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さらば青き春。ようこそ赤き夏

作者: 雨森 雪

泡沫のように消えてしまえたなら……

悲恋の末に肉体を喪い、空へと飛び立った人魚姫のように。

水中を悠々と進むヒレの代わりに、土を踏む感触を知り、最後には永遠の自由を得た彼女のようになりたかった。

 決して叶わぬ願いに体が疼く。肉体の事など気にもせず、世間の評価なんて振り払ってこの世界から飛び出したい。そんな強い欲求が体の奥底から湧き上がる。

 無意識の内に私は薄ピンク色の天井に向け、手を伸ばしていた。


分かっている


分かっているんだ


そんなものは幻想だ。現実の私は汚れて、醜く愛を求めている。真実の愛だとか運命の出会いだとかそんなモノを口に出せるほど美しくない。一途に王子からの愛を求めた彼女に憧れる資格すらない。

それでも、私は求めてしまう。

 誰かへの愛をあれほどまでに美しく体現できる存在になれたらどれほど幸せだろうかと……



「気持ちよくない?」

獣が私に声を掛けてきた。心配するような表情とは裏腹にその瞳からは隠し切れない欲が透けて見える。

「ううん。とっても上手」

それを内心で軽蔑しながら、私は甘美な餌をやる事にする。

取ってつけたような喘ぎ声をあげてやると、私の体を好きなように扱う一匹の獣が思い通り興奮したように唸る。

 それを無感動で見つめながら私は体をブルリと震わせた。火照った体と対照的に心は冷え切って寒さを脳髄へと伝えてくる。体が熱くなればなるほどその冷えは顕著になり、遂には痛みとなって私を苛む。けれど、その痛みから目を背け私は『愛』という快感に酔いしれようとする。

「さよちゃんさよちゃん」

うわごとのように私の偽名を呟く哀れな生き物。

そんな生き物から与えられる痛みを愛だと懐疑的ながらも信じ込み、心を満たす自分。

私はそのどちらに向けたものか分からない言葉を小さく呟いた。

 


しんでしまえと




私の名前は如月菫(すみれ)。年は十六、趣味は映画鑑賞で、二年三組に所属している。

朝の光に照らされた洗面台で私は髪を整えながら自身にそう言い聞かせた。昼の私はこの役目だ。この姿で如月菫としてクラスの人々に愛されなければならない。

パチパチとマスカラを塗ったまつ毛を瞬く。肌荒れなし。髪ハネよし。

「今日も私は誰よりも美人だ」

小さく呟く。

これだけが私の武器。街を歩けば十人に七人は振り向く容姿に男好きのする体。これだけが私の武器で、如月菫という人間を構成する要素の百パーセントを占めている。

「反吐が出る」

そしていつも通り艶やかな唇でもって自身を罵倒した。

気持ちが悪い。

好色めいた視線を向けてくる街の男もいつも相手をする『お店』の客もツイッターでDMしてくる勘違い野郎も。

そして、彼等の行動の原動力である色欲を使って承認欲求を満たす己自身も。

「死にたいなぁ」

玄関で、いってきますの代わりに今日も私は世界を呪う。

朝の眩しい光が全身を貫いた。

そして私の舞台が今日も始まる。


「菫ってさ~………」

いつも通り、いつもの場所で待ち合わせているいつものメンバーで、いつも通り学校へ向かう。

私には彼女達の言っている事はよく分からない。ただ隣で彼女達は楽しそうに笑っている。

何が楽しいのだろうか?

クラスの誰と誰が付き合っただの、有名人が結婚しただのとどうでもいい事で騒ぎ立てて、笑い合って話し込んで。

彼女達はいつも何を考えているのだろうか?

私にはよくわからない。だけど、ただ一つ分かる事は彼女達が毎日を楽しみ、俗にいう青春とやらを過ごしているという事だ。

 そう、彼女達は『いつも通り』を謳歌している。

死にたいとは思わないのだろうか?

生きていて辛くはないのだろうか?

普通はこんな事考えないのだろう。死に場所を求めて彷徨って、愛を求めて傷つける私と違って、彼女達は生き場所を求めて彷徨って、愛を授けて返される。そんな暖かい日々の中にいるのだ。

 この世界は地獄に他ならない。

死にたくても生きたくて。

生きたくないけど死にたくない。

そんな堂々巡りを繰り返す日々。

いじめられている訳じゃない。

嫌われている訳じゃない。

でも、どうしようもなく空しい。己の存在価値が認められない。

私は本当にここにいていいのか分からない。

どうしてこんな想いを抱えているのか分からない。

でも、空っぽの心が叫び続ける。

本当にここにいていいの?

その答えを求めて、今日も私はこの世界に存在を刻むため体を売って愛を求めるのです。


 その日の授業は何事もなく進んでいった。

いつも通りの日々。初めての鮮度を失い、乾ききった何の変哲もない日常。夕焼けが私の肌を焼く。その熱と痛みが心地よい。

世界に存在を肯定されている気がするから。

「じゃあね」

いつものメンバーにいつも通り別れの挨拶をして、自宅に入る。

「ただいま」

「おかえり。学校どうだった?」

「いつも通りだよ」

出迎えた母の質問に適当に返し玄関に上がる。ローファーを乱雑に脱ぎ、セーラー服をハンガーに掛け、洗面台でメイクを落とす。コンタクトを外し、眼鏡を掛けると先ほどまでのきらきらとした様相とは打って変わって希薄な雰囲気を持つ少女が鏡に映し出された。

これが本当の私だ。

虚ろで中身がない。だからその中身を愛で埋めようと体に性を注ぎ込もうとする醜い獣。

それが私。

私を喰らう獣たちは性の対象として私を求めて、私は存在の証明として彼等を求める。

その間に何の差異があろうか? いや、ない。

けれどそれでいい。

存在価値が得られないよりはずっといい。

得た愛が偽物だとか本物だとかそんなことはどうでもいい。

私はこの世界にいてもいいのだと安心させてくれればそれでいい。

だから私は、

「私の名前は神月凜」

今夜も与えられた役割を演じる。









吐いた息が白く濁った。膝丈まであるコートの中で私は内腿を擦り合わせる。

「今日はよろしくね」

夜八時。辺りは闇に落ち、帰宅に勤しむ会社員らで喧噪に塗れた駅前で一人の男にそう声を掛けられた。彼は赤い帽子に眼鏡を掛けていて、私に送られてきたメールに書かれていた外見と一致している。

