EX アレックスと少女
後日談エピソードの一つです。
とある秋の日曜日。俺とエミールは昼飯を食べるために街へお出かけをした。
互いに仕事で忙しい日々を送っている。だからこうして二人揃って出歩くのは久しぶりだ。特に明確な目的地があるわけではないが、俺達はなんとなく公園の向こうにあるレストラン街を目指してブラブラと歩いていた。
「アレックスは何の気分? お肉? バーガー? それともヌードル? ……ああ、いっそチャイニーズレストランでランチのコース料理を食べるのもアリだね」
「お前の食いたいもんでいいよ。ただ魚って気分ではないかな」
肘が時々当たるくらいの距離感。俺達は手こそ繋いでいないが、道行く人が「カップルなのかな?」という視線を送ってくる程度には密着して歩いていた。カップルじゃないけど。
俺的にはこの距離感の理由が分からない。(近すぎないか?)とは思うんだが、何故かエミールがこの距離を保ってくるのだ。そしてそれを拒絶する理由は特に見当たらないので、俺はこの距離感を受け入れている。肘が触れるぐらいどうってことないわ。
そんなことはさておき、俺が「ノー・フィッシュ」を告げるとエミールは人差し指をあごに沿えて思案した。
「魚以外だね。うーん、それだったら…………チッ」
ニコニコ顔のエミールが、短い沈黙の後で舌打ちをする。
何事かと思って彼を見ると、エミールはポケットからスマートフォンを取りだした。それはブーンブーンと震えていて、着信を示している。
「上司のゴードンからだ……クソったれ。イヤな予感しかしない」
言葉遣いが荒っぽい。そして端正な顔が歪みまくっている。仕事場の同僚からの電話のようだが、どうやら問題が発生したようだ。
「その電話に出ないという選択肢は?」
「……残念ながらもっと面倒な事になる。確実にね」
そう言って肩を落としながらも、エミールは指をスライドさせて電話に出た。
「もしもし」
不機嫌そうにそう呟いたエミール。そして彼はしばらく黙ったあとで「は?」とマヌケな声を出した。
「ちょ、ちょっと待った。待ってください。とにかく落ち着いてくださいよゴードンさん。意味が分からない。ついでに言うと僕は休暇中です。――――ええ――――はい……は? いや、だから落ち着いてくださいってば」
やがてエミールは表情を激変させた。
さようなら上機嫌だったエミール。こんにちは憤怒のエミール。
「……冗談じゃない! 僕はオフだって言っただろうが!? そもそも、そっちの不手際だろうが!」
スマートフォンに向かってキレ散らかしてる。めっちゃ怒ってる。俺は苦笑いを浮かべて通話中のエミールに向かって手をふった。
『怒った顔もクールだな』
苦笑いしながらそんな事を口パクで伝えると、エミールは「……やめろぉ」と小声で返して、それからため息をついた。
だが次の瞬間には表情を切り替える。エミールは営業用スマイルを浮かべて、相手に優しく語りかけた。
「……いいですかゴードンさん。確かにあなたは僕の上司です。基本的には従います。しかし、しかしですよ? あまりにも僕をコキ使い過ぎじゃないですか? そしてもう一度言いますが、僕は今日オフなんですよ」
微笑みながらエミールが何度かうなずく。相づちは「そうですね。分かります。ええ、もちろん。大変ですよね」といった、相手に寄り添う言葉達。
「でも大丈夫ですよ。僕がいなくてもその程度の問題、ゴードンさん達ならきっと簡単に解決できます。楽勝です。……それにもしも僕が出張って成果を上げようものなら、明日から僕が上司になっちゃいますよ? ね? だから落ち着いて……」
ややあって。
営業用スマイルが凍り付いた。
ゴードンさんは何を言ったのだろうか。
「は? ……正気か?」
まぶたはピクピクと痙攣し、次の瞬間エミールは叫び声を上げた。
「――――上等だよこのクソ野郎! よーし分かった。やってやるよ。ただし覚悟しとけよ。僕があんたの上司になったら、今までの百倍は働かせてやるからな!」
スマートフォンを地面に叩き付けるんじゃないかと思うぐらいの勢いで、エミールは電話を切った。
そして天を仰いで、ブツブツとFワードを口にした。
何があったかは分からないが、どうやら一緒にランチは食えないらしい。
なんとなくそれを察知した俺は、エミールの肩をポンと叩いた。
「…………それで、ゴードンさんは何だって?」
「さん付けをする必要が無くなった。明日からは僕が上司だ」
「昇進おめでとう」
「…………いやだよぉ~! 行きたくないよぉ~! アレックスとランチが食べたいよぉ~!」
まるで子供のように頭をかかえたエミールは、深いため息と共にしゃがみ込んだ。
「だって二ヶ月ぶりだよ? 二ヶ月ぶりのランチデートだったのに、どうしてこんな」
「昼に出歩くのってそんなに久しぶりだったか? 晩飯はだいたい一緒に食ってたから、あんまり実感無いんだけど」
「……いいよ。アレックスはそんな感じで全然構わない。だけど僕がこのデートの日をどれだけ楽しみにしていたことか!」
「デート……デートだったのかこれ?」
「デートだよ!」
まるでジュニアハイスクールの生徒みたいな叫び声を上げて、褐色のイケメン成人男性が地面に膝を付いた。
「ちくしょぉぉぉぉ! せっかくの、せっかくのデートなのに! あのばか! 絶対文句言ってやる!」
「やめろエミール。人が見てる」
「……アレックス! お願いがあるんだけど!」
「お、おう」
「三時間……いや、二時間だけでいい。二時間だけ待ってほしい。その間に全てを解決してみせる。ちょっと遅くなってしまうけど、ランチタイムには間に合うはずだよ。お願いだから、僕に少しだけ時間をください」
「分かった、分かったから」
俺はエミールを引き起こしながら、苦笑いを浮かべた。
「三時間でも五時間でも待つから、そんな涙目になるなよ」
「……だってさぁ! 僕はオフなのにさぁ!」
「はいはい。……で、実際のところ何が起きたんだ? 休日にも呼び出されるって、結構な緊急事態だと思うんだけど」
「……それは言えない」
ガラガラと、エミールの心のシャッターが降りる幻聴が聞こえる。
エミールは自分が何の仕事をしているのか、俺に全く教えてくれないのだ。
