第十話 偏iエレジー
俺は結局、散歩という名目の下にアイを家まで送っていく事にした。
送ってってくれない? と言われた時の不思議な気持ちは何だったのか。アイに対して、俺は何かを感じた。その答えが知りたいと思った。
別にこの後予定がある訳じゃなし、断る理由もなかったし。
傾斜角ほんの1度か2度の上り坂。俺は自らのスクーターを、アイは自転車を押しながら、文京区の静かな通りを二人並んで歩いた。
「――でね、大丈夫やけんち言うたのに。
お父さんたら、そんなチャラチャラした部活なんか入ったらいかんち言うんよ」
「そら過保護やなあ、娘に灰色の大学生活強要せんでもええやんなあ」
「やろ~? お父さん私に大学は出とけち言うけん、地元やないけど国立入ったのに。
いざ家出ようとしたら、ホントに行くんか? ち言うて泣いたんよ。
めんどくさいやろ~?」
ちょっとした遊びだった。地元の方言で話す遊び。これが結構面白かった。ていうか、アイの博多弁には激しく萌えてしまった。
スクーターを押して上る坂道はちょっときつかったけど、アイの明るい声音にほだされて、俺も自然と顔が綻んだ。
最初は、どうやって気晴らししてやればいいか少し戸惑ったけれど、こうしてまたアイの笑顔を見る事ができた。良かった、二人で散歩して本当に。
「確かここ曲がるんやったっけ?」
「そうそう、よう覚えとったね。もう覚えとらんち思とったのに。
ちょっと奥まったトコにある、あの白っぽいアパートよ」
築十年以上は経っているであろう少々古びたアパートは学生向けらしく、世帯数は八つあるのに駐車場は四台分しか確保されていない。
俺の、アイを家まで送り届けるというミッションはこれにて一件落着。じゃあね、と言って踵を返すのみだったのだが。
「せっかくやけん、上がっていかんとね。コーヒーくらいだすけんさ」
道中の言葉遊びの余韻もあってか、幾分明るさを取り戻したアイは、珍しく積極的だった。
それがなんだか嬉しくて、無下に断る事はせず素直に従った。
ドアを開けると小さな玄関があり、黒っぽいパンプスと、焦げ茶色のロングブーツが佇んでいた。
ああごめん、と言いながら、アイはそれらを隅に追いやった。彼女の飾らない部分を垣間見た気がして、ちょっとほっこりした。
お邪魔しまーす、とお決まりの台詞を口にしてからアイに続いて部屋に上がり込む。
1DKの部屋だが、手狭な感じはしない。女の子の部屋らしく、急な訪問者にあたふたとするような事もなく、綺麗に片付けられている。
どこからともなくラベンダーの香りが漂い、それが一層落ち着いた空間を演出していた。
正方形のテーブルの前を勧められた俺は、渡されたフカフカのクッションを敷いて座った。
「うおー、ひっさしぶりだなあ。アイんち来たのっていつ以来だっけ」
意味もなくキョロキョロしながら、半ば独り言のように尋ねた。ちなみに方言遊びは、部屋に入った時に自然と終了していた。
カチャカチャと食器の音が響くダイニングキッチンから、姿は見えないものの、家主の声が聞こえてきた。
「去年の学祭の後くらいじゃなかったかなあ」
「じゃあちょうど一年振りってわけか。
あの時は他に誰がいたっけ?」
こんな夜更けに二十歳の女の子の部屋にいるなんて、童貞の俺にはあるまじき行為なのだが。
そういった邪な意識は出てこなかった。何故だろう? あの涙を見たからというのもあるかもしれない。
「ヒロくんと麻衣ちゃんだったと思うよ。
砂糖とミルクは?」
いる、と答えると、はーい、という軽快な声が返ってきた。
新婚生活ってこんな感じなのかな? なんかむず痒い気持ちだ。まあ俺は童貞だけどな。
やがて丸盆に二脚のコーヒーセットを乗せたアイが現れ、柔らかい物腰で俺の前にひとつそれを差し出した。
来客用のティーセットなのだろう、山吹色の花柄がいかにもアイのセンスらしい。ありがとうと謝辞を述べる俺に、いえいえ、と謙遜するアイは凄く家庭的に思えた。
ふと、未來ちゃんはどうなんだろう、そんな疑問が浮かんだ。
あの人の家庭的な部分は全く想像できなかった。
家にお手伝いさんがいて、全て任せっきりなイメージの方がなんだかしっくりくる。アイドルに生活感を感じないのと似ているかもしれない。
……ああ。でも今はアキラ先輩と一緒に居るんだっけ。
今頃、なにしてるんだろう? なにしてんだよ、未來ちゃん……。
未來ちゃんは、真実の愛という名のオアシスを探して、砂漠をさまよっているんだ。
だけどそっちじゃないんだよ。そっちは蜃気楼。幻じゃ喉は潤せないんだよ。それどころか、身体を汚されるだけだ。
みんな、未來ちゃんとセックスがしたいだけなんだ。そういう汚らわしい目で、未來ちゃんを見ているんだ。
……やめてよ、やめてよ!
