第二話 LRイヤーパフ
「セックスなんてスポーツよ」
名言だと思う。俺の中に一生残る言葉だ。
衝撃、斬撃、ハートブレイク。
この言葉は彼女から直接聞いたワケじゃない。
所謂又聞きというヤツだ。
サークルボックスでの恋バナでの事だった。
「――純平くんはいないの? 好きな子」
七月の末。
日はとっぷりと暮れ、とうに深夜。
俺らが今いる灯りの消えた仄暗い部屋、軽音部部室は、その活動内容からであろう、広めの二十畳。
外からドアを開けるとすぐ、一組のドラムセットが目に飛び込んでくる。
構造的には只のだだっ広い部屋であるから、玄関などはない。
入り口の真下、半畳分のそこだけカーペットが切り抜かれ、裁断口をガムテープで床に貼り付けただけの、靴脱ぎ場とでもいう場所があるだけだ。
ドアをくぐって左側の壁にベースのアンプが三台並び、対面するように向かいには五台のギターアンプが並んでいる。
大きさは様々。
列を成して並んではいるものの、非常に不格好である。
サークル所有のアンプは、ギターが二台、ベースが一台。
残りのアンプは先輩方の私物である。
ちなみにベースのアンプは、ベーアンと略され、ギターのそれはそのままアンプと呼ばれる場合が多い。
何故かは知らない。
ベーアンの隣にはキーボードが立っており、この他楽器と呼べる物――軽音部らしく残りは全てギターとベース――は、それぞれの所有者がそれぞれ無造作に、アンプの隙間等に乱雑に立てかけている。
そしてバンドの顔、ボーカルの為のマイクスタンドは、威風堂々たる立ち姿で部屋の真ん中に佇んでいた。
我が軽音部の活動に必要なスペースは、基本的にこれで事足りる。
それで約十四畳。
まだ六畳の余裕がある。
ボックスの奥のスペースだ。
天板の裏が緑色の、麻雀をする時に重宝する炬燵用テーブルと、十七インチの、ゲーム専用と化したブラウン管のテレビ。くたびれた感のある布製のソファーは三人掛け。
大きな物はそれだけで、他に居住スペースっぽいその部分にあるのは、散乱した楽譜や漫画、雑誌の類ばかり。
テーブルの上にはシケモクのカチ盛り灰皿が二つ。
先輩方の置き土産である。
卓面は灰と埃でザラザラだ。
俺はソファーの左側に身体を預け、だらしなく胡座をかいている。
右側には大学に入って最初にできた友人でギタリストの三嶋博之が、同様にだらしなくソファーに身を預け、足をテーブルの上に放り投げていた。
中一からやっているというヒロのギターテクは相当なモノで、入部当初、先輩バンドから複数お誘いの声がかかったものだった。
実は俺の所属するバンド【スカイハイ】の前に練習していた、先輩バンドのギタリストでもあった。
俺は彼に、憧れと共に僅かばかりの嫉妬を覚えている。
至極、芸術的な分野において、嫉妬の情念は上達の為の重要なファクターである。
嫉妬を執念に変えるのだ。
音楽にしろ絵画にしろ、小説や漫画、建築、料理に至るまで、創作において最も必要なもの。
それは技術でも経験でもなく、執念である。
執念無くして、芸術は円熟をみない。
かのウォルトディズニー氏の、人が夢を追う心を失わない限り、ディズニーランドは永遠に完成しないという旨の言葉も同じであろう。
つまり夢を、理想を追い続け、それを形にしようとする執念だ。
だから俺はヒロの演奏を、いつも目を皿のようにして観察している。
いつかはプロとしてスターダムに上がりたい。
そんな漠然とした想いのひとまずの目標が、俺の一歩先を行くヒロであった。
最初の問い掛けをしてきたのは麻衣。
テーブルとマイクスタンドの間で、薄いタオルケットにくるまって横になっている。
麻衣はちっちゃい。
だが見た目とは裏腹に、意外にもパワフルなドラミングをモットーとしているのだ。
俺たち大学生はとっくに夏休みに入っている。
バイトしたり、練習したり、無意味に集まって夜更かしをしたり。
その辺は他の学生と大差なく、毎日をのんびりと過ごしていた。
今日もその流れの中、仲の良い者同士が集まって延々とだべる、そんな他愛ない一日になるはずだった。
「――純平くんはいないの? 好きな子」
「え、俺?」
少し戸惑う。
