一 ノエル
寒く暗い砂丘…少しばかりの牛の糞で焚き火をする影が、赤や青の火に揺らいで踊る…はじめてのノエルが近かった…時空の特異点を巡ること約二千…雄二は淑香を追ってここまで遡っていた…
月のない漆黒の闇に、黄金とプラチナ、青と赤の星屑が降り始める…次第に雪に変わっていく…そして、光の大列を従えた二人がいた…アイスブルーメタリックの髪が長くなびいている…顔を見なければ淑香とはわからなかった…そして、アイスピンクメタリックの髪もなびいていた…淑姫だった…
羊飼いの少年が上を指し示した…闇に溶け込む少年の目の動きだけが見える…
「ユージイ、上!…天の大軍…」
虫の知らせ、という感覚が淑香の姿を教えた…
「虫けらの僕には届かない…」
雄二は目を伏せてそう思った…
………………………
空は夏…学校近くの公園、木陰…白シャツの大石雄二、片岡潤一、長尾良介の三人が話している…
「詩音さんは、トップにいつもいたなあ…色々な目に遭っていたけど、我慢して色々努力していたからな…」
良介がため息をついている…それを見た潤一が続けた…
「民生も一生懸命やっていたから、まあ成績が上がっていたんだろ…」
良介がさらに付け加えた…
「俺たちだって、努力の結果が出ているものな…」
潤一が相槌を打つ…
「そうだな…」
雄二はずっと黙っている…それに気づいた良介が半分からかいながら指摘した…
「雄二!…お前はどうなんだよ…」
「そういえば雄二は下から四十番ほどの順位だよな…」
雄二は嫌そうな顔をした…
「俺だって、一生懸命に勉強しているんだ…」
良介がそれを引き取って続けた…
「でも、英語はいつも五点か六点なんだろ…」
潤一が思い出したように付け足した…
「赤点だったけど、単語1つにつき百回書く宿題で勘弁してもらったらしいよな…ところがそれも全部スペルが間違っていたって聞いたぜ…」
三人とも笑って会話は終わった…しかし、雄二の顔だけは引きつっていた…
「さあ、再開しようぜ…」
夏の空の下で潤一が音頭を取って、三人はまた署名集めを再開した…彼らの署名集めは詩音と民生のためのものだった…詩音の受けた虐め、民生が受けた仕打ち…それをテーマにした署名に皆は関心を示さない、いや意識的に知ろうとしていない…なにか邪魔をする目に見えない力が働いていた…
最初は、潤一や雄二たちのクラスのメンバーが署名してくれた…しかし、夏休みの間に署名を進めると、佐橋裕子達のいる2Dの奴らは詩音の名前に拒否感を示し、他のクラスは無関心だった…夏休みの終わりには、全てが無駄に見えた…詩音は退学、民生は事実上の謹慎処分になることがほぼ決まりそうだった…そして雄二たちは孤立していた…雄二は気を落としつつも、今まで集めた署名簿を大切そうに剣道部部室のロッカーへ運び込んだ…必ず機会はある、そう信じていた…
次の日、剣道部部室には黄色いテープが張られていた…
「許可なく入室することを禁ずる…学校長」
立ち入り禁止の文字…変更済みの部室の鍵…雄二たちは部室から締め出されていた…
右往左往する雄二たちに、普段近づくはずのないセーラー服姿が近づいてきた…生徒会の佐橋裕子、井上美希、青木圭子…この季節のセーラー服は、白色の反射が眩しい…彼女たちはさらに魅惑・幻惑の技を使っているに違いなかった…
裕子が口を開いた…
「あんた達、未だやっているの?…」
「何を?…」
雄二はしらを切った…
「まあいいわ…あんた達の署名簿は、この中なんでしょ…知っているわよ…」
睨みつけてくる裕子の視線に、雄二は顔を伏せてしまった…
「お前らかよ…こんな嫌がらせしたのは…」
雄二はボソボソと小声で抗議していた…
「なんのことかしら…」
「ここを閉鎖したのは、お前らだろ?…」
「私たちは何にも知らないわよ…この注意書きは学校長の名前で為されたものよ…剣道部の正式メンバーでないあなた達は、入室禁止なの…」
「そこまで詳しく知っているのか…やっぱりお前らだな…」
