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第二十一話 愛莉の告白

「それは……とっても辛かったね」


 優しい言葉と共に、悔しさと悲しさで俯き震える俺をそっと包み込む救世(ぐぜ)の抱擁。


 ……あったかい。


 トクン、トクン、と打つアイの心音に耳を傾ける。地獄の釜の底に失意のまま失墜した俺にとって、その音はここから這い上がる為に垂らされた、蜘蛛の糸(みちしるべ)のように思えた。


「……あの時と逆だね」


 アイの気が済むまで抱きしめてやった時の事。だけどあの時はまだ心に余裕があったんだ。今は……もうない。

 だから、アイに抱きしめられても俺は、身体の震えを抑える事が出来ずにいたんだ。


「純平くん……いいんだよ、我慢しなくても」


 空虚な心に響いたアイの一言は、魔法の言葉のようだった。


「俺、アイの事好きになれば良かった」


 それを聞いたアイは、赤ちゃんをあやすような優しさで俺の頭を胸に抱いてくれた。彼女の背中に腕を回し、小さく呻く。

 その間、アイはずっと俺の髪を撫でてくれていた。慈愛に満ちた、菩薩の抱擁だった。

 ふっ、と顔を上げると、目の前に愛おしささえ感じられる優しい顔があった。


 びくんっ。


 アイの身体が一瞬、強張り跳ね上がった。肩に置かれた白魚のような指が、咄嗟に俺の服の襟を掴み上げる。

 思ってもみなかった。まさか自分がこんな大それたコトをするなんて。


 愛莉のくちびるに、自身のそれを重ね合わせていた。

 

 驚き目を見開くアイ。でも逃げようとはしなかった。それどころか、事態を把握するとそっと目を閉じて、俺の不器用な接吻に身を任せてくれたのだ。


 少し長めのキスは、甘くてとろんとしていた。


 離れる時、アイのくちびるがゼリーみたいにぷるんと弾んだ。少し照れたような微笑。それを見た俺の理性は、瞬く間に消え失せていった。


「お前も未來ちゃんに頼めば?」


 ヒロの台詞が蘇る。

 イヤだ! お前と同じ事をするなんて、絶対嫌だ! ……なら、いっそ——


 純情がナリを潜め、代わりに欲望が顔を覗かせる。彼女の肢体を支配したい、そんな肉欲。緊張と興奮で俺の鼓動は速くなり、手足が痺れてしまったように感覚を失っていく。


「キャッ」


 アイが小さな悲鳴を上げた。大胆にも、彼女を押し倒していた。顔の横に手をつき、鼻先15センチ程の距離で見つめ合う。さっきのキスで、彼女の瞳が情緒的に潤んでいたのを、俺は見逃さない。


「アイ……」


 早鐘を打ち鳴らす心臓が、口から飛び出してしまいそうだ。乾ききった喉が、意識せずゴクリと鳴った。やがて覚悟を決めた俺は、彼女に求愛の言葉を紡ぐ。


「アイ……一緒にオトナにならないか? つまりその、俺と、その、セッ……」

「——純平くん」


 うっかり自分が童貞である事を告白してしまった俺の台詞は、アイの一言に遮られた。


「ごめんね。それは無理なの」


 少し困ったような顔だった。俺の事を気遣って、それでも受け入れられない要求に、彼女は困惑の表情を浮かべる他なかったのだろう——でも。

 でも、前に言ってたじゃないか。俺にならアイの純潔をあげてもいいって。それを今更違えるというのか?


 もうさっきのキスで、俺のカラダは既にアイを求める仕様になっている。それは彼女にも伝わっているはずだ。ギラついた目はアイの瞳と豊満な胸を交互に見据え、発奮した身体からはケモノの如き気迫を吐き出しているのだから。

 アイの拒否反応に、俺の心は暴力的になっていく。キスまでしたんだ。このまま何もないなんて、ありえない!