照明の消えた室内を照らすのは、下弦の月。
目は慣れ、それだけの光量でも部屋の様子はよく分かる。
声が漏れ出さないように締め切った室内は、夜とはいえ相当に暑い。
この、ジワリと汗が滲んでくるような暑さの中でも、麻衣はタオルケットを手放さない。
その薄い布きれは、俺たち二人に対する最低限の警戒心の表れであろうか。
こんな夜更けにこんな所にいる時点でどうかとは思うが、俺たちは友人であり、バンド仲間であるというのが心の拠り所となっているような。
なんとなくだがそんな風に見えた。
俺たち三人は一年前、入部してすぐに、同級生六人編成のバンドを組んでいる。
それがメインバンドだ。
その中で俺はサイドギターの役を担っている。
リードギターは勿論ヒロだ。
だが、きっちり部員がバラバラにバンドを結成出来るわけではないし、遅れて入部してくる者もいる。
まあ色々な理由で、二つ以上のバンドを掛け持ちしている者は意外に多い。
かく言う俺も、サブバンドとして【スカイハイ】に参加している身だ。
「好きな人……いるよ」
バカ正直に答えてしまった。
おかしい。
今日の俺はおまけの存在のハズだ、ヒロの。
ヒロは麻衣を慕っている。
それを知っているのは俺だけだ。
バンド内恋愛だなんて、本来ならば絶対に反対なのだが、他人の恋愛を否定するなど、今の俺には出来ない事だった。
つまるところ今夜の集まりは、麻衣の身辺調査がメインなのだ。
サークルの活動時間は午後九時までと決められている。
だがこれは近隣住民に対する配慮のようなもので、別に出入りまで禁じられるものではない。
灯りを消して静かにしていれば、グレーゾーンではあるけれど、ここに泊まったって問題はないのだ。
今日の練習の反省に始まり、共通の友人の恋愛事情。
その中に、麻衣に対する質問を幾つか挟んで、彼女に今彼氏がいない事、好きな人もいない事を確認した。
それだけ。
それで終わりの筈だったのに。
「だれ誰? あたしの知ってる子?」
「あの子だろ? 高校からの」
「いや、それが」
「えっ、変わったの? 好きな人」
おいヒロ。俺の事はいいだろう? ていうか俺はなんで素直に喋ってるんだ?
「いつからだよ」
「さ、最近だよ」
「えーマジかよ。あんなに一途だったのに」
ヒロには話してあった。
高校一年の春から、ずっと片思いだったあの子の事を。
だけど、出逢ってしまったのだ。
そんな、叶わない一途な思いを一刀両断、見事なまでに断ち切ってくれる、新しい想い人に。
「最近て事はぁ、大学入ってからだよね?
あたしたちの知ってる子?」
「う、うん……どうかな……」
麻衣が食い付いてきた。
無言はマズいと思ったので、肯定とも否定ともとれない、曖昧な返事をする。
まあ恋バナしてる時点で、聞くばかりでは済まされないだろうとは思っていたが。
それよりも、何故俺はまじめに応答してるのだろう?
好きな人が出来ると、脇があまくなる。
これも昔からの俺の性質だ。
「いやん、だれ誰? ヒントは?」
「ヒ、ヒントって言われても」
「じゃあ歳は? 同い?」
麻衣の質問攻めに俺はたじろぐ。
「……一コ上だよ」
「ええっ? て事は三回生? て事はだよ。ゼミが一緒とか?」
いつの間にか麻衣はタオルケットから半身を露わにしている。
俺はイエス・ノーくらいならと思い、何気なくノーと答えた。
「純平くんコンビニでバイトしてたよね?
て事はだよ。そこにいるんだ?」
「違うよー」
「ふーん……ホントにぃ?」
麻衣の推理は行き詰まったようだ。まあ俺が黙ってる限り分かるわけはないハズなのだ。
「なあ、誰だよ。なんかメチャクチャ気になってきたじゃないか」
チッチッチッ、それは教えられないなあと、俺は心の中で人差し指を振り子のように振った。
ヒロが焦れったいような声を出して、俺に催促するが、それは軽くスルーしてやる。
まあ、ここらでこの話はお開きにしてもらおうかな。
そう思った矢先の事だった。
「あたし、分かっちゃった」
……え? 麻衣の言葉に焦る。
そこにすかさずヒロが食いついてきた。
「マジ? 誰? 教えてよ」
「――言っていい?」
なんで分かるの?
