三 エレファンテイン
シャムネシーム…大学屋外の昼食は、アエギュプトスの春の日を満喫できる…
淑香の昼食の席に、二人のローマ兵が来ていた…不躾な呼びかけ…横柄な態度…征服者の顔をするしか能がなさそうだった…
「お前か、淑香とかいう女は?…未だ子供じゃないか…」
淑香は、発酵した魚を食べ終わったところだった…この強烈な匂いにローマ兵はあからさまに嫌な顔をしている…
「腐った魚を食べるとは、アエギュプトス人というのは…………」
「あら、これは悪鬼やうるさい男を追い払うのにとてもいい食べ物よ…」
「なんだと…俺が悪鬼だとでも言うのか…」
どうやら冗談を受け止める余裕のない男らしかった…
「悪鬼とは言っていないわ…ただうるさいと言っているのよ…」
「なんだと…この生娘が…生意気だ…年長者への態度というものを教えといてやろう…」
「はあ?…どんな風に?…私が年下?…」
ローマ兵はブロードソードを抜いて振り下ろしていた…周りの学生達は驚いてパニックになったが、淑香は食べ残しの骨と食器とを持ったまま、その一撃をかわしていた…ローマ兵はさらに一振りしたものの、淑香はその背中を蹴飛ばして腹ばいにさせていた…
「そうか、では私も参戦しようか…」
上官らしきもう一人のローマ兵が淑香の後ろに迫った…
「あら、か弱い生娘に大のローマ兵が二人がかりなの?…威張るか、脅すかしか、能がないのね?…上官殿?…」
その言葉とともに剣と兜がキーンという音とともに振動し始めた…彼等が剣と兜を脱ぎ捨てると、淑香はその剣を取り上げ、魚の骨を突き刺した切っ先を上官の喉に突きつけた…
「貴方達、礼儀を知らないようね…」
「わ、わかった…その腐った物をなんとかしろ…そして、ついて来るのだ…」
ガイウス・ペトロニウスは総督としては極めて公正で、分け隔てのない人物だった…クレオパトラ七世の愛人気取りだったカエサルの時代にはアエギュプトス人は反発を繰り返していたが、ガイウスの仁政により民衆の生活も娯楽も教育も再び旧帝国時代のように落ち着き始めていた…
ガイウスはクレオパトラの使っていた宮殿ではなく、総督府の中に住んでいた…
「ペトロニウス閣下…権淑香を連れてきました…」
「ようこそ…」
「閣下…この待遇はどういうことでしょうか?…私は罪人ですか?…それとも尋問を受ける捕虜でしょうか?…」
「部下が失礼をしたなら、わたしがお詫びする…」
淑香は一言を言えば気が済んだ…この時代に、女が総督と繋がりを持つことは基本的に望ましかった…
「私をお呼びになったのは、どのようなご用件で?…」
「貴女はこの地の神々に詳しいと聞く…」
「はい…哲学部にいて学んでいることはその類いのことです…」
「この数十年、我々この地のローマ軍は、プトレマイオス残党と戦っている…しかし、彼等は強い…どうやらエレファンテイン島に秘密があるらしいのだが…」
「それで?…」
「エレファンテイン島にある砦から出撃してくるプトレマイオスの兵士は、普通の戦士とは異なる強さを持っている…彼等の軽装騎兵も重装騎兵も恐れを知らず、『クヌム・クフウイ』と叫んで我軍の重装歩兵集団を瓦解させ、逃げるふりをしては攻撃し、全滅させておる…何がそうさせているのか?…それについて、何か知っているのではないか?…」
「なるほど…」
淑香はしばらく考え込んだ…
雄二に助けられた際、エレファンテイン島の牢獄で、雄二にされた仕打ちを思い出した…その仕打ちは、今までの彼からは考えられないものだった…それを思い出した時、彼女は思索に連動して顔が火照っていた…火照りながらも、淑香は考えをまとめた…
あの時の雄二は、まず『オドゥのため』と言いながら、狂信者のような、いや狂乱者のような態度だった…その次には裕子の影響を受けて淑香に対していかがわしい行為に及んでいる…無論それは正常な雄二の姿ではなく、何かに取り憑かれたと言っても良かった………おもむろに彼女は自分の分析を語った…
「エレファンテインの砦は恐らく邪神クムヌの神殿…彼等は恐らく狂信者に変えられて居ます…元々この地の民は胃袋を神としています…快楽とご利益に心が暗くなり易く、その結果目前の自分の狂信のみで生きてしまうのでしょう…」
「そうなのか!?…」
「私はアレクサンドロス大学の入学試験の回答を求めて、エレファンテイン島を訪ねたことがあります…私も私の友人も快楽と欲望のみで生きる心を、そこで経験しているのです…狂信者は快楽、欲望からぬけられなくなっています…」
「どうすれば良いのか…」
