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幽霊、退治します

 第二化学実験室に幽霊が出るという噂を、勇太が耳にしたのは、冬学期が始まってすぐのこと。

 夏休みが始まってすぐ行方不明になった、彼女に振られて自殺したという噂の学生。その学生の幽霊が、夏休み中、集中講義や自習などで実験室を使う学生多数に目撃されているという。そして、その幽霊は、実験室内でいちゃつくカップルが居れば必ず、そのカップルの女性の方を掠おうとするらしい。

 そんな噂、この大学には似合わないな。授業の前、講義室の定位置に陣取って辺りを見回した勇太は、思わず鼻を鳴らした。首都から程良い距離、様々なビルが立ち並ぶ大きくも小さくもない街のど真ん中に立っている十四階建ての建物が、帝華大学理工科学部。質素な四角四面の建物だが、それでも中は現代風に明るく、空調も照明も学業に支障が無いように管理されている。それは講義室も実験室も、教授達が使っている研究室も同じ。そんな場所に、幽霊なんて。

「勇太も、気をつけろよ」

 その勇太の前に、同じ物理工学科の友人達が現れてそう言う。何を心配しているのだろう? きょとんとする勇太に、降って来た言葉は。

怜子さとこちゃん、掠われないようにしないと」

 関係無いだろ。言いかけた言葉が、喉の途中で消える。頬が熱くなるのを感じ、勇太は心の中で首を横に振った。一学年下で、数理工学科の木根原怜子とは、ただの友達。教養の数学や理科の講義では一緒に授業を聴くこともあるし、とある理由で放課後も一緒に様々な作業をすることもあるが、それでも。……それだけ。学科も違うから、勇太と、化学実験室でいちゃつくことなど、おそらく無いだろう。第一、数理工学科の、数学を主に勉強している木根原は、化学実験室で行われる実験や実習の授業を履修することは無い。掠われる心配なんて、全く無い。

「でもさぁ」

 何とか心を落ち着かせようとする勇太の前で、友人達が更に心配になる言葉を吐く。

「あの幽霊、いちゃついてるカップルじゃなくって彼氏がいる女の子を襲ってるって噂があるし」

「怜子ちゃん、勇太と違って勉強熱心だから、実験室の授業も取ってるんじゃないかな、って思うわけ」

 友人達がそこまで言ったところで、授業担当の教員が講義室に入ってくる。それぞれ好きな席に着いた友人達に取り残されて、授業が始まっても勇太は落ち着かなかった。メールを、してみようか? 扱い方が雑なのかあちこち傷だらけの携帯電話を取り出し、そして徐に机の上に置く。勇太が授業中ならば、勿論木根原も別の教室で授業を聴いているはずだ。邪魔は、いけない。強く首を横に振り、勇太は授業に集中しようとした。放課後になれば、木根原は勇太の兄である雨宮秀一准教授の研究室に現れる。その時に、第二化学実験室には絶対に行かないように強く注意すれば良いだけの話だ。……木根原とは「付き合って」いるわけではないが、仲間でもあるし、友人の誤解もある。用心に越したことは無いだろう。

 と。机の上の携帯電話が、微かに振動する。誰からだろう? こんな時に。机の下で、勇太はこっそりと携帯を操作した。昼過ぎのこの時間だから、付き合いで登録だけして殆どやっていない携帯ゲームの宣伝か、それとも。メールを開いた勇太は、メールの送付者欄に見えたある意味予想された人物の名に思わず両肩を竦めた。メールの送り主は、兄である雨宮准教授。そして。「飲み物三人分」。内容はそれだけ。いつものことながら、弟を何だと思っているんだ。勇太の心に、怒りと少しの諦めが渦巻いた。


 授業が終わってから、建物内に入っているコンビニで適当に飲み物を買い、エレベーターで十三階に上がる。兄の研究室のドアを乱暴にノックすると、袖を肘まで捲った兄の指導院生、平林勁次郎がドアを開けてくれた。

「ああ、勇太君」

 わざわざありがとう。静かな声でそう言いながら、勁次郎が勇太の手からペットボトルが四本入ったビニール袋を受け取る。

「コーヒーポットを落として壊してしまって」

 少し湿っぽいながらそれでも綺麗な床は、勁次郎が片付けて掃除したのだろう。そして。掃除に使った箒とちりとりを片付ける勁次郎の横で、この研究室のもう一人の居候、木根原と同じ数理工学科の学生である三森香花が、華奢な足を椅子の上に乗せた格好で部屋のパソコンをつついていた。

