第七話 三人寄らば悶濡の泪
あれから、どこをどうして帰ったのかは覚えていない。
ただヒロの残酷な言葉を、したくもないのに何度も反芻した。
未來ちゃんがアキラ先輩とキスしていた。
俺はまるで道化だ。あの日感じた種々の想いは、一体何だったのか。
あんなに一緒にいたのに。一緒に演奏して、一緒に飲んで語り合ったのに。
あの笑顔で、あの眼差しで俺の心を奪っておきながら、腹の中じゃアキラ先輩とそういうコトをしようと考えていたのか?
ピュアでキュートで天真爛漫、純真無垢。そんなイメージだった未來ちゃんが、俺の中で途端に暗黒面に堕ちた。
はした金で下郎の慰み者となった遊女のよう。
未來ちゃんが、急に薄汚れた存在に思えた。
「ヤリマンなんだって」
ずっと目を背けてきた言葉。努めて気にしないようにしてきた言葉。
しかしそれは、初めて聞いた時からずっとささくれだって、俺の深層意識に暗い影を落としていたのだ。
俺のこのどす黒い感情は一体何だ。
貞操観念? あるべき論?……いや違う。
――嫉妬だ。
ヤラハタの俺がいくら純愛だなんだと叫んだところで、結局は下半身が羨ましいと、そう言っているのだ。
俺は俺自身をも卑下しようとする。
この世の全てがモノクロに映り、何もかもが汚い物に見えてしまう。
「その後二人がどうなったかは知らない」
ヒロはフォローのつもりで言ったんだろうが、全くの逆効果だ。
むしろ、妄想を掻き立てる一助にしかならない。
……許せない。
許せない。
アキラ先輩も。
ヒロも。
……未來ちゃんも。
この世の全てに牙を剥きたくなってくる。俺は、俺の心はどうしてしまったんだ。
未來ちゃん。
……未來ちゃん、俺。
「世界で一番あなたが好きです」
未來ちゃんに向けた、たったひとつの想い。この想いだけは、掛け値なしの本物なのだ。
この俺の想いに、未來ちゃんはどんな反応を見せるのだろう。
お子様ね、と鼻で笑うか。
それとも、必死すぎて重い、と引いてしまうか。
駄目だ。どうやってもマイナス思考にしかならない。
自室で一人苦しむ俺は、おもむろにギターを手にとった。
小さなアンプスピーカーの、イヤフォンジャックにヘッドホンを差し込み、装着する。
俺はかき鳴らした。只ひたすらに。外界との交信を途絶するように。
俺は一度、頭をカラにする必要があったのだ。
だから、かき鳴らした。それは自問自答。
自らが弾いた音色が、電気信号に変換され、ヘッドホンから俺へとフィードバックする。
そうやって自分への問い掛けを繰り返した後、ふと思う。
未來ちゃんはきっと、本当の愛を知らないのだ。だから真実の愛を求めて、さ迷っているんじゃないか。
なら俺の出番だ。俺が未來ちゃんに本当の愛を教えてあげるんだ。そうすればきっと、未來ちゃんの悪癖は治る。
俺が彼女を救うんだ。
都合の良いすり替え、思い込みだと思った。
だけどこの時の俺は、無理やりにでもそう思い込まないと、荒れ狂う感情の波を落ち着かせる事ができなかったんだ。
◆◇
九月も終わりに近づいたある日。
俺は珍しいメンバーと話す機会を得た。麻衣ともう一人。アイこと愛莉だ。
「まあ、バレバレだよね」
うふふ、と淑やかな微笑を浮かべたのはアイだ。
何のことかと言えば勿論、俺が未來ちゃんに惚れていることだ。
そんな簡単にバレていただなんて、俺としては苦笑するしかない。
これでスカイハイのメンバーの内、俺の恋模様を知らないのは、達彦先輩と未來ちゃんだけという事になる……バレてなければ。
普通の恋バナならきっと大盛り上がりなのだろうが、今回の話は心情的にも、相関的にも少々複雑だ。
俺は未來ちゃんのコトが好き。
アイはアキラ先輩のコトが好き。それは以前麻衣から聞いていた事だけど、この日アイの口から改めて聞くに、かなり思い詰めているような印象を受けた。
なんか俺と似ている、そんな風に思った。
そしてアキラ先輩と未來ちゃんは……カラオケ屋の階段で……キスをしていた。
