第十七話 脳内ヘルタースケルター
その日の午後、自主参加の新年会が軽音部室で開かれた。
各々が適当に持ち寄ったお菓子やジュースで、仲の良い者同士が集まって歓談するだけの簡単な会だ。カウントダウンに参加していた者たちは勿論のこと、それ以外の部員も結構集まっていた。
「2月の定演は18日に決まったって」
麻衣の台詞だ。部員の中で一番小さな女の子なのだが、実は存在感の大きなヤツ。それは、いち早い行動力だったり、歯に衣着せぬ物言いからだったりする。そんな麻衣にヒロが尋ねる。
「彼氏と初詣は行かないの? まあ神社で年越ししておみくじまでひいちゃってるから、初詣とは言わないかもしれないけど」
これに対し麻衣は、彼氏とは明日逢う約束をしていると言った。そんな事よく聞けるなあと、俺はヒロの懐の大きさに一々感心する。麻衣の幸せを心から祝福しているからこそ、とれる態度なんだろうな。
それにしても最近のヒロは、やけに快活で元気に見える。クリスマスライブ以後は特にだ。麻衣に彼氏が出来た時は、それなりに落ち込んだ筈。見てはいないけど、誰だって落ち込むに決まっている。それから僅かな時間で、吹っ切れて立ち直ったっていうのだろうか。
ヒロは少し見栄を張る所がある。あの大物ぶった物腰も、半分は演技だということを俺は知っている。それを悪い事だとは思わない。誰だって意識はしていなくても、何かしらの仮面を被って演技しているのだし。
逆にヒロのそれを演技だと知っている俺からすれば、寧ろ微笑ましくすらある。俺なんて、カエラちゃんに対して演技すら出来ずに、眼前を素通りして勝手に気まずくなってしまうチキン野郎なのだから。
宴もたけなわ、という程でもない新年会ではあったが、日が傾き始めた頃に部長が締めの挨拶をしてお開きとなった。
そそくさと帰る者、数人連れ立って遊びに出かける者。そうして1人また1人と減っていき、最後まで残るのはいつも中間の2、3回生たちだ。
更にしばらくして夕焼け空が暗くなり始める頃、残ったのは俺とヒロ、麻衣とアイの4人になっていた。
そんな俺たちの居る部室に、不意に訪問者が現れた。
「みんな、明けましておめでとう」
素敵で艶っぽいソプラノの声音。未來ちゃんだ。
正月早々、意中の未來ちゃんに逢えた。俺の心は一瞬で薔薇が咲いたように華やぎ、明るくなった。ああ未來ちゃん、俺はやっぱりキミが好きだ。そう再確認した時、もう一つ声を聞いた。
「あれ、ちょっと来るのが遅かったか」
その声の主を視界に捉え、俺は絶句した。側にいたアイも、きっと俺と同じ気持ちだったに違いない。
アキラ先輩だ。
……どうして?
……どうして?
……どうしていつも、未來ちゃんの横にオトコがいるんだ。どうして未來ちゃんの隣りが、俺じゃないんだ……。
未來ちゃんを見た。胸が傷んだ。心臓が見えない手に握りしめられたみたいに、ぎゅうっとなる。
アキラ先輩を見た。腹の奥底から嫉妬と嫌悪の情念が湧き上がり、俺の心を支配する。
キライだ、キライだ、キライだ! この、ヤリチンめ!
——俺、今どんな顔してるんだろう。ああそうか。いつの間にか得意になってたんだっけ、愛想笑い。何にも面白くないのに。何にも!
モノトーンの視界の端で、麻衣が開口一番「どこか行ってたの?」と言ったのが聞こえた。そうだ、まだ何かあったと決まった訳じゃない。ここまで送ってきてもらっただけかもしれないんだ。
期待しちゃいけない。期待すればする程、外れた時の落差が大きくなって辛くなるから。頭ではそう理解しているつもりでも、俺の中にある魂のようなものは、その期待にすがろうとしていた……そしたら未來ちゃん。
「ご来光を拝みにね、県境の山に行ってたの」
ご来光とは初日の出の中でも、特に見晴らしの良い山で迎えるものの事を指す。それ位の事は俺でも知っている。だがはっきり言って、そんな事は今の俺にはどうでもいい。
重要なのは、日の出前に現場に居なきゃいけないって事なわけで。市内からその県境の山まで行くのに、3時間はかかるわけで。日の出が7時ちょっと過ぎな事から逆算すれば、少なくとも夜中の4時前から一緒にいた事になるわけで。
そんな事をショートしそうな頭で考えている所に、ロンギヌスの槍のように鋭く尖ったアキラ先輩の一言が、俺の心臓をひと突きの元に刺し貫いた。
「途中で道路が凍ってて、車が進めなくなっちゃったんだよな」
……だから、何?
