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四 クムヌ神殿

 横に伸びる邪悪なツノ…その悪鬼達の姿はアモンの羊とは異なる…彼らはエレファンテイン島のクムヌ神の兵隊たちといっていい…彼らの後ろには、プトレマイオス朝残党の騎兵達が列を作り上げている…

 悪鬼魔の前にも人間達がいた…いや、女の顔を持った何か…般若の目を虚ろにし、唇を赤く映えさす何か…人間をやめた佐橋裕子たちだった…


「クムヌ、クフウィ…」

 裕子が両手をあげると歓声が上がった…裕子のおどろおどろした声…後に続いて不気味に呼応する百鬼の声…彼等はショーテルを操り、プトレマイオス朝残党騎兵を鼓舞していた…


 彼等との会戦の前に、淑香はヴァルスに忠告していた…

「彼等の強みは、人間ではない何かによる統率、狂信と指揮の固さにあります…侮って陣形を工夫するだけの戦術を使うべきではありません…」

 しかし、淑香を新米の生娘、とバカにしていたヴァルスは、彼女の忠告を聞かなかった…


 ヴァルスはパルティアとの戦いに慣れており、騎馬兵による一撃離脱への対策をしていた…エレファンテインの砦に迫ろうとするローマのシリア・イドマヤ方面派遣軍ヴァルス提督の戦術は、小規模重装歩兵軍団による鶴翼陣形…鶴翼先端と騎馬兵の奇襲により矢を補給しに帰っていく騎馬兵の補給時を叩くつもりだった…しかし、プトレマイオス残党は補給用戦車を中心にした機動軍陣形をとり、ゲリラ的にいきなり高速で接近して矢を射かけ、戻っては射かけてきた…東方パルティアの戦術に慣れているはずの派遣軍は、彼らの騎兵奇襲戦術に盾を割られ、ことごとく壊滅していた…


 アエギュプトス総督府に戻ったヴァルスには、あてつけるように声が響いていた…

「Quintili Vare, legiones redde! ヴァルスよ、我が軍団を返せ…」

 それでもヴァルスは顔を伏せることなく真っ直ぐに顔を前に向けて建物の中へ入っていった…


 回廊ですれ違ったガイウスは、ヴァルスに話しかけなかった…しかし、ガイウスの参謀を務めていた淑香は冷ややかに見ていた…

 彼女のその視線を感じて、ヴァルスは何を思ったのか、つかつかと淑香の前に立った…


「私は敗れた…」

「なぜ私の忠告を聞かなかったのですか…」

「お前は分かっていたのか…お前は魔女か…敵方の将軍の中にも、若い娘らのような悪鬼魔達がいた…」

「私は単なる参謀です…」

 敗軍の将は兵を語らずという言葉そのままに、ヴァルスは去っていった…


 ………………………


 雄二は盾を割る鏃の鉄に注目していた…ブロードソードも、しばしば割られていた…鉄を切るのではなく、鉄を割る合金が用いられている…

 その頃のローマ軍のブロードソードや盾に用いる鉄は、炭化させて鋼とする一種の合金だった…その鋼が割られた断面は、最初に衝撃を受けた一部を除き、結晶化部分が鏡面のように割れていた…鋼の強化部分に入れられた衝撃波によるV字亀裂から、劈開ははじまっていた…これでは、ローマ軍が今の装備で対抗できるわけはなかった…淑香は謎を解くために悪鬼魔へ戦いを再び挑み、彼等からそのショーテルを奪う計画を立てた…


 ………………………


「クムヌ!、クフウィ!…」

「クムヌ!、クフウィ!…」

 再びの会戦…不気味な低音が敵陣から響いてくる…右翼に展開する同盟軍騎兵の位置から見ても、中央のローマ軍の歩兵達はすでに浮き足立っていた…

「攻めると見せかけて、攻めてきたら逃げ出せ…」

 逃げ出すことが初めから指示されていることもあり、彼等は初めから戦う気力がなかった…


「押し出せ…」

 先手はローマ軍の方だった…しかし、今回は陣形を崩さないことが必須だった…正規騎兵達が左右の速度調整のために走り回っている…ある程度から、重装歩兵軍団のみで進撃を始めたところで、敵軍が突撃し始めた…彼等のいつもの騎兵戦術だった…しかし、このタイミングでローマ軍の撤退が始まった…臆病な真ん中が速く、両側は遅く………


