坂東蛍子、眼鏡越しに愛を見る
時刻は異星からの特派潜入員、二年B組三十一番大城川原クマが連絡員から定期連絡を受け取る二十五秒前、すなわち坂東蛍子が眼鏡を落とす二十秒前に遡る。
カラスに擬態した惑星間連絡員ヒラは教室の窓が開いているのを確認し、勢いよく飛びこんだ。問題はここからだ、とヒラは感覚を研ぎ澄ませた。定期連絡を行うためには潜入員と頭を接触させ脳波による伝達を行わなくてはならなかったが、生憎ヒラは肝心の特派潜入員の顔を知らなかった。とある止むを得ない事情により前任はヒラに対し、潜入員がこの未成人育成施設の二年B組に潜伏していること、女であること、眼鏡をかけていることの三点だけしか告げることが出来なかったのである。ヒラは連絡員として後任に就いた時から本部に再三の情報開示を要求していたが、諸々の手続きを済ませるためには地球時間で後三千天体時間程かかるという融通の利かない返答が繰り返されるばかりだったため、これだからお役所仕事は、と受話器の向こうの相手を一頻り罵倒した後で覚悟を決め連絡用のメモリーボックスを脳内にインプットした。任務はまっとうせねば。
ヒラはまず窓のすぐ傍の席に座っていた眼鏡の女地球人に勢いを殺しながら体当たりしつつ、彼女がハズレであった時のために次の追突先を目で探した。彼の本職就任一発目の衝突は考え抜かれた入射角からの見事な頭突きだったが、しかし通信用のテレパシーが機能することはなく、そのお詫びとでもいうかのように少女の机上で倒れた鞄から文庫本が何冊か申し訳程度に顔を覗かせた。早くも事態を把握した近くの席の地球人が声を上げ、室内の目が一つの生物のように一斉に動きこちらに注目してくる。この星の人間はとぼけた顔をしていながら意外に対応が早い、これはウカウカしてられないぞ、とヒラは改めて集中した。先程の女が衝突の勢いで飛んでいった眼鏡を探すため床にしゃがみ込んだのを尻目に、予め定めておいた次の目標へ突っ込む。対象は想像よりも早く状況を飲みこみ回避行動をとろうとしたが、連絡員候補生として四年間の修業を耐え抜いたヒラの速度を凌駕することは出来なかった。
(またハズレか・・・)
ヒラは先程と同じように眼鏡が飛び去り混乱している女地球人に心中で詫びた。長年頭突きの訓練をしてきた自分だからこそこうして平静に行動を継続出来ているが、素人の非戦闘員にとっては相当な痛みがあることだろう。怒るなら前任の連絡員と自星であぐらをかいた保守派の公僕に怒ってくれ、とカラス星人はその羽ばたきで懸命にメッセージを伝えた後、勢いそのままに三人目の地球人に激突し眼鏡を吹き飛ばした。その時ヒラの頭の中にピリっと電流のようなものが走った。これこそヒラが待ち望んでいた、互いの精神がコネクトされた時におこる電気信号による負荷であった。見つけた!三人目で引き当てるとは何と幸運な!とヒラは歓喜し、早速その相手の脳内に定期連絡を送信し、完了するとすぐさま反転し騒乱の教室を後に残し再び窓の外へと飛び去っていったのだった。
坂東蛍子は頭の痛みに呻きながら四つん這いになり何処かへ飛び去っていった眼鏡を手探りで探していた。蛍子は控えめに言ってとても視力が低かったが、眼鏡を身につけている自分のことがあまり好きでは無かったために普段は使い捨てのコンタクトをつけて生活していた。ところが今日に限って眼鏡をつけて登校してきてしまったのである(その理由が“昨日の席替えによって松任谷理一が自分の席の前列に移動したので、より度数のあった眼鏡で授業中にじっくり観察しようと思ったため”だということは坂東蛍子の名誉のためにここでは伏せておくこととする)。
教室は先程闖入し遁走した不逞なカラスの影響で統一直前のベルリンのような喧騒であったため、蛍子は自分の眼鏡が誰かの足の裏でその短い一生を終えていないか気が気でなかった。両手を夢中で動かしていると、左手で誰かの手を掴み、それと同時に右手が何か固い小物に接触する。急いでその物質を掴み形状を手で確認すると確かに眼鏡であることが分かり、蛍子はホっと安堵しながら装着した。
