106 女の苦難①
「女にそんなものいらん」
「女のくせに」
この言葉を人生で何度言われただろうか。
今年、20歳になったばかりのデボラは小さくため息を吐いた。
幼い頃は、寝かしつけで母が聴かせてくれる物語が大好きだった。
成長するにつれ、絵本を見ると心が躍るようになっていった。
でも、いくら欲しいとせがんでも、買ってもらったことはない。
父からは繰り返し「女にそんなものはいらん」と言われたが、当時はその言葉の意味がわからなかった。
10になる頃には、デボラは働きに出ることとなった。
同年代の男子は軍学校に通い勉強しているのに、デボラはその学校の掃除婦として働いているのだった。
仕事をしつつ、暇さえあれば廊下から壁に耳を当て、授業内容を聞こうとした。
ゴミ捨て場にあるノートやプリントを見つけては喜んで持ち帰った。
独学なので苦戦はしたが、時間をかけて読み書きはできるようになった。
ある日、家に積んだ紙類の束が父親に見つかった。
「女は読み書きなんぞできなくてもいい。余計なことをして恥をかかせるな」
父は母に命じて、大切にしていたプリントを破り捨ててしまった。
バチンと張り手でひっぱたかれたあのときの痛みは、今も鮮明に覚えている。
腫れた頬の上を伝う涙の冷たさもよく覚えている。
よくないことは続くものだ。
軍学校での清掃の仕事中に、字の読み書きを練習していたことがバレてしまい、即日、解雇されてしまった。
この日も、父に激しくビンタされた。
「女を甘やかすとろくな事がない」
吐き捨てるような父の言葉が呪いのようにいつまでも耳に残った。
その後、デボラはやっとの思いで商店街の衣料品店で店員の働き口を見つけた。
稼ぎは微々たるもので、ほとんどその日生きていけるだけの収入しかなかった。
デボラはいつもくたくたな身体を引きずって、暗い気持ちで床についた。
もう母の読み聞かせもない。
本も読めなければ、夢を見ることもできない、現実がつらすぎる。
あと何年こんな生活をしたらいいのだろうか。
真っ暗な部屋でいつまでも天井を見ながら、その思いをどこにぶつけていいのかわからないまま、悶々と朝を迎える日が続いた。
好きで女に生まれたわけではない。
努力で変えることもできないのに、なぜこんな仕打ちを受けなくてはいけないのか。
せめて、空想の中だけでも自由でありたい。
本を買いたいという一心で、自分の食事を我慢し、お金でへそくりを貯め、念願の本を1冊購入した。
帰り道は浮き足立っていた。
我慢できず、帰りがけの公園で袋を開け、読み耽った。
物語が中盤に差し掛かり、この後どうなるんだろうとハラハラしながら、ゆっくりと頁をめくったその時。
「デボラ、なにをしている」
父の声がして、デボラは凍り付いた。
――いつもなら、仕事で出かけているはずなのに。
偶然見つかってしまった。
「女のくせに、俺の金を勝手に使いやがって」
父は片手に靴を持ち、何度も何度もデボラをぶった。
デボラは口では謝りつつも、なにがそんなに悪いのかどうしてもわからなかった。
どれだけの時間、ぶたれていただろうか。
あるいはほんの少しだったかもしれない。
とうとう、目の前で父が本を破った。
デボラの心も張り裂けたような思いだった。
この夜、デボラは家を出た。
二度と帰る気はない。
――私は自由だ。もうなにからも縛られない。
しかし、現実は甘くなかった。
働き口がなかったのである。
住所不定の女を雇ってくれるような店はなかった。
おまけに、全く手持ちの金を持たずに家出をしたため、早く給金を貰わないと死んでしまう。
そこへ、少し伸びた薄水色の髪毛が特徴的な優男が話しかけてきた。
「どうしたんだい?」
男は戦士ギルドの者だった。名をジュラルというらしい。
しかも、そのギルドはデボラでも名前を知っている、上位中の上位ギルドだった。
ドルトでは3つの戦士ギルドが不動の地位を確立しており、そのギルドたちは“三槍“と呼ばれ、他ギルドと一線を画すほどの権限を有している。
ジュラルは三槍“グングニル“の一員であった。
デボラは泣きながら事情を語った。
ジュラルは優しかった。
丁寧に話を聞き、仕事の斡旋もすると約束してくれた。
デボラは、ジュラルが副業で経営している店で働くという契約書に署名した。
しかも、住み込みである。
デボラは心の底から感謝した。
こんな優しい男もいるなら、もっと早く家出をすればよかったとさえ思った。
しかし、この考えが間違いだったいとデボラは思い知った。
家に住み込み出してから、ジュラルの態度は一変した。
望まぬ夜伽を命じられ、断ったら殴られた。
その度に「これはお前のためなんだ」と言われた。
「お前のため」「お前のため…」、一体何度いわれただろうか。
デボラにとって、夜は苦痛以外なにもない時間となった。
ジュラルの経営している店は飲み屋だったが、デボラは店員として露出度の高いドレスを着て接客をしなければならなかった。
そこで、客の男たちを接待する、いわゆる“夜の店”であった。
男たちは勝手に体を触ってくる。
ジュラルからは「絶対に嫌がるな。おとなしくしてれば人気も上がり、給金も増える。これもお前のためだ」と言われた。
――半生を振り返り、デボラの瞳にジワッと涙が滲んだ。
今は仕事の休憩中。
店の外に出て、煙草をふかしていた。
自分で自由にできる金を手にし、嗜好品を買えるようになったことだけは、今の生活のありがたいところである。
すると、目視できる遠距離から、ジュラルがズカズカと歩いてくるのが見えた。
店の前まで歩いてきたところで、ピタッと立ち止まる。
「店の前で邪魔だ!この“無能“が!さっさと退け!」
ジュラルが店の前に座っていた行商の男を蹴飛ばした。
数日前からここの地面に布を広げ、草を並べていた。
「イデデ…」
男は蹴られた箇所をさすっている。
年はデボラと同じぐらいに見えた。
この年齢で行商として働き、無能者として差別されるなど、よほどの苦労をしてきたのだろうか。
「よッ、デボラ、お前はいつ見ても美しいよ」
ジュラルがニッと笑い、すれ違いざまに尻を撫で回してきた。
店の扉を開け、中へと入っていく。
美しいなどと言われたところで、心は一切踊らなかった。
このドレスと化粧に身を包み、今日もこれから、軽蔑している男の自由にされる。
デボラの目から涙がポロッと出た。
たった一粒。
デボラは気を引き締めようと、指先で涙を拭った。
「どうした?」
先ほどジュラルから蹴られた男が声をかけてきた。
汚い革鎧の装備を身につけ、ボサボサ頭に丸眼鏡をかけている。
見ると、怪我をしているのか頬には湿布を貼っていた。
(まじまじと見たのは初めてだけど、変な男…)
デボラは男に半目を向けた。
「そんな顔するなって、俺は優しい薬屋さ。困ったら頼ってくれ」
いったい何の目的で自分に話しかけたのだろう。
男の口元はへらへらとしているが、思いのほか語り口調は優しかった。