二回違うって答えただけだぞ?
俺自身、麻衣の答えが気になって、思わずうん、と言ってしまった。
「未來ちゃんでしょ?」
「え、なっなんで?」
その答え方がだめ押しのようなものだった。
観念した。観念して、なんで分かったのか聞いてみた。
「あたしらの共通の先輩なんて、サークル関係くらいしか無いじゃない。
ゼミの事もバイトの事も、純平くんの逃げ道に先回りして潰しただけよ。
で、最近知り合った一コ上の女子って言ったら、月初めに入部った未來ちゃんくらいしかいないよね」
強張っていた身体から力が抜けていく。
はーっとため息を吐いた。
俺がマヌケだっただけか。
今きっと顔真っ赤だ。
「マジで? マジで未來ちゃんなの?」
「うん……」
未來ちゃんは一コ上の先輩にも関わらず、皆から『ちゃん付け』で呼ばれている。
猫のような奥の深い瞳。
ぽってりとした肉厚の唇。
少々幼児体型っぽく、くびれがあるのか服の上からでは分からないけど、でるところはでている。
誰にでも気がねなく接するその様子は、年下の俺が言うのは変かもしれないが、ピュアでキュートで天真爛漫。
俺に限らず、一目惚れする男がいたって何ら不思議はない。
「げー、マジかよー……」
「あー……、まああたしら女子から見ても可愛いからね……」
二人の歯切れの悪さは一体何だ?
なにやら急に不穏な空気。
風雲急を告げるって使い時、今であってたっけ?
「……何、どしたの、なんかマズいの?
もしかして彼氏がいるんだ?」
「純、知らないの?」
何を? ヒロの意味深な問い掛けが、俺の心拍数を俄かに底上げしたのを感じる。
でもこんな恥ずかしい思いまでしたのに、何か隠されてるなんて事は我慢ならない。
だから、聞いた。
そしたらヒロが突拍子もない事を口にした。
「ヤリマンなんだって」
「う……そ」
起き上がり、ずり落ちていたタオルケットを羽織り直して、麻衣が言葉を重ねる。
「アキラ先輩とセイジ先輩は穴兄弟なんだって」
絶句した。
隣でヒロも絶句していた、俺とは違う意味で。
──締め切った部屋が夜更けにも関わらず、暑さを増していくように感じられた。
夕食のホカ弁と一緒に買っていた、コーラの残りに口をつける。ヌルい。
「それって噂? ホントなの?」
デマである事への一縷の望み。
「確かな情報よ。
アイちゃんがさ、アキラ先輩の事が好きで色々調べてたから。
すんごく泣いて、宥めるの苦労したもん」
「あーそれ俺も聞いたよ」
平静を取り戻したヒロが話に乗っかる。
当然俺は納得出来ない。
「それだって結局噂なんじゃないの?」
難癖をつける俺に、麻衣は事情通とばかりに話のウラを明かした。
「アイちゃんも、あたしも未來ちゃんも、実は教育学部なの。
で、教育学部ってのは課程によってクラス分けがされるの。
幼児、小中高、更には教科別、といった具合にね。
偶々皆一緒なワケ。
受ける授業も同じ。
だから、高校までのようなクラスメートっていうコミュニティーが出来上がる。
そこで未來ちゃんとよく一緒にいる人に聞いたの。
ちなみにサークルに入ったのは、あたしがやってるって話したら、見学に来てさ。
その場ですぐ入部しちゃってたよ」
ごく近しい人間からのリークが話に信憑性を持たせるが、俺には信じられない。信じたくない。
「それに、私聞いたもん」
なんだ、何なんだ、まだ何かあるのか?
一目惚れの相手がヤリマンだなんて、そんな馬鹿な事があるか?
嘘だ、嘘に決まってる。
無理やりにデマだと思い込もうとする俺に、麻衣はトドメを刺してきた。
「だって、未來ちゃん言ってたもん。
……セックスなんてスポーツよ、って」
目の前が暗転し、俺は一時的に視力を失った。
バカな。バカなバカなバカな。
ヤリマン認定に飽きたらず、セックス=スポーツだと?
あんなに純真無垢で可憐な未來ちゃんが?