セックスなんてスポーツだって? ……違う。違うよ、未來ちゃん。
身体を重ねるっていうのは、本当に愛し合う者同士が、互いの存在を確かめあう行為のはず。
粘膜を擦りあわせて、快楽をむさぼるだけの行為が全てなんかじゃない。
本当は、本当の性交渉とは、心と心を通わせて、互いを高めあう儀式であるはずなんだ。どうかそれに気付いてほしい。
ねえ、未來ちゃん。童貞の戯れ言と嘲笑うかい? でも、俺の未來ちゃんに対する想いは他のヤツらとは違う。
俺は未來ちゃんの全てを愛している。
顔も、身体も、声も。俺の身をよじらせ、情緒不安定にさせてしまう、自由奔放なその心までも。
それに、そんなに気持ちよくなりたいんだったら、俺が愛してあげるのに。何度でも何度でも、枯れるまで。
だから未來ちゃん。戻ってきてよ。手が届くところにいてほしい。
……未來ちゃん……
「どうかした?」
アイの声に、また内面世界に潜行していた事に気付く。
いや別に、と言ってごまかした俺ってば、一体どんな顔をしていたんだろう。アイを元気づけてやる為にここにいるはずなのに。
「そういえばさ、麻衣ちゃんとヒロくんはどうなってるんだろうね」
「あの二人? さあどうなんだろ。ああ見えて、ヒロはオクテらしいからなあ」
そう返すと、アイがプッと吹き出した。
「おっかしいよね、ヒロくん。普段は大物っぽいオーラ出してるくせにね」
つられて俺も笑ってしまった。それは同意だ。ああ見えてアイツ童貞なんだぜ、とバラしたくなる。
「アイツら、うまくいくと良いな」
これにはアイも同意してくれた。俺たちは今、片翼を損傷したエアシップのようなものだ。
そんな俺たちの中では、ヒロたちがなんだか唯一の希望に見えたのだ。
アイはヒロの気持ちは知らない筈なのだが、見てれば判るらしい。まさに岡目八目というヤツだ。
ところが、麻衣の気持ちは端と掴めないという。それは俺も同じだった。
麻衣のそういう噂は、全くと言って良い程聞かないのだ。
「だけど、嫌いではないよね、ヒロくんの事」
とはアイの弁。それも同意だ。麻衣の気持ちは全然わからないけれど、少々強引にでもヒロが迫れば、カップルが誕生してもおかしくない。
「まあどっちみち、ヒロの行動が先だよな」
そう言って、俺は二人の話題を締めくくった。
時計を確認し、相応の時間が過ぎていた事に気付く。俺はカップの底に少しだけ残ったコーヒーをぐいと呑り、お開きの雰囲気を発した。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。コーヒー、ごちそうさま」
そう言ってテーブルに手をつき立ち上がった時だった。
気が付けば俺のその手に、俺以外の手が重ねられていた。
それは檻につなぎ止める鎖のように思えた。まさかの瞬間だった。
アイは、情緒たっぷりのまなこで俺を見つめながらこう言った。
「今日は……一緒にいてほしい」
降って湧いたアイからのアプローチ。これはどういう事だろう。恐る恐る、尋ねた。
「今日って、いつまで?」
「……朝まで」
豹変したアイの態度に、脳が油の切れたモーターのように焼け付いていくのを感じ、俺はゴクリと 生唾を飲んだ。
「アキラ先輩と未來ちゃんがやってる事……私たちもしよ」
その言葉は、呪詛のように俺の内部を掻き乱した。
「ちょっ、なに言って――」
「朝まで一人でいるなんて、耐えられないの」
語気を荒げたアイの表情は、一言でいえば……痛々しかった。苦しそうに眉間にしわを寄せ、彼女は胸の内を吐露した。
「私の気持ちが重すぎるのがいけないの。
だからセッ……そういうコトを私も経験して、大人になりたい。
純平くんになら、私の純潔……あげてもいい」
――俺は、俺の脳は、既に考える事を止めていた。
伽藍洞の頭に、不意に未來ちゃんの様子が浮かんだ。
それは、のっぺらぼうの白い顔の男が彼女に覆い被さっている場面。見知った顔じゃなかったのは、俺の心のフィルターが安全装置を効かせたからだったのだろうか。
蜥蜴のように長い舌を、肌理細やかな未來ちゃんの首筋に這わせ、二人揺りかごのように揺れていた。
怒りと嫉妬。二つの負の感情が俺の精神を蝕み、新たな大罪を連れてくる。
強欲と色欲。
俺は七つの大罪の内、四つも犯してしまった。
もはや俺の中の、正しくあるべきだという矜持も負のエネルギーに感化され、傲慢に堕ちていくのも時間の問題だった。
「アイ……良いのか」
この時、俺の瞳は濁りに濁っていただろう。暴走した俺の脳みそは、サークルイチ豊満なバストの持ち主を、どう料理しようかと思案していた。
俺は膝立て状態のアイの肩に手をやり、彼女を見つめた。
アイは……静かに目を閉じた。
――もしこの時。彼女の瞳から零れ落ちる雫を目にしなければ、俺はきっと欲望の波間に溺れていたに違いない。
俺の灰色の視界が、次第に色を取り戻していく。オーバーヒートしかかった頭も、ゆっくりと冷静さを取り戻していった。
「アイ……」
俺は、アイを思い切り抱き締めた。愛情を持って。親が子にそうするように。ぎゅうっと、ぎゅっと。
アイも俺の背中に手を回してきた。
そして――泣いた。声をあげて。親にすがる子どものように。
辛いのは俺も同じだった。だけど、アイよりは少しだけ冷静な俺は、彼女の気が収まるまで、ジッと抱き締めていた。
傷付いた者同士の、馴れ合いでしかないかもしれない。でも今は、今この瞬間だけは、俺はアイの心を優しく包む、揺りかごでありたかった。
それが俺の矜持を守る、唯一の方法だったのだから。