「何だ…何が起こっている?…」

 裕子たちは敵ローマ軍の異様に早い撤退に驚いていた…しかし、プトレマイオス朝残党軍は好機と見たのか、大挙して突撃して行った…彼らはそのまま中央突破を図ろうとしている…

「いけない、何かの罠だ…」

 裕子達が叫んだ時、突然に障壁が現れた…すり抜けて逃げる中央のローマ歩兵…足止めを食らう騎馬兵達…同時に両サイドからの弓兵が敵騎兵の馬を攻撃…騎兵は全てが倒され、悪鬼のみが先端に露出した…

「今です…」

 悪鬼は弓を使わない…その悪鬼めがけて同盟軍騎兵が殺到した…雄二もそれに混じっている…目指すは特殊なショーテルを持つ悪鬼…

 その悪鬼はローマ軍騎兵に驚いたものの、ローマの騎兵を倒していく…雄二も落馬したが、そのまま目標の悪鬼目掛けて走り、取っ組み合いになった…今は悪鬼を倒すことが目的ではない…すかさずショーテルを叩き落として奪い逃げ出した…

「全軍、撤退!…」

 敵軍が驚くほどローマ軍の撤退は早かった…

 両サイドから友軍が敵に矢を射かける隙に、全てのローマ軍は障害を超えて撤退した…


 ………………………


 アレクサンドロス大学の錬金学部…重く分厚い扉の左手の奥、中庭に面した一室…アスファルトを燃やした匂い…壁は週の初めに塗り直されて、異様に清潔で白い…

 雄二の奪ったショーテルは、やはり通常の剣とは異なっていた…

「ブロードソードよりも鈍角となる刃、直剣とは異なる反り、反射をしない鈍い表面………以前、エレファンテインから持ち帰った鎌を思い出した…両者とも材料が似ている………」


 雄二は、これはと思う想定合金をいくつか作り、様々に測定を繰り返した…水に沈む際の重さと体積、層構造、押した際のssカーブ

「材質はなんだろ?…窒化か?…鉄にマンガンの添加?…多分後者かな…」


 ある程度目星がついた頃、室内の匂いを避けるように、ローマ軍の百人隊長や参謀達が入って来た…

「くさい…」

「異様な部屋だな…」

「騎兵の一人がこんなところにいるとは?…」

「その騎兵が錬金術を知っているのか?…」

「お前、彼は応用錬金学士の称号を持っているんだぞ…」

「応用錬金術士?…」

「彼が敵の剣の強さを解明したらしい…だからこうして幹部がやって来たのだが………」

 遅れて総督付き参謀の淑香が入ってきた…今までガヤ付いていた戦士達は徐に静かになった…

「クムヌの剣の秘密はわかったの?…」

「まあだいたい…マンガンドープの鋼かな…」

「何故そんなことがわかるの?…」

「これらは、鉄隕石由来のマンガン系鉄合金に似ているのです…ローマの鉄は炭素を不純物として鋼を作っている…この隕石合金はその鋼より強度と靭性がある…そこでマンガンと炭素を不純物とした鋼合金を作りました…」

 両側を軟鉄で補強、鈍角のエッジはそのままに、ソリの内側に鋭角の刃断面を持たせた…なぜこんなことがわかるのだろうか…家業で教えられたことだっただろうか…雄二は自らを不思議に思った…


 試作の剣をブロードソードと衝突させると、やはり鉄を破るように割ることができていた…エレファンテインから持ち帰った鎌や、奪取したショーテルと衝突させると、やはり折ることができる…まるで麦を刈るように…試作のショーテルはいわばおおきなブーメランの形をした刈鎌だった…

 剣を打ち返して鎌とする…そんな伝説が今目の前にあった…


 ………………………


 エレファンテイン島の砦…この数年間、ガイウス総督は攻めあぐねている…ヴァルス総督の援軍も含めて、既に数千人の犠牲を出していた…参謀の淑香はクムヌの悪鬼達を壊滅させることだけを考えていた…単なる退散ではなく、文字通りの絶滅させることが必要だった…


 悪鬼の絶滅…簡単なことではなかった…悪鬼魔の周りにはマクロ実体のない塵霧があって、その細かい分子が盾の役割をしていた…それを打ち破るには、原子レベルの作用が必要だった…砦内部からの誘導によって、神の息吹と呼ばれる原子レベルの流れを彼らにぶつけること…これにより塵霧を凝集させるか、焼き尽くすことのみが唯一の絶滅手段だった…


