五 荒れ野
うねる小麦畑…実りの季節なのだろうか…乾いた大地の上に、チャコール色の小麦が生え揃っている…もう直ぐ刈り取りであることを示すように、重い穂を垂れている…ちょうど鎌があったな…そう思いながら、見渡すと雄二は小麦畑の縁に放り出されていることに気づいた…
ひどい空腹…喉の渇き…刈り取りの労働をすれば食事にありつける…自らを鼓舞しながら刈り取りを始める…誰も手伝うものはいない…孤独な労働だった…あともう少し、あともう少し………彼の後ろには穂の束がいくつも積み上がっている…
カリカリ、ガリガリ…食い荒らす不気味な音…空一面を黒い虫の大群が飛び交う…次の瞬間、刈り取った麦もまた刈り取っていない麦も全て食い尽くされた…
雄二の背後から大きな声が響いた…クムヌの偶像に似た顔の異形の二本足がそびえ立っている…
「愚か者よ…腹が空いたか?…残念だったな…お前の働きは無駄だった…すべては虚しかっただろうが…己の愚かさを思い知れ…」
雄二には応える気力がのこっていなかった…強烈な空腹…水もない…目の前の石がパンに見える…落胆しているためか、まともに動けない…先ほどの異形の二本足が雄二の目を覗き込んだ…じっと彼を睨みつけている…
「ほほう、空腹か?…先程から目の前の石がパンに見えているのだろうが…」
「これは所詮石に過ぎない…」
「お前が祈ればパンにでもケーキにでもしてもらえるさ…」
「祈り?…なんのことだ?…」
「誤魔化すな…拝殿を破壊したのはお前が始めたことだ…この種のことは、人間の祈りが中から発せられたからに違いない…悪鬼のような顔をして、祈りなんぞ………そんなことが許されてたまるか…」
「い、いや………僕は祈りを最近教えられたばかりだから…」
「教えられた?…誰に?…それなら、そいつに願ってみろ…このまま助けてくれってな…」
「確かに、今祈れば、助けに来てくれる…しかし彼女の愛を試すことになる……いやだね…」
「愛?…なんだねそれは…嗚呼、あの淑香か?…彼女がお前を愛しているって?…それは違う…彼女には、自発的な心はない…指示されてお前と関わっているだけだ…」
「たとえそうであっても、彼女を試すことはしない…」
「いつまでそんなことを言っていられるかね…」
「いや、しない…」
「その震えは何か…ひもじいのか……切ないんだろ?…」
それから大ガラスがまた雄二を運び始めた…空の上からローマ帝国そして、東の果てにまで至る国家群を見せた…大ガラスが飛び交う真ん中に先の異形の怪物がそびえ立つように立ち、雄二を見下ろしていた…
「私の配下に加われ…有能な男よ…戦わずして、この世に幸せがもたらされる…」
空気を震わせる擬似静音が響き渡った…それに答える雄二の声は風にかき消され気味だった…
「クムヌ神…それはどんな幸せなのさ?…」
「食うことに困らない…虐めには復讐できる力をやろう…復讐などと言うものではない…いじめる奴らに倍返し、倍倍返し、七の七十七倍にして返す力を与えよう…滅ぼし尽くす力をやろう…全ての人間を従わすこともできるようにしよう…」
「敵を滅ぼす力?…それではいつか僕を滅ぼそうとする奴らが出てくる…その時にはどうするのさ?…」
「その時に戦って滅ぼせば良いではないか…」
「僕に虐めを働いたあいつら……裕子たちも滅ぼせるの?…」
「裕子たち?…ユーゴ、ミキウス、ケイオスのことか…彼らは昔、佐橋裕子、井上美希、青木圭子と名乗っていた…今や、悪鬼魔の筆頭格だ…しかし、お前が望むのなら、彼らを凌駕する力を与えよう…」
「お前の仲間ではないか…」
「お前が私を拝めば、私は仲間の中で大きな存在になる…そうすればたやすいこと…しかも、そのほか諸々の願いも叶えられるぞ…」
「しかし、クムヌより大きな存在がいる…貴方とともに僕は滅ぼされてしまう…そんな世界に幸せがあるの?…平安があるの?…」
「そうか、残念だ………では、お前は滅ぶだけだ…」
「そうか…やっぱり………僕はつまらぬ存在だったんだ…滅んだ方が良い存在だだった…ただ、せめて今までの導きを感謝しよう………そう、『神に栄光あれ』と言おうか………もう貴方が僕の体に何をしようと、僕の心には何もできないさ…もう…………怖くない…」