俺が知っているのは「借金返済のために、サイコパスな天使にコキ使われている」という事だけで、仕事の内容は一切不明。まともな仕事じゃないのは確かだ。
昔はあんなに可愛らしく純真だったのに、今のエミールは完全に裏稼業の人である。
「とにかく二時間。二時間以内に絶対に解決してみせる。だから……一緒にご飯食べようね?」
「分かったってば。なんぼでも待つから、さっさと下克上してこい」
「そうだね! 上司になれば、命令出来る人間が増える。そうすれば自分の時間が作りやすくなる。……次のオフは連休を取ってみせるから、その時は二人で旅行に行くとかどう?」
「それもいいかもな。ほれ、とにかく急ぐんだろ? 俺のことは気にせず行ってこいよ」
「ごめん。本当にごめん。この埋め合わせは必ずするから」
まるでドラマに出てくるような台詞を吐きながら、エミールは駆け出した。
「後で連絡する!」
バックステップしながら、指をピッと俺に向けてくる。実にクールな仕草だ。
「彼氏かよ」
俺はそんな呟きを呟いて、空を仰いだ。今日はとても良い天気だ。
さて。手持ち無沙汰になってしまった。
「二時間って言ってたけど、ありゃどうみても四時間はかかるだろうな」
そのぐらいエミールは慌てて飛び出していった。だったら先に軽く腹に入れておくのも悪くない。あんまり空腹だとイライラするからな。
エミールが言うには、今日はデート()らしい。だったらせめて帰って来た彼を優しく出迎えてやるぐらいの甲斐性は見せてやりたいものだ。
「映画でも観るか、あるいはどこかのカフェで読書でもするか……」
俺としても久々の休日だ。どうせなら有意義に過ごしたい。
そんなことを考えながら、俺は公園の中央で立ち止まった。
人々で賑わう広い公園。子供連れ、ランニングする人、自転車を楽しむ人、手をつなぐカップル。時間帯のせいもあって、周囲にはとても穏やかな空気が流れていた。ひたすらに治安の良い空気が流れている。
ついでに言えば天気も素晴らしい。まさに快晴。そこら辺の芝生で寝っ転がるのも実は良いアイディアなのかもしれない。
「うーん……とは言え、昼寝するには少し肌寒いか」
季節は秋。
半袖で出歩いてるのはランニング中の人ぐらいだ。
「だったら……そうだな。エミールの昇進祝いでも買いに行くか」
あいつは細身だが、結構な筋肉質だ。アルマーニとかがよく似合う。なので俺はカジュアルなジャケットでも買ってやろうと足を動かした。
目指すはちょっと上級なショッピングモール。俺は借金を負ってる身のため金庫の中は寒々しいが、仕事が安定してきたので懐だけはそれなりに温かい。
だけど俺はエミールの昇進祝いを買いに行けなくなった。
「……ん?」
「…………」
いつの間にか、知らない女の子が俺のシャツのすそをつまんでいたからだ。
「えっと……どちらさま?」
オーバーオール……ちょっと男の子っぽい格好をしていて、キャップを深めにかぶった女の子。うつむいていて、とても視界が悪そうだ。
「エクスキューズミー、お嬢さん。必要なら警察を呼んであげるけど」
「警察はダメなの」
「そうか。だったら……えっと、俺に何か用かな?」
「実は迷子になっちゃって」
「それは大変だ。パパと離れてしまったのかい?」
「うん。そうなの」
少女の声色が少し変わる。何かに安心したのか、少しだけ声が震えだした。
「実はあたし、この街の人じゃなくて。だから迷子になってしまってすごく不安で」
「それは大変だ。しかし、どうして俺に?」
「優しそうだったから」
意外な言葉が返ってきた。仕事中は「鉄仮面」とか「冷徹」とか「オーケーオーケー! もうその値段でいいよ! ただし地獄の業火で灼かれろこの悪魔!」とか言われることもある俺なのだが。
まぁいい。優しそうに見えたというのなら、そういう風に振る舞ってやろうじゃないか。
「それは光栄だ。しかしねお嬢さん、世間は世知辛いものだ。こんなオッサンと君みたいな……あー、お嬢さん歳はいくつ?」
「十二歳」
「そうか。とにかくだ。こんなオッサンと君みたいな子が一緒にいると誤解されてしまうんだよ。だからとりあえずその手を離してほしい」
「……離したら、あたしのこと助けてくれる? 可哀相だって思ってくれる?」
「そうだね。君がパパの元に早く帰れるように、手助けしてあげよう。約束する。そして人手は多い方がいい。だから一緒に……そうだな……あそこの木陰で子供とサンドイッチを食べてるご婦人と合流しようじゃないか。あの人達にも助けを求めよう」
本当に世知辛い世の中なのだ。とにかく『オッサンと少女』の組み合わせは不味い。
しかし俺が親指で親子連れを指さすと、彼女はイヤイヤと首を左右にふった。
「わたし、昔ママにたくさん叩かれて……女の人が怖いの……」
「ジーザス」
重いぜお嬢さん。
「だ、だったらあそこのベンチに座ってるおじいちゃんはどうだ? とっても優しそうだ。きっと快く君のことを助けてくれるさ」
そう言ってると、少女の声に涙の音が混ざり始めた。
「どうしてそんなに他の人を紹介しようとするの? ……お兄さんも……わたしのこと見捨てる? 邪魔かな。ウザイかな。やっぱり誰もわたしを助けてはくれないのかな……?」
「ジーザス・クライスト」
小声で神様を呼び捨てにする。ええい、一体こんな少女にどんな過酷な人生を歩ませてんだ。
「オーケー。分かった。俺が責任を持って手伝おう。俺の名はアレックス。お嬢さんのお名前は?」
「リリィ」
「よし、リリィちゃん。パパとはぐれたのはいつだい?」
俺が優しくそう問いかけると、彼女はこう答えた。
「五時間前」
「ご!? ――――やはり警察を呼ぼう」
エミール。どうやら俺もトラブルに巻き込まれたらしいぞ。
どっちが先に解決するか競争だ。
お腹は空いているか、と尋ねるとリリィは「うん」と答えた。何か食べたいものはあるかと聞くと「ハンバーガー」と短く答える。
「そっか。じゃあマクドナルドでいいか?」
「いいの? やったぁ。すごく久しぶりだから嬉しい」
両手をにぎりしめて、それを上下させるリリィ。
……十二歳と言っていたが、言動がかなり幼い。
ママにぶたれた。誰も助けてくれない。そんなことを言っていた彼女の身に、一体何が起きたというのだろうか。
(虐待されて育ったのか……?)
