八 ヨルダン川の東
「ああ、ユージウス。このままでは、あなたはスパイにされてしまう。あなたはどこへ行ったの?。もう、ラビが全てを受け止めてくれたのに。希望は手元に残ったのに。」
スクハは、早朝にユージウスの部下から報告を受けて、真っ先にユージウスたちを探した。既に犠牲と復活は成し遂げられたことは、わかっていた。ラビの遺体は引き取られ、埋葬された。その後に弟子達が狂喜した一連の静かな動きがあった。墓から抜け出したラビ。数日間にもわたって姿を見せたラビ。
しかし、その喜びの中にユージウスとその娘はいなかった。彼らは信じない者の中に、絶望の中に残つたままだった。
………………………
ヨルダン川の東。痩せて乾燥した地ゲルゲサ。そこには小さな異邦の町ガダラがあった。町中の悪霊たちはラビに駆逐されて久しい。彼らは人里離れた見放された墓地や荒れ野に跋扈していた。この墓地には奥深い古墓の洞穴がいくつも残されている。今は、この墓地に人影を見ることもなく、夜に悪霊やコヨーテが彷徨う。彼らの徘徊する道から離れ、その少し奥の岩の上に炊かれている火。そこに二人の寝起きする姿があった。この墓穴も既に放棄されて久しい。砂嵐や魑魅魍魎や強烈な日差しを避けるには適度な横穴。彼らはユージウスとタマラだった。
春は本番。幼子タマラは朝から外へ出ている。蜜やイナゴを集めるには都合の良い季節。朝露の今が一番良い時。ミツバチの巣を探しては少しの蜜を採取し、イナゴも1日分のみ。鼻歌を歌いながら横穴へ戻っていく。蜂蜜は病人の元へ。
白髪ばかり。そして皺ばかり。体もすっかりやせ細った。その老いた病人がユージウスだった。
「はい、旦那様。」
「『旦那様』か。うむ、ありがとうね。」
彼はそう言うと、食事に目を向けず、無口のまま幼子にさえ語りかけようともしなかった。タマラは何度もこの姿を見ているのだろう。小さな手で蜂の巣を絞り、老人の口の中へ。また、一匹ずつイナゴを彼の口の中へ。残されたイナゴの数匹。
「なにもかも失った。スクハにも裏切られた。いや、初めから何もかも無駄だったのだ。この時代へ来る前も、この時代に来る時も、この時代に生きている時も。私は何のために生きてきたのか。せめて、この子のために生きようとした。しかし、今では私はこの子に負担になっているだけ……。」
ユージウスは、無力な自分が罪悪だった。ラビを救えなかったこと。養って育てるはずの幼子に養われていること。彼は納得して慰められるのを拒んでいた。 復活のラビの声さえ届かなかった。
「タマラ、今日も遠くまで行ってくれたのかい。」
「そんなに遠くには行っていません。」
タマラはユージウスに真実を言ってはならないことを知っていた。少しでも事実を言えば心配のあまり死んでしまうと感じられていた。
………………………
タマラは16になった。あいも変わらず朝のイナゴと蜜を集めて持ち帰っていた。しかし、新たな春がタマラに来ていた。
「タマラ、朝の用事は終えたの?。」
遠出の格好をした若い娘ユムイラが水汲み作業をしているタマラに話しかけている。
「ううん、もう少し。これで終わるから。」
作業を終えたタマラが汗を拭きながらユムイラを迎えた。
「ガダラの街に、カッコいい風来坊の戦士がやってきたのよ。見に行かない?。」
「そうねえ。」
タマラの若い好奇心が、ユージウスへの心配、警戒心を凌駕した。その後目の輝きをユムイラは逃さなかった。
「あなた、男の子を見る目ぐらい養った方がいいわよ。」
「私だって、男性を見る目は持っているわよ。」
「男性?。お爺さんを見る目でしょ?。」
「それはそうだけど……。きっと同じようなものだわ。男の子といっても、歳をとっていないだけよ。」
「そこまで言うなら、試しに出かけましょ?。」
「わかったわ。じゃあ此処で待っていて。」
タマラはそう言うと、さっさと家事を済ませて出かける準備を整えていた。
「おや、どこへ行くんだい?。」