「・・・あれ?」
坂東蛍子の視界は先程と変わらず暈けたままであった。どうやら違う人間のものであることが分かると、蛍子は苦々しい思いで眼鏡を外した。神め、上げて落としてきたな、と蛍子は思った。渋滞の末ようやく最前へ辿り着いたら通行止めでUターンさせられたような気分である。何にせよこの双六はまた一マス目から仕切り直しだ。蛍子は気持ちを切り替えて、眼鏡を割らないように左手で握っていた誰かの手の上にそっと眼鏡を託す。数秒後「ありがとう」と呟く小さな声が聞こえた気がしたが、焦燥感のただ中にいる蛍子はさして気にも留めず「良い友達を持ったでしょ」と素っ気無く返して探索作業に戻った。
程なくして坂東蛍子は次なる眼鏡を発見するが、今度の眼鏡はかける前から既に自分のもので無いことが明らかな代物だった。レンズが入っていないのである。蛍子は何故世の中に伊達眼鏡なんてものがあるのだろう、と憎々しげに考えた。私をぬか喜びさせて嘲るためだろうか。それとも私に放り投げられて彼方へ消えるためだろうか。きっと後者に違いない、と蛍子は手元の伊達眼鏡が目一杯不幸になることを祈って虚空へ放り投げた。
「坂東、ほら」
すぐ目の前から男子の声がし、蛍子は顔を上げると、誰かの手が耳元をくすぐった。眼鏡をかけられているのだということに気付き蛍子は動きを止め目を閉じる。どうやら親切な誰かが見つけてくれたみたい、世の中伊達眼鏡みたいな奴らばかりじゃないのね。
目を開けると、そこには心配そうに覗き込む想い人、松任谷理一の顔があった。
蛍子は自分の体温が一気に上昇していっているのが分かった。混乱する周囲の生徒に混じって逃げ出したくなった後、まず何か口にしなければと焦り、今度は急に涙が出そうになった。熱を持った頬から今にも湯気が出て理一君に届いてしまいそうだ、とショート寸前の頭で蛍子はぼんやりと考えた。
「たぶんレンズにキズは無いと思うけど・・・大丈夫?正しく見えてるか?」
正しく見えてるか?という台詞は何だか哲学的だなぁ、と蛍子は上の空で思った。暫くその言葉について自分なりに考えた後、蛍子は目前で自分を案じている理一に返答した。
「うん、見えてるよ・・・見たいもの全部、ちゃんと見えてる・・・」
「そりゃ良かった」と松任谷理一は優しい笑みを返した。
図書委員の藤谷ましろは自分の眼鏡が壊れていないことを確認すると、先程眼鏡を手渡してくれた親切な人物の方へ向き直った。そこではましろが憧れるクラスのアイドル、坂東蛍子が四つん這いになって何かを探していた。坂東さんだったんだ、やっぱり坂東さんは優しい人だなぁ、とましろは頬を上気させる。先日レンタルショップで借りてきた映画で、眼鏡を外して過去の自分と決別する主人公の姿を見て感涙(藤谷ましろは非常に涙脆い)して以来、ましろはコンタクトレンズを購入することによって坂東蛍子の友人として認めてもらえるような魅力を磨こうと奮起していたが、坂東さんに拾ってもらえるなら眼鏡のままでも良いかな、とあっさり思い直した。
「あ、ありがとう」とましろは坂東の背に声をかけた。
「良い友達を持ったでしょ」という蛍子の言葉を聴いて、取り戻したましろの視界は再び滲んでぼやけるのだった。
大騒ぎの教室のただ中で、大城川原クマは坂東蛍子が放り投げた自分の伊達眼鏡が綺麗な弧を描いて黒板下のチョーク入れに収まるまでの一連の流れを目撃していた。クマたち特派潜入員がかけている伊達眼鏡は緊急の際の自決用メガネであり、思念を送ることで内蔵された粘性の特殊核爆弾を爆発させることが出来る。そのためその危険性を考慮して少し異物に触れただけですぐに分解されるように設計されていた。もしや彼女はこの眼鏡の危険性と構造を瞬時に理解し、処理したのではないか、とクマは思った。そういえば前任の連絡員が再起不能になった原因も彼女のジャージが大きく関連していた。やはりあの女はどこか他の地球人と異なっているぞ。
チョーク入れの粉でドロドロに溶けていく眼鏡を見つめながら、クマは坂東蛍子の眼鏡の向こうで光る底知れぬ慧眼に畏怖の念を抱くのだった。