そろそろ思春期に突入しそうだと言うのに、男の子っぽい格好。キャップを深くかぶって顔を見せようとしないポーズ。どうやらかなり複雑な環境で育てられた子のようだ。
「それで警察がダメだってのは、どうしてなんだい?」
「パパが警察嫌いなの。わたしがお世話になったら、きっと困ったことになっちゃう」
ますますダークネスである。誰かこの子を保護してやってくれ。
そんな事をとっさに考えると、慌てたように少女は両手をふった。
「違うの。ママが逮捕された時、パパもすごく警察に責められて……だから警察が嫌いなの。パパは犯罪者じゃないよ」
「……そうか」
「それで、えっと、パパはすごく優しいです。わたしを愛してくれてます。叩いたり酷い事はされてません」
その台詞を一体何度繰り返したのだろうか。そんな予感を抱かせるぐらい完璧な発声だった。
「……本当に、パパには酷い事をされていない?」
「うん。むしろママからあたしを助けてくれたの」
「……そんな優しいパパと、何故はぐれたんだい?」
「わたしが久しぶりの公園ではしゃいじゃって、走り回ってたから……」
「それで五時間? ちょっと異常だな」
「……パパ警察嫌いだから、きっと一人でずっと探してると思うの」
しょぼん、と落ち込むリリィちゃん。
せっかくの良い天気なのだ。いま、この瞬間ぐらいはこの子に元気になってほしい。そう思った俺は明るい声を作った。
「だったら公園から離れるのは得策じゃないな。ハンバーガーを買ったらこの公園に戻ろう。目立つところで食べてたら、きっとパパが見つけてくれるさ。あ、ところでパパの名前は?」
「ヴァロリー・マーカス。三十五歳」
「ありがとう。さてリリィちゃん。どんなハンバーガーが食べたい?」
「……チーズバーガー。ケチャップ多めで。ピクルス抜き」
俺は驚いた。そのオーダーは、とても好ましい。
「分かってるな。そうとも、その組み合わせがマクドナルドの中でも最強のレシピだ。俺は滅多にマクドナルドには行かないが、食べるときは必ずそれを注文する」
「そうなの? ふふっ、おそろいだね」
「……コーラはもちろん?」
「カロリーゼロで」
「パーフェクト! ――――リリィちゃん、俺と友達になろう」
「えっ……いいの?」
「もちろんさ。同じ食い物が好きなら、他の色々な好みも似ているだろう。きっと仲良くなれるさ」
「……うん。じゃあ、いいよ。お友達になってあげる」
えへへと言って、リリィは笑った。
ほんの少しだけ見えた口元には、可憐な微笑みが浮かんでいた。
『チーズバーガー、ケチャップ多め。ピクルスを入れたら撃ち殺すぞ』
昔見た映画で、そんなことを言った警察官がいた。そいつは脇役で、しかもあんまりイイ奴では無かったのだがその台詞は妙に心に残った。映画のタイトルも内容も思い出せないけど、貧乏だった頃の思い出の一つだ。
そんな思い出のハンバーガーを買って、速攻で公園に戻る。リリィと手を繋いだりはしない。ただ適切な距離を保って、出来るだけ人の目がつくベンチを選んでそこに座った。
「わぁい、ハンバーガーだ」
嬉しそうに包みを開けたリリィは、それをチマチマと食べ出した。
俺はSサイズのポテトをパクつきながら、周囲を見渡す。
「それで、パパはどんな見た目なんだ?」
「うーんとね、半袖で、赤と黒のチェック柄のシャツを着てて、青いジーンズで、背はお兄さんと同じぐらい。髪型はブロンドのアフロ」
「めっちゃ目立つな!?」
ブロンドのアフロだと……? そんなん聞き込みをかければ一発で見つかるだろ。
「でもこの公園広いから、ずっと探してるんだけど見つからなくて……」
「そ、そうか……動き回ったのが逆に良くなかったんだろうな。しばらくここで待ってみよう」
空気が冷える秋。半袖の金髪アフロを探せ。
いねぇ。
そんな特徴的な男は視界の中にいなかった。
パクパクとハンバーガーを食べ終えたリリィは、その包装紙に残ったケチャップをポテトに付け始めた。手慣れている。
やがてコーラを半分ほど飲んだ彼女は「ふぅ」とため息をついて「お腹いっぱい」と言った。ポテトはまだまだたくさん余っている。
「お兄さん、これ食べる?」
「いや、大丈夫だ。実はこのあと食事の約束があってね。あんまりお腹いっぱいになるとツレに申し訳ない」
「恋人?」
「違うよ」
「そうなんだ。お兄さんは結婚してるの?」
「してないな。ついでに言うなら彼女もいないし、作る予定も無い」
「えー。お兄さん格好いいからモテそうなのに」
「ははは。ありがとうよ」
少女の無邪気な褒め言葉を軽くスルーする。
どうやらリリィは本当にお腹がいっぱいになったようで、ごそごそとポテトを包装紙の中に引っ込めた。
「パパどこにいるのかなぁ……」
「そうだなぁ……」
身体ごと動かして周囲を観察する。金髪アフロはどこだ。いねぇ。
「五時間……五時間かぁ……いくら広いと言っても、そこまで時間がかかるものか……?」
いくらこの辺の治安が良いとは言っても、流石にひどすぎる。置き去りにあったという可能性が否定出来ないんだが。
「すごく今更な質問だが、リリィは携帯電話を持ってないんだよな」
「持ってないよ」
「だったらお家はどこだ? 最悪の場合、タクシーでそこまで送るけど」
「お家の鍵持ってないし……それにわたしこの街に引っ越してきたばかりだから、新しい住所が分かんないの……」
「近所にランドマーク……何か目立つものは無いか?」
「ううん。お家ばっかり並んでるところで……それにここへはパパの車で来たから、道のりも分かんない……」
手詰まりだ。
やはり警察しかない。
そんなブレない結論を抱きながらも、俺は質問を重ねた。
「だったらパパの電話番号も分からないよな……。この公園へは何をしに?」
「普通に遊びに来ただけだよ」
「そっか。俺以外に誰か声をかけたか?」
「迷子になった後、何人かに『パパ知りませんか?』って聞いてみたんだけど、みんな警察を呼ぼうとするから怖くて……」
「まぁ通報するのが普通の対応なんだけどな」
実際俺もそうしようとした。ただ五時間も迷子と聞いてしまったら、流石の俺でも同情してしまったわけで。
「足も疲れて、喉も渇いて、お腹もすいて……それで、あたりで一番優しそうなお兄さんに声をかけたの」
「……やれやれ。英断だと褒めるべきなのか、それとも危なっかしいと忠告すべきなのか」