「エレファンテイン島のプトレマイオス朝残党が頼りにするクムヌ神を打ち破ることが必要です…クムヌ神は堕天使という噂も聞きました…クムヌの悪鬼を瓦解させれば、ローマに勝利が来るでしょう…」
「そうか…貴女は優れた策謀家だね…」
ガイウスの横にいた男が怪訝な顔を淑香に向けた…ガイウスが その男を紹介した…
「彼はヴァルス総督…ローマ軍の歴戦の勇士だ…先ほど言ったようにこの地のローマ軍が手こずっている戦況打開のために、シリア・ユダヤ州からきてもらっているのだ…」
淑香は慎重に彼を観察した…彼も淑姫を探っている…
「あなた、もしや、私の管轄のユダヤから逃げた或る赤ん坊一家と関係があるのでは?…」
ガイウスが怪訝な顔をした…
「赤ん坊一家が逃げ出した?…どういうことだ?…」
「イドマヤのヘロデ大王が、つい最近男の赤ん坊を皆殺しにしたんだ…どうやらその一家だけは逃げ出せたらしい…彼等には若いやり手の策謀家が居たらしい…」
「皆殺しを君は許したのか…」
ガイウスは、ヴァルス総督を驚いて見つめていた…
「ヘロデ大王のやることだから、俺は出しゃばらないことにしているんだ…彼はお前の友人でもあるだろうが…」
ガイウスは黙ってしまった…
淑香はヴァルス総督を見つめた…ヴァルスには残忍な香りがした…
「私は単なる学生です…それも先程申し上げた通り、入学を許されたばかりの新入生です…そんな能力があると思われますか…」
ヴァルスは、「それもそうだな」と言って席に深々と座り直した…それを見たガイウスは話を締めくくるようにして淑香に伝えた…
「それなら貴女をアエギュプトス総督付きのナビゲーターとしよう…これから毎回の戦いにつきそってもらおう…」
淑香は学生のままペトロニウス総督の参謀となった…
………………………
錬金学…今で言えば、金属学、電気化学、生化学と言ったものだろうか…雄二は錬金学部のある研究室に入学した…アルキメデスの智慧…すなわち、化学、物理、数学…もともと農機具鍛冶屋・板金屋の息子の雄二にとって、オレイカルコスもクロム鋼も、チタンも、ありふれた金属材料だった…また、オゾンも、瀝青も、リン酸アンモニウムや硝酸カリウムも、親の働く現場で良く見知った薬品だった…オレイカルコス合金の作成、鋼の焼き入れ、窒化(高温アンモニアガス処理)合金、鍛造、殺菌衛生、ぶどうやイチジクの育成、麦の栽培にまで知識を応用していることに教官たちは驚愕していた… 大学を修了せぬまま、周りは雄二を応用錬金学士と呼んだ…
雄二は錬金学部にやや物足りなさを感じていた…作物の収率を上げるには、窒素とカリウムの豊富な骨粉が有用だった…鋼の作成で生じたスラグも肥料になった…オゾン消毒により水質の殺菌を確保できた…尿からアンモニアを濃縮し鋼の窒化に用いることもできた…鋼の焼き入れ焼き戻しもできた…オレイカルコスも合金も、それらしいものができた…しかし、未だ満足できていなかった…
そんな時、淑香は雄二の許を訪ねた…
「こんにちは…」
「誰方でしょ?…」
雄二は近づくオーラを感じて淑香とわかったのだが、長い間放って置かれたことを思い出し、淑香を一瞥して顔色を変えなかった…
「相変わらず、ここは不気味なところね…」
「そんな天を恐れぬ侮辱的言葉を言うのは、堕天使に違いない…そんな奴に知り合いはいない…」
「相変わらずふざけた物の言い方をするわね…」
「ここは聖なる学究の場だ…少しもふざけてはいないさ…」
「なぜ、そんな言い方をするの?…」
「そんな言い方?…淡々と答えているだけだ…」
「冷たいし、つっけんどんね…」
「何しに来たんだ?…」
「頼みがあって………」
「わかった…すみません…無理です…それはできません…いつも忙しいし、時間を割く義理もないし、もう見知った間柄でもないし、従って応対しません…」
「何も言ってないじゃない!…」
「聞く前からわかっている…馬鹿にするために、ややこしくて出来ないことしか頼みに来ないんだろ…さあ、帰った帰った!…」
「待ってよ…なんでそんなにひねくれているの?…ひねていて、ひねくれていて、馬鹿みたい…子供ね…」
「ああそうですか…ありがとうございます…それではお帰りください…さようなら…」
「待ってよ…鉄を割る鎌の話なんだけど…」
雄二の目の色が変わった…
「鉄を割る?…鉄を切るのではなく?…」
「そう、噂では単なる鎌ではなく、剣を未知の材料を加えて打ち返して造りなおしたものとか…」
「未知の材料?…」
雄二はこの時まで刃の靭性を満足できるほどに、鋼や合金の加工法を確立できていなかった…あらゆる刃を断ち割る金属が欲しかった…