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静寂の場所

 ふと、見上げた視界に映ったのは、見知った顔、二つ。

「雨宮君、また、国語の時間に居眠りして」

 その二つのうちの一人、上原舞子の温かな笑顔が、秀一の瞳に眩しく映った。

「加藤先生怒ってたわよ」

「うん……」

 目を擦ってから、大きく伸びをする。授業中に眠るのはいけないことだと分かってはいるのだが、国語や古典の授業はどうしても退屈に感じてしまう。数学なら、面白過ぎてあっという間に授業が終わってしまうのに。まだ笑っているらしい、舞子のふくよかな胸元で揺れるセーラー服付属のスカーフに、秀一はもう一度、大きく息を吐いた。

「ま、仕方無いよな」

 その秀一の耳に、二つのうちのもう一人、井沢亮の無遠慮な声が入ってくる。

「いくら秀一が天才でも、赤ん坊の夜泣きは止められない」

「かもね」

「赤ん坊の世話は大変だからな」

「ん」

 亮に同意する舞子に釣られるように、亮の言葉に頷く。しかしすぐに違和感を覚え、秀一はにやにや笑いをこらえきれない表情の亮を強く睨んだ。亮の言う通り、今、秀一の家には生まれたばかりの弟、勇太が居る。しかし亮の言い方では、勇太の父親が秀一であるように聞こえるではないか。それに。確かに、勇太はまだ赤ん坊で、夜も昼もひっきりなしに泣いてばかりいる。手先の器用な父が、秀一の部屋に防音効果の高い壁紙を貼り、さらに秀一の勉強机の周りを防音用の板で囲ってくれたが、それでも泣き声はしばしば聞こえてくる。しかしそれは仕方が無いではないか。勇太はまだ、手のかかる赤ん坊なのだから。夜泣きは居眠りの理由にならない。

「ま、冗談はさておき」

 秀一の睨みが効いたのか、亮は詰め襟に太い指を入れて伸びない襟を何とか伸ばすと、持っていた教科書を秀一に指し示した。

「早く生物室行こうぜ」

「さっさと行かないと、また先生に怒られるわ」

 亮と舞子、二人の言葉にこくんと頷く。

 机横の鞄から生物の教科書とノートを引き出す間も無く、秀一は素早く立ち上がり、並んで歩く小柄と大柄、二つの背を追った。


 はっと、目を覚ます。

 斜めに差し込む窓からの茜色の光と、テーブルにこんもりと盛られた紙の束が、秀一を現実に引き戻した。……昔の、高校時代の夢を、見ていたのだ。

「懐かしいな」

 思わず、声が出る。どうやら、線形代数のレポートの採点が退屈過ぎて、右手を動かしているにもかかわらず途中でうとうとしてしまったようだ。まあ、採点者を全く無視した、字は読めないし論理は崩壊しまくっているし、というレポートばかりだから、途中で嫌になるのも当たり前かもしれない。春第一期に起きた木根原のレポート盗難事件を受け、事務室のレポートボックスには鍵を付けてもらっている。それ以来、レポートの質が悪くなっているのは、学生達が優秀なレポートを失敬して丸写しできなくなったからだろう。秀一がこの帝華大学理工科学部の学生だった頃と、やっていることはあまり変わらない。秀一自身、先生と敬称を付けて呼ばなければならない人には多大な迷惑をかけてきたから、そのしっぺ返しなのかもしれない。秀一はふっと息を吐いた。


 秀一が「母」と呼んでいる人が本当の母ではないと知ったのは、何時のことだろうか?