「よろしくお願いします」

笑みを造りながらペコリと一礼。それに気を良くした彼はにこりと笑い、

「じゃあ早速行こうか」

と私の腰を抱きながら言った。

「はい」

私も彼に嗤いかけ、そして彼の視線の先にあるホテルの方へ歩みを進める。

漆黒の髪がひらりと舞う。そして二人は夜の街に溶けていく。


「もうこんな事止めた方がいいよ」

私の体を貪った後、男は呟いた。

「そうですね」

ベッドの上、生温いシーツに身を投げて純白に黒髪を散らしながら私はぼんやりとそう答える。

時々、こういう事を言う男はいる。己のした事に対する罪悪感が拭えないのだろう。それを少しでも払拭するために私に向かってそういうのだ。

 余計なお世話だ。

肉体を、魂を喰らって何を言うのだ。

一生罪を背負って生きろ。

一生今日の事を忘れずに生きろ。

一生自分が犯した少女の事を忘れるな。


 それこそが私の存在証明だ。


男が残した肉体への残滓が疼く。痛いし、苦しい。

これが愛の代償だ。それを私は暖かさをもって受け入れる。

「もう……止めた方がいい」

男はホテルのドアを開ける。

「君にこの仕事は向いてない」

ガチャリと無慈悲に扉が閉まる音がした。

静寂に包まれた部屋。

それをビリビリに引き裂く甲高い声が喉の奥底から湧き上がってくる。

「黙れ」

勝手な事を言うな。

「黙れ」

知ったような口を聞くな。

「黙れ」

私にはこれしかないんだ。

「だまれよ!」

どれだけ痛くてもやらずにはいられないんだ。

「お前が私の適正を勝手に決めるな‼」

この叫びは届かない。

防音室であるこの部屋から外に届く事はない。

如月菫という人間の外から出ていく事はない。

「私にはこれしかないんだ」

両手で私は自身の体を掻き抱く。確かに私はここにいる。それを実感するために。

寄せあげられた胸をじっと見つめる。今までの男の姿がフラッシュバックしてくる。その幻影を振り払うためにブンブンと強く頭を振った。

「はぁはぁ」

荒い息を吐く。

まだ大丈夫だ。

私はまだ生きていられる。

死にたくてもまだ死なない。

にこりと笑みを浮かべながらそう自分に言い聞かせる。

その瞬間、胸の間を暖かいものが流れ落ちた。

「なんでだよ」

声が震えた。

「なんで」

鼓動が跳ねた。

「泣いてんだよ」

なにも悲しい事なんてないのに。

私の体は愛で満たされているのに。

下腹部に恐る恐る手を当てる。痛みと熱をもったそこを労わるように優しく撫でる。

ほら、今だって。


私の中で『愛』は蠢いている。






彼女を一目見た時の印象は美しいだった。

まん丸とした大きな瞳にすっと通った鼻筋。ボブカットの黒髪は蛍光灯を反射し、天使の輪を描いている。私に匹敵するほどの美貌を持つ少女。彼女は白魚のような手でチョークを持ち、黒板に葉月陽向と書きつけた。