短いユージウスの言葉に、タマラは慌てて振り返った。彼は顔の向きを変えないまま。彼の顔が見えない分、タマラは全てを見通されているように感じる。
「ええと、ガダラの町です。入用なものがあって……。」
「必要なもの?。つい三日前に一緒に行ったばかりじゃないか。」
ユージウスはタマラの蜜とイナゴがもたらす栄養で、すっかり健康を取り戻していた。
「あのう……。台所道具が買いたくて……。」
タマラはユージウスの言葉が鬱陶しかった。
「そうか。でも、一人で行くのかい?。」
「いえ、ユムイラと一緒です。」
「あまり遅くならないように。早めに帰ってきなさいね。」
タマラは、いつまでも私を子ども扱いをする、と反発を感じている。反抗期だった。
「わかりました。」
タマラは渋々答えた。向こうを向いたままのユージウス。少し傾いだ白髪の頭。きっと嘘だと思っている。タマラはそう思った。
ガダラの町は石と岩の街。深い井戸からの水を町の皆で分け合って生活している。町ゆえに商人も多少は行き来をする町だった。タマラたちは町の城門の見張りとはこの頃顔見知りだった。
「挨拶よ。」
「お前達か?。」
「遊んでない?。しっかり見張りをしてね。」
「ちゃんとやっとるわい。」
「ここに、異国の戦士が流れてきたって?。」
「ああ、パルティアの戦士たちか?。ローマ被れらしいってよ。」
ガダラの長老たちは、隠密にデイマスコから来た数人の逃亡者をかくまったという話だった。彼等はパルティア先帝でローマ属領シリアに幽閉されていたヴォノネスの息子メヘルダテス、そしてその子ゼノンだった。ゼノンは、祖父ヴォノネスの幽閉先で受けた育ちのためか、わがままで親子の情が希薄だった。
タマラたちがガダラに来たときも、ゼノンは取り巻きたちとともにいた。彼等は例によって、遊び人たちがたむろする近くの酒場で、昼から酒場で飲んで潰れていた。
「此処の奴らは、貧乏くさい風態だなあ。」
確かにローマの教養を身につけたゼノン達にしてみれば、最果てのこの町は墓場だった。その不平を、周りにはわからないローマ語で発散させていた。
「若殿、その通りですよ。お爺様に対してさえ尊ぶ姿勢を示さないこの野蛮な国のレベルが、わかるってもんですぜ。」
「服はきたねえし、食べ物も、豚のエサだな。」
「若様、それでも酒はうまいですよ。」
ゼノンの機嫌をとっていたのは、歳を重ねた風に見えるユーゴだった。ゼノンはユーゴの東方系の顔を見つめながら、物憂げそうに返事を返した。
「そりゃ、俺たちが持ち込んだ酒が出回っているんだから。」
「嗚〜呼。」
仲間の一人が大きく背伸びをした。ちょうど、荒れ野から帰ってきた農夫達が入ってきたときだった。
「一段と臭いが強くなったぜ。」
「臭えな。」
彼らはずっとローマ語で話していた。しかし、一人が気を緩めてアラマイ語で悪態をついてしまった。
「ひでえ臭いが強くなっちまった。」
それを聞いた農夫の一人が、ゼノン達のそばに立った。
「俺たちが原因かね?。」
急に声をかけられた取り巻き達は、頭の上のヒゲモジャに驚いた。そこへ農夫達が酒を頭からかけ始めていた。
「何をする?。」
「臭いの原因が俺たちなんだろ。だが、お詫びにいい匂いの酒をかけてやったのさ。気持ちいいだろ?。」
やはり喧嘩が始まった。店の中から、劔を構えた戦士達が飛び出してきた。そこへ、先ほどの農夫達が、テーブルを抱えて殺到した。程なく、ユーゴは追い出され、ゼノンと戦士達は皆殴られ酒をかけられて、外に放り出されていた。
「痛え。」
「酒で服が台無しだわ。」
特にゼノンは頭とおもわれたのか、被った傷と酒の量が半端なかった。彼の悪態は、ユーゴが呼応して呪いに変わっていた。
「こんな町、誓って、いつか滅ぼしてやる。」
ゼノンがその言葉を怒鳴ったとき、ちょうどその時に、そこをタマラ達が通りかかった。
「ローマ語の呪い?。」