今まで顔を伏せていた雄二は、裕子に掴みかかった…
「あら、暴力?…あっ、校長よ…」
雄二は焦って手を離した…しかし、校長の姿はなかった…
「貴方達、これは警告…あまり動き回らないほうがいいってことよ…」
雄二達は、口惜しそうに黙って帰る他なかった…
二学期の始業式…長雨の中を、詩音は学園を去っていった…雄二にとって、理事長が拍手で送り出そうと言ってくれたこと、詩音の祖父辻堂泰三に会えたこと、理事長に事の次第を訴えたこと、詩音が系列校へ行けたこと、それらのことがせめてもの慰めだった…
二学期が始まっていつもの授業が始まった…詩音が学園を去った途端に、剣道部部室への立ち入り禁止の措置が解除された…雄二たちは自分のロッカーから署名簿を持ち出し、校長室へ持ち込んだ…
「杉野先生…詩音さんの退学処分に対する反対の署名をお持ちしました…ぜひ受け取って下さい…」
「もう、退学処分は決定されたんだ…そんなもの、持ってくるな…」
「しかし、……」
潤一が雄二の肩を叩きながら、声を掛けて来た…
「もう…無駄みたいだ…諦めようぜ…」
うしろから、良介が声を合わせる…
「僕たちは精一杯やってあげたんだよ…民生だってそう言うさ…」
雄二は友人たちの意外な言葉にショックを受けた…そんなに早く諦めるようなことなのか…夏休み中動き回れた強い想いはどこへ消えたのか…目の前の杉野校長は、厳しい顔をしたまま良介たちの言葉に頷いていた…
内堀まで埋められた思いで、雄二は校長室を出で行った…
「もう手遅れっていうことだろ?…」
「しかたないよな…」
雄二の後の良介も潤一も勝手に言い訳を雄二に投げつけている…噛んだ雄二の唇は赤く血が滲んでいた…
次の日、雄二は無性に淑香に会いたくなった…夏の間、黒髪の淑香は雄二と一緒だった…今はもうどこにいるのか…教室にいるようでいない淑香…目立たず、ふと気づくと目の前にある横顔…探すともう後ろ姿さえも見ることができなかった…雄二は詰まるところ、一人だった…
雄二はもう一度、署名簿を一人で持っていこうと考えた…弱気な潤一や良介に足を引っ張られることも避けたかった…そう考えながら部室のロッカーを覗くと、署名簿がロッカーから消えていた…
「だれが?…」
足跡を辿ると、焼却炉の前で作業をしている男たちがいた…署名簿を一枚づつ火にくべている…夕陽と炎のせいでオレンジ色に照らされた顔は、潤一と良介だった…
「何している?…」
「ゲッ、雄二!…」
「お前ら、それは署名簿じゃないか…何してんだよ…」
「もう、持っていてもしょうがないから焼却しているんだ…」
「僕たちが苦労して集めた署名簿を、そんな簡単に捨てるのかよ…」
「持っていてもしょうがないだろ…邪魔になるだけだ…」
「なぜ邪魔になるんだよ?…」
雄二は突然裕子の影を思い出した…
「裕子か?…」
突然の指摘に潤一がビクッと動いた…
「なぜ知っている!…」
思わず口走った良介に、潤一はしまったと言う顔をした…仲間だと思った潤一と良介は、裕子達のいいなりになっていた…
「お前ら、裏切ったのか?…」
「裏切った訳じゃない…学校の秩序を守ったのさ…」
「虐めの被害者を叩き出しておいて、何が秩序なんだよ…お前たちにまでこんな言葉を繰り返し聞かせなければならないのか…」
「雄二、もうこれ以上、こんなことを続けていては、お前もここにいられなくなるぞ…もうやめようぜ…」
「何を言っているんだ…署名を集めた動機をもう忘れちまったのか…裕子たち生徒会に何を言われたんだよ…」
二人は呼び止める雄二を無視して立ち去って行った…
次の日から、雄二の周りまで、地獄となった…教科書ノートや机の落書き、上履き、靴の紛失、掲示板へのあられもない写真は、いずれも良介の仕業だった…民生への仕打ちばかりか、雄二への闇討ちや集団リンチまでも、潤一が手を引いていた…民生と雄二は孤立無援だった…
民生は雄二にポツリと言った…
「僕達のために孤立しちゃったなあ…」
