―序章―
―序章― 水崎 紘
それは世界の全てから呪われたような夜だった。当時の僕はまだ七つ。父の帰りが遅いのはいつもの事で、十九時ちょうどに夕食を終えた僕は母と一緒にテレビを見ていた。三十分だけ放送される子供用アニメ。僕はそれが大好きで他の事を忘れてしまうくらいに見入っていた。
そのアニメが終わった後にいつも放送される番組は僕の趣味ではなかったし、もっと大きな年齢層の子供に受けの良いものだったのは覚えている。
だから、エンディングテーマと次回予告を聞きながら余韻に浸る僕が次にするべき事はお風呂に入る事。
そう。それは特別でもなんでもない僕の日常の一部でしかなかった。
「さ、お風呂に入ってらっしゃい」
そんな母の言葉に頷いて、テレビの電源を消す時には"本来なら"僕にとってどうでもいいアニメのオープニングが流れる筈だった。そうでなければならなかった――。
電源ボタンに指が触れる、その直前。
軽快とも重くも感じない短くて歌詞のない、ニュース番組とバラエティ番組の音楽が入り混じったような、まるで、世界から隔離されたような、僕のような子供がそこにいる事が場違いだとでもいうようなメロディが……テレビのスピーカーから流れ出した。僕がテレビに伸ばした手をそのままに立ち尽くしていると、
「あら、何かあったのかしら?」
タオルや着替えを用意し終わった母が、僕を迎えにリビングへとやってきた。釘付けになっていた筈の画面についての記憶がぼんやりとしているのは、最初の内は緊急ニュースだと思い込んでいたからだった気がする。
ただ、声だけは脳内にこびり付いた錆のように残っている。テレビから流れてきた言葉、それは――
〝絶命式〟
あの時の僕には聞き慣れない、聞いた事のない言葉だった。
そう、それは世界の全てから呪われたような夜だった。
「国民の皆さん、こんばんは。本日より定期的に放送をお送りするのは〝絶命式〟の中継となります。今回は初めての放送という事で、国民の皆さんにお伝えしやすいこの時間にお送りしております。当番組の司会を務めます――」
親しみを込めた明るい声が耳に届く。画面に映っていたのは子供の僕にとっては知らない女性と男性だった。
「番組をご覧の皆さんにお楽しみいただく前に説明いたしますと、〝絶命式〟とは以前から問われていた"尊厳死"から、"人がどのような形で、どのような死に方を望むか"を見つめ直し、実行するものです。テレビの前でドキッとした方もいらっしゃるんじゃないでしょうか? そうです! あなたのお望みの〝死〟をプロデュースするという人生最後の特別な晴れ舞台!! それが〝絶命式〟なんですねー」
見上げた母は真剣な顔で画面を見つめると、すとん、とテレビの前に座り込んだ。そして、僕に「今日はもうお風呂はいいから、パジャマに着替えて寝なさい」とだけ言った。父の帰りが遅い寂しさもあって、僕はごねた。入浴の時間と髪を乾かす時間、もしかしたら、その時間に父が帰ってくるかもしれないと思ったからだ。だから、「だって」とか「でも」とか言いながら、母とテレビに何度も目を行き来させた。
「さて、現場のほうも準備大丈夫そうですね。では、お待ちかね! 初回を飾ってくださるのはこちらっ!! 水崎浩一様です」
それから、テレビから聞こえた言葉に母と僕の動きは止まった。『ミズサキコウイチ』音だけならばよくある苗字と名前だ。だけど、当時の僕も母も確信……そうだ、確信を持って、じっと画面を見つめた。
そして、その確信が"間違っている"ことを願いながら手を組んだ。数十秒後、祈るように顔を上げた画面には間違いなく、僕の父が、母にとっては生涯を誓い合った相手がどこか強張った顔で立っていた。
テレビに映る僕の父は、帰ってきた時に見せる笑顔は微塵も見せず、震えていて、たぶん、泣いていた。そんな僕の父に差し出されたマイクに向かって、父は裏返った震え声でこう言った、最後の方は半ば叫びだった。
「由美子、紘……ごめんな。父さん、もう会社に行くのが疲れたんだ。限界なんだ。でも、お前達の事が心配でな、だから、だから……!」
テレビ画面の夜空がとても綺麗だった。お父さんのいる場所はどこなんだろう、と何故か一瞬だけ思った。マイクの人物がにょっ、と顔を出す。
「家族思いのお父さんの浩一さん。家族に言いたい事は以上でしょうか?」
ぐしぐしと涙や鼻水を拭く動作をして、こく、と父が頷く。
