イブイブイブの一日 2
一階のコンビニ横に設えられた自動ドアから構内に入り、細い昇りエスカレーターが横に設置されている階段を上って二階に行く。半分だけ吹き抜けになっている二階のカフェテリアと休憩スペースにたむろする学生達が普段より多いと感じる間も無く、勇太はカフェテリアの真ん中を貫く豪華な感じがするエスカレーターを上がって三階の、事務室前にある掲示板の前に立った。
「……マジかよ」
休講や補講のお知らせが貼ってある掲示板の前で絶句する。勇太が取っている授業のうち、今日の二限目と四限目の授業が見事に休講になっていたのだ。他にも多くの授業が休講になっている。いくら明日から冬休みとはいえ、やる気のない教員があまりにも多過ぎる。勇太は肩を竦めると、掲示板の前で腕を組んで考え込んだ。
「さて、どうするか……?」
考える傍から大欠伸が出る。一限から学校に行く兄貴に朝早く叩き起こされた為非常に眠い。が、三限目の授業は休講になっていないから家に帰るわけにもいかない。
〈とりあえず、寝とくか〉
勇太はくるりと後ろを向くと、エレベーターホールに向かって歩き出した。
この校舎の十四階に、兄である雨宮准教授の研究室がある。そこには、研究用の机とパソコンと本棚の他、勇太が寝転んでも特に問題が無いソファがある。兄は文句を言うだろうが、そこで一眠りすればいい。
雨宮准教授の研究室は『歪みを識る者達』の溜まり場になっており、勇太以外はいつでも気軽に入ってきて良いと言われている。だから勇太もいきなりドアノブを回して部屋に入った。
「……あれ?」
入ってから辺りを見回し、首を傾げる。勇太を叩き起こして大学に向かったはずの研究室の主が居ない。そしてその代わりとでもいうように、手刀で『歪み』を作り出すことができる数理工学科の院生、勁次郎が、勇太達がいつもレポートを書いているテーブルに陣取っているのが見えた。
「兄貴は?」
勁次郎が難しい顔で見ているパソコンのディスプレイを覗き込みながら尋ねる。
「ああ、先生なら事務室へ行ったよ」
勁次郎の回答はいつも通り簡潔だった。大学に出す、今年一年の業績報告の提出締切日が今日だったのを忘れていたので、事務に締め切りを延ばしてくれるよう頼むついでに、自分でも忘れている自分が執筆した論文の題目についての資料を集めに行っているらしい。
「多分事務でも呆れられているだろうね」
そう言って勁次郎は彼にしては珍しく、苦笑して肩を竦めた。一ヶ月も前からうるさく言われていた書類だという勁次郎の説明に、勇太は勁次郎に対し申し訳ない気持ちでいっぱいになった。雨宮准教授という人は、研究の方ではなかなか良い成果を出しているらしいが、事務的な、小難しそうな事になると途端に面倒くさがり、期限になるまで手を付けない人なのだ。この世界でたった一人の兄だから、勇太は雨宮准教授の性格を誰よりも熟知していた。この調子では、二週間ほど前に「見てやる」と言って勁次郎から半ば強引に取り上げた、勁次郎の清書前の修士論文もきっと読んではいないだろう。そのことも合わせて考えると、いい加減な兄貴に対して憤りが募る。テーブルの上に置かれていた、細かい字の書かれた紙を手に再びパソコン画面に向き合った勁次郎に小さく頭を下げた勇太はふと、ノートパソコンの横に置かれていたものに目を止めた。
「何、これ?」
目についた物をそっと取り上げる。勇太の手の中のそれは、どこをどう見てもクリスマスカードだった。しかも手作りらしい。厚手の紙に丸顔のトナカイと天使が色鉛筆で描かれており、その下に少しインクの滲んだ、それでも活字のような英文字が綺麗に並んでいる。
「どうしたの?」
「木根原にもらったんだ」
カードについて勁次郎に尋ねた勇太の耳に、聞き覚えのある天敵の声が響く。勇太の兄、雨宮准教授だ。
「木根原に?」
兄の言葉に、正直驚く。勇太より一学年年下の木根原怜子は、『歪み』を見ることができ、そしてそれ故にこの研究室に出入りしている少女。料理が得意で、時々持って来てくれるシンプルな巻き寿司も、しっかりと味が染み込んだ煮物も、絶品レベル。その木根原が絵も描くとは、知らなかった。テーブルの隅に置かれている、おそらくカードと一緒に木根原が持って来たのであろうワックスペーパーに包まれたクッキーに手を伸ばしながら、勇太は無意識のうちに木根原の、優しく微笑む様を思い出していた。