そんなはずはない、そんなはずは。
動揺の余り、俺の脳が暴走を始めた。
童貞は、相手の性に対する経験値に非常に敏感なのだ。
基本処女、だが二十歳を越えるともなればそれは難しいかもしれない。
ならば過去に一度だけ、しかも男が下手くそで、思いやりのない性交渉の末、全く悦びを感じられなかったという性事情であるべきだ。
そしてそんな身体と心を閉ざした頑なな態度の彼女を、心身共に悦楽の園へ導いてあげるというのが、童貞男の夢想ルートなのだ。
「未來ちゃん……」
「純平くん……」
「かわいいよ、かわいいよ未來ちゃん」
「あっ、ソコは ぁんっ……」
「ほら未來ちゃん、力を抜いて……大丈夫?」
妖艶な肢体をくねらせ、人差し指の第二関節をそのぽってり唇でハミハミ。
一糸纏わぬ姿の彼女は気恥ずかしそうに、濡れた瞳を逸らしながら甘えるように懇願する。
「じゅっじゅんぺぇくん……やさしくして?」
「分かってるって……じゃあ――」
「……アッー☆」
「大丈夫か、純」
「えっ、うっうん」
妄想ネットワークにエキセントリックダイヴしながら困惑し狼狽えるという、自分でもよく分からない神業を密かに展開している俺に、麻衣が尋ねてきた。
「何かきっかけはあったの?」
馴れ初めなど、普通は恥ずかしくて人には言えない筈なのに。
そこらへんの感覚が麻痺してしまっていた俺は、出逢いを語った。
初めて遭ったのは正にここ、今俺が座っているソファーのこの場所だ。
その日は授業が一限、三限とあり、間に二時間の空きがあったので、ボックスで時間を潰そうと思ったのだ。
公然の秘密となっている隠し場所から鍵を取り出し中に入る。
当たり前だが誰もいなかった。
俺はソファーに腰を下ろし、落ちている漫画をパラパラと流し読み。
そんな時だった。
女子四人がぞろぞろと入室してきたのは。
「それあたしらの事じゃん」
そうなのだ。
二回生三人と、未來ちゃんの四人。
今にして思えば麻衣の、学部が同じという話に合致する。
二回生の三人は見た事があった。
麻衣とその友達だ。
その二回生トリオは、ボックスに居着く事無く、五分程で出て行った。
二限目があるからだ。
かくして、三人を見送った未來ちゃんは、ここに残る事になった。
「あ、純平です」
「純平クン? ふーん、中々イケメンだね。
モテるでしょ?」
「いやー、そんな事ないですよ」
「うふふ、未來よ。
みんな未來ちゃんて呼んでるわ」
鼻にかかった、濡れたような甘い声が俺の鼓膜を振動させる。
女神が唄うような甘美で棘のないソプラノ調の声音。
聞く者の耳を溶かしてしまいそうな、魅力的な声だった。
「純平くんもバンド組んでるんだ?」
「あ、はい、麻衣のバンドでギターやってます」
「えっ純平くんギターなの?」
そう言って、部屋のほぼ中央に位置するマイクスタンドの前に立っていた彼女が、急に近寄ってきた。
そして、俺の隣と言うにはあまりに近すぎる距離に腰を下ろしたのだ。 肩掛けバッグのベルトは彼女の中心線を斜めに縦断し、その妖艶な双房をこの上なく強調していて目のやり場に困る。
俺の心臓は一度身体を突き抜けた後、早鐘を打ち鳴らし身体中に緊張を走らせた。
先の問い掛けに、「は、はあ」などとぎこちない返事をする俺。
「ちょっと、そんな他人行儀は止めてくれない?」
「い、いやそう言われても、初対面だし」
照れている俺は、どうしても俯いてしまう。
だけど彼女は、俺の視界に入っていないと気が済まないという風に、身を屈めて下から覗き込んできたのだ。
「ほら呼んでみて、私のナ・マ・エ」
この時の俺の顔は、きっと茹で蛸よりも赤かったに違いない。
ためらってしまう。
だって俺は付き合った歴はあっても、所詮童貞なんだ。
こんなの、俺の辞書には載ってない。
「ほら、が ん ばっ て」
「み、未來……さん」
彼女はジト目で唇を少し尖らせた。
目が「もう一度」と言っている。
「み、未來ちゃん」
ぽってり唇を三日月のようにして、未來ちゃんがニッコリ微笑んだ。
