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そして……

 今はがらんとしてしまった、かつての自分の『城』を、ただ静かに見つめる。

 雑多で無駄な書類とにらめっこをしたパソコンも、唸りながらアイデアを殴り書いた机も、『歪みを識る者達』が集まってレポートや試験勉強にいそしんでいた大テーブルも、今は無い。全ては、夢。そうとしか言いようのない感情に、秀一は舌打ちをこらえた。

「片付いてるじゃないか」

 意外を含んだ声が、耳に響く。振り向かずとも、この帝華大学でかつて共に学んだ腐れ縁、この大学の助教であった涌井が後ろに立っていることが、気配だけで分かった。

「今日になっても終わらないんじゃないかと思ってたけど」

 バカにするな。言い掛けた言葉を飲み込む。既に社会人として独り立ちしている弟の勇太に昨日夜遅くまで片付けを手伝ってもらったことは、秘密だ。三日前、涌井と同じ心配を国際電話でしてきた平林勁次郎の声を思い出し、秀一は涌井に聞こえない声でふふっと笑った。とにかく、後ろの涌井にだけは、昨日までの狂乱を知られるわけにはいかない。いや、大学時代からの腐れ縁だ。数学以外にはだらしない秀一のことなど、涌井には全てお見通し。おそらく勝ち誇った表情をしていると思われる涌井の顔を見る為に振り向こうとした、秀一の心を支配していたのは、底知れぬ寂しさ。

 昔のような賑やかさは、もう二度と、秀一の人生には訪れない。俯いて、落ちていた小さなクリップを蹴る。国の方針により、この帝華大学は廃校になった。募集停止は来年度からだが、大学院生や学生の殆どは既に、代替候補になった大学に移っている。卒業式も、……今日が最後だ。

 木根原や三森が大学院を修了するまで、この大学が残っていて良かった。黄砂に霞む窓の外を見上げて微笑む。准教授であった秀一も毎回参加しなければならない教授会に不穏な空気が漂い始めてからずっと蟠っていた小さな希望だけは、とりあえず叶った。それだけは、何者かに感謝すべきなのだろう。もう一度、落ちていたクリップを蹴り、秀一は今度は大きく微笑んだ。

 『歪み』を『見る』ことができた木根原は、私立校の先生になる予定であるらしい。元々教員を希望していた木根原だから妥当な選択であろう。弟の勇太と付き合っているのかどうかは分からないが、修士課程の勉学の合間には、木根原の父母が作った総菜と共に秀一の家に現れ、秀一の母と楽しく料理をしている姿があった。一方、『歪み』を解析し、修正する手伝いをしてくれていた才女三森は、博士課程終了後も居候先の電気街で働くことにしているらしい。大学がなくなり続ける今の状況では博士号を生かした就職先は無い。電気街でも、三森は十分楽しそうだ。三森が幸せなら、口出しする権利は秀一には無い。そう言えば。腕時計に目を落とし、首を傾げる。ここから四駅先の大学本部で行われる卒業式の後でこっちにも来るというメールを三森から昨夜もらっているのだが、二人とも現れる気配が無い。卒業式が長引いているのだろうか、それとも、無くなってしまう大学に去りがたさを感じているのだろうか? いや木根原はともかく三森がそんな郷愁じみた想いを持つわけがない。もう少し待とう。所在無げに床を蹴り、秀一は再び窓の外を見上げた。

「そう言えば。……『歪み』は、どうなった?」

 まだ後ろにいたらしい、涌井の声が再び耳に響く。秀一は今度はきちんと涌井の方を向き、そしてにやりと笑った。

「心配するな。『修正』は終わっている」

 橘教授の理論を構築し直し、三森に手伝ってもらった結果、大学構内にある『歪み』は全て消えた。後は木根原にチェックしてもらうだけ。空間の広さは殆ど無くなったが、高校時代からの腐れ縁である上原と井沢が計画している生涯学習センターに転用するには丁度良いだろう。もう一度、涌井に向かって口の端を上げると、涌井が肩を竦めるのが見えた。

 その涌井の向こうに、華やかな色が見える。

「雨宮先生! 涌井先生!」

 木根原と三森だ。卒業式らしく、二人とも振袖と袴を身に着けている。袖に白い蘭を配した黒色の振袖に古風な海老茶色の袴を履いた木根原と、裾へ行くほど濃い色になるワインレッドの袴と白地に臙脂色の紅葉を散らした振袖を揺らす三森。二人の姿は、しかし不意に、秀一自身の涙でぼやけた。

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