「葉月陽向です。これからよろしくお願いします」

ぺこりと小さくお辞儀をした後、にっこりとその名に違わぬお日様のように純粋に笑う。

教室が騒めきに包まれる。男女ともに魅了するその美しさに私も他と同様に圧倒された。

「窓際の一番後ろの席ね」

担任が空いていた私の隣の席を指名した。

彼女はまるで空を飛ぶ燕のように軽やかにそこまで歩き、

「これからよろしくね」

語尾に音符マークが付いているかのように元気よく私に向けてそう言った。

その勢いに怯みながらも

「よろしく」

と返す。

すると、彼女はその折れてしまいそうなほど細い腕と小さくて壊れてしまいそうな手を私に向け差し、

「あくしゅっ」

「う、うん」

そっとその手を握ると陽向はぶんぶんと凄い勢いで振った。

「こんな美人な子と隣になれるなんて嬉しいよ~」

満面の笑みでそう言う彼女に苦笑いしながら

「私もあなたみたいな可愛い子と隣になれて嬉しいよ」

「あなたが言うと嫌味にしか聞こえないよ」

「それはお互い様だよ」

「ほんと? ありがとっ」

はにかみながら小さく笑った彼女に釣られて私も小さく笑う。

「ねぇ名前はなんていうの?」

陽向のその言葉に

「如月菫」

本当の私の名前がすんなりと自分の口から飛び出した。

「すみれっていうんだ。可愛い名前だね」

握っていた手を放し、パンと両の手を合わせ

「じゃあ改めてこれからよろしくね。すみれ(・・・)」

そんな向日葵のような明るさと元気に引き寄せられた賤しい蜜蜂の私は彼女の言葉に力強く頷いた。






 陽向が転校してきて三か月ほどが過ぎた。

「おはよう陽向」

手洗い場で花瓶に差された菊の花を抜いている彼女に声を掛ける。

「あ、おはようすみれ」

少し罰が悪そうに笑いながら彼女はそう返す。

「今日も机の上にこれが置かれてたんだよね~。こんな風に使われる花たちの気持ちにもなれって言うんだよ」

手に持った菊についた水を払いながら笑う陽向。

「そうだね」

私はそんな彼女を後目に教室に向かう。

陽向はいじめにあっていた。

美しく人懐っこい彼女は男子からは憧れの的であり、欲望の対象だった。そして女子からは羨望の対象であり、嫉妬の対象であった。

机に花瓶を置かれるのは日常茶飯事。直接的な暴力こそありはしないものの、夜の仕事をしているとか経験人数は三桁を超えているとかそんな噂を流されている。

 がらりと音を立て椅子を引く。

下らない。

肩に掛けたスクールバッグを下ろし、教科書を机に詰める。

「ふーもう嫌になっちゃうよ毎朝毎朝」

花瓶を片付け終わった陽向が椅子に座りながらそんな事を呟く。

「お疲れ様」

「まぁしょうがないね」

水に濡れたセーラー服の袖とは裏腹にカラッとした笑みを浮かべて彼女は笑う。

「ところで今日の数学って予習ある?」

「あるよ」

私がそう答えると彼女はゲッという擬音が似合う顔をして、その後両の手を合わせノートを見せてくれと頼んできた。

「ん」

机の中からノートを取り出し彼女に渡す。

「ありがとう」

陽向はそう言って笑い、シャーペンを持って課題へと向き合っていった。

私は朝の教室から見える輝く太陽と高い空をぼんやりと眺めながら、横目で陽向を盗み見る。

美人だからといって彼女は頭がいい訳ではない。

美人だからといって彼女は運動が出来る訳ではない。

美人だからといって彼女は我儘な訳ではない。

 けれど皆彼女の外見のみを見て排斥しようとする。

本当の彼女は笑って全てを受け流そうとして、失敗して苦しむ等身大の女の子だ。

濡れた髪から水を滴らせながら笑う彼女を見た。

そして、顎先に溜まった涙を拭えないでいる彼女を見た。

今貸したノートだってきっと陽向は自分でやっていたのだろう。

それが手元にないだけで。

なぜそんなにも前を向いていられるのだろうか?

どうしてそんな一遍の曇りもない瞳で私に笑いかけられる?

こちら(・・・)()にいてもおかしくないのに……。

「今日の放課後時間ある?」

気づけば彼女に向けてそんな言葉を発していた。

言った後に後悔が襲う。そんな事を聞いて何になるのだ。言わなければよかった。そう思った。

けれど、

「もちろんいいよっ」

彼女の満面の笑みを見ればそんな事はどうでもよくなった。



風がびゅうと強く吹いた。陽向の髪がふわりと揺れる。

「うう。結構寒いね」

赤く染めた頬を薄桃色のマフラーにうずめながら彼女はブルリと体を震わせて、手袋に包まれた手を擦り合わせている。

「で、今日はどうしたの?」

「ちょっと話したくてさ。教室じゃちょっと話づらいし」

「確かにそうかも」

苦笑いを浮かべる陽向。

「それで話っていうのは?」

屈託のない笑みを浮かべて彼女は私に笑いかける。

「えっと……」

何を言えばいいのか分からなかった。

動かない口に反して足だけは前へ前へ、自宅の方へ向けて進む。

このまま何も言わないで家に着いたら陽向はこの話を忘れてくれるだろうか?

それとも適当に誤魔化してしまおうか?

そうだ。それがいい。それが一番楽だ。

(ううん。なんでもないよ。ただ話したかっただけ)

口は動いた。

ただ喉が震えなかった。

その言葉を発するのを拒絶しているかのようにそれは喉の奥で詰まり出てこなかい。

陽向が足を止め、唐突に私の体を抱きしめた。

「ねぇ言いなよ。言いたい事。今まで我慢してきたんでしょ?」

彼女は笑う。羽のような軽さで。この地上に悩みなんてないとでも言いたげなほど神々しい笑みで。両手を広げて私を強く抱きしめながら。

「どうしてそんなに強くいられるの?」

彼女の体は暖かかった。今まで抱かれてきた誰の腕よりも。肌を合わせてすらおらず、分厚い冬用コートと制服越しだというのにその熱は私の体をとろかす。そして、その熱が私を苛む事は決してない。