木根原を、異性として意識するようになったのは、何時からだろうか? 初めて逢ったときから、大学に入学したばかりの木根原がまだ『歪み』の正体を知らず、『歪み』に囚われていた人間を幽霊だと誤解し、悩んでいたときから、だと思う。しかし、木根原に対する感情を、勇太はこれまで必死になって抑えつけていた。だが、気にしている存在だからこそ、自分がもらっていない物を他人がもらっているのを見ると無意識に焦ってしまう。そんな勇太を尻目に、雨宮准教授は持っていた紙の束を勁次郎が操作するノートパソコンの横に放り投げ、自分が使っている大きめの机の横に置いてある座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろした。
「これで全部だ」
そして自分の机の上にあるカードを取って勇太に見せびらかす。
「俺ももらった」
勇太が持っている勁次郎宛のものと同じ、厚手の紙に、目を逸らす。一限目が始まる前に持ってきたんだ。兄の言葉に、勇太は顔色を変えないように自分を律するのが精一杯だった。
「おまえはもらってないのか?」
その勇太の耳に、揶揄がしっかりと含まれた兄の言葉が響く。口の端を上げた兄を、勇太は屹然と睨んだ。
「……あ、そうだ」
その勇太の視線を何とも思っていないように、不意に兄は立ち上がり、自分の机の上の紙の山の中から一束の紙を出して勁次郎の膝に放った。
「修論、直しといたぞ」
兄の言葉に、はっとして兄を見る。口の端をにやっと歪めたまま、兄は勇太に言った。
「ま、全員分あるらしいし」
その後、勇太は午前中一杯提出書類の作成を無理矢理手伝わされた。
「……はー、疲れる」
地下二階の階段下、一番お気に入りの隠れ家で背伸びをする。地下にある為か冬でもかなり暖かく、そして少しだけ薄暗い空間は、ほっとできる場所の一つ。
三限が有るからと言って何とか兄の研究室を抜け出してきたのは良いのだが、眠い上に書類作成で肩が凝ってしまっている。授業に出る気が全くしない。更に悪いことに時間が悪く、カフェテリアが混んでいて昼食にありつけなかった。後五分ほどで三限が始まるが、こうなったらサボるしかないだろう。
床が冷たいので上着を敷いた上に座り、背負っていたギターを取り出す。この場所でギターを弾くと、音波が壁や空間で微妙に共鳴してなかなか味な音色になる。これがこの場所が好きな理由の一つだ。そしてもう一つの理由は。
「……あ、勇太さん」
頭上からの声に、ギターに触れかけた手を止める。階段の隙間から上を覗く。地下一階の手摺から半ば身を乗り出すようにした丸顔の顔が、確かに見えた。木根原だ。この隠れ家の第二の利点は、ここに居れば他人からは容易に姿が見えないこと。だが今の木根原のように階段から身を乗り出されては折角の利点もパアだ。ていうか落下の危険を考慮しろ。勇太は思わず口を開いた。
「木根原!」
だが、勇太が注意を促す前に木根原の姿は勇太の視界から消え、続いて階段をパタパタと下りる音が聞こえてきた。そしてすぐに、小柄な身体にシンプルな服を着た少女が現れる。
「ここにいると思った」
多少照れたような明るい声が、勇太の耳にくすぐったく響く。そう言ってから、木根原は肩に掛けていた図書の本を入れる布鞄から黄みがかった封筒と小さなワックスペーパーの包みを取り出し、勇太の方に突きつけるように差し出した。
「あ、あの、……これ」
これは。内心の喜びを押し隠し、差し出されたものを受け取る。中身が何かは、分かっている。クリスマスカードとクッキー。両方とも木根原お手製のもの。
「……どうも」
気恥ずかしさで、お礼の言葉が出てこない。二つの包みを手にしたまま、頷くのがやっと。それでも、顔を上げると、耳まで真っ赤にした木根原の顔が、確かに見えた。
「……ありがとう」
何とかお礼の言葉を口に出す。勇太の声に、木根原はこくんと一つ頷くと、くるりと身を翻し勇太に背を向けた。そして現れたときと同じように唐突に、木根原は勇太の視界から消え、代わりに階段を上がる木根原の足音が勇太の耳に響いた。
「また、来年」