「平気さ…」
雄二は強がっていたものの、心はいつも折れそうだった…ただ、雄二の心には淑香がいた…夏の時間旅行も淑香と一緒だった…その思い出だけが雄二を支えていた…
………………………
虫の声…だれも足を止めぬ駒場運動公園のベンチの後ろの花壇…赤紫のコスモス…その葉の上で鳴いているアオマツムシ…その大きな鳴き声が、そこに雄二が殴られて横になっている、と教えていた…雄二は、潤一達を元の正しい道に戻したかった…しかし、拒まれ殴り倒されていた…
「いい虫の音ね…」
打ちのめされたままの雄二の傍に、淑香が座り込んだ…
「僕は殴られてなんぼの人間…来てくれただけで嬉しいさ…」
雄二は淑香を見ようとして顔を上げた…しかし、見えなかった…殴られた痣と赤い血が目を塞いでいた…
「貴方、どうしたのよ…その顔…」
「今気づいたのか………殴られたんだ…いい気味だろ………虫の音だけが僕の居場所を教えているなんて、ぼくには相応しいよ………でも、僕は鳴くこともできない虫けらだ…」
淑香は黙ってハンカチを水道の水で濡らしてきた…
「起きられる?…」
雄二は唸った…けられた腹と胸に傷があったからかもしれない…左の太腿にも打撲があった…悔しさと無力感、孤立感、もう、学校に来る気をなくしていた…
「なぜ言ってくれなかったの?…」
淑香は雄二を支えながら歩く…彼女の問いかけに雄二はボソボソと小さく答えた…
「言う?…いつ伝えればよかったの?…僕が会いたいと思ったときに、いつも君はいないじゃないか…」
淑香は無言だった…二人は無言のまま、夜の産業道路を南へ消えていった…
その秋も過ぎ、もう茶色の木枯らしが吹き始めていた…雄二が学校に来なくなって、二カ月が過ぎていた…
………………………
川口…鋳鍛造の街…民生は川口駅からバスで雄二の家に向かった…かつて雄二の家と鍛造の仕事場は駅の近くにあったのだが、今は郊外の峯に移っている…
民生が尋ねた昼間、雄二の家には誰もいないはずだった…皆、仕事へ出かけている…一つだけ明かりのついた部屋…多分雄二は一人で部屋にいるのだろう…もう二ヶ月も引きこもっている…
引きこもったのは、民生と詩音のために働いて学校で孤立したからだった…民生はよくわかっていた…
聞こえてきたのは呟くような声…雄二の他に淑香がいる…まるで秘め事のようなくぐもった声…何か二人の大切なことのようだった…
雄二の家を訪ねた民生の耳に入ってきたのは、そんな二人の会話だった…雄二の部屋では、雄二が淑香から呪文か何かの特訓を受けていた…
淑香は静かに諭すように言っている…
「もう『いつ言えばよかったのか、どこに居たのか』なんて言って欲しくない…」
「君はいいよ…動くのは自在…何処へでも、いつへでも動けるからね…僕は、追い込まれると弱い…民生みたいになれると思っていたのに…」
「貴方の夏休みの働きは素晴らしかったわ…」
「でも、現実の僕は無力だ…親友と思った奴らの本性を見誤っていたなんて…あいつらも弱い人間だった…僕はそんな奴らに殴り倒されて、何もできなかった…」
「そんなこと………」
「民生は強い…一人ででも立ち向かい続ける…庇い続け、身を投げ出しても守ろうとする…僕は、彼を助けることはおろか、彼に支えられ、助けられ、慰められ、足手まといになっているだけ………」
「貴方も彼と同じものを持っているわ…」
「嘘だ!…僕は鳴くこともできない虫ケラだ…」
「雄二君………」
雄二は自分の顔が濡れていることに気づいていなかった…殴り倒された時と同じように、淑香が黙ってハンカチで顔をぬぐっている…乾いているはずのハンカチ…殴られた時の傷は治っているはずなのに…濡れたハンカチが痛かった…傷にしみた…それは淑香だけに見えた心の傷だった…雄二は自分が泣いていたことにやっと気づいた…
「何故、民生はあんなに強いのだろ?…」
雄二はふと、民生が詩音に見せる笑顔、詩音を庇った時の怒りの顔、自らを投げ出した時の必死な顔を思い出した…