 秀一の遺伝子上の母は、子宮の疾患の為に子供をその身に宿すことができなかった。配偶者の方にも、生殖上の問題が有ったらしい。しかしそれでも自分の子供が欲しかった遺伝子上の母は、自身の妹に懇願し、第三者の精子で人工授精した卵子を妹の子宮で育ててもらうことによって子を得ようとした。しかし、その結果生まれた子供の、自分たちとは異なる容姿に恐れをなした母とその配偶者は、生まれた子供を自分たちの子として引き取らなかった。結局、まだ学生だった、姉に子宮を貸した妹が、生まれた赤ん坊を育てることになった。その子供が、秀一。

 退屈なレポートの採点をしながら、病院で、死期間近の祖母から聞いた話を、まざまざと思い出す。それでも、遺伝子上の母に恨みを覚えないのは、おそらく未知の父親譲りである黄金の髪と緑色の瞳を、秀一自身も厭わしく感じていた時期があったから。そして、周りの人間と異なる容姿を持ち、そして神童と呼ばれる気味悪がられるほどに頭が良かった秀一を慈しみ、育ててくれた「母」の存在が、あるからだろう。秀一はそう、思っている。その「母」、悠子さんが職場で知り合い、秀一が中学を卒業すると同時に結婚したのが、現在「父」と呼んでいる人。その父と母の間に生まれたのが、生意気な弟である勇太。


 はっと、再び顔を上げる。すっかり暗くなってしまった空間に、白い紙束だけがぼうっと浮かんで見える。

 疲れている。右手のペンを強く握りしめて大きく背伸びをする。昨日は線形代数の試験を山のように採点したし、教授達が自分の意見を通そうと懸命になる、教員は全員出席する義務のある学部会議もあった。年齢も、四捨五入で四十になる。疲れを感じるのも、当たり前だ。どうせ成績入力は明日の夕方までで良い。今日はもう帰ろう。そう思い、秀一はレポートの山の上にペンを放り投げた。と、その時。

「あ、ここね」

 聞き知った高い声とともに、雨宮研究室のドアが開く。

「電気ぐらい点けなさいよ、雨宮君」

「いや多分昼寝してたんだろ」

 秀一の目の前に現れたのは、大柄な影と小柄な影。高校時代からの腐れ縁、亮と舞子。

「何しに来た」

 にやりと笑う亮を、鋭く睨む。今日は土曜日だから、大学に入るには大学生あるいは大学職員であることを証明する身分証が必要。しかも学生が入構するには事前の許可が必要だから、大学近くにあるこの二人の仕事場に出入りしている秀一の教え子、香花の学生証では大学の玄関は開かないはず。

「セキュリティの確認」

 当惑する秀一の目の前で、部屋の電気を点けた舞子が、手の中の何も書いていないカードを振る。そういえば、この二人は、帝華大学理工科学部が建つこの雑多な街を、安全で魅力溢れる街にするためのコンサルティング会社を経営していると、聞いた覚えがある。だから、大学のシステムの安全を確認するのも、二人の仕事のうちの一つ、なのだろう。秀一はようやく納得した。

「香花ちゃんにかかれば、どんなに厳重なセキュリティも形無しね」

 舞子の言葉に、ぷっと吹き出す。確かに、コンピュータに強く、「やろうと思えばクラッキングもできる」と自信満々で言うこともある才女、香花なら、多少のセキュリティシステムは難なく突破するだろう。目の前の舞子よりもさらに小柄で華奢な影を思い出し、秀一は思わず口の端をあげた。

 母が父と結婚して良かったことの一つは、結婚に伴う引っ越しによって環境が変わり、名の聞こえた総合大学である帝華大学の本部キャンパス近くにある、レベルの高い進学校へ徒歩通学できるようになったこと。そして、その高校で、秀一の髪と瞳に顔色一つ変えなかった、亮と舞子に出会ったこと。幼馴染みであるという、亮と舞子の親密さに疎外感を覚えることもあるが、それでも、秀一にとって、二人が大切な友人であるという事実は、変わらない。

「もう少し厳重なものに変えた方が良いだろう」

「でも、香花ちゃんの本分は学問よ。これ以上負担をかけちゃ駄目でしょ」

「まあ、そうだが」

 亮を窘める舞子と、頭を掻く亮。高校時代から変わらない二人に、秀一は静かに、微笑んだ。

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