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七 ビア・ド・ロローサ

「食べ物をまたくれるぞ。」

「もっとずうっと貰えるといいなあ。」

「そうだよな。奇跡の力だって、ずっと貰えなければ意味ないよ。」

「でも、あの時はなんでけち臭く分けていたんだろう。奇跡の力があるなら、もっとどっさり欲しいぜ。」

 この群衆を警戒して追跡しているローマ兵は、群衆のつぶやき声を聞きながら呆れている。

「ユージウス隊長、こいつら食い意地だけで、こんな集団を作っているんですぜ。呆れた奴らだ。」

「こんな奴らを引き連れているのは、どんな奴なのか?。総督府はこんな集団に恐れをなしているのかね。」

 ユージウスも呆れながら、後を追う。ユージウス配下の兵が、長い列をやっと追い越した。その群衆の先にこの群衆とは明らかに雰囲気の違った者達がいた。ラビと言われた三十歳ほどの男。そして、三十人ほどの付き人達だった。ラビは彼らに語りながら、道を進んでいる。経験豊かなユージウスとその部隊は、ラビの付き人達を監視するためにとして、彼らの直ぐ後をついて回った。それは彼の心ににラビの教えを刻む機会となった。


 しばらく進んでいくと、湖岸の広場に行き着いた。ラビ達を囲むように、海岸一面の民衆。寄せては返す細かい波。静かだった。ラビが一段高いところへと立ち上がり、話をし始めた。

「人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。私の肉を食べ,私の血を飲む人は永遠の命を受けます。私の肉は真の食物,私の血は真の飲み物です。私の肉を食べ,私の血を飲む人は,ずっと私と結び付いています。」

 群衆より近くで、付き人達近くで聞いていたユージウスや部下達は驚いた。

「この人を殺して食うために、この群衆が集まってきたのか?。」

「この人の肉や血を飲み食いすれば、永遠の命を得るのか?。」

「この教えはどういうことだろうか。あまりにシンボリックだ。」

「でもこの群衆達は、驚いているぜ。」

「この群衆達は、こんなことを聞きに付いてきたわけではなさそうだ。」


 次第に群衆の前の方から後ろへ広がるくぐもった声と声。群衆の声。不満や怒り、呪いと蔑み。群衆には人間ばかりがいたわけではなかった。クムヌの悪鬼魔に似た匂いが漂っている。

「何だよ。そんなものが食えるかよ。」

「ひでえ話だ。律法を破ることを勧めているのか。」

「人間一人食ったって、たいした量にもならないさ。」

「このおっさんの肉かよ。食いたくねえな。」

「人食い、血を吸うってか?。おめえ、やるか?。」

「い、今はやらねえよ。」

「人の肉かよ。それに吸血かよ。」

「こんな話聞いていらかれるか。」


 群衆だけでなく、付き人までもが騒ぎ出していた。人食いや血を飲んで律法を破ることを勧めていると感じたかもしれなかった。しかし、ラビは本当に人肉を食べたり血を飲んだりすることを述べていたのではない。ユージウスは確信した。何か……………大切なことを言いたいのだろう。彼は,ふと空虚な自分の心を思い出した。愛の乾いた人間の心。それを埋めるのは、愛の復活。愛の象徴の肉と血。しかし、騒ぎ立てている奴等はこのような発想をしないだろう。

 徐にラビは声を張り上げた。

「このことで反感を感じたのですか?。では,人の子が元いた所に上っていく時には、どんな反応をするのでしょうか。誰も悟ることができないのでしょうか……。あなた方は聞くのに悟らない……。私があなたたちに話した事は聖霊によるのであり,命を与えることば……。預言されていたように、確かに悟る人はほとんどいない。」