 淑香は困り果てていた…内部に侵入するにしても、淑香の纏うオーラが悪鬼どもに彼女の素性を明らかにしてしまう…この時代の戦士達は誰もが闊達であり、彼らの素性はすぐにわかってしまうだろう…しかし、雄二なら行かせることができる…淑香はそう考えざるを得なかった…雄二だけは自己イメージが低かった…自らが意味のない存在であるという思いはいまだに強かった…それゆえに、素性が露見することもないだろう…しかし、彼には行かせたくなかった…


「雄二、あなたに考えて貰いたいことがあるの…」

 雄二は淑香がわざわざ一兵卒に説明しに来ることを不思議に思った…しかも、彼女にはためらいの色も見えていた…目の前の彼女が彼を好いてくれた故の特別扱いかとも思った…

「行けといえば、どこへでも…それが兵士というものです…」

「エレファンテイン島のクムヌ神の神殿へ潜入して、悪鬼達を滅ぼしたいと考えているのよ…」

「分かりました…その都度細かく指示していただければ、その通りに行動します…」

「いいえ、貴方が一人で潜入する仕事なのよ…」

 雄二は暫く戸惑いの表情を浮かべた…

「僕が一人でですか?…」

「私は命令する立場…あなたは、その…命令を受ける立場…でも、選択できるのよ…嫌なら、この命令は拒否してもいいわ…」

 雄二は淑香のいいぶりに困惑の表情を浮かべた…そのせいか、二人のいる居室に忍び込む微かな邪気に淑香は気づかなかった…淑香は雄二に何かを悟って欲しい様子で、仕切りに命令受け入れをしないように示唆している…雄二に淑香は愛を覚えているのだろうか?…

「その神殿は城塞でもあり、クムヌの膝元でもあるの…誰も助けに行けない…孤独な戦い…作戦を悟られぬように自らを誇示してはいけないし、剣も持っていけない…でも、行けるとしたら、控えめな貴方、唯一持っていけるあの鎌の使い方に慣れたあなただけ…」

 雄二は淑香の愛を試したくなった…突然の感情だった…

「なぜそこまで事情を話してくれるのですか…」

 淑香は途端に口を閉じた…話しすぎたと思ったからなのだろう…

 雄二には『愛を試してはならない』と言う小さな吐息のような声が聞こえる…ここで淑香を試すことは、彼女への裏切り………そんなことをできる資格が自分にあるのか?…

「少し考えさせてください…」

 雄二は混乱したままで判断したくなかった…しかも、試すなどという発想はないはずなのに…

 密室の中にこもり、祈ることを思い出した…こうすれば、悪い思いならば消え去るはず…


 部屋から出てきた雄二には迷いがなかった…

「僕が行きます…」

 淑香はなおためらっていた…

「でも、誰も助けに行けないのよ…」

「分かっています…でも、僕にはいつも背中に息吹を感じるから、後悔はありません…」

 言い切る雄二に淑香は黙り込んだ…彼女にできることは、もう、現場に笑顔で送るだけだった…


 ………………………


 月のない夜…砦の城壁…ナイルの水面から立ち上がる崖の上に日干し煉瓦が積み上げられ、入り口以外からの侵入を容易に受け付けない…そこは、神殿を兼ねた城塞…クムヌ神の信徒のみが唯一つの門から入ることが許されていた…

 門に入り込むと門番のひょろりとした女に止められた…

「ここで待て…」

 やはりばれたと感じた…しかし、すぐに捉えるわけでもない…それなら、どんな理由で止まらせるのか雄二にはわからなかった…

「ノッペリの顔だな…大陸の東の悪鬼か?…直剣を持っていないな?…ローマの犬ではないようだ…」

 淑香が来たのでは、そのオーラから素性を知られてしまったであろう…しかし、雄二には覇気はおろか弱気のオーラさえ感じらない…虐められた頃に学んだ気配を消す特技のせいかもしれない…しかも雄二の顔はノッペリした細目であり、たしかに大陸の東の悪鬼に似た顔だった…このようにみばえが無かった故に、彼は友人に裏切られ、虐めのような仕打ちを受けたことを否定できない…

 中の人間たちは、この国の民族だった…たぶんクムヌの巡礼者なのだろう…しかしこの中にいては雄介のノッペリした顔つきが目立つ…むしろ悪鬼の中に紛れ込んだほうが良い…雄二は人々の列を離れ、神殿のクムヌ像の足元へと忍び込んで行った…

