二、
九年前の夏……
青々と木々が茂る林。旭日が昇ったと同時に、耳を劈くほどの蝉の声が響いてくる。小高い山の中腹には、数軒の家が見える。その周りは、青い空が鏡の様に映し出された田んぼが広がっている。
下の方を望むと、ゴツゴツとした黒い岩が白波から見え隠れする海が広がる。まさに、自然を独り占めした様な小さな町である。
その海沿いには広い幹線道路があり、喉かな町には似合わない程の車が行き来している。
その中から、一台の車が町の方に登って来た。
「こんな景色、見た事が無いよ。僕ん家は海から遠いからな。さっき通った海は、泳げるの?」
後部座席に座っている一人の少年が、外を見ながら目を丸くしていた。その言葉からは、韓国からやって来た様子だった。
「当たり前ったい。なんぼでも泳げるけん、心配せんでもよかジニョン。楽しみにしちょったんやろ、夏休みは満喫できそうか?」
運転している壮年男子が、少年にそう問いかけると、
「うん、最高の夏休みになりそう。お父さんやお母さんも来ればよかったのに」
満面の笑みを浮かべてそう言った。
その少年の名前はジニョンだ。車を運転しているのは、ジニョンの父親の従弟にあたるシンドンと言う男だった。
「まあ、仕事とかの関係で来れんけんしようがなか。ばってんが、お盆には来るっち言いよったけん、それまで待っちょったらいいばい」
シンドンは笑いながらそう言った。その言葉の訛りからみると、そこは九州だ。
シンドンの家系は、戦前から日本に来ていたのだ。シンドンの父親が若い頃に、ここ九州の筑豊と言う街に強制連行されたのである。
そして、その街にある炭鉱で強制労働を強いられていた。危険な地中の作業を無理やりにやらされて、食事も一日に二回しか貰えないのだ。休み無しの労働を虐げられ、給料はスズメの涙ほどしか貰えなかった。その上自由は無く、風呂に入るのも週に二回ほどで、尚且つ、数人が数珠の様に紐で繋がれ風呂に向かうのだった。
やがて終戦を迎えると、それまでの生活からは一変して、そこで働いていた日本人と同じ様な生活をする事が出来る様になった。連行されてきた朝鮮人たちも、一緒に働いていた日本人たちと同様に給料制になり、それまで威張っていた炭鉱の管理人たちの対応も大きく変わって来ていた。その後、炭鉱は閉山となり、そこで働いていた工夫達は、新しい職を求めてその場から散り散りになった。
ある者は都会に行き、ある者はその場で新しい仕事に就く者も居た。そしてある者は、故郷の韓国に帰る者も多くいた。その頃の日本は、世界的にも稀に見るほどの高度成長期を迎えようとしていた。
そんな中シンドンの父親は、炭鉱の街筑豊を離れ、同じ福岡県の糸島と言う街にやって来たのだ。恐らくは、ジニョンの様に周りの景色に魅せられたのであろう。何の躊躇も無くここに住む事に決めたのである。
その当時は今の様に田んぼも無く、荒れ果てた土地が広がっていた。他の地方からやって来た者もいた事から、シンドンの父親はそう言った人々の中心となって、その荒れ地を開拓する事にした。その甲斐あってか、見る見るうちに環境は変わって行き、生活するのに十分な環境が整ってきたのである。
家の周りには稲を植えて、海に出てはウニやサザエなどを取って商業を営む。その後は、他に移住してきた者達も受け入れていき、今に至ったのだ。
シンドンの父親は、ここ糸島に来て結婚した。当時、ここに居た地主の娘と恋におち、その地主に働きを認められ結婚したという。
そう、シンドンの嫁は日本人なのだ。やがて、シンドンの父親は義父の後を継ぎ、そこの地主となるのだった。シンドンは、結婚して一年後に誕生した。
「へえ、叔父さん家は、元々からここに住んでいたんじゃないんだ」
シンドンの自宅に着いたジニョンは、居間でシンドンの今までの話を聞いて感心していた。
まさに、ジニョンの想像を超える苦労の連続だった様だ。
「親父は、炭鉱夫として日本に連れて来られたきの。相当苦労したごとある。親父には感謝しちょうばい」
シンドンはそう言いながら、仏間の壁に掲げている一枚の写真の方を見ていた。そんなシンドンも、ここの生活ではかなり苦労していた。なにせ、荒れた土地に来たのだから、それを生活が出来る様にしないといけない。子供の時から、毎日が重労働だったのだ。
「シンドン叔父さんも、大変だったんだね」
ジニョンは、子供ながらにシンドンの苦労が理解できた様子だった。その言葉を聞いたシンドンは、
「そげな事あるもんか。みんな一緒ばい。
俺も、気負けしそうになった事もあるっちゃけん。ばんてんが、お前の父ちゃんに相談して、今があるったい。
そいき…… 一番偉いんは、お前の父ちゃんじゃないとかのう」
ジニョンの言葉に、シンドンは照れ笑いを浮かべながらそう言った。それを聞いたジニョンも、
「へえ…… お父さんがそんな事を……」
と、嬉しそうな顔をしていた。
やはり苦労した人は、威張らずに謙遜するものである。
ジニョンの父親は、シンドンが日本に居た頃は母国で家族を養っていた。太平洋戦争後に誕生したジニョンの父親は、日本同様に貧しい国だった韓国で、やはり開拓民として生活をしていた。その後、北朝鮮との朝鮮戦争が勃発し、兵隊として駆り出されたジニョンの父親だったが、無事に帰ってきた。そして、世界の事をもっと知りたいとの思いで、貿易商の仕事をする様になる。
現在では、十年ほど前から自分の会社を立ち上げ、業績も見る見る上昇し、世界中を回るほどになっていた。その為か、日本に居るシンドンの所にもよく顔を出していたのだ。
シンドンは、昔話を終えると、
「俺は畑に行く時間やけんど、ジニョンはどうするとや? そこら辺でも探索してくるか」
と言って、立ち上がった。すると、
「そうだな…… そうしようかな。空気も良さそうだし、散歩してくるよ」
そう言って立ち上がると、そのまま玄関の方に走って行った、それを見送るシンドンだったが、いきなりジニョンを止めると、
「ちょっと待て、これやるけん。ちょっと遠いけんど、下の方に下って言ったら店があるき、アイスでも買うてきい」
そう言って小銭を渡していた。それを貰ったジニョンは、
「ありがとう」
そう叫ぶと、玄関を出て行った。その後ろからシンドンも外に出ると、
「気を付けて行かんといけんどッ!」
と、大きな声で叫んでいた。
ジニョンは、坂道を歩いていた。周りを見渡すと広い田んぼが見え、その向こうに数軒の家が見える。長く続く坂の下を見ると、道路を行き交う車が小さく見えていた。その向こうは、広い海なのだ。
「何度見ても、本当に良い景色だな」
弾む心で無意識に笑顔を見せるジニョンだったのである。ただ、シンドンの言っていた店は、坂の下に小さく見えていた。
「シンドン叔父さんが言っていた店って、あれかな……」
そう呟くジニョンの次に出て来た言葉は、
「かなり遠いな……」
だった。それもその筈、遠目に見える場所だが、どう見ても車で十分ほど掛かりそうな距離だ。歩くとその倍は掛かる。
しかし、ジニョンはそんな事など何とも思わなかった。
「まあ、時間はたっぷりあるからね。さっきシンドン叔父さんが言っていたように、探索がてら行ってみよう」
そう言いながら、足取りを弾ませていた。