「ありがとうね、お兄さん。わたしを助けようとしてくれて」
「いいよ。どうせヒマだったし」
そんな返事をすると、リリィは少し身を乗り出してきた。
「でも約束があるんでしょう? 時間大丈夫?」
「ああ、全然」
腕時計を確認する。エミールと別れてから一時間も経っていない。
「俺の見立てじゃ、あと三時間はヒマな感じだな」
「ふーん。ねぇねぇ、待ち合わせって言ってたけど、どんな人なの?」
「妙な質問だな」
俺は軽く笑って濁したのだが、リリィはやたら熱心に質問を重ねてきた。
「女の人?」
「男だよ」
「ふぅん。お友達?」
「……そうだな。ちょっと歳が離れてるけど、大切な友達だ」
「その人のこと好きなんだ」
「そりゃな。付き合いも長い……長いか? まぁ、仲良しだよ」
共に過ごしていた時間よりも、別れていた時間の方が圧倒的に長い。そんなエミールは今頃何をしているんだろうか。
ポケットの中のスマートフォンには、まだなんの連絡も来ていない。
「ねぇねぇお兄さん。お兄さんは彼女がいないって言ってたけど、どうして?」
マセた質問だなぁ、と俺は苦笑いをしながら返事をした。
「仕事が忙しくて、あんまりそういうのに構ってられないんだよ」
「そうなんだ。でもお友達とは遊ぶんだね」
「恋愛だけで世界を回せるのは、学生の頃だけなのさ」
「そのお友達のお名前は?」
「エミールってんだ。めちゃくちゃイケメンだぞ」
「お兄さんよりも?」
「俺の三百倍は格好いいな」
「ウソだ~。だってお兄さん、とっても格好いいもん。それの三百倍だなんて絶対ウソ」
クスクスとリリィは笑う。なんとなく俺はその笑顔を真っ正面から見たくなった。
だが彼女のキャップがその顔を隠し続けている。これじゃ周囲の景色もほとんど見えていないだろう。
「なぁリリィ。その帽子取ったらどうだ? その方がパパを探しやすいだろ」
「……まだいや。だって恥ずかしいもん」
「何がだ?」
「……お兄さんにお顔を見られるのが」
キャッ、と照れてみせるリリィ。可愛いなこんちくしょうめ。
勘違いでなければ、俺は現在十二歳の女の子に好意を示されているようだが、何とも微笑ましい。
――――こんな子が虐待されてただなんて、考えたくもない。
俺はひっそりと心が震えたけど、俺に出来る事は一刻も早くリリィのパパを見つけてあげる事ぐらいだ。
「……しょうがないな」
悪いなエミール。勝負どうこうじゃなく、俺は速攻でカタを付けさせてもらう事にするわ。
「よし。じゃあこうしよう。今から俺はリリィを肩車する。それで一緒に叫びながら歩こう」
「肩車?」
「ああ。目線が高くなれば、それだけ探しやすいだろう? それでパパの名前を叫びながら歩いてみよう。少し恥ずかしいかもしれないが、これが一番てっとり早い」
強引だが、迅速な解決法だ。
『ヴァロリーさーん!』
『パパー!』
と仲良く叫んでいれば、人目を集めるだろうが通報は早々されまい。
――――世の中の複雑な問題は、細かく解体しちまえばシンプルな方法でカタがつく。俺は会社を建て直す際にそれを実感した。
「やだ」
だがリリィはそれを拒否した。
「え。なんで」
「恥ずかしいし……」
「でもそうは言ってられんだろ」
「それに、お腹いっぱいだから……肩車なんてされると、吐いちゃうかも」
秋晴れの午後。
俺は片手を額に当てて「……それは仕方ないね」とつぶやいた。
公園の中央付近。
そこのベンチに陣取っていた我々は、開き直ってお喋りを楽しむことにした。
心の中、少しだけ『仕事スイッチ』を入れる。これはエミールから教わった概念なのだが、思考の在り方を切り替える方法だ。
アレックス個人の嗜好ではなく『人助けをするお兄さん』という役割を基準とした思考。
自分がどうこうではなく、相手が『どんなアレックスを望んでいるのか』を念頭に置いての会話術である。これを活用することにより、円滑なコミュニケーションを取ることが可能になるってわけだ。心に仮面を被せて、自分ではない自分になりきる。
ざっくり言えば俺は今から「リリィに親切なアレックス」を演じるわけだ。
さてさて。
「リリィは十二歳って言ってたけど、学校には通ってるのか?」
「ううん。まだ引っ越してきたばかりだから……スクールは来週から」
「そっか。たくさん友達が出来るといいな」
「……どうかな。怖い人とはお友達になりたくない」
「確かに。でもリリィは人を見る目があるから大丈夫だろ」
「そう?」
「ああ。この広い公園で俺に声をかけたのがその証拠だ。なにせ俺は親切で有名だからな。まるで神様のように優しいともっぱら評判だ」
「ふふふ。そうなんだ」
「ただしあまり信用し過ぎないように。こと聖書においては、悪魔よりも神様の方が人を多く殺しているぐらいだしな。大切なのは盲信しないことだ」
「聖書を読んだことないから分かんないや……」
リリィは足をブラつかせながら、周囲を盗み見るように頭を動かした。
「でも不思議。この公園にはこんなにもたくさんの人がいるのに、優しそうなのはお兄さんしかいなかったよ」
「それは流石に言い過ぎだろ。この辺りは治安も良いし……みんな優しそうじゃないか」
「そうかな。でも見て。例えばあそこの子供を抱いてるママ」
リリィが指さした人物を見る。
その人物は公園のメインストリートをこちらめがけて歩いてきており、しっかりと子供を抱いていた。片手には生活用品でも買ったのかスーパーの袋がぶら下がっている。
「あの人がどうした?」
「顔色が悪い。それにイライラしてる」
「……お前にはそう見えるのか?」
そう言いながら、改めて観察してみる。
子供を抱いている母親だ。しかしリリィの指摘通り顔色が悪い。言われてみれば歩く様子もピリピリしているし、少しでもちょっかいを出そうものならヒステリックな悲鳴を上げそうにも見える。
「ふむ……」
俺はすぐさま「この公園にいるのは全員悪人である」という仮定の元、周囲を観察した。ついでに自分のことを「無力な子供」に設定する。
――――結果、俺は視界内にいる人間全員がなんらかの罪人であるかのように思えた。
コーヒーを飲んでる女性。自律神経が失調している。
隣りのベンチにいる中年夫婦。互いに浮気している。
ジョギングしている男は自分に酔っているサディストに見える。
食い歩きしてる太った男性。生粋のロリコンだ。獲物を探している。
