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新たな季節

 四月。

 久し振りに大学に登校した怜子さとこが目にしたのは、雨宮研究室の前で睨み合う二人の男性。一人は、背後の研究室の主、帝華大学理工科学部准教授、雨宮先生。そしてもう一人は、雨宮先生と同い年くらいの、知らない人。

「……」

 二人の険悪な様子に呆然としてしまった怜子を先に認めた、見知らぬ方の男性が、暗い瞳で怜子を睨む。そしてそのまま雨宮先生を一瞥すると、男性は怜子の横をすり抜けて廊下の向こうへと消えた。

「木根原。丁度良かった」

 呆然としてしまった怜子の耳に、先程までの雰囲気など微塵も無い雨宮先生の快活な声が響く。

「ちょっと見てほしいものがあるんだ」

 雨宮先生が手招くままに、怜子は廊下の別の端に立った。

「あ……」

 廊下の隅、消火器が置いてある付近に冷え冷えとした色を認め、思わず声を出す。小さいが、……『歪み』だ。

 帝華大学理工科学部は、外観に比べ内部の充実度が高いと評判の、街中にある十四階建ての建物をキャンパスとして用いている。その『内部の充実度』を支えているのが、雨宮先生の指導教官であった帝華大学教授橘真の理論。橘教授の理論は完璧だと、雨宮先生はいつも言っている。しかしその理論を応用して建てられたこの建物は時折、人を飲み込んで閉じこめる『歪み』を生み出してしまう。その『歪み』を見つけ、正すのが、雨宮先生と彼が見つけた『歪み』に対処できる学生達『歪みを識る者』。

 怜子自身も、建物に生じる『歪み』を見ることができる。その、自分ではよく分からない『能力』が、かけがえのない友人を作ってくれた。そのことに、怜子はこっそり感謝していた。それはともかく。

「確かこの辺りは、『歪み』の頻発区域だったよな」

 あくまで快活な雨宮先生の言葉に、背中の震えを覚えながら頷く。今はまだ小さいが、この『歪み』が急に大きくなってしまったら、雨宮先生も自分も『歪み』に囚われ閉じこめられてしまう。その前に、……逃げなければ。一歩下がった怜子の前で、雨宮先生は廊下突き当たりの壁を睨み、何かを呟いた。次の瞬間。見えていたはずの歪みが、蒸発したように消える。

「な、何?」

 目を瞬かせた怜子の視界に、雨宮先生の勝ち誇ったような顔が映った。

「うん、上手くいったみたいだな」

 橘教授の理論を応用したときに生じた問題点を、複雑な計算で解決する。雨宮先生が持っていた『計算で歪みを修正する』能力を応用することで、建物内の歪みを無くしてしまう。やってみれば簡単なことなのに、今までどうして気付かなかったのだろう。自虐的な笑顔を見せる雨宮先生に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。この方法が上手くいけば、『歪み』に囚われて行方不明になる人はいなくなる。良かった。安堵する怜子の記憶からは、雨宮先生に険悪な瞳を向けていた男性のことは綺麗さっぱり消えていた。


 雨宮先生と睨み合っていた男性のことは、新学期が始まってすぐに分かった。情報の授業を担当する助教の先生。涌井正行という名だと、授業の最初に自己紹介があった。雨宮先生と同じく、この帝華大学の卒業生らしい。これまで他大学いたが、この春無事に母校に戻ってくることができたという、何処か嬉しそうな自己紹介に、怜子は少しだけ混乱を覚えた。この大学に就職できたことが嬉しいのなら、何故、雨宮先生とあんな険悪な雰囲気を作り出していたのだろうか。

 と。

「プログラミング、進んでないね」

 当の涌井先生の声に、筆記具が止まる。

「難しい?」

「いえ……」

 優しげにしか聞こえない声に、怜子は慌てて首を横に振った。確かに、目の前の画面には一文字も見えない。だが、プログラミングには、求めているものは何か、そして目的を果たすためには何が必要か、それをきちんと構築する設計図が必要。『歪みを識る者』の一人で、パソコンやプログラミングに関しては人一倍詳しい三年生、香花さんはそう言っていた。プログラム言語に含まれている関数や命令文の把握、そしてどのような流れでどんなものを作るのか、プログラムを作る前に考えることが、重要。料理と、同じ。だから怜子は、作っている途中の設計書を見せようと、先程まで筆記具を走らせていた机の上の紙を涌井先生の方へ滑らせた。