遠くに響く木根原の声に、頷いて手を振る。おそらく木根原は、明日には実家に、日本海側にあるあのこざっぱりとした旅館に帰るのだろう。足音の響きがすっかり消えてから、勇太は一つ息を吐き、ギターを取り上げて弦に指を沿わせた。
俺はどうしてこんなに臆病なのだろう。同性とは一対一でも堂々と話せるし、異性と一緒でもグループで話しているときは軽口が勝手に口をついて出てきてくれるのに、異性と一対一では何を話していいのか分からなくなる。木根原に対して何も言えなかった自分のふがいなさに、今更ながら腹が立つ。ギターから出る音も短調ばかりだ。ギターを弾く手を止めると、勇太は今度は大きく、溜息をついた。
と。
「……なんでそんな暗い曲ばかり弾いてるのよ」
不意に頭上から女の鋭い声が降ってくる。この声も知っている。勇太は物憂げに顔を上げた。階段の隙間から、さっきより細面の顔が覗いている。勇太達と同じ『歪みを識る者達』、勇太より一学年年上の、数理工学科きっての才女、三森香花だ。
勇太が閉口している間に、三森は勇太が居る場所にまで降りて来る。勇太の目の前に立った三森は、木根原とは対照的な女性だった。無造作に束ねられた真っ直ぐな長い髪、細身の身体に似合った、流行に沿った服装。手にしている小さく頑丈な鞄には、小さいが高性能のノートパソコンが入っているのだろう。兄である雨宮准教授と同じく、計算によって『歪み』を修整することができる。それが、三森香花の力。
「三限は?」
ぞんざいな口調で三森が訊く。飛び級で帝華大学に入った三森は、学年では勇太より上だがもともと勇太より一学年下という、ややこしい存在。しかも早生まれなので実際の年で言えばまだ十九、すなわち木根原と同い年である。そんな三森だが勇太に対してだけは知識と素養の面に関して『認めて』いないらしく、兄貴や勁次郎はともかく木根原に対してよりも冷たい口を利く。いつもならそんなことは簡単に聞き流せるのだが、心が鬱な今日は少しだけむっとする。
「サボり」
それでもこいつと争う気は無い。清楚な見かけから隠れたファンが多いという噂の三森だが、勇太より語彙が多いこいつと争えば傷付くのはこちらだ。だから。勇太は内心の腹立ちを押さえた声で一言だけ、口にした。
「ふーん」
その勇太に三森が発した言葉には、明らかに勇太を馬鹿にした雰囲気が含まれていた。だから、というわけでは無いが。
「あんたこそ三限は?」
何とかそれだけ反撃する。
「休み。四限目もね」
勇太に対する三森の声は明らかに勝ち誇っていた。
「だから雨宮先生のところへ言って手伝いをするつもり。……あら」
不意に三森の口調が変わる。
「あなたももらったのね、クリスマスカード」
「返せよ!」
膝の上に置きっ放しにしてあった木根原からのクリスマスカードを拾い上げた細い指に、素早く手を伸ばす。木根原からもらった大切なものを、取られるわけにはいかない。
「そんなにむきにならなくても」
その勇太の行動に心底呆れたのか、三森はカードを投げるように返してよこした。
「私ももらってるし」
小さな鞄から、勇太がもらったのと同じ黄みがかった封筒を出し、三森が兄と同じ表情を見せる。その表情に再びむっとした感情が起こり、勇太は三森をきつく睨んだ。三森の表情も行動も、天敵である兄に似ている。そのことが、勇太の苛立ちを倍増させていた。
「……そうだ。あなたに用があったの」
だが、これも兄と同じように勇太の視線を総無視して、三森は取り出したばかりのカードをバッグにしまう。そして徐に、鞄から茶封筒を取り出し勇太の膝に落とした。
ちゃりんという小銭の音が、小さな空間に響く。
「何、これ?」
訝しそうに尋ねる勇太を尻目に、三森はさっと向きを変えると階段を上り始めた。
「やることはその中に書いてあるから」
「え?」
当惑する勇太を置いて三森は階段を駆け上がっていく。
「ちょっと、三森!」
勇太の叫びは階段の吹き抜けに空しく響いた。
「……何だよ」
勇太はふっと溜息をつくと、床に座り直して茶封筒をひっくり返した。中から出てきたのはお金と、半分に折りたたまれた紙切れが一枚。
「……指令、書?」
その紙を広げて読み出した勇太は中に書かれていた事に絶句した。
「何だ、これ……?」