一滴の涙が頬を伝う。

誰かの前で泣くのは久しぶりだった。

最後は初体験の頃だと思う。

痛がる私の腕を無理矢理ベッドに押し付けながら、はぁはぁ戸新井息を吐く獣の姿が脳裏にありありと浮かんでくる。

同時にあの時の恐怖も嫌悪感も自責の念も次々と蘇ってきた。

「だいじょうぶ」

全身から嫌な汗が噴き出していた。陽向の肩に置いた手は小刻みに震えていた。

「だいじょうぶだよ」

陽向は何も知らない。

私の『はじめて』の事も『仕事』の事も何も知らない。

私の事を何も知らない。

「あんしんしていいよ」

なのにそう言ってその細い手で私の背を優しく撫でる。

本当に大変なのは自分だろうに。

私の抱える恐怖は『愛』を求めた代償で、それを恐ろしいというのはただのエゴなのに。

「どうして陽向はそんなに優しいの?」

「私は別に優しくないよ」

ふるふると小さく首を横にふる。

「ただそうあろうとしているだけで」

憂い交じりにそう言う彼女に

「どういう事?」

意味が分からず聞き返す。

そんな私に彼女は悪戯っぽく笑って

「お風呂入ろっか」

「へ?」

そう言った。



 「お祖母ちゃん。今お客さんいる?」

私の下校ルートから少し外れた所にある寂れた銭湯に入るやいなや彼女は番頭に立つ老婆に向かってそう言った。

「今はいないよ。後ろの子は友達かい?」

私の方をちらりと見る老婆に「そうだよー」と朗らかに返して、

「じゃあ使わしてもらうよー」

「はいよ」

陽向は浴場に向かってスキップでもしそうな勢いで駆けて行った。

どうしてこんな事になっているのか分からず戸惑う私を「はやくはやく」と彼女は急かす。

「う、うん」

パタパタと速足で浴場へ向かう。

「あの子の事よろしくお願いしますね」

そんな私の背中に向けて老婆はそう声を掛けてきた。

意味が分からなかった。

だから一言

「はい」

とそう返した。


「先に服脱いでお風呂入ってて」

私が脱衣所に入ると陽向は開口一番私にそう言った。

「うん」

ぎこちない笑みを浮かべる彼女にどこか違和感を覚えながら私はコートを脱ぎ、セーラー服から腕を抜く。そして、下に着ているキャミソールに手を掛け、

「どうしたの?」

横で私をじっと見つめていた陽向に声を掛けた。

「いや、ぜんぜん?」

彼女はふるふると首を振る。

「見てたでしょ」

「見てないよ。ただ……」

「ただ……?」

「とても綺麗だと思って」

「きれい?」

「そう。とっても」

笑う彼女の姿に思わず反発しそうになる。私の何処が綺麗だ問いうのか。私の体ほど汚い人というのもそういないであろうに。

「ありがとう」

上っ面の笑みを張り付けてお礼を言う。どれだけ温かくても彼女はやっぱり他人でしかない。先ほどまで火照っていた体に突如冷や水を浴びせられた気になった。

「じゃあ先行ってるね」

バスタオルで胸と股を隠し、私はそそくさと逃げるようにその場を去った。散々異性に見せた体を同性の陽向に見せるのを恥ずかしがる自分が何処か可笑しかった。



一通り体を洗い終え、足先を湯舟に浸してゆっくりと体を沈ませていく。「ほぅ」と息を吐くと胸の内のもやが、すっと抜けていく気がした。

私は軽く体を抱きながら、もう一度ため息を吐く。ふっと目を閉じると私の中にふわふわとした湯独特の浮遊感のみが残った。

両の手のひらでお湯を掬い、ぱしゃりと自身の胸にかける。ぼやけた視界の中、吹き出物一つない胸元を水滴が流れ落ち、谷間へと吸い込まれていくのが視界に入る。

「はっ」

こんな胸無くなればいいのに……。

これがなければ。性欲なんかこの世から消えてなくなってしまえばいいのに。陽向に綺麗だと言われたこの体も実際の所、私をこの世界に繋ぎ止めるための道具でしかなくて、お金のためだとか、セックスが好きだとかそういう大義の為じゃなくて、ただ自分の存在を肯定したいがために行為に耽って、傷ついて。

そんな自分が醜くて大っ嫌いで。


だけど、それがないと生きていけない私は……


さいっこうに醜悪な生き物に違いない。


突然、ずるりと体が下に滑り、全身が湯に投げ出され、髪が放射状に広がった。青い天井を見つめる。こうしていると世界にいるのは私だけで、願うものは全て叶う。そんなまやかしの全能感に襲われる。

しかし、「とぽん」という音と小さな波がそんな全能感を搔き消した。

何事かと波の起こった方向を横目で見る。

そこにはタオルを胸のあたりで巻いた陽向がいた。

「随分と気持ちよさそうだね~」

そう言いながら彼女は私の隣に腰を下ろす。

「気持ちいいよ」

答えながら身を起こそうとすると、水分を吸った長い髪が随分と重たくて、入る前にきちんと纏めておかなかったことを少し後悔する。

「私がどうして優しいのか知りたいんだよね?」

そんな私を後目に、陽向はいきなりそう切り出した。あまりに急だったので思わず怯みながらも、コクリと小さく頷く。

「それはね……」

右下のふわふわとお湯の上を漂う白いもやに視線を落としながら、彼女は話し始めた。

「私ってかわいいでしょ? 私個人としてはあんまりそう思わないんだけど、皆がそう言ってくれる。だから、外見だけじゃなくて心まで綺麗でありたいなって」

陽向は柔らかく微笑む。

「それだけ?」

「うんそれだけ」

彼女は簡単に言うが、それがどれほど難しい事か。生きていて誰にでも優しく接するなんて不可能に近い。なのに彼女は、周りが可愛いと言ってくれるという不確かな物を拠り所にその意思を完遂しようとしているのだ。

「どうしてそんな生き方で生きていけるの?」

聞かずにはいられなかった。私のような確かな物を拠り所として生きる人間にとって、陽向の不確かさは狂気を孕んだ物にさえ見えた。

「そんな大層なものじゃないでしょ?」

カラカラと彼女は笑う。

「でも、そうだなぁ。可愛さしか私にはなかったからかな」

これ見てよと、彼女は立ち上がって、胸辺りで結ばれたバスタオルの結び目をほどいた。ハラリとタオルが湯に落ちる。視界が陽向の肌色で埋め尽くされる。

痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣 痣  痣 

純白のキャンパスに黒紫が躍り狂う。

何の雑味もないまっさらな脳へと生まれ変わった気分になった。

「どうしたの? それ」

そんな中、私はそう尋ねていた。

ただお湯が流れる音だけが二人の間に響く。それが僅かに高ぶった心を落ち着かせた。もしかしてクラスの奴らにやられたのだろうか。

身体的ないじめは受けていないと思っていたのは私の気のせいで実は激しい暴力を受けていたのだろうか?

そう考えた矢先、

「わたしの両親は良い人だった」

陽向は喋り出す。

「私の姉は可愛くて、頭が良かった」

「だけど私は可愛くなくて、頭も悪くて出来損ないで失敗作だった」

「だから、しょう(・・・)が(・)ない(・・)んだ」

彼女は笑った。

いつも通り可愛らしく、日に当てられて輝く花のように笑った。しかし、その双眸には諦めが宿り、失望が混じり、孤独が鎌首をもたげている。

『恐ろしい』

私は直感的にそう思った。

ヒトはここまで歪めるのかと、快活に笑う陽向が別世界の化け物にさえ見えた。

「本当にそれはいい人だったの?」

「うん。いい人だったよ」

震え交じりの私の声に陽向は一切の迷いなくそう答える。

寒気が止まらなかった。温かいお湯に浸かっているにも関わらず、私の体はガタガタと震えそうになっていた。

彼女は間違いなく『壊れている』

決定的なまでに人としての感情が欠落している。しかも、それが妬み嫉みといった負の感情なのが性質(たち)が悪い。一見、陽向は人として完璧な性格に見える。誰にでも優しくて、平等で、暖かい。ただ、それはそれしか知らないからだ。


目の前で笑う陽向は『優しくある事』に囚われている。


「嫌な事は嫌だって言ったら?」

「ううん。別に嫌じゃないよ」

彼女はふるふると首を横に振る。

「嫌じゃないと思えばそれは嫌じゃないんだ。私は今までそうやって生きてきた」

優しいのはあくまで手段だよ、と陽向は言う。

「まぁさっき言った可愛いって言われるからそうありたいっていうのも本当だよ。だけど、私にとって可愛がられる事は生き残る手段だったから」

「そう……」

私にはそれしか言えなかった。陽向は私の事を理解してくれると思い、その温もりに包まれたかった。それだけに理解の範疇にいない彼女に対して私は深い失望を覚える。

「さて、総括しましょう!」

パンと陽向は手を叩く。

「菫ちゃんの質問『どうして私は優しいのか?』その答えはズバリ『そうするしかなかったから』です」

私には彼女のその在り方が酷く空しいものに思えた。

「なるほどね」

だけど、それを指摘する度胸も、資格も、陽向のような優しさも持ち合わせてもいない私は、その言葉に適当に相槌を打った。



 一人いつも通りの通学路を歩く。お湯上がりの体に二月の風が冷たく響いた。それもあって足取りは酷く重い。まるでアスファルトに接着剤でも塗りたくられているのではないかと錯覚するほどに強い吸引力で地面が私の両足を引き留めてくる。

