第二十話 愛莉と話そう
その日の夕方。俺は一度コンビニに立ち寄ってからアイのアパートへと向かった。今朝のメールの内容はこうだった。
『おはよう。純平君、今日ヒマ? 聞いてもらいたい話があるんだけど』
それに対する俺の返事は、こう。
『俺もちょうど話したい事があったんだ。夕方からなら空いてるんだけど』
もう昼を過ぎていたし、ゆっくりしたかったのもあった。そのレスに対するアイの返答はこう。
『じゃあ久しぶりに夕飯をご馳走してあげようか?』
嬉しかった。落ち込んでいた俺の事など知る由もないアイの優しさに、俺のささくれだった心は、少しだけ癒された。そうだ、チーム童貞は瓦解してしまったけれど、童貞処女連盟はまだ残っている。アイの申し出をありがたく受け取り、俺はこうして彼女のアパートを訪れたのだった。
玄関の前までくると、早くも良い香りが漂ってきた。正直ここに来るまでは、楽しい気分になんて全然なれなかった。けれど現金なもので、美味しそうなご飯の匂いを嗅ぐと少しウキウキしてしまう自分がいる。なんとなく姿勢を正してから呼び鈴を押す。すると5秒もしないうちに扉が開いた。
「早っ」
「あはは、もう準備して待ってたからね」
うっ……これは……。
男の浪漫、エプロン姿。鈍色のセーターを腕まくりしたその様はもしかして新妻か。俺の嫁か。
傾げた小首に、サラリと流れるショートボブの黒髪。天使の輪の輝きが、電灯を反射してキラリと舞った。
「アイってショートカット似合うんだな。とても良いと思うよ」
「へへ、ありがと。さ、上がってよ」
勧められるまま、部屋に上がりこむ。暖房が効いていて、とてもあったかい。外は1月の上旬らしく冬真っ盛りの寒さだから、部屋の中が余計に暖かく感じる。
四角いテーブルの真ん中にガスコンロ。そして行儀良く配置された2人分の食器。それを見るだけでも、今夜のごちそうに期待を膨らませてしまう。
「じゃ〜ん」
おちゃらけた効果音と共に、アイがミトン越しに熱そうな土鍋を持って現れた。弱火に調節したコンロに鍋を置き、蓋を開く。ドロン! とでも言いたくなるような湯気が上がる。なんか赤いスープの鍋だった。
「トマトスープ鍋でえーす。リコピン、リコピン」
よく分からないがご機嫌のようだ。でも、それで良い。いや、今の俺にとってそれがありがたい。
ぐぐう。ちくしょう、腹が鳴った。
「ぷっ、あっはははは。純平くん、タイミング良すぎだよ〜」
「いやー、だってこんな美味しそうなもの見せられたから」
「私も楽しみにしてたんだ。ほら、1人暮らしだとお鍋にしても食べきれないしね。
だから、今日はいっぱい食べてよね」
なんだこれ。まるで新婚生活じゃないか。すげー充足感。こんな気だての良い奥さんだったら、仕事終わったら毎日ソッコーで帰るよ。そんな青写真を思い描いてしまうほど、今日の彼女は素敵だった。
後ろ手の結び目を解き、座りながらエプロンを脱ぐアイ。セーターを押し上げる豊胸が眩しい。
「器とって。よそってあげるから」
う、うん、と生返事もそこそこにアイに取り皿を手渡す。ああ、これが幸せか。素晴らしい。幸せ万歳!
受け取った器を手元に置き手を合わせる。
「いただきます!」
白菜、豆腐、えのき、鶏肉、ねぎ、ウインナー。甘くてとろみがあって、深い味わい。実に美味い。
「美味い。美味いよ、アイ。
……フンパツしたんじゃないか?」
アイは九州の田舎から出てきた子だ。仕送りが少ないから、バイト代で生活費を賄わなくてはならないと聞いている。それなのに、こんなに沢山の具材を買ってくるなんて。きっと痛い支出に違いない。こんなにドカ食いしていいのかな。
憂慮が遠慮になって箸が遅くなった事に、アイはすぐに気が付いた。
「気にしないで。1人で鍋やったって、余るだけだもん。
食べてくれる人がいて、こっちは嬉しいくらいなんだから」
そう言って切れ長奥二重を細めるアイは、まさに大和撫子だ。
感謝。感激。俺はアイのお言葉に甘えて、たらふく堪能した。
「ふう〜、もうお腹一杯。美味しかったよ、ご馳走さま」
「お粗末様でした。ふふ、良かった。純平くん思ったより元気そうで」
「アイのお陰だよ」
「新年会の時、スゴく辛そうだったから心配してたんだ」
うう、アイの目にはそう映っていたのか。アイの事を確認する余裕もなかったからなあ。
「そっかあ……アイはどうだったの?」
目線を外してアイは憂いの表情を浮かべ、「うん……苦しかった」と言った。そうだよな、アイも俺と同じ。純粋な恋に苦しんでいるんだ。
やっぱり同志。恋に翻弄される仲間がいたことにホッとした時、アイがおもむろに口を開いた。
「でも、今はもう大丈夫」
すーっと口角をあげたアイのアルカイックスマイルは、とても印象深くって。その瞳の深奥はオトナの様相を醸し出し、俺はすっかり彼女に見とれていた事に、しばらく気付かなかった。
「あ……ごめん」
何故だか謝ってしまった。たぶん、見つめあっていた事が恥ずかしかったのだろう。これもまた、俺が童貞ゆえの未熟な行動なのだ。
「そういえば純平くん、話があったんでしょ。なに?」
そう言ったアイの表情に、翳りが見えた。それは俺が苦悶の表情を浮かべているからに他ならない。「どうしたの、大丈夫?」と心配する彼女に、俺は俯きながらポツポツと話し始めた——ヒロと未來ちゃんのコトを。
さっきまでの幸福感は、強風に煽られた紙きれのように、すっかりどこかに飛んでいった。親友と想い人のウラの顔を暴露するにつけ、どんどん気持ちが沈んでいく。合いの手のように、テレビから聞こえる笑い声が虚しく部屋に響き渡った。
アイはそっとテレビの音量を下げ、俺の話に耳を傾けてくれた。やはり気が利く女の子だ。優しい。
そんなアイに、俺は心の闇を吐き出す。苦しみ、悲しみ、怒り。最後にはもう、震えて言葉にならなかった。
こんなに苦しいなら、もう消えてしまいたい。
いっそ、死んでしまいたい。
……未來ちゃんのコトなんて、キライになれたらいいのに!
心の中でそう叫んだ時。俺を正面から包み込み、抱き寄せる柔らかな感触があった。