「ホントホント、急にキュルキュルタイヤが鳴り出してね、怖くなって。
もうそこら辺に停めてって言ったの」
「そしたらちょうどチェーン着装スペースがあってな、そこに停めたんだよ」
そう……だから、何?
「で、どうする? て聞いたんだけどさ、下り坂で滑り出したらヤバイじゃん」
「そう、恐いから動かさないでって頼んだわ」
……ダカラ、何?
え、じゃあ初日の出見に行かなかったの? という麻衣の何でもない一言は、名匠の一振りの如き斬れ味で、人しれず俺を袈裟に斬りつけた。
「うん、だって進めないんだもの。しょうがないじゃん。ねえ、アッくん?」
へー、アッくんて呼んでるんだー……ダカラ、ナンナンダ?
「そうそう、それにガソリンもヤバくてな。ヒーターを付けっ放しってわけにもいかなくてな。
まさかあんなに寒いとは思ってなかったよ」
「結局下山したのはすっかり日も上がった8時過ぎだったの。あっはは、自分でも笑っちゃう」
2人が視線を絡めるように見つめあいながら軽薄な笑い声を上げた。
おい、ちょっと待て。じゃあ何か、お前ら真冬の山奥でエンジンを切った車の中に、ずっと2人で居たのか? 21歳の、セフレの噂の立ってるオトコとオンナが?
……なんだよその、使い古された小説のネタよろしく、雪山で遭難した若い男女が掘っ建て小屋で一夜を共にしたみたいな雰囲気は。
そして一線を越え、男女の秘密を共有したつもりでいい気になっているのか? その意味深な笑いは。
糞!
「寒いわ……、このままじゃ凍え死んじゃう」
「悪いな、ブランケットみたいに洒落たモノ、この車には積んでねーんだ。
……よっ、と。とりあえずお前もシート倒せば? 楽にしろよ」
クソ!
「脚が冷たい……手もかじかんじゃって寒いわ。ねえ、エンジンかけてよ」
「駄目だ、エンジンかけてもし寝ちゃったらマズい事になる。ガソリンは目盛りひとつ分しか残ってないんだからな」
糞! 屁理屈言うな、このヤリチン野郎!
「……っくしゅん! っはあ……」
「大丈夫か? ……なあミライ。こういう時ってどうするのが一番いいか、分かってるよな?」
やめろ! ヤメロ! 未來ちゃんに近づくな!
「もう、アッくん。そんなコトする為にここまで来たんじゃ——っあ……んくっ……」
う
わ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
あ
・
・
・
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・
・
!
くそっ! クソッ! くそくそくそう……っ!
ウソだ、これは単なる俺の妄想! こんなコトない! 俺の大好きな未來ちゃんが、こんな簡単に身を許すなんてありえない、ありえない!
俺の中の未來ちゃんは、ピュアで無垢で天真爛漫。乙女なんかじゃなくても構わない。俺と一夜を共になんて、してくれなくたって構わない。未來ちゃんは唯そこに居て。そこに居て俺に微笑んでくれるだけでいいんだ! それなのに、それなのに、アキラ先輩なんかと……車ん中でセッ……
……セックスだなんて!
——皆がどんな話をしていたかなんて、全く記憶に残らなかった。今までは、アイの事を気遣ってやる事で自分を誤魔化してこれたのだが、この時の俺にはもうそんな余裕は無くなっていたんだ。
……ただ。
未來ちゃんとアキラ先輩がヤってる所なんて嫌で嫌で堪らない筈なのに、その妄想でズボンがはち切れんばかりに膨らんでいた事が許せなくて。
これが俺の本心かと、自暴自棄。多くは望まない。側にいてくれるだけで、微笑んでくれるだけでいい。
——嘘。そんなのは嘘だと、俺の、俺自身が、お前が言っているのは綺麗事なんだよと論破する。
痛い。心は痛いし、下着は蒸れて気持ち悪い。
——気付けば家に居た。俺は、俺を慰めた。それから虚しくなって、泣いた。