認めたくない。が、事実は事実として受け入れなければ、何時まで経っても次には進めない。
「未來ちゃんとアキラ先輩って、どういう関係なんだろ?」
まず俺から口を開いた。質問にはこの中で一番冷静であろう麻衣が答える。
「付き合ってはいないわね。
言葉は悪いけど、いわゆるセフレってヤツ?」
おいおい、仮にも女なんだから少しは言葉を選べよ。
それに俺はともかく、アイなんてもう辛そうな顔してるんだから。
「あ、ごめん」
麻衣も気付いたようで、すぐさまアイに謝罪した。
「うん、大丈夫だよ」
そうアイは返したが、どう見ても大丈夫そうには見えなかった。
俺の心配する視線に気付いたアイは、口角を上げて微笑を浮かべる。
俺も俄かに微笑み返すが、アイの目はどこか虚ろで、見ていてなんだか痛々しかった。
ねえアイ、と麻衣が切り出した。
「今までに付き合った経験は?」
……こういうトコロはある意味頼りになる。
聞きにくい事をさらりと口に出来る辺り、無神経だとも思った。
だがそれだけ、麻衣は冷静に分析しようとしてくれている事がよく分かる。
そんな麻衣の質問に、アイは静かに首を振った。それはつまり、乙女であると告白したようなものだ。
男は得てして、女性経験がないことを公にしたがらないものだが、女は違うのか。
少なくとも恥じているようには見えなかった。
「意外だな」
自然と口をついて出た言葉に、アイは「なんで?」と聞き返してきた。
「なんて言うのかな……アイは、うん。凄く女の子らしくて、絶対モテると思ってたから」
ちょっと歯の浮くような台詞は少し照れくさかったけれど、それが俺のアイに対する正直な印象だった。
アイこと町田愛莉の身辺について俺が知っている事といえば、そんなに多くはない。
九州の出身で、こっちで一人暮らししている事。
バイトをかなり頑張っている事。仕送りが少ないらしく、それなりに稼がないと生活が厳しいらしい。
ほぼ毎日自炊していると聞いた。一度だけご馳走になった、だし巻き玉子と味噌汁、鶏肉の炊き込み御飯はもの凄く旨かったのを覚えている。
アッシュカラーをメインにした部屋は質素ながらも、安心感のある落ち着いた空間だと思った。
切れ長奥二重の瞳は、麗人の趣を装い、アルカイックスマイルのよく似合う女性だ。
それに加えて、俺の狭い付き合いの中でだけど、最も良い膨らみの持ち主であった。
巨乳好きな男からすればまず合格点、いやそれどころかメジャー級にモテてもおかしくない。
そんな彼女が未だ純潔を貫いているのは、ひとえにその恋に一途で、融通の利かない不器用な恋愛観に拠るものだろう。
そこまで考えて、やっぱりアイは俺と似ているな、と思った。
「そんなコトないよ~」
と言って照れるアイは、本当に可愛いと思う。
もしアイと付き合ったなら、波乱万丈、大恋愛! みたいなものは無いだろうが、穏やかで満ち足りた毎日が過ごせる、そんな安心感があった。
俺の内心を見透かしたかのように、麻衣が「二人付き合っちゃえば?」などと言ってきたものだから、アイ共々少し顔を赤らめてしまった。
まあそれは冗談だけどさ、と枕詞を付けた麻衣が言葉を重ねてきた。
「未來ちゃんは勿論の事、彼女とアソビでヤッちゃうような男なんて、付き合ったって苦労するだけだって」
……まーたキツい事をさらりと言いやがる、この女は。
ヒロはなんだってこんなあっさりした女に惚れたんだ? 可愛いとは思うが、性格はキツいぞ。
もしかしてヒロはMなのか?
そんなつまらない想像が出来るだけの精神的余裕があった俺に対し、アイははらはらと涙を流すという、両極端な反応を見せた。
すぐに麻衣は謝ったが一度決壊した涙腺は、なかなかすぐに乾く、という事にはならなかった。
もうこれ以上突っ込んだ話が出来るはずもなく、結局恋愛を続けるにしろ、諦めるにしろ、自分の恋路は自分で決めるしかない。そんな自己確認をするだけで、この話し合いは幕を下ろしたのだった。