子供を見守る母親は、金欠になれば子供を溺死させそうに見える。
喫煙所で電子タバコを吹かしている若者。その葉はドラッグである。
杖を突いた老人。痴呆症だ。話しかければ杖で殴ってくる。
スーツを着た男性。殺人鬼。
自分の妄想に引きずられそうになったので、俺は咳払いを一つして自身の心を調整し、意識をフラットの状態に戻した。
……なるほど。多少妄想過多ではあるが、いま見た光景がリリィの世界か。
怖い世の中だ。
しかしそんな世界で、リリィは俺を見定めた。
「……リリィは人を見る目があるんだな」
そんな褒め言葉のような独り言に対して、リリィは苦笑いを浮かべた。
「人を見る目があるかどうかは分からないけど、叩かれないように色んな人の顔色をうかがってきた、かな」
「……ママ以外にも叩く人がいたのか?」
「いたよ。いっぱい。学校の同級生。先生。近所のおじいちゃん。通りすがりの不良。ある日なんて、知らないオジサンにファストフードの男子トイレに連れ込まれそうにもなった」
「ツッ……」
「ああ、大丈夫。取り返しのつかないことは起きてないから」
そんな物言いが出来る時点で、取り返しはついてないのだ。
俺はひっそりと、だが激烈にこの少女のことを心配した。だが「わたしの特技は悲鳴をあげることなんだよ。やってみせようか?」なんて恐ろしいことを言われたので、思いやりの心が少し引っ込む。実演されたら俺は社会的に即死する。
「絶対に絶対にぜったいに止めてくれ」
「コツは『助けて』て叫ぶことじゃないの」
「頼むからマジで勘弁してくれ」
俺が必死にそう言うと、リリィはうつむいた。
「……じゃあ叫ばないって約束するから、一つお願いしてもいい?」
人はそれを脅迫と言うのだが。
まぁいい。俺は大きくうなずいて「OK、言ってみるといいよ」と返事をした。
それを耳にしたリリィは胸に片手をあげて、大きく息を吸い――――。
「――――助けて」
叫ばずに、そう願った。
俺は開き直ることにした。
明確に、幼い少女に助けを求められたのだ。
そして俺には多少なりとも誰かを救う力がある。これはもしかしたら傲慢な考えかもしれない。人は人を救えない。それは神様の分野だ。
何より最初から無責任な話だ。俺は彼女を救わない。生涯に渡っての恒久的な幸せを施すことは不可能だからだ。
ただ、手助けをしてやろうという事だけは胸に誓った。
「助けて、か……。いいよ、何に困ってるんだ? その口ぶりじゃ、迷子であること以外にも悩みがありそうだが」
「……実はパパがね、ママと復縁したいんだって」
「現実的に考えてそれは無理だと思うんだが」
この国はそれを許さない。虐待による逮捕。接見禁止なのは間違い無い。
「パパはわたしのことを愛してるけど、ママのことも大好きなんだって。だから、時期が来たら仲直りしてほしいって……」
「なるほど。ウルトラヘビーな話しだが、内容は理解した。それで? 俺に出来ることは?」
「ママをころして」
その短い言葉には、色々な感情が含まれていた。
正直に言うと心が揺さぶられた。自分でも何故だか分からないけど「イエス」と言いそうになった。
だけど、俺は鋼の自制心で大人のコメントを発する。
「――――リリィ。それは初対面の人間に対して言うべき台詞じゃない」
「じゃあなんて言えばいいの?」
鋭い切り返し。幼い少女が見せたリアリストの素質。つまり大人の片鱗。
俺は彼女にばれないよう細く、そして長く息を吸ってから答えを吐き出した。
「――――パパに、今までのママよりも素敵な人を紹介する、とかどうだ?」
ピクリとリリィが顔を上げる。
ここに来てようやく俺は彼女の瞳を見ることが出来た。
(おお……意外と可愛らしい子だな)
綺麗な瞳。整った鼻筋。肌質も歯並びも綺麗だ。
これはべっぴんさんになる。そんな確信を俺は抱いた。
「それは、ええとつまり……新しいママっていうこと?」
「そうだな。みんな幸せになるプランだとは思わないか?」
「――――でも」
「あー。女の人が怖いってか。そこは諦めろ。世の中の九割は悪人だ」
「ええっ!? マジで!?」
リリィがすっとんきょうな声を上げる。その様は可愛らしいが、俺はたいして気にせず言葉を続けた。
「マジだ。だがその悪人にも度合いがある。人間を殺したヤツは少数派だろうが、信号無視をしたことがない人なんていないんだよ」
その言い回しは少しだけ分かりづらかったのだろう。リリィは首を傾げた。
「わたし、信号はちゃんとまもるよ?」
「素晴らしい。リリィはとっても良い子なんだな」
朗らかに笑って、うんうんと頷いてみせる。
「実は俺は会社をやっていてな。うちの従業員やその友達達ぐらいならきっと紹介出来ると思うんだよ。えーとパパは三十五歳だったか。お仕事はなにを?」
「……タクシーの運転手さん」
「なるほどね。パパはリリィ以外にも優しい人かな?」
「うん。お友達もたくさんいるよ」
裕福ではないのだろう。しかしリリィの懐き方からするに、人柄は悪くないはず。あとこれが一番強い理由だが、美少女リリィの父親なのだ。きっと顔も良いはずだ。
バツイチで子持ち。そう聞くと確かにハードルが高そうだけれども、これは逆手に取れる。美少女リリィの母親になれるという点はセールスポイントになり得るのだ。
美少女のママになれます。……このフレーズだけで心が動く人間は存在する。
これはほぼ確実な推論だ。世の中はクソなので顔で就職率が変わる。うちの会社だって営業部門にはツラの良いヤツを採用しがちだ。基本は能力で見るが、A氏とB氏の能力が同一であるのならば、あとはお察しだ。
そんなSNSで呟こうなら炎上必至なことを考えていると、リリィが不安そうに俺の顔を見上げてきた。
「色々と考えてくれてるみたいだけど……やっぱりわたしは、パパにはもう結婚してほしくないかな」
「……そうか。だったらそれを彼に伝えるしかないかなぁ」
「そっか……ねぇ、他にプランはないかな?」
いまこの俺達会議で出たプランは三つ。
母親を排除する。別の女を紹介する。結婚しないでとお願いする。
他のプランをねだられた俺は「別のご家庭の養子になる」とか「数年の時間を稼いで、早めに自立する」とか「親父に一万ドル渡して『これをくれてやるからリリィの願いを叶えろ』と懐柔する」みたいなプランを考えた。
