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約束の、その先へ

 手の下で、落ちた受話器がかちゃりと音を立てる。

 下宿で共用となっている黒電話の前で、勁次郎けいじろうは呆然と立ち尽くした。


 寝不足でぼうっとした頭のまま、大学構内へ入る。

 都会の真ん中に聳え立つ帝華大学理工科学部の校舎内は、吹き抜けに設置された嵌め殺しの硝子窓から入ってくる五月の陽で眩しいほどに明るかった。

 この状態では、十四階にある雨宮准教授の部屋には行けない。働かない頭に危惧を覚え、エレベーターホールから踵を返す。普段は飲まないが、二階のカフェでコーヒーを買ってみよう。その思考で心を落ち着かせ、顔を上げた勁次郎は、目に入ってきた光景に目を瞬かせた。三階まで吹き抜けになった、清潔なテーブルと椅子が並ぶカフェスペース。その、光が入らない隅の方に陣取って、見知った三人が何やら作業をしている。

「あ、平林さん」

 近づいた勁次郎の気配を感じたのか、すっきりとした眼鏡を掛けたまだ幼く見える女性が、勁次郎に小さく手を振る。その女性、数理工学科三年の木根原怜子さとこに小さく手を振り返すと、勁次郎は一足で、木根原を含む三人が陣取っていた丸テーブルの横に立った。

「あ、おはようございます」

 木根原の次に顔を上げた、物理工学科の四年生で勁次郎がお世話になっている雨宮先生の弟でもある雨宮勇太ゆうたの会釈に、会釈を返す。勇太の横で小さなノートPCをつついていた三人のうちの最後の一人、飛び級を重ねて修士二年に在籍している木根原と同い年の三森香花きょうかは普段通り、別のことを考えている虚ろな瞳で勁次郎を見やってから再びPC画面に目を向けた。その三森に釣られるように、勁次郎もPC画面を覗き込む。おそらく『音』の波形であろう、規則的だがギザギザした波の形に、勁次郎は少しだけ首を捻った。この三人は、何をしているのだろう?

「ほら」

 不意に三森が、勇太の肩をペンでつつく。

「ここの『歪み』を、フーリエ変換で無くせば」

「だから」

 PC画面を指で指し示した三森に、普段はケースに入れて背負っているギターを持ち直した勇太は鼻を鳴らすような声を上げた。

「それどうやって一瞬で計算しろと」

「やれるでしょ」

「三森じゃないんだから」

 確かに。唇を尖らせた勇太に心の中で同意し、勇太の隣に広がっているノートの上の、木根原らしい几帳面な積分記号を見つめる。帝華大学始まって以来の逸材だと噂される三森なら、この複雑な積分計算も一瞬で解いてしまうだろう。だが。ノート上で計算を続ける木根原の真面目さに、勁次郎はほうと息を吐いた。

 帝華大学理工科学部、今勁次郎達がいるこの建物には、ある特殊な仕掛けが存在している。建物を建てる際に空間を歪ませ、建物の外観よりも大きな内積が取れるようにしてしまったのだ。帝華大学の教授であった橘教授が編み出したその理論は完璧であったと、橘教授の教え子であった雨宮先生は常に口にしている。だが、その仕掛けが故か、建物には時折『歪み』が生じ、偶然、『歪み』の周辺にいる物や人を飲み込んでしまう。その『歪み』を見つけ、『歪み』のことを誰にも知られないように正す。それが、雨宮先生がこっそりと集めた勁次郎達「『歪み』を知る者達」の、裏の責務。

「とにかく」

 鼻白む勇太にまくし立てる三森の声で、我に返る。

「『音』で『歪み』を相殺するためには、どうしても『歪み』に合った『音』が必要なの」

「だからそれをどう見つけろと」

「そのためにフーリエ変換の計算が」

「だからこんな複雑な積分計算一瞬でできないって」

 おそらく、去年の春に雨宮先生が思いついた「『歪み』を修正する方法」がもっと簡単にできないかどうかを議論(ほぼ三森が一人でまくし立てているようにしか見えないが)しているのだろう、年下の三人に、胸が痛む。昨夜の電話は、手広く商売をやっている父から。内容は、祖父が倒れたので戻って家業を手伝えと言う、強制を持つ依頼。商売のことなど全く分からない自分に、見も知らぬ南方の工場に責任者として赴けと、言われても。戸惑いと怒りが、勁次郎の全身をいつになく熱くした。学業も、そして『歪み』についても、まだまだ途上。何よりも、雨宮先生との『約束』すら、まだ果たしてはいない。こんな状態で、ここを離れることが、……できるわけがない。無意識に強く、勁次郎は首を横に振った。

 そういえば。無理に気持ちを別の方向に持って行く。普段は、『歪み』のことを話し合うときだけでなくレポートや試験勉強をするときも、三人は雨宮先生の研究室の片隅に設えられたテーブルを利用している。それなのに、今日はなぜ、人が多くて騒がしい、こんなところで?

「雨宮先生、今朝からずっと数学の問題で唸ってる」

 僅かな笑みを浮かべた三森の回答に、微笑んで肩を竦める。『先生』である前に『数学者』である雨宮先生らしい。三人に向かって会釈すると、勁次郎は再びくるりと踵を返した。


 そのまま、コーヒーを買わずに雨宮准教授の研究室へと向かう。

 音もなくドアを開けると、三森の言葉通り、雨宮先生は部屋中にばらまかれたメモの前で黄金の髪を掻き上げて呻いていた。

「……平林」

 その雨宮先生が、勁次郎を見上げて唸り声を消す。

「どうした」

 乱雑な数式が書かれた多量の紙を脇に押しのけた後、雨宮先生は勁次郎を手近の椅子に座らせた。

「話せ」

 明快に勁次郎を見下ろした緑色の瞳に、心を決める。先生との『約束』を果たせなくなってしまったことは、申し訳なく思う。だが、あの三人がいれば、きっと何とかなる。だから。

「実は……」

 言葉を吟味するように下唇を噛み締めてから、勁次郎は殊更ゆっくりと、口を開いた。

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