「詩音さんか………」
「そうね…民生君は詩音さんのために全てを捧げているわね…」
「それなのに僕は君に甘えてばかり………」
「それは違うわ…私は仕えるためにはここに来ているのだから…でも……ただ、貴方には大きく欠けているものがあることも確かね…」
雄二は淑香を見つめた…
「それは何?…僕に教えて…」
「貴方は私たちの思いを自分のこととして受け止めることができていない…」
「言ってくれないじゃないか!…」
「言われて気づくのではなく、知るを待つことができていないのよ…」
「でも、少しは分かっていた気がするんだけど…虫の知らせというか………」
「それは私が近くにいる時の私の思いよ…」
「学園では虫の知らせなんてなかった…だから、僕はやっぱり孤独なんだってわかったのさ…」
「違うわ…私が近くにいなかったから、伝わらなかったの………」
「そんな事じゃわかるはずもない…待つことなんて、できるはずもない…君が僕から、離れていったから………」
「離れて行った訳じゃないわ…」
「じゃあなんなのさ…僕はどうすれば良いのさ…」
雄二はもどかしさと、棄てられたやり切れなさで、心が再び折れそうだった…
「貴方には祈りがないのよ…でも、このことを私が指摘するのは、私の分を超えているの…」
「祈れば良いのか…」
雄二は意外だと言う顔をして祈り始めた…
「あー神さま、あー神さま、お答えください、お答えください…僕の僕の僕のこの、この祈りこの祈りを…ガゥティガゥティバラガゥティバラゾガゥティ………」
「ストップ、待って…なぜそんなに言葉をたくさん言おうとするのよ…まるで呪いの言葉ね………やり直し…」
「じゃあもう一回…………祈っています…父よ父よ…わが父よ…どうぞお答えください…どうか、どうか、どうか、僕に僕に答えてください…お願いします…お願いします………」
「呪文じゃないのよ…言葉を繰り返しても意味がないでしょう…先程も言ったけど、呼びかけは一回よ…自分の願いは言わない、天の栄光のみを祈るの!…」
「そんなこと言ったって、わからないよ…」
民生はこの今まで黙って聞いていた…そのうち、もどかしくなって雄二の部屋の戸を開けた…室内の二人は疲れた顔を民生に向けた…
民生は言葉を選んで雄二達に告げた…
「雄二は聞いたことがないのかな?…多分そうだろうな…淑香、貴方から具体的に教えてあげれば良いのに…」
「私は来たるべきときに、人間に仕える身です…祈りは人間のものです…私が祈りを教えることは………」
「そうなの?…それなら雄二が僕の言葉を覚えるしかないね…」
民生はしばらく古代からの言葉を教えてみせた…
雄二は、やっと祈りを諳んじることができた…
「これからだなぁ…でも、これで僕と祈りを合わせられる…」
民生は遠くを見るような目で雄二に言った…
「今は祈りの意味はわからないだろうね…でも、祈りは御心を知るために必要なんだ…」
「何もわからないぞ…」
「そうさ、そんなもの、すぐにわからない…忍んで待つのさ…待つことで強くなれる…」
「僕も、民生みたいに強くなれるか?…」
「僕は強くないよ…ただ、耐えた向こうに必ず道があることを知っているから耐えられる…さらに、思い人がいるともっと強くなれる…」
「そうか…………」
雄二は静かにうなづいた…
雄二は隣にいた淑香がいないことに気づいた…
「民生、ありがとう…僕、いかなくちゃ…」
民生は無言でうなづいた…
………………………
浦和美園の近く、黄金色に枯れた田畑の続く郊外を、淑香、続いて雄二が走っていた…人気のない野原で淑香は止まった…彼女は呆れ果てたように雄二を詰った…
「もう、いい加減に別れのときよ…」
「しかし、僕は君のために来たんだよ…僕が執着しているからここにいられるんだろう?…」
「雄二と呼ぼうかしら…貴方はそう言ってしまっていいの?…私に心を売り渡してしまうつもり?…」