どれもこれも現実的ではない。いや、自立プランはありかもしれないけど、今のリリィにそれを要求するのは酷であろう。
「うーーーむ」
真剣に考えていると、リリィが居住まいを正して下唇を噛んだ。
「……本当に助けようとしてくれるんだ」
「は? 当たり前だろ。俺はリリィに選ばれし善人だからな」
「…………アレックスさんは、優しいんだね」
その短い言葉には、たくさんの感情が込められていた。
ナニカガ ギラリト カガヤイタ
そして続く言葉はには、その感情の発露が含まれていた。
「えっとね、あのね、わたしもプランを思い付いたんだけど聞いてくれる?」
「いいとも。会議では立場に臆さずどんどん意見を言ってしかるべきだ。さぁ、リリィのプランを聞かせておくれ」
「アレックスさん、わたしと結婚しましょう」
「Oh」
超予想外だった。
「え……と……確か議題は『パパの再婚阻止』だったはずだが」
「でもお嫁さんになったら、アレックスさんと一緒に住めるでしょ? そしたらパパとママが再婚しても問題ないし。みんな幸せじゃない。ね?」
「いやそんなキュートな顔で同意を求められてもだな……」
「アレックスさん彼女いないんでしょう? わたしとかどう?」
「それは、ああ、うむ、素敵な提案だ。ビックリしすぎて目が飛び出しそうだよ。とても光栄な話しさ」
「やったぁ」
「いや待て落ち着け。落ち着くんだリリィ。俺ときみは結婚できない」
「どうして? わたしアレックスさん好きだよ?」
「重ねて言うが光栄だ。しかし、残念ながらきみの年齢では結婚できない」
「じゃあ彼女でもいいよ。同棲しましょう?」
「追い込み方がエゲつねぇ……」
どこまで本気なんだ? そういう目線でリリィを見ると、彼女は青い瞳をキラキラと輝かせて俺を見つめていた。マセた女の子のようにも見えるし、打算的な女にも見える。
「ダメかな?」
「……ダメだな。申し訳ないけど」
「……アレックスさんはゲイなの?」
「違うよ。そしてロリコンでもない」
「じゃあどういう人がタイプなの?」
「え、と……君くらいの年齢じゃ知らないかもしれないが……アヴィリル、いや、違う。そうじゃない。俺は何を真面目にタイプを語ろうとしてんだ」
こんな小さな子相手に。
俺が一呼吸置いてリズムを整えようとすると、リリィが素早く俺の袖を引っ張った。その絶妙なタイミングに呼吸と心が乱れる。
「わたしこのままじゃ、いつかまたママにぶたれちゃう。そんな生活には戻りたくないの。助けてほしいの。どうか、わたしを救ってくださらない……?」
「グ」
落ち着け。ビークール。ステイクール。クール・アズ・ア・キューカンバーだ。キュウリのように冷静であれ。
「たしかにわたしはまだ十二歳だけど、いつか絶対アレックスさんが好きになってくれるような女の人になるからさ」
「リリィ。さっきも言ったが、初対面の人に向かって言う言葉じゃないぞ」
「わたしはまだ子供だけど、赤ちゃんでもないもん。子供だって産めるもん」
「おいよせ止めろ。通りすがりの人に聞かれたら通報されちまう」
俺の袖を握りしめていたリリィが、ことさら強くそれを引っ張って俺の耳元に口を寄せてくる。
「じゃあ……誰もいないところでお話しする?」
ゾクリとした。
その言葉にはある種の魔力が宿っているようだった。
背徳感。期待。スリル。非合法だが同意の誘惑。まるで自分の「悪性」の部分を全て許してくれるような、そんな恐怖を俺は覚えた。たった十二年しか生きていない少女に対して、だ。
冷静な思考が奪われている。俺は凍り付いた身体で、必死に呼吸だけを繰り返した。
そしてダメ押しのように、リリィは帽子を脱ぎさった。
彼女の全貌を目にした時、俺は一切の思考を停止させられた。
身体だけでなく、魂すら凍り付く。
「アレックス……」
天使が微笑み、俺の名を呼ぶ。
帽子を外しただけなのに。なんで、こんな。
「わたしを救って」
潤んで、揺れる瞳。それから目を離すことが出来なくなる。
美しい。あまりにも彼女は、尊かった。
「そうしたら、きっとわたしがあなたを幸せにしてみせる」
小さくて可愛らしい唇。それが発する全ての音を保存しておきたくなる。
「二人で天国にいきましょう」
抗うことは罪だ。そう確信を覚えた。
「わたし、アレックスさんが大好きだよ」
全ては赦される。だから。
だから。
だからこそ。
その瞬間、エミールの顔を俺は思い出した。めちゃくちゃ近距離のヤツ。
「――――ああ、お前がそうだったのか」
「ん?」
とろりとした目線。妖艶な聞き返し。
「なるほど。確かに恐ろしい」
思わず笑みがこぼれた。
マジで怖い。
こいつぁヤベぇ。
絶対に出会ってはいけないタイプの人類だコレ。
俺はそんな彼女の誘惑を、恐怖を原動力にして振り払った。
「お前が噂のサイコパス天使様か」
「――――あら」
蕩けた表情のまま、彼女の視線だけが面白そうにこちらをうかがう。
よしダメだこりゃ。絶対に勝てない。敵対した瞬間どころじゃない、出会ってしまった時点で敗北する。
なので俺は、儚くも虚しい反撃を一発だけ試みることにした。
『考えて分かることは口にしない方がいい。彼女に効く唯一の攻撃は、予想外の一撃だけだ』
サンキュー、エミール。
記念だと思って、俺もいっちょこのラスボス様に挑戦してみるぜ。
「……お前をとっ捕まえたら、エミールから報奨金をもらえたりするのかね? 借金返済に充てたいんだが」
色んな言葉を省略した確認作業。
それは予想外の一撃たり得たのだろうか。サイコパス天使様は今度こそ表情を変えた。
「――――フッ、ふふふ……なるほど。これはこれで面白いかな」
解説しよう!
エミールから聞いたところによると、このクレイジーエンジェルの好物は『予想外』だ。
なので俺は①【エミールが慌てて飛び出したのはこの天使様が行方不明になったからだと仮定】ほぼ決めつけの領域だ。
そして②【見つけたらエミールが上司になれる=特別ボーナス的な報酬があると推察】ただ昇進するだけでは終わらない。報酬はきっとある。たぶん
俺はその二つの決めつけを材料にして、その上でユニークな表現を試みたのだ!
このサイコパス天使が好きそうな、それでいて俺の人間性を認めざるを得ないような、そういう小粋なトーク。
ぶっちゃけ一か八かの賭けだ! 推察が間違ってたら赤っ恥をかくぞ!