そう言うと、雄二はふと淑香の顔を思い出した…
「僕は淑香たちを裏切らない…下がれ…サタン…」
悩みの渦…翻弄される想い…雄二は叫んでいた…同時に彼は灰色の空の中へ放り込まれていった…しかし、次の瞬間、灰色の空が破れるように青い空が見えた…その空の中に、雄二の頭を抱えていた淑香がいた…
………………………
四十日ほど遡る…ナイル川のほとり…その川沿いと砦周りに長大な包囲陣地が作られた…炎天下、既に一ヶ月…兵士たちはただ見張るだけだった…
ガイウス・ペトロニウスは淑香の助言通り、エレファンテイン砦を包囲するだけだった…淑香は潜入した雄二が何らかの動きを始めると考えていた…しかし、四十日もの間、何も起こらなかった…
「ただ待てば良いのかね…」
ガイウスの問いかけに参謀の淑香はただ「お待ちください」と言うしかなかった…今は雄二に期待するしかなかった…まだ雄二は無事…つまりはまだ作戦行動をしていると思ってよかった…ただ、長すぎる………
「あいつ、いつまで待たせるのかしら…」
呼び方が「あいつ」となったのはいつの頃だろうか…
ローマ兵は魚釣り、水遊び、もう前線とは思えない光景が広がっていた…
ある日、砦の中の尖塔が崩れた…突然の火の柱だった…観測していたローマ兵が報告をしてきた…
「申し上げます…砦の尖塔が天からの火によって焼かれています…」
尖塔のなかからの祈りのみが、火を呼び込む事ができる…雄二が祈りを学べたのだろうか…雄二は祈りを毛嫌いしていたのだが………
「ペトロニウス閣下、もう直ぐ攻め入るタイミングが来ます…」
気だるそうなガイウスは、それでも軍人らしくそそくさと装備を身につけた…
「全軍に呼集…軍団形成…戦闘準備…」
「閣下、もうすぐ中から敵が溢れるように出てきます…全てを粉砕してください…」
やがて尖塔は瓦解し、澱んだ気をまとった敵軍が飛び出してきた…人間と背負われた悪鬼…彼らは逃げ出した途中だった…ローマ兵は、異様な姿の敵軍に、躊躇しながらも切り込んでいった…
戦いは砦の外で行われている…飛び交う戦いの怒号…次々に破られていく城壁…その城壁の破れ口から、男が一人夢遊病者のように出てきた…雄二だった…雄二の前には何もないはずなのに、彼は何かに怯えるように、ショーテルで何かを防ごうとだった構えながら座り込んでいる…淑香は雄二の後ろから気を失わせ大人しくさせた…淑香が優しくショーテルを取り上げると、雄二はもう眠っていた…
………………………
雄二のベッド横でのうたた寝…淑香はどの程度眠っていただろうか…彼女は海からの涼しい風に目覚めた…
重傷を負った雄二はローマ式の病院に寝かされている…救い出してからもう六日も眠り続けている…発酵した魚を擦りつぶし、口に含ませて食べさせているため、ある程度の栄養は補給出来ている…しかし、目覚めた時も雄二の目はうつろであった…
「助けに来てくれたんだ………もう、信じ続けることができなかったよ…もっと早く来てくれれば………」
「それは出来なかったわ…歴史の大きなうねりのきっかけは人間が作るの…決して私たちの出る幕はないわ…」
「でも、助けには来てくれるじゃないか…」
「それは、あなた方が望んでいる時、祈りのあるときよ…」
「でも、こうやって寄り添ってくれる…」
「あなたが必要だと感じているからでしょう…だからといって、わたしにはあなたの、いやあなた方人間の苦しみはわからないわ…確かに待たされた…でも、待っているだけで感情が募ってもうダメだとは思わないもの…」
「じゃあ、絶望しかかってもうダメだと思うこともなかったの?…君に会えないと思ったことも理解してくれないの?…」
淑香は戸惑い、目の前の人間の苦しみを理解しようと努めた…しかし、愛から切り離されることなどあり得ない彼女たちにとって、絶望が理解できるはずもなかった…
「あなたは、おそらく愛を信じきれないのかしらん?…愛から切り離されてしまっているの?…確かに、そうなのかもしれない…多分、わたしには、あなたを究極的には救うことができないわ…」
「そう、僕は絶望の中にいた…でも、今わかったんだ…僕がここで滅びても、必ずあのヨーゼフ一家の初子に希望を見ることはできるって…」
「だからこそ、貴方は祈りの器になれたのよ…」