108 女の苦難③
デボラは、しばらくナツキと座りこんで身の上をぽつりぽつりと話した。
本を読むことが好きで、勉強をしたかったが、望みが叶わなかったこと。
家を飛び出したはいいものの、店の経営をしている男に拾われ、今のいかがわしい酒場で働かされていることを話した。
「苦労したんだな…」
「そうね。いつか、独り立ちして、家にたくさんの本を並べるのが夢ね」
「できないのか?」
「…無理ね。ジュラルが逃してくれない」
「昨日の男か?あいつが経営者なのか」
「えぇ」
ナツキはなんだか苦いものを呑み込んだような顔をしていた。それも何度も。
デボラは久しくない穏やかな気持ちとなっていた。
男との会話など、二通りしか知らない。
女に対する嘲りか、自慢話だ。
店にくる男は鼻の下を伸ばし、デボラの体に触れながら、ゲラゲラと興味ない武勇伝を語ってくる。
デボラ自身にはまったく興味を示す様子もない。
金をたっぷり落としていくので、我慢をしていた。
一方、ナツキは自分の話をちらりともする様子がない。
ひたすらデボラの身の上を懇切丁寧に聞き、共感してくれた。
しかも、デボラがこれまで受けてきた差別や抑圧を、自分のことのように憎んでいる感情がひしひしと伝わってくる。
愚痴や世間話を何気なく語り合うことが、これほど心地よいものかと感動すらしていた。
――その穏やかな時間もふいに終わりを告げた。
「デボラ、そんなところでなにをしている」
デボラは背筋が寒くなった。
ジュラルだ。
ナツキを睨みながらツカツカと近寄ってくる。
「またあんたか」
「それは俺のセリフだ。連日俺の女を」
「お前の女じゃないだろ。デボラは物じゃない」
ジュラルの頭に青筋が浮かぶ。
剣をスラリと抜いた。
「下郎には“三槍”グングニルの恐ろしさを分らせてやる必要があるな」
「三槍?あんた経営者じゃないのか?」
「あれは副業だ。本業はこっちさ」
ジュラルはニヤァっと笑い、剣筋を舌でツゥッと舐めた。
「痛い目を見せてやる。こっちへ来い!」
ジュラルは建物の間の路地へと親指を向けた。
「やめてよ、ジュラル!」
デボラはたまらず静止した。
ジュラルは役付ではない末端構成員ではあるが、“三槍”ギルドに入っている時点で実力は本物だ。
行商などしているナツキはひとたまりもなく斬り捨てられてしまうだろう。
「デボラ、大丈夫だ。心配するな」
「なに言っているの!さっさと逃げてよ」
「逃げたら、またお前が殴られるだろ」
デボラは焦った。
必死に静止しているのに逃げてくれない。横でジュラルの行状を見てきたからわかる。
あいつは、些細なことでも相手を切り捨てるのに何の躊躇もしない男だ。
この男は馬鹿なのかと心の中で悪態をついた。
「どけ!」
ジュラルが乱暴に振り払ってきた。
「行くぞ。覚悟しろ」
「ふむ。なんのための勝負だ?」
「知れたこと。お前が万が一勝ったら、この女の所有権を譲ってやる。まぁお前には死んでもらうがな」
「何度も言わせるな。デボラはデボラのものだ」
「ふん。妄言もそこまでだ」
ジュラルとナツキは路地へと足を向ける。
デボラは絶望した。
初めて対等な人間扱いをしてくれる男と出会ったと思ったのに。
デボラは足取り重く、2人についていく。
「そういや、お前はあの店の経営者だよな?」
「あァ?それがどうした」
「ならば、俺が勝ったら店をくれ」
ナツキは不敵に笑った。
「そんなことは万に一つもない」
「万に一つが起きたら、いいのかな?」
「ははは。好きにしろ。無謀な馬鹿は早死にすると誰も教えてくれなかったようだな」
「天に唾を吐く奴は哀れだね」
ジュラルは、ナツキが構える間もなくふいをついて叫びながら突進してきた。
堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりにいきりたっている。
剣を左右に振り回し、ナツキを攻撃する。
対してナツキは上体を逸らして、最低限の動きで攻撃を躱していた。
「どうした。抜け!」
「お前なんか素手で十分だ。抜いたら、お前死んじゃうだろ」
