第十八話 ピエロの潜水艦(サブマリン)
年始は最悪だった。どこにも行かなかったし、バイトも無理を言って休ませてもらった。
本当に、生きているだけだった。
ひとつだけ、やっていたことがあった。
それはギター。俺が高校2年の時、親父が酔狂で買った初心者セットのストラトキャスター。これを初めて手にとった時以来、触らなかった日は一度もない。
いや、嘘だ。最初の頃はギターコードのFが押さえられなくて、すぐに投げ出した。1日どころか、10分触って半年放置。思い出したようにもう一度触ってみるが、またすぐ放置。そんな感じだった。
3年生になり部活動も引退したある日。受験勉強の手慰みに触った時、Fコードがキレイに鳴ったんだ。嬉しかった。チューニングはてんで合っていなかったけれど。
それから、弾き語りの歌本とにらめっこの日々。ドレミの歌を口ずさみながらチューニングを合わせ、それからやりたい曲に挑む。数日後、ぎこちないコード進行でビートルズのLet it beが弾けた時は感動した。
多分、この時だ。俺の人生に音楽が染みこんできたのは。
一気にギターが楽しくなって、ひたすら同じ曲を弾きまくった。まさに馬鹿の一つ覚え。
数日経った頃には、ベンチャーズのパイプラインに挑戦していた。初めて耳コピした曲だ。冒頭のトレモログリッサンド、いわゆるテケテケが印象的な、インストゥルメンタルロックナンバー。音を探し、だんだんメロディーラインが伸びていくのが楽しかったのを覚えている。
そんな事をしながら無事大学に受かった春休みのある日、アルバイトを決めた時に親に借金して買ったのが、今の愛機JEM7Vのホワイトだった。今度の春でまる2年になる。
このマイギターだけが、年始の語らいの相手だった。サークル以外の友人からも何通かあけおめメールが届いたが、返信はしても初詣や初カラオケなんかのお誘いには乗らなかった。
引きこもる、という程の事ではなかった。ただ自室で好きな時に起きて好きな時にギターを弾き、好きな時に寝て。贅沢な時間の使い方だ。
でもそのムダの多い時間の流れが、俺の心を少しずつ癒してくれた。結局の所、アキラ先輩と未來ちゃんの事は俺の妄想にすぎず、確定事項だったわけではないし。信じたくはないが、元々セフレだという話も聞いていたのだし。
目を瞑った、そう表現していい。事実であったとしても、単なるセフレとの一事でしかないのだと。浮マンであって浮気ではないのだと。ショックではあったが、まだ未來ちゃんと俺との事はこれからの自分次第でどうとでもなる、そう思ったのだ。
だから、3日後のスカイハイの練習には何食わぬ顔で参加した。
マイクスタンドにすがりつき、耽美な声音で唄う未來ちゃん。やはり可愛い。女神だ。そして不思議。彼女の歌は、俺に力を与えてくれる。
反面、彼女は悪魔でもある、だって、未來ちゃんの唄声を聴く度に、俺は胸が締め付けられる。そして、それ無しでは生きていけないとさえ思ってしまうのだ。
女神と悪魔。
白と黒。
快楽と苦痛。
安らぎと怖れ。
俺にとって相反するふたつの顔を持つ女性、香坂未來。二十歳の冬を生きる俺の今は、音楽と恋愛に満ちていて、彼女はその両方に深く関わっている。
どっちみち。どっちみち今の俺は彼女無しでは成り立たない。その事にぼんやりと気付いた。
部室での練習は、互いの顔が見えるように輪になって行っている。だから本番のステージではあまり知りえない、未來ちゃんの唄う姿がよく見える。
セミロングのゆるふわパーマネントはサイドポニーに纏められ、彼女の所作にワンテンポ遅れて揺れ動く。練習も佳境に入った今はマフラーもコートも脱ぎ捨てられ、光沢のあるロンTにエメラルドグリーンの巻きスカートという格好で愛くるしく唄う。