「なんだよ、こんなひどい奴に従っていたのかよ。」

「奇跡だって?。あんなの、まやかしだよ。」

「単に気を引くためのものだったのだろうよ。」

「あいつは、悪魔なんだよ。悪魔に決まっている。」

「食い物をくれたけど、俺たちをだますためだったんだ。」

「危なかったな。あんな奴の仲間になっていたら、どんなことになっていたやら。」

「これでこいつらは滅びるだけた。」

「しかし、御使い達が相当入れ込んでいる。」

「人間の理解力なんてたかが知れている。それが彼らを簡単に滅ぼしていくさ。」


 口々に不平不満、悪口雑言を言いながら、皆散っていく。ラビは黙って見送っていたが、明らかに顔は悲しみでいっぱいだった。そして、いくらかもたたないうちに、群衆達や付き人達はラビを一人置いて解散してしまった。ラビと、部外者で場違いな異邦人であるローマ兵達、そして残りの弟子達。

 裏切られた思いを噛み締め、ラビは残った弟子達に問いかけた。

「あなた方は去っていかないのですか。」

「私達はどこへ行くというのでしょうか。あなたは救世主。あなたの後をついていきます。」

「あなた方はは幸いです。」

 その言葉は、異邦人である百人隊長達にまで向けられていた。

「確かに俺たちは幸いだ。解散命令はまだ出ていない。まだここに残って推移を見極めよう。」

 ユージウスと部下達はそう思った。しかし、部外者で場違いな百人隊長の命令によってキビキビ動く部下達の姿を、ある弟子が恨めしそうに眺めていた。ユージウス達は警戒を解いてもよさそうだったが、しばらくラビと残りの人々たちの後をついて回った。ラビの語る言葉は平和であり、愛であり、信実であった。そこに、ラビがここで伝えたいことの側面を表しているように思いえた。

「もう彼を脅かすものは、いないことになるね。」

 そう判断したユージウスと彼の舞台は警戒を解き、そのまま総督府へ帰っていった。


 ………………………


 ユージウスがタマラとともに夕暮れ時の食事をとっていたころだった。部下が駆け足で飛び込んできた。すでに食事は終わりに近かったが、ユージウスは部下を落ち着かせるために器に葡萄酒を注いだ。

「どうしたのかね。」

「隊長!。あのラビが別部隊によって逮捕されたそうです。」

「どこの部隊だ?。」

「神殿で反乱分子を警戒している警ら隊です。」

「なぜ彼らが出しゃばってくるのだ?。あのラビは我々に任されているはずではなかったのか?。」

「神殿の管理者である神官と長老があのラビを反乱分子であると主張したそうで、反乱を警戒するローマ兵を使ったそうです。」

「越権行為だ。しかし、総督府はなんでそうも簡単に逮捕できたのか。あのラビは、群衆の中の一人にすぎなかったのに。」

「なんでも、その時先頭に立っていたのが、私たちと一緒にいた残りの弟子たちの一人だったそうで・・・・。」

「身近な愛する者が裏切り者・・・・。」


 ラビの敵は、神官や長老たちの巷の権力者たちのはずだった。しかし本当の敵は、残りの者の中にいた・・・・。ユージウスが部下たちをきびきびと指示する姿を、羨望のまなざして眺めていたユダという若者。彼が一時の陶酔と引き換えに、愛する人を裏切った。そして、巷の強い立場の者たちは狡猾にチャンスをとらえ、無知で愚かな総督府を利用した。それを総督府で聞いたユージウスは、ラビの言葉を本当に理解していないこの地の群衆と自らとに、救いのなさと底無しの不安感を感じた。


 アレクサンドロスの大学で教えられたことには、オリエントの伝説が多数含まれていた。若い時の記憶では、この地ばかりでなく、オリエント一帯の古い伝説はこう語っている。

「すべての肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。私は地もろとも彼らを滅ぼす。」

 この伝説、いや預言によれば、ローマ帝国ばかりでなく人類がすべて滅びる。


 あのラビは誰か。その時ユージウスの心に響いたのは、別の伝説。

「一人の嬰児……。権威が彼の肩にある。」

 彼は人類の中心、つまり、ローマをも守る方。彼がいなければローマ帝国とその文明は、いや人類は再び滅びの道へと惑うことになる。さらに伝説では、神の僕を皆が自分勝手に処断して殺してしまうことが書かれている。