――帰りたくないなぁ

不思議とそう言う気分だった。家に着けばいつも通り母が待っていて、制服を脱いで課題をやって、そうしている内に父が帰ってきて、そうすれば夕ご飯になって。

そんな日常が今の私にとっては、とても億劫なものだった。だから、私は母に友達の家に泊まりに行くと嘘を吐いた。

辺りは既に真っ暗だ。

二月の六時半は日も落ち、街はすっかり夜の姿を見せている。

薄ぼけた街灯をそれに群がる蛾のように見上げた。小さく吐いた息が白く濁る。と、同時にマフラーを口元まで巻いていた陽向の事を想う。

私は確かに彼女に抱きしめられた時、『愛』を感じた。そして、今まで感じてきた物が劣悪な模造品とさえ言えない物である事に気づかされてしまった。

やっぱり陽向は優しい。

それが生きる術によるものだったとしても、彼女の人に優しくあろうという感情は尊いものなのだろう。

けれど、そんな風に生きてきた陽向が『愛』を与えられていないなんて滑稽な事だ。『愛』とは何なのか私には分からない。今まで私が『愛』だと信じようとしてきた物は陽向の手によって偽物だと思い知らされてしまった。

 陽向のあの暖かさはどこから来たのか?

その由来は優しさなのだろうか?

あの暖かさが『愛』なのだろうか?

それならば彼女は『愛』を配って回っている事になる。

自分を斬って相手に与えて。昔のヒーローのようなその行為が『愛』なのだろうか?

 私には何も分からない。

「死にたいなぁ」

そんな疑問から抜け出す秘策をポツリと呟いて、私はふらふらと街灯の下から離れた。すると、突如影が私の足元にヌッと伸びてきて、思わずビクリと背筋を震わせる。

『許さないぞ』と何者かに言われた気がした。そんな簡単に死ぬなんて許さないと、私はお前をいつも見張っているぞと、自分の中の何かが強く主張している。

「そんな訳ないか」

そんなトチ狂った妄想を一笑に伏し、当てもなく夜の街へと歩みを進める。火照った体はすっかり冬に馴染み、夜に溶け込んでいた。



 どれほど歩いただろうか?

スマートフォンの充電も切れ、時間も分からない中、私は冬の夜の寒さに震えていた。

セーラー服にコートと手袋だけではいかんせん防寒対策には不十分で、特にスカートとタイツしか身に着けていない足からジンジンと冷えが込み上げてくる。

その上、随分と長く歩いたせいでもうヘトヘトだった。

「どこかで休もうかな?」

けれど、この服装で目立つところにいたら、警察に見つかってすぐに補導されてしまうだろう。どうしようかと考えながら歩いていると、目の前に公園が見えた。しかも都合の良い事に、外からは見えにくいドーム型のオブジェがある。あそこの中に入って一夜を明かそう。

そう思って私は公園の入り口を抜け、ドームに空いた穴に身を屈めるようにして入った。

「うわっ」

すると突如、甲高い少女の声がした。

声のした方を見ると、毛布に包まった少年が口をポカンと開けてこちらを見ていた。外見の情報と先ほどの高い声のチグハグさに私は首を捻る。

「あの、誰でしょうか?」

少年はそんな私を後目におずおずとそう尋ねてくる。

「私は通りすがりの者だよ」

本当の事を言うのも憚られ、ちょっと気障ったらしく答えると、彼はあからさまにほっとした表情を浮かべた。

「そうですか。じゃあどうしてここに?」

首を傾げる少年。やはりその声と外見との違和感は拭えない。

「ふらふら歩いてたら寒くなってきてさ。ちょっと休憩しようと思ってね」

「なるほど。要するにあなたも家出してきたのですか」

「ちょっと違うけど似たようなものかな」

「まぁ何はともあれ非行少女仲間である事に変わりはないと」

「少女?」

その言葉に首を傾げると、彼は芝居がかったように両手を広げて、

「あれ、あなたはもしや男性だったのですか? であれば、早急にここから出て行って貰わねばならないのですが」

剣呑とした目つきで彼、もとい、彼女がこちらを見た。

「いや、私は女だけど」

その視線に貫かれた私は、小さくそう答える。

「ですよね。こんな時間にセーラー服を着て徘徊する変態にしてはクオリティが高いですし」

「それは喜べばいいの?」

私が困惑する一方、彼女はニコニコと笑っている。

「もちろんですよ」

「じゃあ、ありがとう」

素直にお礼を言うと

「それでいいんです」

と、彼女はしたり顔で頷く。

「さて、ちゃんと同性である事が分かった所で」

パンと手を打って、

「僕の名前は和泉(いずみ)です。これも何かのご縁でしょうし、お近づきの印に私の領地を半分差し上げましょう」

そう言って私に毛布を差し出す。「ありがとう」とお礼を言いながら、もぞもぞとその中に入る。ざらついた砂の感触と対象的に、彼女と触れ合った肩はとても華奢で、それは彼女が女の子である事をありありと主張していた。

「私の名前は菫」

和泉同様、私も名前を告げる。

「菫というのですか。美しい名前ですね」

彼女は微笑んだ。その微笑に思わず毒気を抜かれ、私は釣られて笑う。

「やっと笑ってくれましたね」

「え?」

「そんな暗い顔をされてしまうと僕まで暗い気分になってしまいますよ」

和泉はカラカラと笑う。

「よっぽど辛い事でもあったようですね。よかったら僕に話してくれませんか? まだ夜は長いですし、話のタネがないと僕も退屈です」

彼女が私の背中をそっと撫でる。

「いや、別にそんな事ないけど……」

誤魔化すように言う私に、

「なんでもない人がこんな時間に一人でこんな場所に来る訳がないでしょう」

和泉が呆れたように言う。

「言いづらいのは分かります。でも、菫さんと僕は一夜だけの泡沫(うたかた)の夢のような関係です。夜が明ければ二人は他人に戻る。私も話しますから、どうかあなたも話してください」