「よく出来ました~」
そう言った彼女は、何を考えているのか、俺の頭をナデナデしてきたのだ。
いなかった。
俺の今までの人生に、こんな妖精のように不思議で。
可憐で。可愛くて。
「……なんなんすか、ギターの事で何か聞きたいんじゃないんですか?」
精一杯平静を装おうとするが、声のトーンは高くなってしまう。
「ああそうそう、純平クン、ワタシのバンドに入ってよ。
麻衣ちゃんとバンド作ったんだけど、ギターがまだ決まってないの」
「えっ、麻衣って掛け持ちしてるんですか?」
「何言ってるの。
こんな時期にフリーな人なんて、一昨日入ったワタシくらいしかいないじゃない」
だから誰かに掛け持ちを頼むのよ、という省略。それもそうか。
次のライブは九月の第二土曜日。もう後ふた月程しかない。
「で、でも俺まだそんな上手くないし。
それに自分のバンドの練習が……」
「嫌なの?」 勿論そんな事はないのだが、やはり急な申し出には即答出来ない。
そんな俺の懸念を解くように、未來ちゃんが優しい声をかけてきた。
「だいじょぶだいじょぶ。
そんな難しいヤツじゃないから」
「……ちなみにどんなのやるつもりなんすか?」
「ああ、えっとね」
そう言いながら未來ちゃんは、肩に掛けていたバッグからポータブルプレーヤーを取り出した。
「これなんだけど。聞いてみて」
そう言ってRの目印のついたイヤーパフを、俺の右耳にあてがってきた。
俺は右手でしっくりくる位置に装着しなおす。
未來ちゃんが再生ボタンを押すや否や、レコードに針を置くように、俺の肩に身体を密着させてきた。
未來ちゃんの、柔らかい部分が腕に触れる。
全神経がそこに注がれ、その感触は俺の脳裏にデータ保存された。
タイトルは今日のオカズ。
ドキリと心臓を跳ねさせた俺の焦りをよそに、未來ちゃんはLのマークのついたイヤーパフを左耳にあてがった。
始まりを告げるギターのイントロが流れ出す。
――なんだこれは?
一つのイヤフォンを男女二人で分け合うこのシチュエーションは?
普通にある事か? いやないだろう。
どういう事なんだ、お互い初対面の筈だぞ?
狼狽しながらも、俺はしばらく右耳に集中した。
「ノリの良い曲だと思わない?」
「うん、そうだね……」
「ボーカルの子の歌い方とかワタシ好きなんだよ」
「へぇー、そうなんだ」
曲はBメロからサビにさしかかった所だ。
ポップ時々ロックといった雰囲気のこの曲は、明るくて、ノリも良くて、イントロから流れるギターのキャッチーなフレーズも、ボーカルの女の子の少し鼻がかった声も、全てが心地良い。
まるで未來ちゃんそのものを歌にしたようだ。
「ねぇ、純平クン」
彼女が手を俺の膝に乗せてきた。
白魚のように細くて女の子らしいその指が、俺の心まで優しく撫でてくる。
高校時代から続く四年越しの叶わぬ恋。
たとえ振られても、喉の奥に引っかかった魚の小骨のように、ずっと気になっていたあの子への想いが。
「一緒にバンドしよ?」
俺は呼吸を忘れていたかもしれない。
返事もしないで、見入っていた。
一つ年上のお姉さんというには、あまりに魅力的な未來ちゃんの瞳を。
真っ白。
ただ真っ白。
真っ白に真っ白を重ねた空間。
そこに佇む後ろ姿。
振られ続けたあの子の後ろ姿。
振り返る。
顔に白みがかってはっきりしない。
ふいに、溶けていく。
あの子が。
あの子の形が。
光の粒になって霧散していく。
俺の心が浄化の炎に包まれる。
未來ちゃんが身をかがめて、膝の上の手を太ももにずらしてきた。
ダメ押し。
「ねぇ、純平クン……しよ?」
その瞬間、空っぽになった。
それは、あの子が占有していた俺の心の容積。
だがそこに眩い光を放ちながら新しい想い人が降り立つ。
その子の名前は、未來ちゃん。
――惚れていた。ソッコー惚れていた。
「は~……」
俺の馴れ初めを聞き終えた麻衣が、盛大にため息をついて、一言こう言った。
「……男ってなんでこんなにバカなの?」