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第九話 町田愛莉という女の子

 現金なもので、アルコールを摂取することで気は大きくなり、打ち上げそのものは楽しく過ごせてしまった。


 座席の妙もあったように思う。先に到着していた麻衣が席を確保してくれていたことで、久々に二回生同士集まって騒いだ。

 未來ちゃんも三回生の集まっている所に居たし、遅れてきたアキラ先輩とも離れていたので、俺は仮初めの安心の上に胡座をかいていた。


 この時の俺は、アイと隣り合わせに座った。

 麻衣の隣をヒロに譲ってやりたかったのもあるが、なんとなくアイの事を放っておけなかったのだ。


「ビールじゃないんだ?」

 俺の質問に、アイはこくんと頷いた。


 『取り敢えずビール』が通例化している飲み会の席上だが、アイの目の前にあるものは細身のコリンズグラスだった。

 赤紫っぽい色をしていて、気泡は浮いていない。


「なんかビールっていう気分になれなくて」


 カシスベースの超メジャーカクテル、マダムロシャス。

 カシスそのものはガムシロップのように甘く、4から5倍のグレープフルーツジュースで割ると、甘酸っぱい口当たりのカクテルが出来上がる。

 女性の中には『取り敢えずマダム』という人もいるくらい、美味しく人気のあるカクテルなのだ。


 初めの三十分ほどは皆と仲良く歓談していたアイだったがやはり無理をしていたようで、二杯目のグラスを空ける頃には、曇天のような重い空気をまとって俯いてしまっていた。

 飲むと笑い上戸だとか、泣き上戸だとか言って、その人の意外な一面を垣間見る瞬間があったりするのだが、どうやらアイは後者よりらしい。


 大丈夫か? と当たり障りのない気遣いをする俺に、見せる作り笑顔が痛々しい。

「純平君は平気なの?」

 俺が悩んでいないように見えるのだろうか。そんな事は全くないのだが。

 ただなるべく人に見せないようにしているだけなんだ。


「アイと同じだよ。

 だけど、俺にはギターがある。音楽がある。

 ギターを弾いてる時は全てを忘れられるんだ。

 ライブ前なんて、1日8時間も弾いちゃったよ」


 流石にやり過ぎだろ? と自嘲し、自分を皮肉った。

「良いなあ、そんなに打ち込める事があるなんて。

 私は……毎日学校とバイトばっかりでそんなに練習にも参加できないし、みんなみたいに夜集まれる事も少ないから……」


 なんとなく、アイの抱えている問題が見えたような気がした。

 忙しさからくる、ストレスなんだろう。そういう時って、周りが羨ましく思えたり、一つの事に妄執的になったりするものなのかもしれない。


「肩の力、抜いてこうぜ」

 そう言って、肩で小突いてやった。未來ちゃんが俺にそうしてきたように。

 アイは目を丸くしていた。そりゃそうだろう。これが、俺から初めてアイに触れた瞬間だったのだから。


「うん、ありがとう」


 そう言った、アイのアルカイックスマイルはとても印象的だった。

 みんな酔いが回って耳が遠くなったのか、隣同士でも大声で話している。そんな中ポツリと呟いたアイの言葉は、俺にはありがたくも過ぎた讃辞だと思った。


「私、純平君のコト好きになれば良かったナ」




◆◇




 明くる日の夜。俺は部室(ボックス)を訪れていた。学祭の片付けの時に、私物を紛れさせてしまったらしく、取りに来たのだ。


 ――あれ、灯りが点いてる?


 消灯時間の午後九時を過ぎているのに、部室の窓から光が漏れていたのに気付く。

 乱雑に停められている自転車やバイクの群れに、自身の原付バイクを突っ込みながら、知っている車両がないか流し見る。

 とりあえずヒロや未來ちゃんのものは見あたらなかった。


「誰か消し忘れたのかな」


 そう思いながら建物の中に入り、公然の秘密になっている隠し場所を覗き込む。鍵がない。

 まだ誰かいるのか? なら電気消すはずだよな?