そう言ってタマラは振り返った。そのとき、ゼノンは上体を起こして周りを見回していたときだった。タマラは彼らの様を見て、喧嘩の後であることを悟って呆れながら通り過ぎようとしたところだった。
「昼間っからお酒を飲んでいる男達つて、最悪だなあ。」
ユムイラ達は彼等にはわからないはずのアラマイ語でため息をついた。
「ほんと、最悪だわ。」タマラも毒づいた。それはいつも自宅で使い慣れているローマ語だった。ゼノンはそのローマ語が聞こえたのと驚きと悔しさとで、思わず立ち上がっていた。
「待てよ。」
ゼノンのローマ語は、タマラを凍らせた。タマラのみが立ち止まり、ゼノンを凝視した。ゼノンの周りに、ユーゴや取り巻き達が集まっていた。
ゼノンがさらにローマ語で話しかけた。
「お前らも、ここの奴らと同じく貧乏くさいぜ。」
タマラの周りはアラマイ語を話すが、ローマの言葉は解さなかった。しかし、タマラは老いたユージウスといつもローマ語で話しをしていたため、内容を即座に理解していた。
「あんたがたに言われたくないわ。」
「へえ。ローマ語に堪能なんだな。」
「あなた、まさかゼノンとかいう戦士なの?。」
「そうだったらどうするのさ。」
「此処へ来て損したわ。カッコいい男達が来ているっていうから見に来たら、あんた達だったとは。」
ローマ語でタマラはまくし立てた。ユムイラは驚いて止めに入った。
「この人たちを知っているの?。」
「この人たち、ユムイラの言っていた異国の戦士達よ。でも、私たち地元の人の悪口を言って喧嘩沙汰を起こしていたのよ。しかも、わからないとでも思って、ローマ語で呪っていたのよ。」
驚く周りの娘達に、タマラはつづけて説明した。
「かっこよくも、ハンサムでもない。ただの呑んだくれよ。逃げて匿われている、と聞いていたけど、逃げて来る程度の腰抜けよ。あっ、私はローマ語が話せるの。」
彼女達のアラマイ語を理解していたゼノン達は、匿われている立場をわきまえて、それ以上の騒ぎを起こそうとは思わなかった。その代わり、ユーゴがタマラに話しかけた。
「貴女、この方が貴女のご家族を助けられるかもしれないのよ。それを考えたことがあるのかしら。」
「なぜ貴女が、私の家族のことを知っているのよ。」
「私は、貴女の育ての親と昔からの知り合いよ。そして、ずっと未来も、ね。」
タマラは驚いて言葉が続かなかった。
「旦那様と知り合い?。未来も?。どういうこと?。」
「文字通りの意味よ。残念ながら、貴女はユージウスのことを何も知らなかった。いや、旦那様と呼びかけて実は自分に近づけていなかった。だから、知らないはずよ。」
「なぜ私の呼びかけ方まで知っているの?。」
「そうね。私は知っているのよ。貴女がプトレマイオス朝の残党の子であることを。」
「えっ。」
途中から、ゼノンが口を挟んできた。
「何を話しているんだよ。この娘がローマの敵だっていうのか。いや、俺たちと同じ余所者なんだろ。彼女の家族もそうなんだろ。」
「そうよ、ゼノン。ただし、貴方と違っても、彼女達は偉そうな態度を取らずに仲良く慎ましく生きているのね。」
「そうかよ。」
「またふてくされているの?。貴方はここまで何のために生きてきたの?。パルティアやローマに一泡吹かせたいからでしょ?。」
「そうさ。親父達を追い出したパルティアや酷い扱いをしたローマに、いつか目にもの見せてくれるわ。」
「それなら、彼女達を大切にすることね。」
「なぜだ?。」
「いずれ分かるわ。」
ようやくゼノンは怒りを留め、大人しくなった。
タマラはユーゴの言うことがある意味で身にしみた。ローマの百人隊長だったユージウスは、ローマと、ローマの一翼を担っていたスクハに裏切られたことを思い出した。そのことを思い出し、ゼノン達に同情さえしていた。
「そのような事情があることを、私も知るべきでした。謝ります。」
ゼノンもタマラも互いに相手が眩しい相手であることをここで改めて認識していた。