「それでもいい…僕は君のために…………」
最後まで聞かずに淑香はまた走り出していた…突然の雲の梯子柱…白い光の枝葉と闇への楔…古来ユグドラシルとも伝えられた姿があった…御使たちが柱の周りを巡りながら上り下りしている…その渦の左手へ淑香はかき消えていた…雄二は躊躇わずに飛び込んでいた…
すぐ先に淑香の姿が見える…見えなくなっても、少し先にいることはわかっている…少しばかりの勇気と若い情熱が、雄二を駆り立てていた…淑香はなぜかそれを切り捨てられず、雄二を許していた…
どのくらい追いかけていただろうか…雄二の後を追って来たものがいた…
止まろうとして周回から飛び出した…そこは紀元前四年と計算できた…もんどりうって転がると、淑香の足元だった…彼女は待っていた…雄二はそう誤解した…不幸にも、それは雄二のためではなかった…
「雄二、起きて私の後ろへ…」
そう言うが早いか、淑香は雄二の来たところへ取って返した…
「待て、サタン…」
サタンと呼ばれて出てきたのは、クラスメイトの裕子たちだった…
「なぜ?…」
雄二は驚いた…現れた裕子たちは瞬時に般若面となった…すぐに黄色い角が消え、人間の顔に戻った…左手には錆び付いた鎌槍…右手には赤黒い五星…
「待て…」
淑香が彼女たちの一人に手をかけようとした途端、彼女たちは視界から消えていた…
「逃げられた…」
「でも、なぜ彼女たちが?…」
「彼らはわざわざこの時代に来たのよ…」
「どういうこと?…」
「今日は特別な日…もうすぐある夫婦に男の子が生まれるの…その子は太古の昔から伝えられてきた業のための子よ…………大切な預言を実現するための………彼女たちはこの時を狙ってここへ来たの…今、彼女たちはイェルシャライムへ飛んで行ったのよ…その近くに大切な町、ベイトラハムがあるわ…彼女たちは男の子をそこから追い立て、彷徨わせ、苦しませ、虐め倒そうとしているのよ…」
「彼女らがなぜそんなことを?…」
「彼女たちが目指すものは破滅と無慈悲…詩音や貴方達の受けた虐めを覚えていないかしら?…讒言、中傷、仲間はずれ、持ち物の喪失損壊…次に身体的な傷…そして学校社会からの見せしめ的抹殺…貴方の友人、民生が体を張っても、虐めの加担者が周りにいたために、どうにもならなかった…むしろ、詩音はボロボロになって民生にすがるしかなかった…民生にはもうどうしようもなかったのよ…彼女の脇と足には傷が残されたわ…いじめの首謀者であるのぞみと裕子のみならず、担任や校長までが、詩音を最後まで追い込んだのよ…貴方は知っているはずです…いじめの張本人よりも、それを見て手を汚さずに追い込むものたちの姿を忘れてはいけないわ…」
「じゃあ、先回りして襲われる前に助けなきゃいけない…」
「そうね…でもこのままじゃ、人間の貴方は煩悩の残滓のままに迷走してしまう…ここへ来る前にも言ったことだけど、あなたには祈りが必要なの…ことの初めに浄めの祈りを捧げに神官エトロの所へ行かないと…残滓に乗っ取られると酒呑、般若になってしまう…果ては人間の姿の悪鬼魔となって…………」
「さっき、裕子が一瞬、般若のような姿に見えたけど…その後、もう一度人間の姿に変わった…しかも元の人間ではなく、目と手が狂気を握っていたように見えた…あれはなぜなんだろう?…」
「もう、彼女は嫉妬に狂った般若ではないのよ…般若や鬼ならば許されることもあるわ…でも、あの悪鬼魔は、悪に自らの身を晒し、サタンに魂を売り渡した姿よ…もう許されることも救われることもないわ…」
「僕も魂を売り渡した………」
「どうして………いつ……そんなことをしたの?…知らなかった………」
淑香は絶句した…雄二は続けた…
「だからこんなところまで来ているんだ…」
「貴方も………それなら、何故私の前にいるの……?…そもそも誰に…?…えっ、私に…………」
「どうしたの?…僕は君に魂を売り渡したんだよ…」