遂には、ショートブーツに合わせる為に履いていたインステップソックスも脱ぎ捨て、素足を晒して歌い出す。こんなのはメンバーだからこそ拝める彼女の姿だ。
裸足の女神か、それも悪くない。
——段々。邪念は薄れていき、恍惚の時間が訪れ始めた。未來ちゃんと音楽を通じての絡み合い。これだ。これなんだ。俺は未來ちゃんと、ギターで繋がれる。それはアキラ先輩とて叶わぬ事。俺の、俺だけの専売特許。
不意に部室のドアが開いた。ヒロだった。冬休みだろうがお構いなしに、暇さえあれば部室に遊びに来る。ヒロだけでなく、俺や麻衣、このところは未來ちゃんまでもがそうだ。
俺たちスカイハイは、ヒロという1人のギャラリーの為に演奏してみせた。その間、俺は人しれず未來ちゃんへの想いをギターの音色に忍ばせて、いつか届けと愛機を掻き鳴らしたのだった。
◇◆
その日の夜。なんの予定も無かった俺とヒロは、一度コンビニへと買い物に出かけ、久々に男同士のフリートークで盛り上がっていた。
午後9時を過ぎ、明かりの消えた薄暗い部屋。こうして2人で語り合うのはいつ以来だろうか。麻衣に彼氏が出来てからはそういう話題になるのが嫌で、敢えて2人になるのを避けていた節もあった。
だけどヒロは思ったよりも元気で、いつもの大物っぽいふりも影を潜める事はなかった。だからこうして普通に話ができるのだろう。
好きなバンドの話、最近ハマっているゲームの話、今度のライブに関する話。色々話した。そのうちに夜は深まり、話題は恋愛関係へと移っていった。俺は思い切って麻衣の事を聞いてみた。そしたら、意外にさっぱりした答えが返ってきた。
「まあ……しょうがないじゃん。今じゃかえって告白しないで良かったと思ってる。
だって、もしフラれたら最悪だろ?」
それはそうだけど。でも、自分の気持ちは? 麻衣のコトが好きだったんだろ。その気持ちは何処へ行っちゃったんだ? 霞のように消えてしまったとでも言うのか。
ヒロを見る。彼は部室の古いソファにもたれ掛かり、足を目の前のテーブルに投げ出しクロスさせている。手には煙草。いつの頃からか、ヒロは煙草を吸うようになっていた。
彼は先輩の覚えも良く、そちらでの付き合いも多々あった。それは俺の知らないヒロの世界だ。と言っても、カラオケに行ったりBARに行ったりくらいのものらしいけど。俺は煙草を吸わないから、もしかしたらそっち方面の付き合いで覚えたモノなのかもしれない。まあ二十歳を過ぎている身なのだから、別に悪い事は何もないのだけれど。
でもそんなヒロがちょっとだけ、俺には偉そうに見えた。何でかっていうと、やっぱりヒロの麻衣に対する想いに納得がいっていなかったからだ。
俺がもしヒロの立場だったなら。ダメでもいいからこの気持ちを伝えたかった。彼氏が出来た後でも構わない。あなたのコトが好きでしたと、一言言わずにはいられないはずなのだ。
それなのにヒロときたら、告白しないで良かっただって? そんなモノだったのか、お前の麻衣への想いは。
もちろん、恋愛に対する考え方なんて千差万別。各々違って当たり前なのだ。だけど俺とヒロは仲間。だから考え方も同じものだと思っていた。だからこそ、2人とも未だ童貞なのだと、そう思っていたんだ。だから俺は、ちょっとした皮肉を込めてこう言った。
「そうか〜、じゃあチーム童貞はまだしばらく健在だな」
ヒロの動きが一瞬止まった……気がした。今のは意地悪過ぎたかな。余計な事を言ってしまったと、少し自己嫌悪。
その時。仄暗い部室に住まう蛍のように、ヒロの咥え煙草が一際朱色を増した。深く吸い込んだのだろう。そして手を煙草に添え、ゆっくりと離して大きくため息を吐くように、肺の中の煙を吐き出した。それから……こう言った。
「純。悪いな、俺もう童貞じゃねえんだ」