「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに、その墓は神にさからうものとともにされ、・・・・」

 このままでは、ラビが殺されてしまう。それでは、せっかくの救い主がいなくなる。それは人類の滅び。ローマ帝国ばかりか人々すべてが滅んでしまう。防がなければ。止めなければ。タマラのために未来のために。ユージウスはそう思いながら、駆り立てられるように総督府へと向かった。

 イエルシャライムの過越ペサハの祭りは、のこり二日だった。


 ・・・・・・・・・


 背中、腕、足、それだけではなく右頬、左頬にまで。彼はすでに三十回に満たない数のむち打ちを受けていた。鞭の先に設けられた金具が、受刑者の皮膚を割いている。ラビと呼ばれた男はすでに鞭うたれ、失血により今にも倒れんばかりだった。

「遅かったか。」

 しかし、まだチャンスがある。彼はもう歩けないであろう。彼が刑場に行きつかなければ・・・、彼が死刑を刑場で再宣告されなければ、磔刑は延期になるかもしれない。幸い私の部隊が刑場までの護衛に当たる当番のはず・・・・。


 総督府で聞き及んだ事態の推移……。祈りの場から総督府へ。総督府から傀儡王の宮殿へ。そして、再び総督へ。ユダヤの神官達がローマ総督府に訴え出たあと、イドマヤの傀儡王へご機嫌とりのために送致され、傀儡王から総督府へ敬意を持っての逆送致されたらしかった。見る影もなく貶められたラビは、なんのためにの引き回しなのかも分からないまま、単なる互いのご機嫌伺いのためにダシに使われ引き回されていた。そして今、彼は血だらけのまま総督府の正面広場に引き出されていた。

「まだ俺の、俺たちの部隊の出番ではない。待つのだ。時を待つのだ。」


 総督府では裁判が始まった。これから、裁判が開かれようとしていた。二人の強盗犯と反乱分子。正面にラビが立たされている。

「彼が総督府へ連行されてきた罪状は?。」

「それは反乱者だ。」

「反乱者か?。」

「なぜ彼を?。何処から連れてこられた?。」

「彼はメシアを自称した。」

「それがどんな犯罪になるのか。強盗と同列に議論するのか?。」

「彼は反逆者だ。」

「証拠は?。」

「彼はメシアを自称した。これで十分だ。」

「だから、反逆の証拠を示せ。」

 広場では、堂々巡りの言い合いが響き続けている。初めから議論は噛み合っておらず、訴える側の神官達は初めからまともに問いかけに応えようともしていない。

「あいつは皇帝に対する叛逆者なのに、あなたは皇帝の友人では無いのか?。皇帝を守ろうとしないのか。」

「証拠は?。」

「そんなことを言い続けるなら、やはりあなたは皇帝の友人ではない。」

 こう言われると、総督は弱い。ユージウスは総督の心の中が手に取るように分かった。

「淑香はなにをしているのか。」

 思わず、淑香の出番を望んだ。しかし、総督の席の付近にはなんの動きもなかった。他方、事態はどんどん悪化する。

「それでは私には責任がない。彼の血はあなた方の上に注がれる。」

 ピラトゥスはそういうと、奥へ引っ込んでしまった。そして、ラビの磔刑が決定された。

「いや、まだだ。あの失血ならば刑場への途中で倒れるはず。そうすれば、もう死んだのと同じ扱いにもできる……。」


 ユージウスは、重く長い材木をラビに負わせ、耳元で囁いた。

「ラビ。」

 男は流血の止まらない顔をユージウスに向けた。

「手を出してはならない。これは……私の道、ビア・ド・ロローサ。あなたは私の言葉を聞いたはず。」

「それ故に、お助けするのです。途中で倒れ、そのまま動かないでください。そうすれば、あとは我々があなたをなんとかします。」

「手を……出してはならん……。」

「お任せください。」

 ユージウスは相手の目を見なかった。かわいそうで見ていられなかった。手を出してはいけないという警告が自分を慮っての言葉と理解していた。しかし、……。


 ゴルゴダの丘への行進が始まった。ユージウスは、部下達に言い含めた通り、ラビの周りを鞭で打つことはあった。しかし、ラビ自身を鞭打つことはできなかった。そして、時を待った。いつ倒れるか、いつ動けなくなるか。