彼女が私に優しく語り掛けるようにして話す。

「和泉さんも……あなたも何かあるの?」

おそるおそる問いかける。

「もちろんありますよ」

堂々とそう言い切った。けれど、その口調とは裏腹に彼女は弱弱しい笑みを浮かべていた。

「さっき言ったでしょう。『なんでもない人がこんな時間に一人でこんな場所に来るわけがないでしょう』って」

ひゅうとドームに開いた穴から強い風が吹きこんだ。私は寒さに身を縮こませる。それによって一瞬、隣に座っている和泉と触れ合っていた肩が離れた。それが酷く寂しくて、まるで荒野に一人置き去りにされたような気分になった。

 気づけば私の口は開き始めていた。口が開いたが最後、とめどなく言葉を吐き出し続ける。醜い私の事。可哀そうな陽向の事。『愛』が何なのか分からなくて、自分がここにいていいのか分からない。常に感じる漠然とした浮遊感をどう処理すればいいのか。

自分がここまで思い悩んでいた事が吐瀉物のように流れだす。そんな私を彼女は黙って見ていた。時折、私の言葉に頷いて「そうですね」とか「はい」とか相槌を打つ以外、一切口を挟まずに黙っている。

 

そして、

「もう疲れた」

その言葉を最後に私の口は止まった。

「お疲れ様です」

労わるように和泉はそう言って、私の瞼に溜まった雫を細く艶やかな指で拭う。熱を持った目に彼女のひんやりとした指が心地いい。

「いろいろ大変だったのですね」

和泉は何も言わなかった。言ってくれなかった。それが嬉しくて悲しかった。罵って欲しかった。

お前はダメな奴で、死んだほうがいい存在だと言って欲しかった。そうなれば楽になれる。人間失格の烙印を他者から押されれば無法者として生きる事が出来たかもしれない。

 でも、彼女は何も言わなかった。

私の考えを肯定するでも否定するでもなく、ただ受け止めて飲み下すだけ。

今の私にとって、それはとても残酷な回答だった。

人間失格だと罵ってくれれば、それに納得して楽になれた。慰めてくれれば自己嫌悪に囚われながらも可哀想な自分を愛せた。

けれど、和泉はそのどちらもさせてくれなかった。彼女は現実から逃げる事を赦してくれない。

 気づけば涙は止まることなく流れ続けていた。どうにも今日は泣いてばかりだ。心の中でそう一人ごちる。

私は弱くなってしまったのだろうか?

 今まで泣いた事なんて数えるくらいしかなかったのに、一日で二度も泣いてしまっている。

 

この旅の終わりも近いのかもしれない。

今まで誤魔化しながら生きてきた日々が終焉に向かう時が近づいてきたのかもしれない。「自分という物語の主人公になれ」こんな言葉が町中に蔓延した世界。

「夢は何だ?」と、それを持つ事が当然のように問いかけられる日々。

一方で、私の人生を思い起こす。これの何処が物語なのか。そう自嘲する。ただ空白の中を闇雲に泳ぎ回って、前にも進まず、後ろに戻る事もない。停滞した日々。それに耐え忍んで、飢えを凌いで、乾きに悩まされ……。

 この世界は地獄に他ならない。

陽向は『愛』を与えながら決して『愛』を得られないジレンマに囚われている。

私は『愛』を求めながら、実態の掴めないそれに振り回されている。

人生は物語なんかじゃない。

地獄だ。

一人一人がそれぞれの地獄を持っていて、それに振り回されて、囚われている。

いつも通りの日々を送る友人達だって呪われている。

人生に呪われている。

 そして、私の隣に座る和泉も。

「あなたはどうしてこんな所にいるの?」

彼女の地獄を知りたかった。少年のような明るさと少女のような儚さを持ち合わせる飄々とした雰囲気を纏った和泉の抱える闇を。

「そうですね」

彼女は顎に手を当て、少し考え込む。そして数秒後、答えを得たと言わんばかりにピンとその人差し指を立てた。

「私も疲れたからですね」

その言葉とは裏腹に、元気よく和泉はそう言った。

「実はですね……」

そして、彼女は語り始める。

一人の少女としてではなく、一人の人間としての和泉の物語を。






「実はですね、嬉しかったのですよ。菫さんが僕の事を勘違いしてくれた事が」

和泉はそう切り出した。私は話の行く先が見えず、ただ黙っている。

「人は二度生まれる。一度は存在するために、二度目は生きるために」

「それって……」

聞き覚えのある言葉だった。そう、それは確か――

「かの有名な哲学者ルソーの言葉です」

思い起こすまでもなく彼女が答えをくれた。

「そして、彼に言わせれば僕は二度目の誕生に失敗した存在なんですよ」

アハハと彼女は笑う。けれど、それは酷く乾いていて、聞いていたこちらは泣きそうになってしまいそうなものだった。

「小さい時からどっかおかしいと思ってたんだ。でも、それについて深く考えた事はなかった。だって考え始めたら辛くなってしまうから。でも、そんな誤魔化しは長くは続かなかった」

ヒュッと和泉が冷たい冬の風を吸い込む音が私の耳に届き、一拍置いて彼女は再び語り出す。

「決定的に周りと違うって気が付いたのは胸が膨らみ始めたとき」

和泉はその小さな手で毛布を握りしめる。おそらく寒さ由来のものでない震えが彼女の全身を支配していた。

「気持ち悪くて仕方がなかったの。でも、きっと最初だけだってそう信じて我慢してみても、気持ち悪さは一向に減らない。それどころかどんどん体は理想とズレていって」

はーーっと和泉が長い息を吐いた。それに伴なって純白が彼女の口から流れ出す。

「お風呂に入る度にどうして僕はこんな体なんだろう? って疑問に思って涙が止まらないんだ。そして、それと同時にどうしてこんな事を考えているのか?って自分の事が嫌になる」

その瞳には薄っすらと涙が溜まっている。

しかし、私には彼女の様にその瞳に人差し指を差し伸べる勇気がなかった。そんな私を後目に、和泉は止まる事なく喋り続ける。

「そんな私の事を好きだって言ってくれる人がいた。でも、私は彼を好きか分からない。『好きか嫌い』になれないのが辛かった。分からないという答えしか用意出来ない自分が気持ち悪かった。普通の女の子が返す言葉が、私には用意出来ないのが申し訳なくて仕方がなかった」