 その時。

「君も、あの『歪み』というものに関わっているのか?」

 突然、侮蔑を含んだ調子に変わった、涌井先生の声に、心臓が飛び上がる。おそらくその時に何処か触ってはいけない場所に怜子の指が触れてしまったのだろう、次の瞬間、怜子の目の前のパソコンは嫌な音と共に真っ青になった。いや、目の前のパソコンだけではない、怜子が気を取り戻したときには、パソコンルーム内は青い画面と学生達の呻き声でいっぱいになっていた。


 その後の、解析学の授業と演習を、怜子は落ち着かない面持ちで受けた。

 パソコンルームの件は既に、電子機器類に詳しい香花が修繕し終わっている。問題は、……涌井先生が見せた、否定的な感情。あの感情は、何なのだろう? 解けない問題ばかりの演習がようやく終わり、怜子は沈んだ表情のまま教室を出た。

 と。

「やあ」

 廊下の向こうに涌井先生の涼やかな表情を認め、思わず立ち尽くす。

「少し、話、良いかな」

 そう言って、二階のカフェテリアの方へ誘う涌井先生に、怜子は逆らえず涌井先生の後に続いた。

「コーヒーで良い?」

 隅のテーブルに怜子を座らせた涌井先生が、怜子の前に紙コップを置く。コーヒーは、飲めないこともないが得意な方ではない。それでも、飲まなければ目の前の涌井先生に悪いと思い、怜子はそっと紙コップに口を付けた。

「なるほど」

 その怜子を見て、涌井先生は口の端を上げる。

「優しすぎて、断れない。だから、雨宮の道楽に付き合わされているわけか」

「ち、違うっ!」

 思わず、叫ぶ。

 次の瞬間。一瞬で暗くなった視界に既視感を覚え、怜子は持っていた紙コップを取り落とした。

〈『歪み』……!〉

 おそらく涌井先生も景色が暗く変わったことを認識しているのだろう、目を見開いた表情が怜子の視界に映る。しかしどうすれば良い? 『歪み』を見ることはできるが、『歪み』から脱出する術は怜子には無い。雨宮先生か、『歪みを識る者』の誰かが気付いてくれるのを待つしかない。幸い、授業期間中は毎日、放課後に雨宮先生の部屋に数学の質問をしに行っている、今日、怜子が来なかったら、必ず誰かが気付いてくれるはず。それまで、待つしかない。テーブルも椅子も消えてしまった、何も無い空間に、怜子はそっと腰を下ろした。

「これが『歪み』なのか?」

 その怜子の横で、戸惑う声が響く。

「こんな寂しい場所だったとは」

「涌井先生は、『歪み』を知っているのですか?」

 その声に違和感を覚え、怜子は思わずそう尋ねた。

「橘教授の理論は知っている。その応用も、不具合も」

 怜子の不躾な疑問に、はっきりとした声が返ってくる。

「こんな危険なもの、数学しか知らない雨宮が管理できるわけがないこともね」

「そんな、ことは」

 不意に変わった、怒りに満ちた涌井先生の声に、怜子は必死で反論した。雨宮先生は、恩師である橘教授の理論を応用し、数学計算で『歪み』という不具合を修正しようとしていること。怜子自身も、雨宮先生と『歪みを識る者』のおかげで、自分には敷居が高いと思っていた大学生活や高等数学に慣れ親しむことができるようになったことも。

「なるほど」

 怜子の言葉が効いたのか、涌井先生の声から少しだけ怒りが消える。

「でも、やっぱり心配だ。雨宮は数学しかできない……」

「数学だけの奴で悪かったな」

 不意に明るくなった視界に響いた、雨宮先生の声に、怜子は思わず目を瞬かせた。『歪み』の所為だろう、いつの間にか、怜子と涌井先生は二階のカフェテリアから十四階の雨宮研究室の前まで飛ばされている。そして尻餅をついたままの涌井先生の横では、腕組みをした雨宮先生が涌井先生を見下ろしていた。

「大学時代とは違う。今は学生指導もできるぞ」

「それはどうだか」

 にやりと笑った雨宮先生が、涌井先生の方へ手を差し出す。その手を拒み、涌井先生は一呼吸で何事もなかったかのように立ち上がった。

「ま、少しは信用してやる」

 そう言って、涌井先生は雨宮先生に背を向ける。そしてそのまま、涌井先生は廊下の向こうへと消えた。

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