「ああ」

 その三森が、勇太と勁次郎の方を向くなり、椅子に座ったまま研究室の大きなテーブルの上に置かれたビニール袋の中に手を突っ込む。よほど喉が渇いていたのだろう、三森は特売になっていたよく分からない花の絵が描かれたお茶を掴み取ると、無言のまま封を開けて半分ほど飲み干した。そして蓋を閉めてからそのペットボトルをテーブルの上に戻し、再びパソコンに向き合う。三森の無愛想はいつものことだが、今日は更に磨きがかかっているようだ。

「雨宮先生がポットを落として割ってしまった時に、パソコンに少しだけコーヒーが掛かってしまったから」

 勇太が三森の行動に首を傾げるより先に、勁次郎が小さい声で説明を入れてくれる。その理由ならば、分かる。勇太は勁次郎に頷いて見せた。極論を言えば、三森は、人間よりも機械に愛情を注いでいる人間だった。

「解析自体は、もう少しで終わるようですね」

 その三森の後ろからパソコンの画面を少しだけじっと見詰めてから、勁次郎がテーブル傍の椅子に腰を下ろす。三森は何をやっているのだろうか? 好奇心に駆られ、勇太は勁次郎と同じように椅子に腰を下ろしながら僅かに揺れる三森の背中を見、そしてテーブルの上に置かれたビニール袋から烏龍茶のペットボトルを取り出した。家ではコーヒーを飲むが、どちらかといえば烏龍茶の苦みの方が好きだ。そう思いながら、ビニール袋に残った二本のペットボトルを見る。そのうちの一本、緑色をしたラベルが、勇太の目に好ましく映った。水の入ったシンプルなラベルのペットボトルは、先輩である勁次郎が飲むことを想定して購入したもの。そして、緑色のラベルが巻かれている、緑茶のペットボトルは。

 と。

「やっと来たか」

 聞き慣れた天敵の声に、少しだけ身構える。視線を、声がした入り口の方へ向けると、事務室に雑務の書類を取りに行っていたらしい、この研究室の主である雨宮准教授が紙束を手に立っていた。

「コーヒーは?」

 持っていた紙束を勁次郎の方に放り投げてから、兄は、雨宮准教授は勇太に向かって手を伸ばす。指導している院生とはいえ、部屋を片付けた勁次郎にお礼すら言わず、更に雑務を押しつけるとは。いつも通りの怒りに駆られ、勇太は兄に向かって右手を差し出した。

「その前にお金払って」

 勇太の言葉に、兄が唇を歪める。しかしすぐに、兄は応接セットのテーブルの上に置かれていたコンビニの淹れ立てのコーヒーに手を伸ばし、カップに口を付けながら自分のパソコンの方へと向かった。

「ところで、平林が撮った第二化学実験室の解析は?」

 勇太を総無視して、兄は三森の小さな背中に声を掛ける。飲み物のお金を払わないつもりか? 激高しかけた勇太は、しかし兄が発した言葉の中にあった単語にはっとして三森を、三森が見ているデスクトップパソコンのモニタを見た。勇太が座っている場所からは、白黒の画面しか見えない。しかし第二化学実験室を、幽霊が出るという噂の場所を勁次郎に撮影させて、何を解析するつもりなのか? 考えられることは、一つ。

「雨宮先生の予想通りね」

 モニタから顔を上げた三森が、テーブルに置かれたビニール袋の方へ細い腕を伸ばす。ビニール袋の中にあった水のペットボトルを開けていた勁次郎の太い腕が、先程三森が半分ほど飲んだお茶のペットボトルを細い腕に渡すのが見えた。

「『歪み』に囚われている人がいる」

 三森の言葉に、勇太の背に緊張が走る。

 勇太の兄、雨宮秀一の指導教官であった帝華大学教授、橘真が、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を応用して作られたのが、この、帝華大学理工科学部の十四階建ての建物。橘教授の理論は完璧であったはずだと、兄は常に言っている。だが、兄の言動とは異なり、この空間は時折歪んでしまい、ほんの時折、歪みの近くにたまたまいた人間を飲み込んで行方不明にしてしまう。帝華大学理工科学部の建物内の『歪み』を見つけ、その歪みを正すことが、雨宮准教授の研究室に集う勇太達の、本来の役割。

