月下美人
俺は真夜中に家を出た。特に理由があったわけではない。なんとなくだ。強いて理由を付けるとしたら、心の傷を癒すためか。傷の理由は聞かないでほしい。まぁ、別れ話でも聞かされたと思っていてほしい。よくある話だろ? 彼女から別れ話を聞かされて夜に街をぶらぶらするって話。そんななかのひとつだ。
灯りすら無い真っ暗な街並みを通る。その情景は浮かばない心に妙にマッチしていて、胸に物がつっかえているかの様な感覚があった。ふと、時間が気になって携帯を見たが、充電されていなかった。充電のない携帯なんて、なんの役にも立たないな。
頭上を見上げると、文句の付けようがない満月が見えた。そんな荘厳な月も、俺の心情で見ると、もの悲しい雰囲気に見えるのだから不思議なものだ。
行く宛のない散歩を続けていく。家からはそんなに離れていない所にいるはずなのに、夜で、しかも全く人通りも車通りも無いだけで、俺の全く知らない所にいる様な錯覚に陥った。見慣れているはずなのに見慣れていない。そんな不思議な感覚が心地よかった。
俺は大きな道路に出た。昼間は車通りが激しく、道の向こう側が見えないほどなのに、夜となっては見通しの良い空間になっていた。車が通らないことをいいことに、俺は道路の中心を歩いた。左右がとても広くひらけていて、この世界には、自分一人しか居ないんじゃないかなんて気がしてくる。
そんな、自分一人だけの世界を、気分の良いような、悪いような、複雑な気分で歩いていると、正面の、十字路の中心に、自分の妄想を打ち砕くかの様に、一人の少女が、俺に背を向けて立っていた。髪は真っ白で、長く、真っ直ぐと伸びていて、服装も、不自然なほどに真っ白なワンピースで、それはどこか病弱そうな雰囲気を帯びていた。肌色も真っ白で、不謹慎だが、真夜中の十字路の中心よりも、病院の病室の方が、よっぽど似合っているような気がした。時折、ちらりと見える首筋からも、病的な白が見られた。
「こんなところで何をしているの?」
俺が話しかけると、少女は体を回転させて俺と正面から向き合う。その顔は全体的に小ぶりで、幸薄そうな雰囲気を纏っていたが、整っていて、浮かべている儚げな笑みと相まって、儚げで美しい少女に見えた。見ているだけで涙を誘われてしまうような、そんな美しさだった。
「なにも」
少女は一言、そう答えた。その声も、秋の鈴虫が鳴らす、あの鳴き声のように、聞くだけで何故か涙が浮かんでしまう、そんな響きがあった。
「そんなことより、いっしょに歩きませんか?」
そんな言葉に、俺は考える前に頷いていた。これも理由があったわけではない。なんとなくだ。強いて理由を付けるとしたら、自分はこの少女に、儚い恋心を抱いてしまったのかもしれない。
二人で大きな道路の中心を歩いていく。特に話をするわけでもなく、しかし、どこか心地よいものを感じながら、歩いていく。案外、家を出たのは正解だったのかもしれないなんてことを考えていた。
風景を眺めながら、度々、隣の少女に目を向ける。お互いにまだ名前すら名乗っていない。そんな関係性ながら、不思議と不快な感情はなく、それどころか心地よく感じる、そんな自分の感情に、戸惑わない俺がいる。それならいいかとすら思ってしまった。
「あのさ、」
突然、少女は俺に話しかけてきた。
「なにか、好きな花ってある?」
脈略のない質問だったが、俺は律儀に答えた。
「月下美人かな。自分が好きなわけではないけど、彼女が好きなんだ」
この返答に、少女は微笑んだ。
「私も好きだよ。月下美人。真夜中にしか咲かなくて、儚げに咲くところが好き」
それは、俺の彼女と同じ理由だった。真っ暗な夜の中に一輪で咲く、真っ白な花は、好きでなくても美しいと感じさせるものだった。
「自分の彼女もそう言ってたよ」
俺の一言に、少女は意味深に微笑んだ。
「そうなんだ」
それだけ言って先へ行ってしまう。俺もゆっくりとその後を追っていった。
少女について歩いていくと、小さめの公園に着いた。少女は、その一角にある花壇に近づいていった。
「なにがあるの?」
俺の質問に答えずに、花壇に近づいてく。少女が花壇のそばで止まったので、俺もその隣に立つ。
花壇には、一輪の月下美人があった。周りに灯りなどがあるわけでもないのに、何故か月下美人はスポットライトに当てられたように一際輝いて見えた。
「綺麗でしょ?」
少女がそう言うのを聞きながら、俺は月下美人に見入っていた。彼女に様々な所に連れられて、何度も見ているはずなのだが、この月下美人は、その中でも最も綺麗だと思えた。
「うん。綺麗だ」
周囲の夜の闇の中に咲く一輪の月下美人は、花壇を舞台のステージとして、一人踊るバレリーナに見えた。美しく、しかし切なげに、月下美人は踊ってはいないのに、そんな感想が自分の中に浮かんだ。
「私ね、今日はこれを見る為に出てきたんだ」
少女は、月下美人から目を離さないままにそう言った。その横顔は、月下美人よりも綺麗に見えた。
「もう、死んじゃうの、私」
突然俺の方に顔を向けて、見える? なんて言いながら微笑んでくる。
「最後にね、これを見たかったんだ」
俺は、そんな少女に呆気にとられて、なにも言えなかった。少女の発言もそうだが、それよりも、少女の圧倒的な美しさに、心奪われていた。もう死んでしまうと言う、少女に見惚れていた。
「ありがとう。一緒に見てくれて。最期に好きな人と一緒に見れて、嬉しかったよ」
そう、最後に俺に微笑みかけて、少女は去っていった。
惚けていた俺は、公園から少女が出ていくまで、見ていることしか出来なかったが、公園から少女が出たあと、直ぐに追いかけたが、少女の姿は無くなっていた。
俺はそのあとも月下美人を見ていたが、何分かして、家に帰った。
家に帰って、携帯を充電器に差し込むと、一通のメールが届いていた。
そこには、彼女が病院で亡くなったという内容が書かれていた。死亡時刻は、少女が公園を出た時間と、ちょうど同じだった。