雄二の言っている意味を理解して、淑香は急に顔を背けた…彼女は雄二にそれ以上答えず、裕子たちの逃げ去った方向へ飛んで行ってしまった…雄二は思わず悪態気味に独り言を言つた…
「また、行ってしまった…」
雄二は一人残された…彼一人になると、周りは全く光がない星空の下の砂漠だった…しばらくすると、目が慣れてきた…冷たく乾燥した空気…遠くの小さな焚き火…エトロがそこにいる…今はそこへ行くしかない…
どのくらい歩いたのだろうか…火のありかは遠く、なかなか近づけない…雄二はこの二日ほど、何も食べていなかった…砂丘や岩場を上り下りする雄二のスニーカーの足音だけが響いている…ここで獣に襲われてはいけない…そう思いながら、足を早めていた…
「誰だ?…」
アラム語だ…目を覚まして外へ出てきたのは、毛皮の男だった…石を手に持ち、長い羊飼いの杖を構えている…
「旅人か?…見慣れねえ顔、服も不思議な格好だべ…こったら時間に歩いているのは悪霊だげだ…おめえは悪さしぬぃ来ただか?…」
雄二は相手を刺激しないように丁寧に事情を説明した…しかし、丁寧な言葉遣いはかえって相手に疑念を持たせた…
「そったらこどば、おれたぢぁ使わねど…おめぇば、あぐりょうだべ…」
雄二はもう直ぐ頭上に輝く星、ノエルを説明し、怪しくないことを訴えた…淑香に教えられたようにエトロを訪ねてきた、とも言い添えた…
「なにぃ、エトロだと?…そったら名はワの代々の神官様の名めえだぞい…」
「そうです、この虫けらは神官様を訪ねてきたのです…それは光、つまり永遠のうちに生まれた方を探し求めるためです…そして、今、ノエルすなわち良き知らせを共に喜ぶ為に来たのです…」
「そこさまで言うなら信じるべや…こっちさこい…」
彼は焚き火まで案内してくれた…そこには火にくべられた子羊の肉が香ばしく、雄二の腹を刺激した…その音に気づいた毛皮の男は、やっと気を許したようだった…
「まんず、兄貴で神官のエトロのいのりからだで…スィバシ待て…そのあとだらば、食え…」
たしかに「エトロ」と言った…彼の同族の歳上の人らしい…そのうち「エトロ」と言う名らしい長老が立ち上がり、祈りを捧げ始めている…
「ここにいるみいんな…ことの初めだ…これから皆で祈りを合わせるべ…」
雄二はエトロと目を合わせた…エトロは他の皆を見渡すと、また口を開いた…
「オラがオドゥはまぎびど…オラにぃ、頼りなぐ、望みなぐ、心細いことはねぇ…
オドゥはオラを草っパラ、水場にタガさんノヨ…
オドゥはオドゥだで、オラの魂生きかいらしてタガさんノヨ…
………オドゥ、ミゴさん、セエレエさんの名さぁよって…エメン…」
不思議な祈りだった…意味はよくわからないものの、祈りの意味、平安の意味がわかったような気がしていた…
食事が始まった…同じグループの羊飼いの少年が、彼等の服と暖かいクリーム色のミルクをよこしてくれた…
「僕は虫けらの雄二…君の名は?」
「おらけ?…おら、ヨエルち、言うだ…」
「ヨエル……………良い名だ…」
「ユージィ…『虫けら』言うだか?…」
「うん、僕は吹き飛ばされながら、ここまで迷い込んできた…何も出来ない虫けらさ…」
ヨエルは雄二の顔を無言で見つけ、気を取り直すように語りかけた…
「虫のユージイ、上…」
満天の星…いくつかの流星が流れ始めていた…
……………
天の大軍が去った後、一つの星が東に光った…漆黒の闇を引き裂く光の道…羊飼いたちは淑香達に教えられた通りに出かけていった…
次の日の朝、彼らは陽気な踊りを披露していた…祭りとほとんど縁のない人々だと思われたのだが…彼らの踊りは珍しかった…
ハレルー
ハレルー
ハレルー
ホウズラシエン
耳に残る低い旋律とリズム…互いに見つめ、腕を絡め、膝を高く上げる円舞…高く掲げられた杖…
彼等は明らかに何か良い知らせを受けていた…
…………………………
彼等は僕の出発を祝ってくれた…喜び踊ることで淋しさを喜びに代え、彼等は行く末を祈ってくれた…陽気な彼等の顔…雄二のための祝福の言葉…虫けらのように来た彼は、多くの兄弟姉妹と人生とを得て別れを告げた…
