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六 百人隊長

「タマラにどうか御恵みを………」

 街頭に立つ少女…垢で黒光りする肌…もう何日もろくなものを食べていない…彼女の青い目は過去の支配者だったギリシャ人の末裔に見える…その青い眼に、通行人は悪態をついてその場を過ぎ去る…

 ギリシャ系王朝のプトレマイオス朝残党の一掃はローマに驕りをもたらした…ユダヤ、シリア、アエギュプトスで増す軋轢…人民の間の嘆きと反発…それは、プトレマイオス朝の亡霊の仕業、クムヌの呪いだと言う者もいた…


 ………………………



 淑香のオフィスは総督府の奥まったところにあった…女を参謀にしているということを気にした総督が、彼女の執務室を奥へ移していた…それ故に、歴代の総督が彼女の助言を受けていたことはほとんど誰も知らない…

 淑香は歳をとらないのだが、肉体の表面的には経過した時間なりに、毎日見せかけの老化を見せていた…名もスクハと変えている…今日も、総督府を抜け出し、少し離れたユージウスと名を変えた雄二の家へ行く予定を持っている…この頃は、年齢を重ねて時とともに諦観と弱気を増していくユージウスのことが気がかりだった…


 ……………………


 彼の心はもともと控えめだったことを考慮しても、余りに弱かった…雄二は自らの進むべき道さえも見失っていた…もう元の時代に帰る気持ちも失せた…

 アエギュプトスではプトレマイオス朝残党が一掃され、この三十年ほどでローマの力の支配が強まっている…ユージウスはローマ市民権を得て、アレクサンドロスのナイル河畔に住まいを得ていた…ローマ軍に任官した彼は、エレファンテインで得たショーテルの使い手としても知られていたが、武を誇って立居ふるまうこともなく、一風変わった武人と目されていた…


 今日は、アエギュプトス総督府のスクハが久し振りに来訪する日だった…遊びもせず生真面目で孤独を好むユージウスには、数少ない女の知り合いだった…


「久しぶりね…孤児を引き取ったんだって?…」

「ああ、もう人生の終わりに近いからね…少しでも良いことをしておきたい…」

「小さな女の子?…」

「そう、タマラと言うんだ…街頭で物乞いをしていたのだが、ギリシャ系の顔つきだったためか通行人達に邪険にされて蹴られていたんだ…タマラ、こちらへきてくれるかい…」

「はい…」

 タマラと呼ばれた娘は要件を伺うメイドのように、ユージウスの傍に立った…黒髪に浅黒い顔、その中に光る青い目は、まだ世間に毒されてはいない…しかし、すでに彼女の立ち居振る舞いは、教育を受けつつも世間の厳しさを充分に味わっていることを示している…

「タマラ、そんなよそよそしい態度はそろそろやめてくれないか…」

「はい、旦那様…」

 ユージウスはため息をついた…スクハはその光景を見て微笑んでいる…

「無理もないわ…あなたは父親と呼ばれるには歳をとりすぎているし、タマラも六歳でもうものの分別が付いているのよ…」

「僕はもう少し早くタマラを見出すべきだったね…さて、ワインを…と…」

 ユージウスは、立ち上がった…

「旦那様、わたくしが参ります…」

「タマラ、それなら此処に私の代わりに座っておいて…」

「でも、旦那様………」

 彼はタマラを強いて座らせ、そのままキッチンへワインを取りに行った…

 タマラはまだ六歳なのだが、成長が遅いらしく、見た目は未だ五歳程度だった…この時代、彼女が成人する頃にはユージウスはこの世にはいないかも知れない…スクハはタマラが今後味わうであろう孤独を思い、少しの言葉を彼女に伝えた…

「タマラさん…このお爺さんはあなたのことを今一番大切な存在と思っているわ…多分彼の命よりも…それに応えてあげてね…」

「はい、マダム…」


 ユージウスが戻ってきた…

「スクハ、今日来てくれたのは、何かあるからだよね…」

「そう…」

 一時のためらいの後、スクハはユージウスの新任地を伝えた…今、アエギュプトスに隣接するユダヤでは治安の維持が難しくなっていた…総督ピラトゥウスは、民族の宗教や風習に詳しいスクハの高評価を知り、アエギュプトスの総督に頼み込んで、彼女を派遣してもらう約束だった…彼女はこの機会にユージウスをガリラヤの地へ伴いたいと考えていた…