ジュラルの目が血走る。
「爆斬!」
ジュラルの剣が光った。
縦に剣筋が疾る。
ナツキは横に跳び回避した。
斬撃がぶつかった地面で爆発が起こる。
「久々に見たぜ、その技」
「減らず口も程々にしておけ。反撃してこい」
「いいのか?秒殺だぞ」
「口先だけの無能者のくせに…」
再びジュラルが剣を振り上げた。
「では、遠慮なく」
ナツキが一言発し、身体が沈んだように見えた。
デボラにはナツキの姿が消えたかのように錯覚した。
パンと音が鳴り、ジュラルの頭が後ろへ曲がる。
鼻血が宙を舞い、ジュラルの顔を赤く塗った。
「おらァ!」
ナツキは間髪入れず、腹部、顎、頬に拳を入れていく。
「グフォッ…」
ジュラルがたまらず血反吐を吐いた。
◆
ナツキは怒っていた。
人を踏みつけにして何も感じない奴に遠慮などしない。
ドスッ… ドスッ…
一撃、一撃、体の急所に拳をお見舞いしていく。
普通なら気絶してもいいほど急所を突いたつもりだが、上位ギルドの構成員だけあって、タフさだけは大したものだ。
「きッさマァ!」
右手で剣を握り、振り回してくる。
ナツキはガシッとジュラルの右手を掴んだ。
残った左手で殴りかかってくる。
ナツキは左手もガシッと掴んだ。
「離せ!」
肩を揺らしながら踠いている。
「お前が二度と女を殴らず、これまでの行いを猛省するなら離してやるぞ」
「ふざけるな!」
ジュラルは、唾を飛ばしながら鼻息あらく罵声を浴びせてくる。
「反省しないなら、遠慮なく」
ナツキは掴んでいる腕から魔力を送った。
かつて、少年ジョージの仇を懲らしめた方法だ。
ドルトの人間は魔法を使わないので、“魔道”という表現が正しいのか分らないが、強制的に魔法過労になってもらおう。
ジュラルの体内に侵入した魔力が暴れ回る。
「グァァァ!」
体を反らしながら叫びを上げた。
ジュラルは地面に両膝をつく。
「ァ…あ…」
小さく唸っている。
「アガガ!」
少し遅れて痛みが襲ってきたようだ。
ゆっくりと両腕が腫れていく。
「なんだこれは…」
ジュラルは目を血走らせながら、睨んでくる。
「人の手は女を殴るためにあるんじゃない。しばらく両腕は使えない。たっぷり反省しろ」
「ふっざけるなァー!」
痛がりながら叫んでいる。
「この勝負は俺の勝ちだろ。遠慮なく店はもらい受ける」
聞くに耐えない悪罵を次から次へと浴びせてくる。
ナツキは腰の短剣を抜いて、ジュラルの喉元へと突きつけた。
「店だけでなく、命もいらないのか?」
へらへらとするのをやめ、殺気を向けた。
それまでがたがた喚いていたジュラルがピタッと硬直した。
顔は汗でびっしょりとなっていく。
「ぐッ…わかった。しかし、覚えていろよ…」
敗北を認めたようだ。
ナツキは紙とペンを用意し、その場でジュラルに契約書を書かせた。
今後、また何かしでかしそうな気配はするが、一先ず一件落着である。
「あなた…何者?」
デボラが怪訝な顔で話しかけてきた。
「薬屋って言ったろ」
「嘘よ。軍人か傭兵の類かなにかとしか思えないわ」
また言われた。
人生で後何回この問答をしなくてはならないのか。
「嘘じゃない。俺は軍属が嫌いだ」
「本当にぃ…?でも、ま、ありがと」
デボラは胸がすいた、と晴れやかな表情を浮かべた。
「で、早速だが、俺は店なんていらない。あんたにやるよ」
「「えッ!?」」
2人が同時に声を上げる。
「おい、話が違うぞ」
「なんだよ。もう俺の店だ。どうしようと勝手だろ」
「ぐッ…」
「ちょっと、いくらなんでも話が見えないわよ」
「自立して本に囲まれるのが夢なんだろ?」
「そうだけど…」
「なら、いい機会だ。俺は気ままな旅の途中。店なんて邪魔なだけだ。遠慮なくもらってくれ」
デボラは困惑していたが、しまいには申し出を受け入れた。
「なにからなにまでありがとう」
「いいってことよ。飲み屋を続けるなら、たまにはご馳走してくれよな」
「なに当然のこと言っているの。毎日来たっていいわよ」
――こうして、男尊女卑の風潮の根強いベルクにおいて、史上初めて女性が経営する珍しい酒場が誕生したのだった。




