取り替え子
東向きの窓の向こうに見える降る雪を、ぼうっとした瞳で見つめる。
この雪は、積もらない雪だな。母や父がいる、日本海側の旧宿場町に降っていた、氷のような雪が脳裏に降った気がして、怜子はそっと首を横に振った。その動作で、忘れていた左二の腕の痛みが鈍く蘇る。大学で数学を教えてくれる三年生、怜子と同じ『歪みを識る者達』の一人である香花を庇ったときに工作用のカッターナイフで深く切られた傷は、まだ熱を持っている。
「春休みだから、熱が下がるまで寝てなさい」
腰を痛めるまでは看護師として働いていたという、怜子が都会にある帝華大学に通うためにお世話になっている父方の叔母の言葉に従い、自室にしてもらっている畳敷きの部屋の布団の上で、眠ったり、大学の指導教員であり『歪みを識る者達』の一人である雨宮先生が持ってきてくれた数学の本を読んだりして過ごしてはいるが、まだ、身体の芯が気怠い。いや、気分が落ち込んでいる、本当の理由は、怪我の熱の所為ではない。
「怜子ちゃん」
不意に、廊下から叔母の声が響く。
「雨宮先生がいらっしゃったんだけど、入ってもらって良い?」
「あ、はい」
急いで、畳床に広がっていたカーディガンを痛みの無い右手で掴む。上半身を起こすよりも早く、襖が開き、黄金の髪が怜子の目の前で揺れた。
「本持ってきた」
行事の度に大学で配っている大学名入りの薄い不織布の鞄から重そうな本を次々と取り出し、枕元に積み上げる雨宮先生の細い指を、ただただ見つめる。
「熱、まだあるんだってな。無理するなよ」
勇太達を見舞いに来させるのは、もう少し熱が下がってからだな。そう言って踵を返しかけた、雨宮先生のズボンの裾を、怜子は半ば無意識に掴んだ。
「どうした?」
「あ、その……」
先生の声に、首を横に振る。何故雨宮先生を引き留めたのか、自分でも分からない。だが。……雨宮先生にも、他の誰にも、これ以上心配を掛けるわけにはいかない。それだけは、確か。だから。雨宮先生の緑の瞳を見上げ、怜子はもう一度首を横に振った。
と。
「話せ、木根原」
いきなり、雨宮先生が木根原の横にどっかと腰を下ろす。
「秘密は守る」
いつも以上に短い、しかし確実に温かい言葉に、怜子の瞳は一瞬で熱くなった。
「け、血液型、が」
ぼろぼろとこぼれる涙の中から、何とか声を絞り出す。
輸血が必要になるかもしれないからと、怪我の治療の際、血液型を調べてもらった。その時の結果が、怜子の懸念。父がO型、母がAB型なのに、自分の血液型はO型。自分は、父母と血が繋がっていないのだろうか。誰にも言えなかった言葉が怜子自身の口から漏れるのを、怜子はただ呆然と聞いていた。
「で」
その怜子の耳に、雨宮先生の疑問符が降ってくる。
「何が心配なんだ、木根原は」
「父が、本当の父ではないかもしれないこと、です」
ヒステリーを起こしては怜子を叩いていた、古い旅館の美人女将を表の顔としていた母と、ただ黙々と、美味しい料理を追求していた父の顔が、同時に脳裏に浮かぶ。母には、何の感傷も湧かない。しかし、父は。もしも父が本当の父でないとしたら、自分は。
「だったら」
しかし怜子の懸念は、雨宮先生の言葉で消えた。
「心配することはない。木根原の父親は、父親で大丈夫だ」
血液型がAB型の親からO型の子が産まれる可能性は、変異などを考慮してもかなり低い。一方、血液型O型の親からO型の子が産まれる可能性は、もう一方の片親のことを考慮する必要があるが、それなりに高い。だから、父ではなく、母が違う。雨宮先生の、数学の定理を証明するときと同じ、明快な口調に、怜子は心からの安堵の息を吐いた。
雨宮先生が帰って行くのを窓から見送り、再び布団に潜り込む。
