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歪みを識る者達 3

 その夜。

「……あ」

 下宿先である父方の叔母の家で夕食の下拵えをしている最中に、理工科学部にあるロッカーに解析学の教科書を忘れてきたことを思い出す。

「どう、しよう」

 明日は金曜日、帝華大学の本部キャンパスで語学と教養の授業がある日だ。金曜日だから、授業は午前中で終わる。怜子の下宿から理工科学部の建物までは歩いて二十分も掛からないのだから、明日の帰りに取ってくれば良い。だが、明日になったら、そのことを忘れてしまうかもしれない。その不安が、怜子の心をわななかせた。理工科学部の建物で見てしまう、怜子の他には誰にも見えない『歪み』と『幽霊』の存在も、怜子を動揺させるに十分だった。しかしながら。教科書を取りに行けないまま、土日に勉強ができなかったら。もう一つの不安が、脳裏を過ぎる。月曜日の午後にある解析学の講義と演習の授業についていくことができなくなるかもしれない。演習で当てられて、たくさんの学生の前で問題が解けなかったら、点数を引かれた上に恥ずかしい思いをするのは怜子自身。それは、嫌だ。だから。……『歪み』も『幽霊』も、我慢するしかない。あの家に囚われずに独り立ちするには、それしか。

 叔母に断りを言って、夜の道を走るように歩く。丘の中腹にある叔母の家から、本部キャンパスに行くときに使う路線の線路を越え、まだ賑わっているように見えるビル街を歩けば、理工科学部の建物はすぐに目の前に現れた。

 入学式後のガイダンスで説明された通りに、握りしめていた学生証を玄関横の機械に通し、玄関ドアを開ける。学生用ロッカーは、事務室と同じ三階にある。三階までを繋いでいる自動運転のエスカレーターが、不意の人間の訪れに静かに動く音にひやりとしながらも、怜子は何とか自分にあてがわれたロッカーから解析学の教科書を取り出した。

 と。

「……見つからないなぁ」

 誰も居ないと思っていた大学構内に響く、聞いたことのある声に、はっとしてロッカーの影に身を隠す。頭だけを動かして暗闇を見透かすと、見覚えのあるフードが揺れているのが、怜子の視界に入った。

「だから何故夕方大学に居なかったのよ、ユータ」

 ギターを抱えた青年の後ろに、見たことのある小柄で細身の影が見える。

「夕方なら、図書室で見つかってたかもしれないのに」

「ギターの練習してたんだよ」

 なじるような高い声に、青年が面倒そうに手を振っているのが見えた。

「まあまあ、二人とも」

 その二つの影の間に、かなりの大きさの影が割って入る。あの肩幅の広さは。怜子の脳裏はすぐに思い当たる人物を引き出した。確か解析学の演習の時に、演習問題の解き方について様々なアドバイスをしてくれる、平林という名前の大学院生。

「今ここで喧嘩をしても仕方無いだろう」

「そうね、時間の無駄だわ」

 辛辣な声に、背筋が震える。逃げようとした怜子は、しかし、その三人の側に現れた背の高い人物にはっと目を見張った。ブラインドの降りた窓から入る、微かな光に、金色の髪が光っている。あれは確か、線形代数を教えている雨宮准教授! 特徴的な髪と瞳の色をしているから、怜子ですら、入学してすぐに顔と名前を覚えた先生だ。

「結局見つからなかったか」

 微かに揺れる金色の髪に、目が離せない。

「昼は大講義室、夕方は図書室。しかし今はどちらにも居ない」

「ユータのギターの音だけじゃ、埒があかないわね」

「しかしそれだけしか、今の我々には手掛かりは無いのですよ」

 相変わらず辛辣な口調の小柄な影を、平林という名の大学院生が制している声が、暗闇に響いている。

「平林の手刀でこじ開けるわけにもいかないしなぁ」

「止めてください、雨宮先生。大学が歪みだらけになっても良いのですか?」

「どうせ誰にも見えてないだろう」

 平林という名の大学院生が雨宮先生の言葉を制する声も。

 彼らが言っていることの一欠片も、怜子には理解できない。ただ、恐ろしさだけは、確かに感じる。だから。怜子は気力を振り絞ると、音を立てないように彼らから離れた。

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