まぁ俺如き一般人がラスボスに勝つなんて無理だ。
一撃入れられるかどうかすら怪しい。それを成そうと思ったら、普通に賭けに出るしかないわけで。
――――そして幸か不幸か、その目論見は成功した。
サイコパス天使様は愉しそうに微笑んだのだった。
オーバーオールを着た男の子みたいな格好をした少女が、乗り出していた身を引き下げる。そしてその肩紐をはずしてダラリと脱力してみせた。たったそれだけで、その雰囲気が成熟した大人のソレに変わってしまった。こわい。見た目は変わってないのに、オーラの種類と色と圧が全然違う。こわい。
「報奨金ときたか……ふふっ、そうね。たぶんわたしの現在の保護者からお小遣いがもらえると思うわ。ついでに売り方さえ間違えなければ、結構な量のオイルも売れるんじゃないかしら?」
「そうか。やっぱり全力で断ることにするわ。頼むからこのまま逃げて、俺の知らないところで捕まってくれ」
イヤそうな顔をなんとか造り上げて、しっしと追い払うポーズをしてみる。すると殊更サイコパス天使様は愉しそうに両肩を揺らした。笑ってらっしゃる。
「結構な準備をしてちょっかいをかけに来たんだけど、まさかそこまで徹底して調教されてるなんてね」
「ち、調教って……最悪の言い方だな。事前の警告を施されていた、って言い直してほしい」
「ねぇねぇ。それってどんな警告だったの?」
「絶世の美少女か、あるいは究極の美人か、もしくは俺のドストライクな雰囲気の女が現れたら気を付けろと」
「どんな条件付けをされたの?」
「会話のスピードが速すぎる! ……なんで気を付けろって言葉から、条件付けなんて発想に至れるんだよ……」
「あら、アレックスさんの頭の回転に合わせたつもりだったんだけど」
「さっきのは全身全霊のギャンブルだ。本来の身の丈に合ってないから、もう少し手心を加えてくれよ」
「すごく素直。ふふふ。それで、どんな条件付けなの?」
「……答える義理は無いはずだが」
「言わないとあなたの大切なエミールに毎日イタズラしちゃうんだから」
「ものすごい美人を見るたびに僕を思い出せ、とか言われて呪われました!!」
これで満足かこの野郎ッ! そうキレながら俺は両腕をすくめた。
「おかげさまでどんな美女を前にしても心が浮つかなくなりましたとさ! めでたしめでたしだよこのクソ野郎が! 全部お前のせいだ!」
「まぁ……」
サイコパス天使様の表情が儚く揺れる。それは俺の加虐心を煽るような、もっと怒鳴りつけてやるたくなるような、そういう可哀相な表情だった。
こいつをトコトン虐めてやりたい――――それが今の俺の素直な気持ちだ。
『もしその美女に関わって平静を失うことがあったら、次は舌を入れるからね』
はいはいはい。分かった、分かったよご主人様。
「――――でもあんたのおかげで、俺は助かった。かつて変態の魔の手から逃れることが出来たんだ。それは間違い無い。どうもありがとうございました」
俺は加虐心を見事に抑え、大人として行儀の良いポーズを示した。
するとサイコパス天使様はくるりと表情を変える。
「わたしのせいでエミールにキスされて、女の人に興味が無くなってしまったのね。それは大変。とても申し訳ないわ。なにかしてあげられる事はないかしら? なんでもしてあげるから、何でも言って?」
それは敏腕営業マンの表情だった。相手の心に寄り添い『この人なら願いを叶えるために共闘してくれる』という確信を相手に与える、プロの顔つきだ。
だけど俺は舌を入れられたくない。
俺は歯を食いしばりながら首を横に振った。
「答えはノーだ。俺は自力でこの呪いを解いてみせる」
「トラウマの上書きは得意なんですけど」
「ものすごく怖ぇ!! 表現が酷すぎる!」
俺が恐怖のあまり悲鳴をあげると、そっと天使は俺の両頬に手を添えた。
「大丈夫です。ほんの一瞬だけ心を許してくれるのなら、わたしがその呪いを解いてみせましょう」
一瞬で詰められた間。一秒で決着がつく距離。それはまるで恋人のような振る舞いだった。
だが。
『舌を入れるからね』
おいおいご主人様、敏腕か? お前の呪いはめちゃくちゃ効果的だわ。
「……ハッ。あんたにキスされたとしたら、今後一生他の女で欲情出来なくなるだろうな。妥協だけの人生しか送れねぇ」
なんとかそう言って距離を離そうとすると、天使様の目がまん丸と見開いていた。
「……最高の口説き文句ですね。今のはちょっとグッと来ましたよ」
それはまるで、彼女が見せた唯一の無防備さのようだった。素の感情。本当の自分。
「素敵。ええ、本当に素敵……。ねぇ、わたしの方がアレックスさんにキスしてみたくなったって言ったら、信じてくれます?」
甘い吐息が、迫ってくる。
「大丈夫。そこまで激しくはしません。まぁアレックスさんに『もっとして』って可愛くおねだりされたら、分かりませんけどね……」
「い、や……だから……」
なんとか顔を動かして脱出を試みるが、身体が動かない。すると天使様は少しだけほっぺたを膨らませて可愛らしく拗ねた。
「強情なんだから……。分かりました。じゃあ今回はほっぺたで我慢しておきましょう」
「頬……まぁ……それぐらいなら……」
「ふふっ。アレックスさん、かわいい」
脳が歪む。
そんな気がした。
「それ以上近づいたら殺す」
カチャリ――――撃鉄を立てる音がした。
その瞬間に周囲の音が戻ってくる。
今は秋。ここは公園。
すぐ側で荒い息をつくのはエミール。撃鉄の音は胸元のジャケット内部から。
「助けてご主人様」
「かしこまりましたご主人様」
エミールは強引に俺と天使様の間に身体を押し入れて、ぐいと自分の胸元に俺を引き寄せた。
「まさか公園にいるとは思いませんでしたよ」
「――――ふふっ。エミールは本当にわたしを見つけるのが上手になったわね」
「……本ッ当、腹が立つなぁ! ああもう、大丈夫アレックス!? 変なことされてない?」
「の、脳が壊れるかと思ったよぅ……」
素直な弱音を吐くと、エミールの表情が「クワッ」とした。
「貴様ァァァァッ! アレックス様に何をしたァァァァッ!」
「別に何もしてないわよ」
コロコロと可憐に天使が笑う。
「ちょっとだけからかっただけで、手を出したりしてないわ」
「お前のからかいは常軌を逸してんだよ! 自覚してんだろうが!」
「うふふ」
楽しそうに天使は口元を片手で隠して笑い声をあげた。