 昼間から表立って出歩く悪鬼はあまりいない…通常は夜の単独行か、人間にくっついて移動している…昼間に移動する雄二が悪鬼と出くわす確率は低かった…

 しかし、クムヌの座の下の廊下は大規模な迷路だった…同じところをグルグル…どう探してみても、中へ入り込む通路は見当たらなかった…疲れてしまった雄二は通路のくぼみに入り込み、寝入ってしまった…


 夜になり、異様な列が目の前を移動していた…悪鬼を背負う人間…

 ある者は首から上がないように見えた…いや、頭はあるのだが、熱狂者になり、知力をうしなっていたために、まるで頭のない虚ろな目をした人間に見えたのだろう…


「おい…」

 突然の掛け声だった…

「お前、人間か?…」


 ばれた…そう思ったが、相手の正体もわからない為、迂闊に反応できない…

「独歩の悪鬼か?…お前は東の悪鬼だな…羅刹とかいう………背負っているのはショーテルか…」

 雄二は目の前の人間に驚いた…一瞬、赤い光を湛えた目に萎縮した…弱いと見れば弄び虐めを行う人間たち、あの裕子達や潤一達の目と同じ赤い光…怖い…またあの苦しみを味わうのか…しかし、目線を外すことはできない…

 雄二は睨みつけるような顔をしていたのだろうか…相手の人間のような男は、興味を失ったように顎で行けと指図した…迷い込んだ部屋の中は、暗がりに異様な奴らがくつろいでいた…その部屋の隅の方に座り込み、目を動かすことなく気配を消し用心深く周囲をうかがった…


 ………………………


 クムヌ像の拝殿の片隅…澱んでいる空気のためか、向こう側のかべも、その天井も遥かで見えない…長く観察したが、像の足元よりも下に蠢く悪鬼達は上を見ようともしない…彼らの態度は、クムヌ像が偶像に過ぎないことを意味している…この像はあくまでも人間を洗脳するための道具に過ぎないらしい…


 クムヌ像のの中頃の高さに何かが蠢くことができる空間がある…その上には空間を歪ませるほどの気が充満している…毎日決まった時間に、澱んだ空気とひどい臭いが降りてきている…気づくと、悪鬼達が喜び踊っている…

「これが彼らの生きる糧か?…このような悍ましいものに礼拝なぞ捧げるものか…」

 昨日も、今日も同じように過ぎていく…壁を滲み出てくる水は、雨水…雄二はその水で飢えをしのいでいた…


 いつまで待てばいいのだろうか…もう四十日を数えようとする頃だった…すでに、雄二は周りを見る気力も残っていなかった…

 いつまでも待たされると言う苦しみは、空腹と相まって強まっていくばかりだった…もしかすると、このまま何も起きないのではないか…このまま追い込まれて僕は滅びていくだけなのではないか…そんな強迫観念さえ心の中に渦巻いていた…



 拝殿の空気が澄んだように見えた…雄二は強く直感した…あの辺りにクムヌの正体がある…ようやく淑香に教えられた祈りの言葉を添えて、天を見上げると……周りの悪鬼達は何かに狂喜乱舞している…歓声をあげる者、何本もの腕を上げる者、服を放り上げる者…その中に混じって雄二はショーテルを上に放り投げた…力は入らなかったが、ショーテルが自らの意思のごとく天井目掛けて飛んでいった…

 ガッドン…

 鈍い音とともに、ショーテルはブーメランのごとくに雄二の許に戻ってきた…同時に天からの強烈な光が注ぐ…もうここには用がない…

 悪鬼達は未だ狂喜乱舞している…何を勘違いしているのだろうか…その騒ぎの中を、雄二も調子を合わせながら拝殿の外へ駆け出た…見上げると、屋根には穴が空いている…その部分から天井が崩れ始めた…早く立ち去ろう…エレファンテインの街中を走り抜け、門の外へ出たところで、砦中に大きく音が響いた…砦内の者達が逃げ出し始めた…人間も、悪鬼も、悪鬼を抱いた人間も…


 どのくらい逃げたのだろうか…空から雄二を追ってくる鳥がいる…カラスのようだが、はるかに大きい…逃げられない…雄二を捉えた大ガラスは、 彼を鷲掴みにすると、シナイの荒れ野に放り出し飛び去っていった…


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