98 賢者の覚悟
魔王サタンは久しく味わっていなかった高揚感に包まれていた。
思いがけず、現世で最高の体を手に入れた。
契約を果たしたら、思う存分暴れることができる。
最近、自分の城に珍客が訪れたことを思い出す。
怠惰で出不精なことで有名な魔王の一柱。
“――人間との戦いが楽しかった――”などと散々自慢していった。
悪魔族の頂点に君臨するものにとって、召喚された戦いなど退屈でしかない。
相応の供物があってはじめて、仕方なくやってやるといった程度のものである。
それに応じて満足した話など、サタンにとっては面白くなかった。
そんな自慢をされたこともあり、今回の召喚には気まぐれで応じたのだ。
逃げたやつらを始末したら、ベルフェゴールに勝利したという人間も探しに行こう。
サタンは今後の愉しみを想像し、思わずニタリと笑った。
「待ちなさい」
後方から声がした。
先程から地べたを這っている女だろう。
死期の見えている人間など興味もない。
サタンは無視して立ち去ろうとする。
≪時の番人≫
突如、自分の体を魔法陣が包みこんだ。
魔王たる自分の力を持ってしても、一切動くことができない。
「これはッ…。まさか、クロノスがいたとはな…油断したぞ」
上位精霊の全力の拘束魔法であった。
時間を司る時の精霊は、とくに拘束魔法が強力である。
サタンの力でも動くことができないが、代わりにダメージを与えることもできない。
足止め特化型の魔法であった。
「主の魔力が切れた時が、主の命も終わる」
サタンは女を睨んだ。
厄介な魔法だが、永久に続くわけではない。
魔力が切れてしまえば、効力は終わる。
「その前に私は終わるでしょうね。でも、もう十分生きたわ」
口元だけ不敵に笑うが、目が一切笑っていない。
一体なにをするつもりだろうか。
女は左頬に手を当ててきた。
「まったく、せっかくの綺麗な魔力が台無しじゃない」
それはまるで母が洗濯物を汚した息子を嗜めるような語りかけであった。
微笑んでいるのか、困っているのかわからない表情。
「私の弟子を返しなさい」
穏やかな顔が、毅然と睨みつけてくる。
サタンは生涯で一度も味わったことない悪寒に包まれた。
◆
ジョナは覚悟を決めた。
自分の人生に後悔は多いが、3人の弟子を残すことができた。
その弟子の命を目の前でむざむざと、1人たりとも失わせたりしない。
(クロノス、ごめんね。これが正真正銘、最後のお願いよ)
(いけない…ジョナ。私が離れたらあなたは…)
(いいのよ。ナツキをお願いね。あなたとは気が合うと思うわ)
(……了承しました…)
クロノスが物言いたげだったが、ジョナの命を賭した覚悟を知り、引き受けてくれたようだ。
すでに、ブラッドから受けた傷は致命的だ。
今、行動できるのは、精霊の力で、傷の時間を止めているから。
それが解除された時のことを、危惧しているのだろう。
本来であれば、聖魔法で治療すれば問題ない。
しかし、これから展開しようとしている魔法は、すべての魔力を使わなくてはできないだろう。
「主…なにをするつもりだ…」
サタンが睨んでくる。
「ふふ。人生の最期に、魔王の一柱を封じるのも一興ね。さっさと眠りなさい」
ジョナはサタンの頬に当てている掌から、魔法式を展開した。
それは時の精霊をナツキの体に送り込むもの。
≪時の封印≫
まず、ジョナの全魔力を使って、魔王を封じ込む。
「ウガァぁぁ!バカなァッ!!」
ゆっくりと燃え盛る髪の毛が、元のこげ茶色へと戻っていく。
身体中にまとわりついていた炎は、左頬に集中し、吸収されていった。
その上から、クロノスの精霊魔法を使い、封印状態を固定化させた。
これで、時の精霊がナツキの体にある限り、魔王を封じておけるだろう。
ジョナの髪の毛が急速に白髪へと変わっていく。
目尻と頬の肉にも重力を感じはじめた。
身体中の傷口が痛覚を取り戻していく。
しかし、心だけは晴れやかであった。
◆
ナツキは暗い海の底に沈んでいるような気分だった。
周りの景色は暗く判然としない。
思うように体が動かない。
意識だけはボンヤリしている。
外界の景色を見ることはできるが、言葉を発することも、体を動かすこともできない。
まるで白昼夢のような感覚。
暗がりの景色に突如、一筋の光が差した。
――このバカ弟子、さっさと起きなさい――
気のせいだろうか。
叱りつけてくる懐かしい声を感じた。
差し込む光に目をやると、段々と意識がはっきりしてくる。
…
「なんだよ、ババァ」
気付いたら、黒一色の景色は吹き飛び、眼前にジョナが立っていた。
その姿は、先ほどまでの若い女ではなく、見慣れた壮年の姿。
「おかえり。お前は本当に困った子…。でも、最期に会えてよかったわ」
緩やかに目尻をさげ、口元がほんのりと微笑んでいた。
「お…おい…」
ジョナの口元から、血がスーッっとゆっくり垂れる。
ドサッと前に倒れ、ナツキに身を預けてきた。
「おい!バ…師匠!しっかりしろよ!」
ナツキは両手で師匠を抱きしめた。
「まったく最後の最後まで…」
なにやら物言いたげだ。
説教など、いつもなら聞きたくないが、今は逆になにか言ってほしい気分だった。
「これからの人生大変でしょうけど。自分に負けないでね」
ズシッとナツキに持たれかかるジョナの体が重くなった。
「はは…師匠。…嘘だろ?」
呼吸は止まっている、心臓も動いていない。
無情にも身体中から流れ出る血液以外、ジョナの全ての行動が止まった。
その一瞬が永遠にも感じられた。
「―――っっぅがああああ!!」
喉の奥から体を突き破りそうな絶叫が出た。
こめかみがものすごい速さで脈うって、体中の血潮が沸騰したようになる。
”賢者“ジョナが逝った。
師匠の体を強く抱きしめる。
久しく流したことのない涙が溢れた。
「うぅぅう…」
横ではミユも号泣している。
ファウストはシルクハットの帽子を胸にあて、瞑目していた。
…
……
数刻が経過し、ナツキは平静を取り戻した。
ナツキはジョナの体を小屋のベッドに丁寧に横たえると、その横で肩をがっくりと落とし、項垂れた。
「………」
何度かミユが物言いたげに話しかけようとしていたが、やめたようだ。
「今はそっとして置きましょう。ナツキ殿、気持ちの整理ができたら、声をかけてください」
ファウストとミユが、小屋の外へとそっと退出した。
ナツキの胸の内は、喪失感と怒りで溢れかえっていた。
なにより、自分が許せなかった。
ブラッドに対し、力が及ばなかったこと。
仮初の力に溺れ、師匠を失ったこと。
怒れば怒るほどに、左頬が熱くなるのを感じた。
ナツキは左頬に手をあてる。
(これは…)
以前にはなかった不思議な感覚がある。
ふと、横に目をやり、鏡で顔を見る。
ボサボサ髪に、腫れた目の、ひどい顔が写っている。
頬には朱色の細い線で描かれた不思議な紋様の刺青が入っていた。
手をやると、何者かの声が聞こえる。
(怒れ…、もっと怒れ…)
その声は、先程も聞こえた魔王の声であった。
ナツキはのちに、ミユたちに聞いて事の一部始終を知ることになった。
――ここに、体内に魔王と上位精霊を宿す、歴史上前例のない魔法使いが誕生した。