「詳しい場所は、怜子ちゃんに見てもらわないと分からないけど」

 木根原が、勇太達と一緒にいる理由は、『歪み』を正確に「見る」ことができる能力を持っているから。『歪み』の場所を解析し、歪まないように修正を行うのが兄と三森の役割。勁次郎は『歪み』がある場所を切り裂いて『歪み』を正しい次元に繋ぐ能力を持っている。そして、勇太の役割は。

「で」

 三森の声が、勇太の思考を破る。

「怜子ちゃんは? 四限の授業無いはずだから、来るはずよね」

「そういえば、来ませんね」

 よく分からないペットボトルの中身を飲み干す三森に答えた勁次郎の言葉に、勇太の背は別の意味で緊張した。まさか。いや、でも。

「木根原、今日はレポートの分からないところを教えて欲しいって言ってたぞ」

 勇太の懸念を、兄の言葉が裏打ちする。烏龍茶のペットボトルを握ったまま、勇太は研究室を飛び出した。

 向かうのは、勿論、第二化学実験室。


 幽霊の噂が学部中に広まっている所為か、放課後の第二化学実験室にもその周辺の廊下にも人影は全く見当たらなかった。勿論、幽霊も、木根原も、居ない。しかし勇太の耳には、歪みから発生する、普通の人には聞こえない微かな振動が聞こえてきていた。間違いない。木根原は、……ここに居る。おそらく幽霊の噂から『歪み』が生じていることを推測し、一人でこの場所を調べようとしたのだろう。そして、『歪み』に囚われた。

 握っていた烏龍茶のペットボトルを実験机の上に置き、背負いっぱなしだったギターケースからギターを取り出す。指で弦を弾くと、耳に響いていた、胸が悪くなるような振動が更に酷くなった。耳に響く振動が、二つの人影を形作る。頭を抱えて座り込んでいる大柄な影と、弱り切ったその影を励ましているように見える、丸くて小柄な影。小柄な方は、おそらく。

「木根原!」

 思わず、叫ぶ。勇太の声が届いたようだ。木根原は不意に顔を上げ、きょろきょろと周りを見回した。助けなければ。しかし、勇太の能力では、『歪み』を「聴く」ことはできてもその『歪み』をこじ開けたり修正したりすることはできない。それが、できるのは。

「ばかねぇ」

 心底呆れた、高めの声が、背後に響く。振り向かなくても、勇太の後ろに三森が居ることはすぐに分かった。勁次郎も、兄である雨宮准教授も。

「勁次郎が居ないと助けられないの、分かってるでしょ」

 そう言いながら、三森が勇太の横に立つ。

「どこに居るんだ?」

 急いたような勁次郎の言葉に、勇太は、木根原の影が聞こえる方向を指差した。すぐに、勁次郎の手刀が、何もない空間を切り裂く。不意に現れた小さな手を勁次郎が強く引くと、木根原と、木根原がもう片方の腕でしっかり掴んでいた痩せ衰えた男性が現れた。

「ここは……?」

 虚ろな目の男子学生を、大柄な勁次郎が担ぎ上げる。そしてそのまま、勁次郎は男子学生を連れて実験室を早足で出て行った。おそらく下の階にある保健室に連れて行くのだろう。しばらくすれば、ここで起こったことを、あの学生は忘れてしまう。これまでの経験から、勇太はそこまですぐに予測できた。後は。

「さて、こちらも仕事をしますか」

 そう言いながら、兄が勇太の横に立つ。兄の頭の中の計算だけで歪みが修正できたのだろう、しばらくすると、勇太の耳に聞こえていた振動は綺麗さっぱり無くなった。これで、この事件は解決だな。勇太はほっと息を吐いた。そして。

「大丈夫か?」

 蒼い顔で実験室の床に座り込んだ木根原の方へ、少しだけ近付く。三森か勁次郎が持って来たのだろう、木根原の手の中には、勇太が買ってきた緑茶のペットボトルが、確かに見えた。

「全く」

 木根原の背を優しく擦っていた三森が勇太を少しだけ見て笑う。

「一人で行動しちゃダメでしょ。勇太が心配するから」

「なっ」

 その三森の言葉に、勇太は我知らず頬が熱くなるのを感じた。

「ベ、別に、心配なんて」

「そうかしら」

 三森の言葉の後から、木根原がおずおずと顔を上げて勇太を見る。

「あ、の、ごめんなさい」

 泣きそうな顔になった木根原に、心が焦る。木根原にそんな顔をさせる為に、勇太はここに来たわけではない。だから。

「良いって」

 再び俯いた木根原に、勇太はできるだけ頑張って笑いかけた。

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