そこで彼女は言葉を止めた。そして言葉の代わりに嗚咽を零す。

「僕はっ普通じゃない。一生、普通になれない。一番欲しいものは一生手に入らない」

毛布を涙で黒く滲ませる。

「何回も自分に男だって言い聞かせたって僕が女なのは変わらない。何回鏡を見て頬を濡らしたって現実は変わらない」

小さな両手と華奢な肩を震わせて、和泉は叫んだ。声が大きかった訳ではない。けれど、それは大きな質量と熱量を持って私の胸を貫く。

その理由はきっと彼女が心で叫んでいるからに違いない。

「僕が私をどれだけ気持ち悪くても、こんな歪な喋り方になってもそれでも私は前へ進む」

和泉の目には諦めと苦しみが渦巻くと同時に、それ以上の闘志が宿っていた。

「だって僕は私で、私は僕だから。男の僕も、女の私も『本間和泉』だから。生きるために産まれるのに失敗したと言われようとも、どれだけ心の中で自分を失敗作と罵ろうともそれだけは変わらないの」

彼女は胸に手を当てて、そう言った。

その仕草は男の子のように力強くて、一方でその体は女の子であることを痛いほど主張している。その姿が和泉という一人の人間の人生を体現していた。

その姿は他者に憐れむ事を許さない。それは和泉の在り方を侮辱する最低な行為で、同時に私の在り方と正反対のものだった。私は私の事を可哀想だと、何処かで憐れんでいる。憐れんで、慰めている。

 だから知りたかった。

「どうして和泉はそんなに強いの?」

私は彼女に問いかける。陽向に問いかけたように、和泉から彼女の強さを得るために。

「別に僕は強い訳じゃない。ただ全てを諦めただけだ」

自嘲するように笑う和泉。

「それは辛くないの?」

彼女の未だに涙を湛えている瞳を覗き込んで、問いかけた。

「もう慣れちゃいました」

和泉はぺろりと可愛らしく舌を出し、笑う。

「それに諦めたら結構色々生き易いですよ」

すんなりと彼女はそう言った。私にはその強さがどうにも理解出来ない。

「全てを諦められたなら生きる事を諦めたら楽になると思わないの?」

重ねて泉にそう問いかける。そこまで思い悩んだなら『死』という道が魅力的に見えるのが普通の反応な気がした。

そう――私のように。

和泉は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした後、真正面から彼女の瞳を見て話す私を軽く笑い飛ばす。

「それは復讐心ですよ。だって悔しいじゃないですか。こんなクソみたいな世界に産まれて、それに負けるなんて」

あまりにも革新的すぎる回答に、私も彼女同様目が点になる。

「だから私は決めたんです。こんな風に私を貶めた世界に、社会に復讐してやるって」

力強く拳を握って和泉はそう宣言する。

「どうやって復讐するの?」

テロリズムにでも走るつもりなのか、それとも何か別の手段で反逆しようとしているのか。どちらにせよ、それはとても現実的ではないものだ。

しかし、彼女の答えは私の想像からあまりにも逸脱したものだった。

「簡単だよ。笑うんだ。楽しむんだ。この世界を」

「楽しむ?」

意味が分からない。この世界を楽しむことが一体どうして復讐になるのか。

そもそも復讐心なんてものを抱えたまま笑顔を浮かべる事がどれほど辛い事か彼女なら分かり切っているだろう。

それでも、なお笑おうとする和泉の事が理解できなかった。

「いじめだっていじめられた側が無反応だったらつまらないだろう? それと一緒で僕もこの世界を遊び尽くして、そして最後に笑って死ねたら」

彼女は私をちらりと見て

「僕はこんなに楽しんだぜ。ざまあみろって言えるじゃないですか」

満面の笑みでそう言った。

「確かにね」

そうだろうか? 和泉の価値観は少々理解し難い。でも、目の前で清々しく笑っている彼女を見るに、それも確かに一つの在り方なのだろう。

カッコいいと思った。この世界を地獄だと断じて諦める私よりも、この地獄に抗って反逆する和泉の方が数倍男らしくて、気持ちがいい。

だから私は彼女に強く憧れた。

けれど、どうすれば彼女のようになれるかは分からなかった。

 狭いドーム内に沈黙が落ちる。その静寂を破るように和泉は立ち上がって、

「ちょっと外にでましょうか」

私の手を引き、冬の寒空に連れ出す。

「ほら、空が綺麗ですよ」

狭い遊具の中に閉じ込められ、凝り固まった体を伸ばしながら彼女は空を見上げた。それに釣られるようにして私も空を見上げる。

 綺麗だった。

乾いた冬の空はどこまでも高く、月を沢山の星々が彩っている。

「気持ちいでしょう?」

和泉が私の肩を叩く。

「たまにはこういうのもいいですよね。疲れ切った毎日の一粒の清涼剤みたいなものです」

そして、ポケットから飴を取り出して投げ渡してきた。

「ブドウ味です」

「ありがとう」

袋を破り、口に放り投げる。

「美味しい」

「お気に入りなんです」

ふふっと彼女は小さく微笑む。

「それにしても今日は寒いですね。風も強いですし」

「そうだね」

「でも、この風が僕はとっても気持ちいいです」

和泉は前髪を掻き上げながら、再び空を見上げようとして、ふと私の後ろに視線を留めた。

「髪切らないんですか? 随分長いですけど」

「え?」

素っ頓狂な声を上げながら、私は腰ほどまである長い髪の毛に触れる。

「長いほうが女の子らしいでしょう? それに似合うと思うし」

「そうですか。僕はショートヘアの方が似合うと思いますけどね」

「そうかしら?」

「ええ。菫にはもっとクールな髪型が似合います。一度検討してみてください」

髪が夜の風に揺れる。ずっと付き合って来たこの髪。

私の、女としての象徴でもあるこの髪を切ったら何か変わるだろうか? 

憧れた和泉と同じくらい短くしたら同じ景色が見れるだろうか?