朝のうちに砂漠の東の端にたどり着いた…周りには葡萄畑と小麦畑…塀に囲まれた畑の続く道…乾いた黄変色の砂と岩にまみれた比較的新しい石畳…そのはるか先に城砦が見えてきた…ベイトラハムだった…
次第に坂は急峻になり、坂を登りきると、町の入り口にたどり着く…警備のローマ兵が雄二を呼び止めた…
「どこから来た?…」
「砂漠の民…」
「羊飼い?…お前らは戸籍確認の必要はないはずだが?…入ってもいいが、泊まることは許されないぞ…」
農業の町にしては混雑している…先ほどの羊飼いたちとは異なる上品な言葉遣い、ローマの言葉、ギリシャの言葉…早口の言葉使いが入り乱れていた…
「裕子たちも、淑香もこの町へ来たはずなんだが…しかし何でこんなに人が入り乱れているんだろうか?…」
雄二は淑香のオーラを探した…
淑香のオーラの漂う旅籠の前…身をすっかり包んだ淑香の姿…はみ出ていた髪の色で彼女はすぐにわかった…すでに隊商が出発する直前だった…
雄二を見つけた淑香はやっと声をかけてくれた…
「用心棒で雇ってあげるわね…」
「君は?…」
「私はヨーゼフ一家とともに、この隊商に紛れて旧プトレマイオス帝国領に向かうのよ…あなたや他の男達は用心棒…」
「でも、僕にはそんな経験はないよ…武器もないし…」
「放課後に居合いを練習していたじゃないの?…」
「あれは、周りを感じ自らを見つめる練習だよ…」
「周りを知ることも学んでいたなら、それで十分なはず…私は知っているのよ…じゃあ、こちらにきて…」
案内された用心棒用の馬車には、鍛冶屋の用意した刃物類があった…多彩なショーテル…バランスと重さ…握りと掬…雄二はそれらを用心深く見て歩いた…しかし、雄二は剣士の真似事をするつもりはなかった…ショーテルの横には、無造作に積み上げた甲冑類があった…それらはローマ軍兵士と同じ形、そして分厚く重かった…
試すところが欲しかった…生活道具用の馬車の陰は無人だった…二ヶ月ぶりの稽古…武器こそ持たなかった…甲冑を着けて受身、ステップ、空剣のままの構え…先日まで詩音や民生達とともに練習してきた動きだった…
「まあ、満足はできるかな…」
雄二はそう感じた…その時、異様な歓声が聞こえた…
「おめえら、この隊商には、赤ん坊はいねえだろな…居たら差し出しな…ヘロデ大王様が全てを始末せよ、とおっしゃられているんだ…」
ガヤガヤという用心棒達の声が大きい…混乱しているに違いない…威勢のよかった隊商の男達は、すっかり黙っている…雄二は彼等の後ろから気配を消しながら用心棒達の列の後ろに立った…
六人ほどのならず者だった…ズカズカと馬車に入り込もうとする…このままではヨーゼフ一家を見つけられてしまう…
「赤子の声…男の子か?…頭ぁ、見つけたぞ…」
今更隠し通せはしなかった…淑香のため…雄二はそれだけを考えて彼等の前へ出た…
「お待ちください…」
「なんだてめえは?…甲冑を着た羊飼いか?…ヘンテコだなぁ…」
「その馬車に入り込むのはお断りです…」
「俺たちは、ヘロデ様の警備兵さん達の指示で動いているんだぜ…」
「重ねてお断りします…」
六人衆は用心棒達を囲みはじめた…このままでは、用心棒達が隊商に同行出来ない…
「六人が相手ならば、一度で力を奪える…身を低く、右手と右足を揃えて踏み出す…相手の右手首を取ってやり過ごし、他の相手にぶつける…三回…殺すこともない…」
虫の知らせ、つまりは淑香がそう教えていた…
「僕の練習相手になってください…」
雄二はそう言いながら、一歩前に出て腰を低く構えた…その隙に用心棒達が隊商を出発させる……はずだった…しかし、ならず者も阿呆ではない…さっさと雄二を仕留めようと、囲んでいた…
勝負は一瞬…六人の剣、対する雄二の手は六本の光、のように見えた…淑香の伝える感覚に応じて、手の動きは滑らかに動き、倒された六体はしたたかに地に叩きつけられた…