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眼鏡を作る

 車窓の景色が、灰色から緑色に変わる。ビルばかりの沙漠だと揶揄されることが多い都下にも、緑豊かな、静寂に満ちた田舎みたいな場所が有る。そのことに、怜子は正直に驚いていた。

「どう見ても都下だとは思えないだろ、ここら辺」

 右耳に響く、勇太のからっとした言葉に、無意識に頷く。その、怜子自身の行動に気付くや否や、身体が熱くなったように感じ、怜子は目を伏せた。

「もうそろそろ、だな」

 その怜子の耳に、勁次郎の落ち着いた声が入ってくる。

 大学の先輩である勇太と勁次郎に連れられるまま、怜子は少し古ぼけた感のある電車に揺られていた。行き先は、聞かされていない。「保険証を持ってきて」。昨日そう、告げられただけ。それでも、この春に知り合ったばかりでも、勇太さんにも勁次郎さんにも、怜子は信頼感を確かに持っていた。ここに居ない、『歪みを識る者達』である香花さんにも、そして雨宮先生にも。だから。顔を上げることによって見えた、ロングシートの向こうに見える緑色多めの景色に、怜子はふっと息を吐いた。

「ここだ」

 見失いようがない勁次郎の大きな背に続いて、電車を降りる。まだ慣れないICカードの改札に戸惑いつつも降り立った駅は、怜子が高校時代に通っていた田舎の中心として機能していた町よりもこぢんまりとしているように、見えた。バスロータリーの向こうに見えるのは、二,三の低層ビル。そしてその向こうには、どう見ても畑としか思えない赤茶色の土地が、ぽつんぽつんと建つ家々の間に広がっている。これが本当に、都下の町なのだろうか? 怜子は思わず目を瞬かせた。

「少し歩くけど、大丈夫か?」

 その怜子の耳に、勇太の声が響く。怜子がこくんと頷く前に、勇太が車一つないロータリーをまっすぐ進むのが見えた。

 その勇太に、勁次郎が息を吐く。それでも言葉無く、ロータリーをぐるりと回る歩道を歩き始めた勁次郎に、怜子も無言のまま歩を進めた。

 しばらく無言のまま、三人で、駅から伸びる一本道を歩く。家々の間に広がる、整然とした畑では、春馬鈴薯や牛蒡を収穫する人々や、伸び始めている夏野菜の緑色が盛んに目に飛び込んでくる。都下でも、野菜は近郊で栽培した物が売られているという。中学や高校の社会で習ったことを、怜子は静かに思い出していた。

 と。

「やっと着いた」

 歩いて暑くなったのかフード付きパーカーの襟をばたつかせながらの勇太の言葉に、はっと顔を上げる。『医院』と書かれた看板が翻る日本家屋が、怜子の目の前に有った。ここが、目的地、なのだろう。無意識に、こくんと頷く。しかしこの日本家屋の中が医院? 設備などはどうしているのだろう? 思わず首を傾げてしまう。

「やっと来たね」

 不意に、白衣を着た大柄な影に目の前を塞がれる。

「雨宮君から電話もらって待ってたんだよ。この子が新しい子? 可愛いじゃない」

 肩幅の広い、怜子の母よりもかなり年上の女性。それだけは、何とか分かる。その女性に促されるままに、怜子は一人、日本家屋の横にある蔵のような建物の中へと入っていった。

「ここが私の医院。眼科が専門だけど大抵の病気だったら何でも診るよ。都下なのにここで医者になりたいって奴は居ないからね」

 どう見ても近代設備にしか見えない機械類の真ん中で、胸を張った女性が両手を広げて大きく笑う。

「雨宮君から聞いてるよ。あんた、あの建物の歪みが見えるんだって?」

 単刀直入な女性の言葉に、怜子はこくんと頷いた。

「日常用に、歪みが見えなくなる眼鏡を誂えて欲しいって雨宮君は言ってたけど、眼鏡を作るんだったら視力を測らないと」

 怜子に機械の前に座るよう促しながら、女性は次々と色々な話をする。その中で、怜子がかろうじて分かったことは、この家は、雨宮先生の恩師であり、帝華大学理工科学部の建物の、空間を歪ませて容積を広くする理論を打ち立てた橘教授の実家であることと、女性が橘教授の実の娘であること。

