第十九話 亀裂
戦慄していた。身体中の毛が逆立ち、体感温度は急激に低下した。俺より一回り大きくガタイの良いヒロが、顎を突き上げてくわえ煙草に手を伸ばし、大きな一服の後こう言った。
「純、悪いな。俺……もう童貞じゃねえんだ」
いったい……どういう事なんだ? 表情は変えずに、だがしかし精神状態は完全にパニックに陥った。五感の内の触覚は麻痺し、今が暑いのか寒いのかも分からない程に。
なんだ今の勝ち誇ったような物言いは。いや待て。そんな事は今、問題ではない。そうだ。ヒロの態度がどうだとか、突きつけられた命題の解に比べれば、遥かにどうでもいい。
相手は?……いったい誰と?
脳裏に浮かぶひとりの女性。
どうして君が出てくるんだ。
違うよね。
違うよね……未來ちゃん。
まさに祈るような気持ちでいた俺は、無言に耐えられないとばかりに言葉を捻り出した。
「えっ、そっ、そうなの?」
完全に動揺してしまって、続く言葉が見つからない。口の中は渇き、舌が貼り付く。ヒロが、サバンナのライオンみたいに悠然とした態度で淀みなく煙草を吸うのに対し、俺はミジンコのようなせわしさで、買っていた清涼飲料水にちびりと口をつけた。
なんだか卑屈。微細に震える手に気付かれてはいないだろうか。少しだけ潤った喉から、質問を吐き出す。
「——いつの話?」
「去年の終わり頃」
確かに、違和感はあったんだ。大晦日、神社の境内で。部室でささやかに開かれた新年会で。妙に元気だったヒロに。クリスマスライブ前までは、そんな風には思わなかった。
ひとつの可能性に思いが及ぶ。
ライブの打ち上げ。あの時ヒロの隣りに居たのは、未來ちゃんだった。あの日はクリスマスイブ・イブの週末という事もあって2次会希望者が少なく、そのままお開きになった筈。
ヒロは当然、フリーだったろう。未來ちゃんは? 彼女もまた、彼氏という存在はいないと公言していた。
想い人に告白も出来ずに失恋してしまった傷心のオトコの隣りに、未來ちゃんのような、言いたくはないけど……軽いオンナが座っていたら?
そしてまた、いくら未來ちゃんといえどやはり21才の女の子。「週末のクリスマスを1人で過ごすなんて、まっぴらごめんよ」などと考える所に、ヒロのような自信家——実際はそう演じているだけなのだが——が傷心の眼差しで未來ちゃんに救いを求めたとしたら……。
それは最悪のシナリオ。希望すら残らない、ネオ・パンドラの箱。
頭を抱え、うずくまりたい衝動に駆られる。呻き声を漏らし、呪いの言葉を吐きたくなる。しかし今は、そのどれもを我慢する。そんな限界ギリギリの攻防を繰り広げる俺に、ヒロが嘲るように灰色の視線を飛ばしながら、悪魔の台本を読み上げた。
「お前も未來ちゃんに頼めば? 純なら喜んでヤらせてくれるだろ」
——俺は呑んだ。色んなものを。
息を。
唾を。
恐れを。
哀しみを。
そして、怒りを。
聞きたくなかった。これだけは聞きたくなかった。背後から股間を掌握され、頭に銃を突き付けられたような感覚が、めまいと吐き気を連れてくる。
「マジになるなよ、純。ずっと前から言ってたじゃないか、未來ちゃんはやめとけって。
彼女はアソビ相手が欲しいだけなんだから」
——ダメだ。これ以上ここに居てはダメだ。コイツの話を聞いていてはダメだ。俺の脳が、全力でヒロを否定した。
これがもしドラマや映画だったら、逡巡の間もなく殴りかかっている事だろう。だけど、これはリアル。こんなに脳漿が沸騰しそうなほど頭にきてるのに、俺って奴は。事後に背負うだろう面倒に思い至ると、親友の立ち位置にいるヒロに手を出す事など出来やしなかった。
「う……ん、そう、なのかな。やっぱり——」
苦しみを表情に出さないように気をつけながら、俺は抑揚のない声でそう呟いた。
最後はなんと言って部室を出たのか、覚えていない。確か、明日は朝から用事がとかなんとか……用事なんて、なんにもないのに。
寒風の中、原付を転がし家に戻って、マットレスの上の布団にダイブする。TVを点けた。四角い画面の向こうで気象予報士が明日の天気について解説していた。明日の夜は雨か雪の予報らしい。
それを聞き流しながら、俺は目を閉じた。
「俺もう童貞じゃねえんだ」
「お前も未來ちゃんに頼めば?」
ヒロの台詞が頭の中を駆け巡る。ああくそっ! 俺は頭を掻きむしった。友人と恋人を同時に失った気分だ。考えたくもないのに、ヒロと未來ちゃんの情事が思い浮かぶ。
「未來ちゃん、お、俺」
「どうしたのヒロくん、もしかして初めてなのかしら? ……くすくす、焦らないでいいのよ」
ケモノのような息遣いで未來ちゃんに覆いかぶさる、ヒロの大きな背中。幽体離脱したみたいに、俺は2人の行為を斜め後ろから目撃していた。目を逸らす事すら許されない。だってこれは、俺のまぶたの裏に映る映像なのだから!
ヒロが未來ちゃんの柔肌に触れる度に、心臓がぎゅうっと締め付けられる。未來ちゃんが官能的な声を洩らす度に、おなかの奥の方が痛くなる。
やめてくれ未來ちゃん……未來ちゃん! くっそ〜!!!
そんな怒りに打ち震える俺の事など見向きもしない2人は、益々ヒートアップしていく。
「未來ちゃん、いい?」
それだけは、それだけはやめてくれぇー! 断るんだ、未來ちゃん!
「んふふ……いいわよ」
ちっくしょおぉ〜〜〜!!!
そんな言葉に続く行為に、俺の中のリミッターが作動したのだろう。
ブラックアウト。
気付けばもう、昼を過ぎていた。
ぼーっと見つめる天井には、幾つかの消えないシミ。はあーっと溜め息を吐く。
「アレは本当の事だったの? ねえ、未來ちゃん」
横を向くと、クシャクシャに丸めたティッシュの塊があった。それを見ると、どんどん自分が情けない人間に思えてくる。
誰も俺の事なんか気にも留めない。こんなバカで情けない俺なんて、この世から消えてしまいたい。そんな事を考えてしまう程、気分は落ちていた。
ぐう。
お腹が鳴った。こんなくだらない人間なのに、一丁前に腹は減るのか、クソッタレ。食パンまだあったっけ? そんな事を考えながら身体を起こした時、マットレスからずり落ちた携帯が、着信を知らせる光を放っていた。
メールだ。寝ている間に入ってきたようだが、全然気づかなかった。
差出人は……アイこと町田愛莉だった。