「では、今後の参考として、番組からの質問にもいくつかお答えください。〝絶命式〟をお知りになったきっかけと、今回〝絶命式〟の第一体験者となる一歩を決められたのは、どういった経緯からなのか、など……」
僕も母ももう何も言わなかった。母はタオルや着替えを床へ落とし、「なんで? 何なの?」とテレビに縋りついていた。僕はどうしていいのかわからなくて、何故か母の覆う隙間からテレビ画面をじっと見ていた。見なければいけない気がしていた。
「知ったきっかけは、社内で頒布される地域についての情報誌でした。冗談かと思い、第四土曜に市役所に行き、そこに書かれている内容が虚偽ではないという事を知りました。私は、勤務先の上司からのモラハラや部下からの嘲笑に疲れてしまっていて、それで……でも家族を養う為の方法がこの〝絶命式〟にあると考え、縋る思いで志願しました。他に言いたい事は、家族には……どうか幸せになって欲しい。それだけです」
ぐしゃぐしゃに濡れた父の顔は不器用に笑っていた。目の焦点がカメラに向けられていないかのように虚ろで、何かから開放されたいが為に言い訳をしているようにも見えた。あの頃の僕はただただ、それから起こる事がわかっていなくて、明日になったら自分の父がテレビに出た事をクラスのみんなに自慢する事で頭がいっぱいだった――――今なら分かる。今の僕になら理解ができる。
「そうですか、ご立派です。まさに父親の鑑!! もう一度確認しますと、〝絶命式〟で交わされた契約は絶対です。お約束通り、この〝式〟が終わると即座に、貴方の指定した口座へ視聴率から換算された金額のうち90%が振込まれます。ですから……」
言葉は続いた。中継を行っている女性が微笑みながら父の肩を叩いた。
「安心して――落ちてください」
理解が追いつかなかった。それもそうだと思う。七歳の知識には難しい言葉がいくつもやりとりされていたのだから。そんな事が起こるなんてわかりもしなかったのだから。
テレビの中の父を様々な角度のカメラが捉える。涙の溢れる目。震える肩。背景の星空。そして、父は靴を脱いで、仕事の時に持っていくカバンをコンクリートみたいな床に置いた。
あっ、父さんの勤めてる会社の屋上だ。なんて簡単な事に気づいたのは、
「嘘でしょう!? やめてっ! あなた……どうしてそんな場所にっ……嫌ぁぁあぁあ!!」
母の叫び声の後だった。
雛鳥が巣から落ちるかのように、誰かのいたずらで鉢植えがビルの上から落とされるのと同じように、父は落ちた。落ちて、落ちて、鈍い音がして横になった父が、頭から血と何かわからないものを出している様子が画面には流れた。
潰れたわけじゃなく、ただ倒れているだけの父。
僕にはそれが真実には思えなかったけれど、色々な角度から、何度も、何度も映される父の顔。落ちる前に虚ろでありながら光のあった目は濁ったガラス球のようで、口からも流れた血はべっとりとしていて、光を失った目の代わりにぬるぬるとした光沢を放っていた。
画面は拍手の嵐だった。母と僕との思い出の写真が流れる中、父の半生を語っていく画面。そして、父の遺書……会社への、恨みでもなく、怒りでもない、ただただ些細な悲鳴がピアノ曲と共に語られた。
その番組は、何度も父が叫び、飛び降りる様を背景に流し、世界の中でひとりの人間が確実に死んだのだという事を世に知らしめた。
呆然とする僕と母の事などどうでもよさげにテレビは続く。
「さて、このように〝絶命式〟が正式に認められたわけです。悩んでいるそこのあなた!! このアドレスに応募するだけで解決の糸口が見つかるかもしれません! いいですか? チャンスは誰にでもあるのです! 次回からは〝絶命式〟希望者の希望した日時での放送となります。時刻が決定次第、朝のニュースでお知らせしますので、是非、ご家族揃ってテレビの前でお待ちください」
まるで誕生日を祝うかのような声色がそう告知すると、短い音楽が番組の終了を知らせた。それは妙に明るいものだった。見せられた物の恐ろしさと対照的なエンディングが終わってどれくらい経ったのだろう。
テレビを消したのは僕だったか、母だったか……。
静寂が家の中を支配し、その日、初めて家に父が帰ってこない夜を僕は体験した。
翌々日、ふらふらと出かけていった母は、自分の口座に今までに見た事もないような金額が振り込まれていた事を僕に呟くように言うと、部屋の真ん中で膝を折るように崩れながら泣いた。その顔は、愛する者が遺した〝絶望〟に笑っていた。
この日から十一年経った今でも、父は一度も帰ってこないし、僕は学校に行けないでいる。