「うん、近視が少しに、乱視もあるね」

 話が一段落する前に、検査が終わる。更に喋りながら書いたメモを、女性は怜子の手の上に乗せた。

「これを、向こうの家のじいさんに渡せば、ぴったりの眼鏡を作ってくれるよ」

 怜子を見詰め、にっこりと微笑む女性に、ぎこちなく頭を下げる。そしてそのまま、怜子は小走りで、日本家屋の方へと向かった。

「あ、終わったんだ」

 日本家屋の縁側で日向ぼっこをしている勇太が、怜子に向かって手を振るのが見える。勇太を見てやっと、怜子の緊張は解けた。

「入り口は向こう」

 その勇太の指示通り、横の入り口から日本家屋へ入る。暗い土間の向こうに見えた光景に、怜子はぎょっとして足を止めた。土間の壁一面に飾られていたのは、様々な色と形をした眼鏡。そして土間の奥の、眼鏡の入ったショーケースらしきものに囲まれた空間には、白髪の男性が一人、何処か虚空を見詰めて座っていた。

「この人が眼鏡を作ってくれる人」

 驚きで動けない怜子の耳に、勇太の明るい声が入ってくる。土間の方に現れた勇太に促されるままおずおずと、女性に渡されたメモを、橘教授の弟であると女性が言っていた白髪の男性に渡すと、白髪の男性は近くの机に置かれていた電気スタンドのスイッチを入れ、近くの戸棚から工具やレンズを取り出し始めた。

「フレームは、どれが良い?」

 あくまで明るい勇太の声にほっと胸を撫で下ろしながら、目立たない黒の細縁のフレームを選ぶ。

「もう少し可愛い物の方が良いんじゃないかい?」

 太い声に振り向くと、先程の女性が、入り口近くで笑っていた。

「木根原の眼鏡だから、木根原の好きなもので良いと思うけど」

 あくまで明るい勇太の声に、息を吐く。白髪の男性に選んだフレームを渡すと、怜子は勇太と一緒に座敷に上がった。

「すぐ出来るからね」

 その怜子の前に、女性がお茶と煎餅を出してくれる。

 そういえば、勁次郎さんは何処だろう? くるりと辺りを見回した怜子は、仏壇の上にあった写真に目を留めた。怜子の眼鏡を作ってくれている男性と同じ顔をしている、上品そうな男性。おそらく、この写真の人物が橘教授なのだろう。

「薪割り終わりました」

 その怜子の背後で、勁次郎の声が響く。

「助かったよ」

 好い加減、風呂も近代化したいんだけどねぇ。女性の言葉に、この場所が都下であることを、怜子は少しだけ忘れた。


 白髪の男性が作ってくれた眼鏡を掛けて、帰りの電車に乗り込む。怜子の顔にだけ合うように作られた眼鏡は、少し混雑した電車が多少揺れても、電車に立って乗ることにあまり慣れていない怜子が近くの人にぶつかっても、そう簡単には顔の定位置からずれない。そのことに、怜子は正直驚きを隠せなかった。

「良い眼鏡だろ?」

 その怜子に、横に立った勇太が囁く。

「御礼は巻き寿司で宜しく」

 続いて響いた勇太の言葉に、笑い声が出ると同時に、心がほっと息を吐くのが、分かった。

 この眼鏡があれば、大学に通い始めた頃のように『歪み』に戸惑うことは、おそらく無くなる。大学にきちんと通い、独り立ちする為の資格を期限までに得ることができる。怜子はもう一度大きく、安堵の息を、吐いた。

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