「ハサミある?」

「もちろん」

和泉は学生カバンをドームの中から引っ張り出して、その中身を漁る。

「そのカバン……」

彼女の持つ学生カバンはとても見覚えのあるものだった。

だって――

「ええ。菫さんの持つものと同じですよ。あなたは私の先輩です」

そう言いながら彼女がハサミを私に手渡す。

「ありがとう」

和泉からハサミを受け取りながら、背中で風に揺れる髪を適当に前に持ってくる。

 そして、勢いよくその全てを切り刻んだ。

パンと鮮烈な音が闇夜に響く。

ハラハラと私の一部が風に流され、黒に溶ける。

私は刻み続けた。

伸びきった髪は一度では切りきれず、刃の通りも悪い。だから何度も刻んだ。それがまるで親の仇であるかのように執拗に、力強く、幾度となく繰り返した。

「ハァハァ」

全てを切り終える頃には、すっかり息が上がっていた。冷たい空気が肺を痛めつける。けれど、今はその痛みすら心地よかった。

「どう? 似合う?」

肩にも届かないほどの長さになった髪に手を当てながら、和泉に問いかける。

「ええ。とてもお似合いですよ。まさに美少年といった感じで」

そう言って慈しむように微笑む彼女の姿がはっきり見えた。

気づけばもう夜明けだ。赤い屋根の家の向こうが薄く黄色に輝き、和泉を照らしている。

「疲れは取れましたか?」

彼女が私に問いかけた。

「少しはね」

茶化すように笑って答えて、

「あなたはどう?」

「そうですね」

少し考えた後和泉は、

「人が変わる瞬間を見るのは、いつでも清々しいものですね」

キザな事を言って笑った。






「これは僕のメールアドレスです。また何かあったら連絡してください」

「ありがとう。また今度ね」

「ええ。また今度」

朝、和泉と別れて学校へ向かう。風がうなじをそっと撫でて、その感触に私は思わず身震いした。それは長い間感じた事のないもので、未だに慣れない。

 クラスの子たちは何と言うだろうか?

髪を切っても何かが変わる訳ではない。ただ、性別不詳のセーラー服を着た人間になっただけだ。

 まだ『愛』は分からない。

死にたいという気持ちが消えてはいない。

そんな事を思いながら、私は校門を抜け、教室に入った。

「菫どうしたのその髪?」

いつもの子が私にそう尋ねる。

「イメチェンだよ」

ぶっきらぼうに答えると、

「そう……」

如何にも物言いたげに彼女は私を見つめてくる。

「どうかした?」

笑って彼女に問いかけた。

「私は前の方が似合うと思うよ。だって、その髪型まるで男子みたいじゃない」

「そうかな?」

内心少し気分がよかった。

外見という私の存在価値の百%を占めているものを失って、今までの武器を失った。

女の武器は使えない。少なくとも、あと3ヵ月は。

 もうあの紛い物の『愛』を感じる事は出来ない。

 もう自分を憐れんで慰める事は出来ない。

でも、それでいい。

和泉は言った。

「この世界に復讐したい」と。

「このくそったれな世界を思う存分楽しんで、最後は笑って死にたい」と。

私はそれが本当に復讐になるか分からない。

 でも、彼女の在り方をカッコいいと思った。

だから、少しだけ……三ヵ月だけ信じてみようと思う。

 その日々はきっと辛くない。

だって、

「あ、すみれ髪形変えたんだ! すごいカッコいいね」

陽向がいるから。

私に暖かさをくれた彼女がいるから。

「ありがとう」

満面の笑みでその優しさにお礼を言った。






「これにて愛知県立国府高等学校第百回卒業証書授与式を終わります」

立ったり座ったりを、自分がモグラ叩きだと錯覚するほど繰り返した頃、ようやくその言葉が教頭の口から発せられた。私は肩を弛緩させて、傍らの陽向に笑いかける。

すると、彼女も私を見て笑う。

冬が過ぎて春が訪れた。校庭では白い花がそれを祝福するかのように咲き乱れている。

卒業生も退場し、真の意味で卒業式が終了すると、在校生は完全に野放しにされ、運動場でゴロついたりして、先輩のHRの終わりを今か今かと待ち構えている。

そんな中私たちは

「すみれーいずみー写真撮るよー」

「ちょっと待ってください陽向さん。まだ髪整えてません」

「和泉なんか放っといて早く撮ろうよ」

「待ってくださいよ菫さん」

「うるさい。和泉ボウズにしなよ。カツラだって知らなかったせいで、私すっごい髪短くしちゃったじゃない」

「ええ? そんな逆切れされても困りますよ」

「ハイハイもう撮りますよ~」

陽向がスマートフォンを太陽に向けてかざす。

私と和泉は慌てて髪に手櫛を入れる。

「ハイ、チーズ」

パシャリと軽快な音を立ててスマホが鳴った。

「どう? 陽向」

二人して彼女手の中を覗き込む。

「いずみはカッコいいし、すみれは可愛いよ」

笑う陽向に

「いや、カッコいいとかいう謎のフォローはいらないです」

「陽向はたとえ白目向いてても可愛いっていうよ」

「そんな事ないよぉ」

彼女は誠に遺憾であるといった感情を浮かべ、そう抗議する。

「「いーやそんなことあるね」」

ワイワイと校庭の一角、梅の木の下で騒ぐ私たちをクラスメイトが横目で見ては通り過ぎていく。

まだ陽向へのいじめは続いている。それどころか一緒にいる私にまでその炎は飛び移ってきた。彼女は「ごめんね」と眉を下げながら謝ってきたけれど、そんな事はどうでも良かった。

だって私たちは愛を授けて返される、そんな暖かい日々の中にいるのだから。

それを四ヵ月前の私は『青春』と呼んだ。


「お、結構いい感じの映りですね。今日の顔ガチャは当たりです」

先に写真を見た和泉がニヤニヤと笑いながら、そう感想を述べる。

私と和泉と陽向。三人の青春は随分と季節外れになってしまった。

私たちの青春は春ではなく、夏に訪れた。

「確かにいい写真だね」

その写真には……

満面の笑みの陽向。


ショートボブを太陽に反射させながらクールに微笑む和泉。


そして、彼女達の真ん中で頬を紅潮させて笑う私がいた。


 この写真が私の『青春』だ。


この頬の赤が、胸の高鳴りが、彼女達を大切に思うこの気持ちが、『愛』なんだ。


 願うだけの日々は終わった。

さらば青春を――愛を求めた日よ。

そして、

ようこそ、赤き夏。



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