 腑に落ちない気持ちを抱えながら、俺は防音加工された重厚なドアをゆっくりと開けた。そこにいたのは――


「アイ、どしたの一人で? もう九時過ぎてるぞ、電気消せよ」


 部屋の奥を向いて、膝を突き合わせて地べたに座り込んでいるが、その後ろ姿は紛れもなくアイのものだった。


 ゆっくりと首だけで振り返った彼女を見て、俺は思わず息を飲んだ。

 だって、あのアルカイックスマイルの似合う古風で純朴なアイの表情は痛々しく、目を赤く腫らして滂沱の涙を流していたのだから。


 ど、どうしたんだよ? と喉まで出掛かった言葉を飲み込み、俺は部室の明かりを消した。

 消灯時間を過ぎていたからなのはもちろんだが、 何よりアイの泣きはらした顔を見ていられなかったのだ。

 俺はアイの側に座るのもなんだか気が引けたので、部室の一番奥にあるソファーに腰を下ろした。


 俺は何も言わず、ただアイと同じ時を過ごした。三分くらいだろうか。

 しばらくして、やっとアイの口を突いて出た言葉は、ある程度予想していた事だった。


「アキラ先輩に……告白したの」

 ……ここで? という俺の問いに、頷きで答えるアイ。昨日の今日で告白とは、恐れ入る。しかしその様子では早い話がふられたのだろう。


 まあ仕方ないさ、ゆっくり立ち直っていけばいいじゃない。

 慰めの言葉は、こんな所かな。それを実際に口にしようとする前に、アイの方から独白があった。


「アキラ先輩、悪くない雰囲気だったの」


 ……は?


「もしかしたら、OKもらえるかも、そう思ったの」

 どういう事だ? ふられたんじゃないのか?


「そしたらね、電話があったの」


 アイは混乱しているのだろうか。誰から誰に電話が? 彼女の傷心は少し深いのかもしれないな。

 あくまでも他人事。俺の頭はアイには悪いが、冷めていた。

 好きでもない女に告白されて、断るのって結構辛いと思う。だからアキラ先輩は、言葉を探してたんじゃないのか。

 この時の俺は、そう思っていたんだ。


「未來ちゃんからだった」


 闇夜の嵐に紛れた、義経の行軍に虚を突かれた平氏のように、何の心の準備もしていなかった俺の頭は、アイの言葉が木霊するには十分すぎるくらい空っぽだった。


「未來ちゃんから……?」

 こんな時間に、未來ちゃんはアキラ先輩に一体何の用があるっていうんだ? また良からぬ想像が頭を巡る。


 オウム返しのように繰り返す俺に、アイは言葉を重ねた。


「返事をもらう前に……出て行っちゃった。

 へへ、私より未來ちゃんが良いみたい」


 その台詞はアイ自身に向けた自虐の言葉だったのだろう。だがそれ以上に、聖なるナイフのような鋭さでもって、俺の心をえぐりとったのだ。


 また……まただ。見えない縛鎖に心は締め付けられ、どろどろの炎がちりちりと身を焦がす。

 嫌な感情。身体の真ん中がいびつに歪み、気持ちの行き着く先は特異点。

 人の形をとりながら、その内面は暗黒からの使者が鎌首をもたげて手渡した、灼熱の赤と漆黒に彩られていた。


 嫉妬と憤怒の情念。七つの大罪のうち、同時に二つも犯した。

 だが表情は冷静そのもの。冷血の仮面を被り、アイに悟られないようにしようとしていた。


「ねえ、純平くん」

 アイが口を開く度に悪夢のような出来事を聞かされそうで、俺は思わず耳を塞ごうとしていた。


「家まで送ってってくれない?」


 ……え? 想定外の話だ。おいそれと返事は出来ないと思った。


 アイの泣きはらした顔は失礼ながら酷いもので、女の涙に男を引き止める力があるなんて、絶対嘘だと思った。

 目は腫れぼったく、化粧も落ちてしまっていた。


 でも、そのひび割れた外骨格から露わになったアイの心の吐露には、不思議な魔力があった。

 そしてその瞳は、未來ちゃんにはかなわないかもしれないが、オンナとしての魅惑的で魅力的な眼力が宿っているように見えた。


「別に深い意味はないの。

 家までの道を散歩だと思って付き合ってほしいだけよ」


 そう言って細めるアイの目尻から、一筋の落涙。

 それを見た俺は不覚にも、思い切り抱きしめてやりたいと、そう思ってしまった。

 ただ、その気持ちが同情から来るものなのか、密かに愛情が芽生えた瞬間だったのか、はたまた単なる下心だったのか。この時の俺には判断がつかなかった。

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