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歪みを識る者達 1

 移動、しなければ。そう思えば思うほど、足の震えが酷くなる。それでも何とか、講義室の机から顔を上げた怜子の目に映るのは、醜く歪んだ黒板と、大講義室の入り口を塞ぐように立ち、何処か哀しげな瞳を怜子に向けている女性。

 怜子には見えているあの女性が、この世の人では無いことは、先程までこの大講義室で選択必修の授業である基礎生物を受けていた学生達がなんの屈託も無くこの大講義室から出て行くことから推測できる。霊感など、持ち合わせてはいないはずなのに、時折、誰も居ないはずの場所にあの女性が現れる。声を掛ける勇気も無いので、消えてくれることを念じることしか、怜子にはできない。その上。この帝華大学理工科学部の建物に来る度に、この大講義室も、数学の授業がある中講義室も、時折予告なく歪んで見えてしまうことに、怜子は正直戸惑っていた。授業中に視界が歪んでしまい、黒板や資料の文字が判別できずに授業の内容が分からなくなってしまうことにも、歪んだ視界のままでは講義室から講義室へ移動することができないことにも、困っていた。今はまだ昼休みだから、持ってきたお弁当をここで食べてから、線形代数の授業がある上階の中講義室へ移動すれば良い。しかし次の授業が始まるまでに視界の歪みが解消しなかったら? 今見えている幽霊が消えてくれなかったら? 必修の講義に遅刻することになってしまう。遅刻でも、積み重なれば欠席扱いになってしまう。欠席が重なれば必修の単位が取れず、留年は必至。四年間しか学費は出さない。都会にある帝華大学へ行きたいと母と祖母に告げた時、二人ははっきりとそう言った。四年間で卒業し、数学の教員免許を取って教員にならなければ、あの場所に永遠に囚われてしまう。それはダメだと、叔母に言われた。父は優しいが、どんなに働いても「役立たず」だと母や祖母から冷たく言われ続けている未婚の叔母を見ていると、あの場所にずっとは居られないと、感じる。あの場所から永遠に逃れる為に、大学をきちんと卒業することが必要、なのに。入学早々から『歪み』や『幽霊』に囚われてしまうなんて。

 と。

 机に何かが当たった大音声で、思考が途切れる。もう一度顔を上げると、先程までは確かに見えていた泣きそうな顔をした幽霊は、怜子の視界から消えていた。歪み、切り裂かれたようになっていた黒板も、今は普通だ。そして。

「悪い」

 急いでたから。怜子の方に顔だけ向けて顎を引いた、爽やかな感じがする人影に、怜子も釣られて頭を下げる。青年、というにはまだ幼い感じがする男性の背で揺れるパーカーのフードと、大きく特徴的な形をしたケースが、怜子の視界に映った。

「……あの」

 ケースの中身が何かを察し、無意識に声を上げる。

「ギター、ぶつけてましたけど、大丈夫ですか?」

「え?」

 怜子の声に、再び、青年が怜子の方を向く。そして青年は焦った顔をして怜子の横の机の上に背負っていたギターケースを静かに置いた。

「……うん、多分、大丈夫」

 ケースの中に入っていた、派手な色に塗られたギターを隅から隅まで丁寧にチェックしてから、青年は怜子に向かって大きな笑みを向ける。その笑みが眩しすぎたのか、怜子は自分の心臓が勝手に飛び上がるのを感じていた。

「ありがとう」

 その怜子の戸惑いが治まる前に、青年は再びギターケースを担いで怜子の側を離れる。

「ユータ、早く!」

 おそらく青年を呼んでいる、怜子と同じ一年生とは見えない男性の集団を大講義室の入り口近くに認め、怜子はばつの悪い思いで下を向いた。基礎生物の授業は単位を取るのが難しいらしく、二年生以上の学生もかなりの人数が履修しているらしい。あの人は、おそらく上級生。年上の、知らない男の人に声を掛けるなんて、どうかしている。自分の行動が信じられない。怜子は思わず首を強く横に振った。

「なに一年生ナンパしてんだよ」

 その怜子の耳に、男性らしい遠慮の無い声が入ってくる。少しだけ顔を上げると、あのギターケースを背負った青年のパーカーのフードが、友人らしき面々に小突かれて揺れるのが、微かに見えた。

「早く下のカフェテリア行こうぜ」

「席が無くなっちまう」

 それらの声が消えてから、徐に席を立つ。

 何はともあれ、幽霊も、歪みも、消えた。それだけが、怜子をほっとさせていた。

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