 彼女の双房を歯牙にかけようとした時だった。


「純平くん。一緒にオトナになるコトはもう出来ないの」


 彼女の表情は、まるで俺を憐れむかのようだった。


「……私ね、アキラ先輩に抱かれたの」



 時が止まったかのように、思考を巡らすシナプスのやり取りが停止した。

 俺の中に宿っていた、ケモノが離脱していく。火照って止まなかったカラダも、急速に冷えて萎えていく。


 ……え? どういう事なんだ?

 戸惑いを隠せない俺を見上げながら、アイは言った。


「新年会の次の日、先輩から電話があって。会いたいって言ってくれたの。

 ショートボブが似合うって言ってくれた。それから強引に迫ってきて……私、カラダ許しちゃった」

「え? でもそれって……」


 付き合うコトになったのか? いやそれ以前に、告白の返事はもらったのか?

 俺の怪訝そうな顔は、アイにもどういう心情でいたか伝わったらしく、彼女は視線を外して小さく話した。


「……確かに付き合ってもいないし、告白の返事もしてもらってない——でも」


 アイは胸に軽く握りこぶしを当てて、その時に思いを馳せるように目を閉じた。


「でも、このカラダに刻まれた感触はホンモノだった」


 覆いかぶさっていた俺はマウントポジションから彼女を解放した。というより、俺が敗走の将となって後ずさったのだ。


「ありがとう。純平くんのおかげで私の初めてを愛する人に捧げられたの。

 だから、ね。純平くんも私なんかじゃなく、愛する人と初めてを経験してほしい」


 達観したアイの表情は。一言でいうと……吐き気がした。


「そ、そう。良かったね。俺の心配までしてくれてありがとう。

 今日はもう帰るね。ご飯、ありがとう。じゃ、じゃあね」


 1秒でも早く、ここから立ち去りたい。そそくさと立ち上がり、逃げるように部屋から飛び出した。外は真冬の雨だった。こんな時に、天気予報は的中したのだ。


 レインコートも身に付けずに、宛もなくスクーターでひた走った。フルフェイスの全面に容赦無く叩きつける冷たい雨。






 わああああああああああ!





 わああああああああああ!






 フルフェイスの奥で、俺は力の限り叫んだ。手負いの野獣が牙を剥くように、威嚇するように。


 咆哮。


 また、まただ! またアキラ先輩だ! あのクソ野郎! それに、アイまでっ……アイまでもが俺を裏切った。ありがとうだと? 単なる都合の良いセックスフレンドじゃないか。くそっ! 愛情のカケラもないセックスなんてしておいて何がありがとうだ!


 ヒロも! アイも!


 お前たち今までずっとホントの愛を探してたんじゃなかったのか。それがなんだ、肉欲なんかに溺れやがって。お前たちの愛は汚れてる。腐りきってる。


 くそ!

 くそ!

 負け犬どもめ!

 アキラ先輩!

 アイ!

 ヒロ!

 お前らみんな負け犬だ!

 ……!

 ……!

 ……未來ちゃん……!


 未來ちゃん……負け犬……未來ちゃん——


 みんながオトナになっていく中、俺だけが取り残されていく。寂しい。怖い。辛い。悲しい。悔しい。どんな言葉をもってしても、今の俺を言い表すことはできない。


 もっとも似合う言葉は——


「負け犬は……俺だ……」


 俺を庇護する最後の砦、怒り。それさえも霞のように消えていった。

 認めてしまったから。心を守るモノが何も失くなってしまった。


 剥き出し。剥き出しだ。


 ぅぐ……うっ……くっ……ぅええええぇ……!


 泣いた。おもちゃを取り上げられた子どもみたいに。救われない絶望の底で。失意の海で。

 雨よ。真冬の雨よ。どうかこのまま降り続けてほしい。そして俺の泣きじゃくる声をかき消しておくれ。

 神さま、それくらいのお目こぼしはお許しください。何もない僕には、泣くことしかできません。せめて、思いきり泣かせてください。



 フルフェイスの奥。叩きつける極寒の雨の中。スロットルを回す右手に力を込め、誰にも知られることなく俺は、泣いた。


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