「ところで。割と本気で聞きたいのだけど、どうして今回はわたしを見つけられたの? 結構慎重にやったつもりなんだけど」
「……慎重すぎたんだよ。突然の失踪。残された意味不明の書き置き。何もかもがあんたらしい奇抜な行動だ。いつも通りとすら言ってもいい」
「なら、どうしてこの公園に戻ってきたのかしら」
「あんたが『いつも通りの行動』なんてするもんか。だから僕にとって最悪の予想をしただけ。アレックスも電話に出ないし……!」
「逆説的ね。いいわ、何はともあれ昇進試験は合格よ」
ひょいと天使様はベンチから立ち上がり、帽子を深くかぶり直した。
今更十二歳には見えない。だけど妙齢にも見えない。きっと彼女がそれなりに準備をして、ついでに本気を出せば老人にも見えたりするのだろう。
「おめでとうエミール。お給料が増えるから、楽しみにしててね。わたしも気分が良いから、他にもお願いごとがあったら何でも聞いちゃいそう。何かあるなら言ってみて?」
「その分だけ責任が増えるから死ぬ気で働け、としか聞こえない。頼むからヒラでいさせてくれよ」
「あははっ! あなたのそういうところ大好きよ」
最後に天使様は俺のほうに振り返って、極上の微笑みを浮かべた。
「それじゃあお兄ちゃん。わたしそろそろ帰るから。……また一緒にハンバーガー食べようね?」
こうしてラスボスは去った。
出会っちゃいけない人類、なんてレベルじゃない。実際に会った感想としては、ヤツはもう人外としか言いようが無い。なんだありゃ。映画化しろ、映画化。マーブルヒーローズを集結させて宇宙の彼方に追放してくれ。
全身が疲れ果てたように、力がうまく入らない。
俺はベンチでぐったりと座ってため息をついた。
「なにあれ……お前、あんなのと仕事してんの? 正気?」
「まともに応対出来る人間が少ないから大変だよ……正気を保ってないと勤まらないというか……」
「そっか……何はともあれ……すげぇ疲れた……」
「本当に大丈夫? 何もされてない?」
エミールが俺の背中をさすりながら聞いてくる。
「正直に答えてほしいんだけど、また彼女に会ってみたいと思う?」
「全力でお断りだわ。あんなのに付き合ってたら、地獄の底まで落ちちまう」
「聞きたいこととか、頼ってみたいこととか、彼女に対して何かしてやりたいとか、そういう気持ちにはなってない?」
「カウンセリングの真似事はやめろ。確かに迫られた時は色々と思う事もあったが……ちゃんとあの時のお前の顔を思い出したから、大丈夫だ」
「……あ、あー。そっか。うん。そうか。それは良かった。効果があったんだ」
微妙な沈黙が二人の間に流れる。
とても微妙な、それはそれは微妙な。
微妙すぎて砂糖を吐いてしまいそうな、そんな極めつけの微妙さ。
「エミール」
「な、なにかな」
「もう今日は家に帰って、ピザの出前を取ろう」
「……い、いいね。お家デートだね」
「そんで頭を使わないですむコメディー映画とか、アニメでも観てぼんやり過ごそうぜ……」
「なにその幼児退行」
俺の提案は気に入らなかったのだろうか。
エミールはしかめっ面だったが、俺と同じ種類のため息をはいてこう言った。
「ご主人様の仰せのままに」
「ありがとうご主人様。もうお互いに大人だし、一緒に寝てやることは出来ないが愛してるぜ」
「色んな意味で最低の返事だよソレ」
こうして俺達は新作のコメディー映画と、ジャパニーズアニメのブルーレイボックスを買って帰ったのであった。ピザはマルゲリータとスペシャルコンボのMサイズを一枚ずつだ。
良い夜だったと言っておこう。
後日。
「ねぇねぇエミール。こんど三人で食事でもどう?」
「三人って……僕たち以外に誰を呼ぶつもりですか?」
「もちろんあなたの愛しのダーリンよ」
「これ以上アレックス様にちょっかいだしたら、僕の全てを賭けてお前を殺す」
「ひどい。そこまで嫌わなくてもいいじゃない。しくしく」
「……あのさ、コレはもう何回も言ってきたから分かってるとは思うけど……マジでアレックス様には手を出さないでくださいね。本当にマジで。ガチめの本気で」
「ふふっ。不思議ねぇ。そこまで本気なら、あんまりわたしに『彼が大切だ』って連呼しないほうがいいんじゃないの? わたしに限った話しじゃないけど、弱みとして認識されたらつけ込まれるわよ?」
「彼は僕の弱みじゃないですよ。むしろ強みです。アレックス様がいるから僕は生きてる」
「はいはい、ごちそうさま」
「…………」
「あ」
「うわ、最悪な表情を浮かべやがった」
「思い付いたわ」
「お願いです。やめてください。ロクでもない考えは今すぐ捨ててください」
「エミール、まだわたし昇進祝いあげてなかったわよね」
「いりません。本当にいりません。何もしないことが最高のご褒美です」
「あなたはアレックスを抱きたい? それとも抱かれたい?」
「ツッ……!?」
「そっかぁ。両方かぁ。エミールはよくばりね。でもいいわ。了解」
「やめろぉッ!」
「あら。いいの? 本当にやめてもいいの?」
「…………やめろッ!」
「――――エミール。これが最後の確認よ」
天使様は残酷に慈愛の微笑みを浮かべた。
「あなたの願いは何?」
僕はすぐさま胸元からブローニングと呼ばれる大型拳銃を取りだして、スライドを引いた。装填完了。ターゲットを弾くまでに必要な時間は残り数秒。
僕はその銃口を自分のこめかみに押し当てた。
「それ以上エンジョイしようとしたら、お前は僕という愉快な手駒を失う」
「――――――――そう」
天使様はそう言って、微笑んだ。
「だったら、もう少し熟成したほうが面白そうね」
神様。ヘルプミー。
お願いだからこのクソ野郎を引き取ってくださいませ。
数多の人間から天使と呼ばれる悪魔は、ずっと楽しそうに笑っていた。
【ヒマを持てあましたサイコパス天使ちゃんさん編・完】
この作品はフィクションですので、登場人物はマスクをしてません。
小ネタ。
エミールが所持してる銃はリボルバーとオートマチックの二刀流()です。
アレックスは銃が苦手なのですが『このデザインは好き』と言っていた銃をエミールは選択しています。破壊力の高いブローニングと、咄嗟に使える小ぶりのスミス&ウェッソン。
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