「貴方はイドマヤ領の北、ガリラヤ湖畔…ティベリウスへ行くことになるわ…」

「やはりな…それなら、タマラを連れて行くことになる…」

 スクハは言った…

「私も四ヶ月の後に行くわよ…ティベリウスは新しい赴任先なのよ…待っていてね…」


 ………………………


 イドマヤ領の北と言うよりは、ガリラヤの地といったほうが分かりやすいだろうか…ユージウスはタマラと共にこの地に移っていた…ティベリウスはアエギュプトスとは気候が異なり、寒くなることがあった…そのせいだろうか、またはユーゴ、ミキウス、ケイオスの呪いのためだろうか、タマラはその幼い体に肺炎を得ていた…七歳の体には長い道中が病の元になったのかもしれなかった…


 瀕死の病床にあったタマラだが、相変わらず甘えることはしなかった…タマラなりに心配をかけまいと我慢してしいたが、その痛々しさはユージウスを苦しめていた…ユージウスのしたためた手紙は、アエギュプトスの総督府へと届けられた…

「貴女にとって取るに足らぬ男ですが、書簡を送ることをお許し下さい…ご存知のとおり、貴女には助けてもらうばかりで私は何もして差し上げられていません…その私が再度虫のいい願いをすることをお許しいただけるでしょうか…

 以前に養女としたタマラをご存知だと考えています…こちらユダヤの地に来た時に病いを得てしまいました…私はある程度家族の健康には気をつけていたのですが…

 このような極めて個人的事情のために、貴女の不思議な力を発揮していただけるとは思っていません…せめて何かしらの薬か薬草が手に入らないかとお願いする次第です…

  ユージウス・オーイシス」


 書簡は約二週間後には届けられた…羊の皮に覆われた書簡を受け取った際、スクハは日程を早めることにした…


 三日月夜の帳…通常ならは満月の夜を選んで砂漠を渡っていくのだが、タマラの病状は一刻の猶予もならないことがわかっていた…また砂嵐が来るかもしれない…そうなれば、東風は暑くガリラヤはおろかアエギュプトスでさえ地が鉄板の熱さとなる…


 スクハは途中、羊飼いたちの神官のエトロの許を訪ねた…

「お久しぶりです…エトロ…」

「これは、天の大軍将閣下でねすか…」

「今はその名は使っていませんし、もう三十年もの間、ある一人の男の見守りをしているのです…」

「あるおどご?…」

「あなたもご存知ではないですか?…貴方の以前のお名前はヨエルであったとお聞きしていますよ…」

「もしかして、そのおどごはユージちいうだか?…」

「そうです…」

「ユージか………」

 エトロは遠くを見るような目をシリアの方へ向けた…その目を見ながらスクハは続けた…

「彼は今はユージウスと呼ばれています…」

「せば、なしてここへ来たど?…」

「彼の連れの少女が瀕死の病床にあるのです…祈りの器である貴方様なら、きっと何か助けてくださると存じ、お伺い申し上げたのです…」

「ユージさ、どさ?…」

「、今はガリラヤ湖畔のティベリウスというところに住んでいます…」

「そごさユダヤの地元でねが?…」

「そうです…」

「せば、あんだが助けねば…」

「彼の地で病いとなれば、祝福の豊かな中で発病していることになります…とすると、私のレベルでは、どうしようもない災難ではないかと…つまり、祈りの中に有っても救えないと定められた命ではないかと感じているのです…」

「あんだの手に負えねえ厄災かい…それは、困ったなあ………一つだけ手があんべ…人間のわがままだば、天はお聞きになるべ…モーゼの召命の時もそうだべな…」

「どういうことですか?…」

「モーゼは早くやんべち言われて、イヤダイヤダち言い続けてたんべ…そしたら、わがまま聞いてもらえたっち聞いたべよ…せば、ユージウスの祈りと言葉、そして貴女と貴女の姉妹がお願いせば、いいんでねえの…明日、淑姫も呼び出して連れて行くべえよ…」


 その日、スクハは淑姫とともにユージウスの許を訪ねていた…タマラの病状は日に日に深刻になり、ユージウスは愁眉を深めていた…

「私がある人に頼んであげる…ある意味で医者より確かな方よ…」

 タマラの枕元でスクハはついに決意をした…本来ならば、この種の行動を彼女たちの類がしてはならなかった…しかし今は、ユージウスが自分の命さえ差し出す思いでタマラを寝ずに看病していた…

