決まった。
そして時は流れた。
様々な終末の予言をスルーして、世界が終わるよりも先に経済が終わるのでは? という不安と戦って。毎日毎日化け物を殺して殺されて、その上で騙しきって。俺は名実共に「二代目・石油王」の階段を着々とのぼっていた。
ヒキガエルは既に会長職についている。EDになったが、そのおかげで母さんと穏やかに、そして幸せに暮らしている。
現段階での社長は、ヒキガエルの息がかかった者だ。俺がもう少し歳を取ったら退任してもらうことが既に内定している。何年先のことかは分からないが、俺がヘマをしない限り二代目・石油王の地位は確実のものとされていた。
そして、運命が転がり始める。
ほんの小さな病原菌が、あっという間に世界を包んだ。
最初は変な風邪が流行ったのかと。インフルエンザに友達でも出来たのかと。
違った。それは人を殺し、経済を殺し、社会を殺し、世界を殺しにかかる悪魔だった。
やがて、原油の価格はマイナスへと転じた。
『売り値が、マイナス』
何度読み返しても意味が分からない。
チャートはコンピューターがバグったのか、あるいは悪質なコラだとしか思えなかった。
「金をやるから油をもらってくれ」だなんて、ユダヤ人のブラックジョーク集にも出てこなかったぞ。異常事態なんてレベルじゃない。
貯えた油の管理にフッ飛ぶ金は尋常なものではなく、今すぐにでも手放す必要があった。消費量は減る一方で、気がついた時には全てが手遅れだった。
ノストラダムスも、マヤ文明も、全部外れたのに。
そして俺は最悪の未来を辿ることになる。