 刑場の区域に差し掛かった。ここでラビは失血のために倒れ込み。動かなかった。ユージウスは百人隊長の地位をわきまえずに、罪人に駆け寄った。

「このまま、このまま動かないで!。」

「これは私の道。私の盃。」

「立とうとしないで!。」

 ここから先は、刑場付きの百人隊長の指揮下に移る。刑場の憲兵達が近づいてきた。

「まだここは、我々の管理区域だ。手出しをするな。」

 ユージウスは顔を上げて、憲兵達を一喝した。ユージウスの部下達も駆けつけてきた。双方が睨み合う後ろで、ラビはまた動こうとした。

「動いてはいけない。死んでしまう。」

 ユージウスは優しく説得するように、血だらけの罪人を抱きしめた。

 その時、憲兵側の百人隊長が大声をあげながら近づいてきた。

「なにごとだ。なぜ罪人を歩かせないのだ。」

 部下達が一生懸命に言い訳をしている。

「あの罪人はもう死んでいます。」

「あまりに失血がひど過ぎました。」

 しかし、憲兵側の百人隊長は、強引だった。

「それなら、俺たちが引きずって行ってやるよ。」

「もう死んでいるんだ。遺体を引きずるのか。」

「見せしめなんだから、俺たちに任せろよ。」

「もう埋葬をする方へ運ぼうとしているところだ。」

「もう死んだのか?。」

 憲兵側も死んだ罪人までは扱おうとはしない。このままうまくいく。ユージウスはそう思った。そこへ、憲兵側の百人隊長の後ろに総督府直属の士官達が現れた。

「その罪人はまだ死んではいないわ。」

 その声は、淑香スクハだった。

「その木材を運べないなら…….あの男を捕まえて代わりに負わせればいいじゃないの。」

 代わりとされたのはキレネ人だった。

淑香スクハ!?。裏切ったのか?。何故だ。あなたは、彼が生まれた時から、彼を守り助けてきたのに…。」

「下がれ。サタン。」

 淑香スクハの言葉は厳しい叱責だった。いや、呪縛といっても良かった。

 淑香スクハは動けなくなったユージウスを無視して憲兵達に指示をし始めた。ユージウスは罪人の体を横たえて剣を抜こうとした。その時、罪人のラビはユージウスの腕に手をかけた。

「もう良い。もう良いのだよ。我が息子よ。」

「しかし、……。」

「これは……我がビアドロローサ、皆の代わりに……全ての苦しみを味わい尽くす旅……。」

 そうして、彼は再び倒れ込んでしまった。そこへ憲兵達が彼を立たせるために鞭を当てた。打たれたときに、ラビの体はビクンと大きく動き、また動かなくなった。

「死んでしまう。やめてくれ。」

 ユージウスは思わずそう叫んだ。それを聞いた憲兵側の百人隊長は、意地悪そうな言葉を投げかけてきた。

「それなら、お前達がその男を刑場へ送ってこい。揃いも揃って無様な奴らだ。」

 ユージウスや彼の部下は、その悪口雑言に耐え、黙ってラビをゴルゴダへ送り届けた。


 …‥……………………


 横木と縦の木に釘打たれたラビ。高く上げられた彼にユージウスは無力だった。そうしているうちに、もう彼は叫んで息を引き取った。ラビの下着を分け合う憲兵達を横目に、ユージウスは力なく言った。

「この人はやはり救世主だったのに、俺たちは殺してしまった。」


 ラビの遺体は木から降ろされた。

 ユージウスは古代の伝説をふたたび思い出した。

 伝説はこの事態を予言していた。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのため、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のため。・・・」

 その日、ユージウスは職を辞した。タマラを連れ、ローマ総督府を去って行った。


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