左腕の痛みは、もう感じない。明日は、叔母と一緒にキッチンで少しだけ料理ができるかもしれない。そう思いながら、怜子は雨宮先生が置いていった重い本の下になった料理の本を手に取った。
美味しそうに盛りつけられた調理例を眺めながら、あの、どことなく冷たかった空間に思いを馳せる。何事も自分の意のままにならなければ気が済まなかった母は、外面は良かったが、ヒステリーを起こすと確率1で怜子を叩いた。年の離れた姉ばかり可愛がる母に可愛がってもらったという記憶は、怜子には無い。母の代わりに怜子の衣食を揃えてくれ、生活に困らない知識を教えてくれたのは、母の妹であり、古い旅館でずっと下働きをしている桃子叔母さんだった。母の言動に戸惑う怜子を、厨房の隅に設えた隠し部屋に匿って守ってくれた父と、母の暴力から怜子を庇い、怜子が勉強をして数学の先生になることを応援してくれた桃子叔母さんが居たからこそ、今の怜子がいる。血液型のことは、父にきちんと確かめよう。布団の中で頷き、怜子は料理の本を閉じた。その時。
「兄さん! 桃子さんも!」
すっかり暗くなってしまった空間に、戸惑う声が響く。カーディガンを羽織って部屋を出ると、玄関に、うずくまったような二つの影があった。
「怜子」
小さな影を支えた父が、怜子を見て小さく微笑む。
「とにかく、上がって、兄さん」
叔母に支えられるように畳敷きの居間に腰を落とした桃子叔母さんのショールの影になった頬は、昔怜子が母に叩かれたときと同じように赤く腫れていた。
「桃子叔母さん」
叔母が出した温かいお茶に手を伸ばす父の隣に座り、父の向こうの桃子叔母さんの微動だにしない小さな身体を見つめる。
「怜子、……済まない」
その怜子の手を、父の、節くれ立った手が掴んだ。
「父さんは、……やってはいけないことをした」
「そんなことはありませんよ」
父の横から、桃子叔母さんの静かな声が響く。
「あの時、私は幸せでした。……今も」
「元々、兄さんが結婚の約束をしたのは、桃子さんと、でしたからね」
何か食べた方が良いでしょうと温かい澄まし汁を持ってきた叔母が、怜子が知らなかった事実を告げた。
「桜子さんが、我が儘すぎたのよ、昔も、……今も」
料理人として修行を積み、旧宿場町の小さな旅館に職を得た怜子の父は、そこで働く桃子という小柄で気立ての良い少女に好意を持った。だが、二人だけで結婚の約束をした直後、桃子の姉であり、何事も自分中心でないと気が済まない旅館の若女将、桜子が、自分の母親を言いくるめ、怜子の父を自分の夫にしてしまった。もちろん、夫婦仲は冷め切っている。料理を極めたいという目標と桃子への小さな思慕だけで、怜子の父は旅館の料理長を勤め続けていた。だが、肌に触れてさえいない桜子の妊娠に、堪忍袋の尾が切れてしまう。先に生まれた娘も、おそらく自分の子では無い。こんな茶番をいつまで続ける気か。料理包丁を手に厨房を出ようとした怜子の父を止めたのは、未だに旅館の下働きをしていた桃子だった。衝動のままに、怜子の父は桃子を抱き、その結果産まれた娘を、父は桃子と桜子の母と協力して、死産した桜子の赤子と入れ替えた。その結果が、……怜子。
「本当に、済まない、怜子」
頭を下げる父に、首を横に振る。父が父であるなら、怜子は、……構わない。
そして。
「桜子さん、だいぶん酷いヒステリーを起こしたみたいね」
桃子叔母さん、いや怜子の本当の母である人のショールを外し、髪に滲む血を調べた叔母が大きく溜息をつく。
「逃げてきて正解ね、兄さん」
「ああ、……だが」
妹の言葉に、父は桃子さんを見、そして首を横に振った。
「これから、どうすれば」
「ここで、店を開けばいいじゃないですか。……怜子ちゃんも、いますし」
「そう、だな」
温かい提案に、父が首を縦に振る。
父と、桃子さんが、幸せになれるのなら、私は何でも協力する。小さく芽生えた感情に、怜子は独り、頷いた。