桜魔ヶ時
タイトルの読み方は、『おうまがとき』です。
朝はどんよりとした空だったが、昼になると晴天といいたくなるくらいによく晴れた日。4月にしては少し寒い中で桜が満開を越え、少しの風でも花びらは舞を舞っている。桜の多い町の中を、一人の女性が靴音も高く走っていた。彼女は真新しいスーツを着て、同じく新しい黒いかばんを持ち、目立った装飾をしていない無難を通り越して地味とすらいえる髪型をしていた。その顔には慌てている中に隠しきれない安堵感のようなものが漂っていた。色々と不安はあるが、ともかく始めての面接が終わったことに対してほっとした気持ちになっていたのである。しかし、その余韻に浸ってゆっくり歩くには乗る予定の電車の発車時間が迫っていた。その電車ではなくてはならない特別な理由は無い。予定している電車だと乗り換えの手間があまり無くてすむという理由で、なんとなく慌てていた。
しばらくそのまま走っていたが、足元に合った小さな段差につまずいて転びかけた。何とか転ばずにすんだが、うっかりと手に持っていた地図の書いてあるプリントを落としてしまった。
「あ!しまったー。」
そうつぶやきながら彼女は地図を追いかけ始めた。幸い地図はあまり遠くに飛んでいなかったので、思っていたよりも早く拾うことができた。ふと周りを見ると、現在は国道の下を通る道のちょうど手前であった。そして、短いトンネルの向こうには満開の桜が花開いていた。
コンクリートでできた、それほど明るくないトンネルをくぐると視界は思ったよりも開けなかった。なぜなら、桜は1本ではなく50mくらい続いている並木道であったから。桜並木の両側には、またいで渡れないくらいの幅の水路があり、その外側には田んぼがあった。時間的に青空は夕焼け空となっており、沈みかけた夕日と桜の花に思わず見とれていると、ふと彼女は嬉しいことに気がついた。それは本日利用した駅の近くに見えた建物であり、地図を見てみると桜並木の反対側の道から駅へと繋がっていることだった。
電車を逃すのは惜しいが、それ以上にこの見事な桜並木(ちょうど見ごろでもある)を急いで通過してしまうのがもったい。そう考えて彼女はのんびりと並木道を歩き出した。半分くらい進んだとき、不意に強い風が吹きいて視界をさえぎるほどの桜吹雪になった。彼女は思わず目をつぶって立ち止まってしまった。
桜吹雪が晴れた気がして、目を開けると、先ほどまではいなかった老婆が一人いた。老婆は、驚いたような顔をしていた。若葉色をした髪の毛、桜の幹のような色の肌、そして瞳の色は桜の蕾のような色をしている。老婆が着ているのは、桜色の着物に萌黄色の帯という、全体的に桜から考えられる色をしていた。その姿に、彼女は驚きすぎて言葉も無かった。
「な・・・んでここに人が?今は黄昏だから迷い込んだのか。」
驚きから立ち直るのは老婆の方が早かった。そして、状況に納得したのか何度かうなづいた後に、まだ驚いている女性に向かって慌てて叫んだ。
「人がここにいてはいけない。もうすぐ通路が閉じてしまう。そしたらもう元には戻れないぞ!!そしたら待っているのは食われる運命だけだ。それが嫌なら早く来た道をお戻り!!」
その言葉で女性は驚きから覚めたが、驚愕した。
「どっどういうことですか?食われるって?」
声は発したもののまだ動けないでいる女性にじれたのか、老婆は思いもよらぬ俊敏な動きで女性の手を引いて走り出した。女性急は急に引っ張られてこけかけたが、それでも何とか老婆と一緒に走り出した。周囲は急に光を失い始めているかのように、刻一刻と暗さを増してきている。
先ほどまで見えていたはずの桜並木の上方が見えないほどに。月光や星明かりもなく、ただ闇だけが広がっているかのように。
「とにかく走りながらお聞き、私はこの道の番人さ。ここは、人の世と妖の世の狭間。でももうすぐ道が閉じる。そしたらここは妖の世の側になる。」
老婆は一度言葉を切り、一緒に走っている女性を確認する。女性が聞きながら必死に走っているの見るとまた、前を向いて話し出した。
たった50mくらいのはずの道のはずが、まだ桜並木の中である。そして並木道の外には、何者かわからないものが徐々に増えている気配が漂いだしていた。女性はそれらが自分を狙っていることをなんとなく察した。怖くなり思わず老婆の手を強く握って、走る速度を上げた。
「お前さん、まだ死にたくは無いだろ?」
「もちろんです。」
条件反射のように女性は答えた。それを聞くとまたさらに老婆は速度を上げた。女性は急に引っ張られる速度が増したにもかかわらず、不思議と苦労も無く走れることに気がついた。
やがて、桜並木の端が見えてくると老婆は手を離した。
「ここから先は、私はいけない。お前さんの出せる限界まで走ってトンネルを超えな。トンネルを越えるまで決して振り返ってはいけないよ。わかったね。」
真剣は老婆に気おされ、女性はうなずいた。すでに桜並木の外は闇に包まれだしており、恐ろしい気配が満ちてきていた。
「ありがとうございます。」
「礼はいいから早くいきな。」
ぶっきらぼうだが優しい声に、もう一度女性は頭を下げた。ここには1秒だって長く居たくないが、御礼はどうしてしたかったから。そして、無意識に走りにくいヒールを脱ぎすてて彼女は必死に走った。恐ろしさに駆られて、助かるには走るしかないと本能が察して。たまに後ろに何かが迫っていないか確認したくなったが、老婆の忠告を思い出して決して振り返らないように前だけを見つめて。
どれだけ走ったかわからなくなった頃、彼女は街灯を見つけた。なんとなく、その明かりにたどり着ければ助かる、そう感じた。もうすでにくたくたに近いが、最後の力を振り絞って走った。とにかく必死に走って、そして街灯に触れる直前に、また転んでしまった。しかし、手はちゃんと街灯に触れていた。
もう大丈夫。そう感じて、彼女はなんとなく今まで来たほうを振り返ってみた。そこには、くぐる前と変わらない国道の下を通るコンクリート製のトンネルが口をあけている。その向こうには、街灯に照らされた桜並木があるだけであった。そして、空を見ると今さっき太陽が沈んだようであった。時間を見ても、彼女がトンネルをくぐる前とほぼ変わらないようであった。唯一つ違うのは、トンネルに入る前は履いていたはずの靴を履いていないことであった。
もう一度トンネルを通るのは怖かったが、恐る恐る並木道に靴を確認しに行ったが、どこを探しても靴は見つからなかった。その上、並木道に特に変なところはなく、予想通りすぐに反対側の道へ出てしまった。夢のようであったが、靴が無いことが夢ではなかった証拠である。その結論に至って、女性は命があったことに感謝しつつ、靴をどうしようか悩みながら岐路に着いた。
後日、恐怖体験をした直前の会社から内定をもらえたが、他の会社からも内定をもらえたことを契機に、結局彼女は他の会社に勤めることにした。あのときのことが恐ろしく、とてもじゃないがあのあたりに行きたくなかったというのが本音ではあるが・・・。
終