「誰に頼むと言うのか?…」

 ユージウスは不思議に感じてスクハに尋ねた…その会話を聞いたタマラは熱にうなされながらも訴えた…

「私は…ユージウス様の娘など…と言う恵まれた立場であっては…なりません…ラビ様には…せめて……下僕の女…としてお伝えください…」

 息も絶え絶えのタマラの言葉にスクハも淑姫も当惑したが、それでもその言葉を受け入れた…


 スクハが向かったのは、この地をたまたま訪れたラビと言われた方だった…彼はある地区長老の邸宅に滞在して教えを広めていた…

「ラビ、お忙しいところを失礼申し上げます…」

 ラビと言われた男は挨拶をした女を見て驚いた…

「君はここで何をしているのかね…」

「主よ…どうか今はお責めにならないでください…私は長らく見守ってきた男、ユージウスの代理できております…どうか、幼いタマラをお救いください…彼にとっては自分の娘も同様の子供…彼女は下僕と言い続けている自らを低くし続ける童女です…命が消えそうな状態なのです…危篤なのです…私にはもう手に負えないのです…」

「わかった…そこへ行きましょう…」


 ユージウス宅では、タマラが先ほど息を引き取ったところであり、人生の終わりを迎えたところであった…ユージウスは、もうラビにご足労をおかけするまいと、淑姫に伝言をさせた…

「もう娘は息を引き取りました…ご足労をおかけすることもありません…ただ一言の言葉をください…私は権威の下に生きる者です…私もすべきことがわかります…諦めよとおっしゃればその通りになります…さすれば私も死んだ僕も光栄です…全てはお言葉通りになります…ですから、ただ、どうか適切なお言葉をいただきたく存じます…」


 ラビはその伝言に驚いて感嘆した…

「ローマ人だからこそ、このような信仰を持ちうるのだろうか…これほどの信仰をユダヤの中で見たことがない…ローマ帝国のその末裔たるヨーロッパの民族達は、この教えを恵みとして受け継いでいくだろう…」


 ラビは悲しんでいるスクハと淑姫に言葉を伝えた…

「この言葉を伝えよ…『娘よ、生きよ…私がそう望む…私の言葉の前に全ては動く…娘よ、お前は今から彼の下僕ではなく、彼の娘として生きよ…』」


 その時、突然にタマラは息を吹き返し、全て元の体に戻っていた…ユージウスは突然に起き上がったタマラの姿を見て思わず彼女を抱きしめていた…節くれだった筋肉質の腕が強く抱いたせいだったのか、タマラは思わず言葉を漏らした…

「だ、旦那様…い、痛いです…」

「す、すまない…しかし、なぜいきているのだ?…なぜ起き上がれたのだ?…どうなっているんだ?…」


 家の外では、大きな声で泣き叫ぶ老人の声が響いていた…それを聞きつけたスクハらは、急いでユージウスの家に駆け込んで行った…前庭を過ぎてもまだ大声が聞こえている…ただし、老人のダミ声の他に少女の明るい声が重なっていた…

 何事かと怪しみつつ歩み入っていくと、其処では泣き笑いのユージウスの顔の涙をタマラが指で拭っていた…


 ………………………


 イェルシャライム…宗教的興奮の中心…決してシリア総督のお膝元ではない…しかし、ここでローマ帝国は支配者として宮殿を構え、権威を見せつけている…この二週間ほどは、政治犯の裁判準備が進んでいた…ガリラヤの戦士と言われたバルジェスを磔にするためだった…

 しかし、この二、三日の興奮は別の原因もあった…先にラビと言われていた伝道師が子ロバに乗って入城し、民衆達が狂喜していた…「普通の光景ではない…」

 報告を受けそう直感した総督は、イェルシャライムの警備強化を考えた…遂には五十才のユージウスさえ、警備に駆り出されていた…


 ………………………


 多くの老若男女がぞろぞろ列を作る…何を追っているのだろうか…皆ガヤガヤと喋りながら、中には持ち込んだ菓子のようなものをクチャクチャと食べながら歩く者達までいる…とても革命や反乱を起こすような気位の高い者達とは思えなかった…何を目指し、何を目的に集団で一方向に進んでいくのか、全く想像できなかった…


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