第一話 俺の女神ちゃん
防音加工された部室。
それでも外に漏れ聞こえる、歪みを効かせたギターのバッキング。
根音を正確になぞるベースの重低音。
やたらと凝った即興的演奏の多い、ドラムが刻む8ビート。
そしてそこに乗る、シャウト系ボイス。
練習の予約時間より少し早くボックスを訪れた俺は、中の様子を窺おうと、建物の外から部室の大きなガラス窓に近付いた。
むう。
段差二つ分の高台に建つ建造物の為、微妙に背が足りない。
これでは天井しか見えない。
背伸びしてみる。
すると、ギリギリだが栗色の艶やかな髪を湛えた後頭部が見えた。
建物の内側、窓の下には、布地の少々くたびれたソファーがある事が分かっている。
そこに一人の女の子が座っているのが確認できたのだ。
にんまり――おっと、いかんいかん。
はやる気持ちを抑えようと、緩んだ唇をきゅっと結ぶ。
鼻の下が伸びた。
俺はそんな、通行人に見られてはマズいであろう顔芸をしながら、建物の玄関口を通って部室の入り口にまわった。
コンクリートの打ちっぱなしのボックステナントには、9つのサークルが入居している。
俺は自身の所属するサークルボックスの入り口に立った。
軽音楽部。それが俺、松浦純平の所属サークルの名前だ。
他のボックスと一線を画す、特殊加工を施した重厚な造りのドアは、浮き彫りのように壁面からはみ出している。
俺は僅かに音漏れのするそのドアの前で、気を落ち着かせるように深呼吸する。
それから、取っ手にかけた腕に力を込めて、一気に引き開けた。
決壊した空間から溢れ出るように飛び交う、音また音。
音のオーバーフローが俺の入室を拒むように、身体を圧迫してくる。
中に居た演奏者たちは、俺という来訪者に一瞥をくれはするものの、誰も演奏を止めたりはしない。
俺も気にも留めない。いつもの事だ。
そこにはその活動内容からであろう、他サークルのおよそふたつ分の空間が広がっている。
ボックステナントが9つの理由だ。
今プレイしているのは、俺たちのひとつ前の練習枠を押さえていた、四回生を中心としたウチのエースバンド。
ヘヴィメタルをこよなく愛する、【メギドレイヴン】である。
ここでは、「ちわッス!」などと声を張り上げて挨拶などしない。
どうせ聞こえないから無駄だし。
軽く、誰にともなく会釈をする。
これも殆どやる意味はない。
どうせプレイ中の先輩方は誰も見ていないのだから。
顔を上げつつ窓下のソファーに目を移すと、俺の心音が半音階上がったような錯覚に襲われた。
さっき、外からチラッと見えた栗色の頭を、今度は前方から視界に捉える。
ゆるふわパーマの、エアリーなセミロング。
前髪はアップにして丸型のおでこを晒している。
キリッとした眉に、ビューラーで天をつんざく程に上を向かせた、バッサバサの睫毛。
なんと地毛らしい。
聖水で満たしたように煌めく大きな瞳が、俺の事を見つめているのを視線で感じる。
スッと通った鼻筋は上品で、その下にある唇はぽってりと肉厚。
好んで使用しているらしいラメ入りのピンクのルージュが、無限重力塊のように俺の理性を引き寄せる。
三回生の香坂未來。イッコ上の先輩だ。
俺は彼女を初めて見たその時から、心を奪われてしまっていた。
ようするに、一目惚れだ。
顔の横で手をひらひらと振って挨拶してくる彼女に、俺は破顔しそうになる。
それをグッとこらえた能面のような面持ちで、こちらも軽く手を振り返した。
とその時、彼女の隣にもう一人女の子がいた事にようやく気付く。
好きな人が出来ると妙に視野が狭くなるのは、俺の昔からの損な性格だ。
そのもう一人の女の子は背が低く、150cm程しかない小柄な体型の同級生、西山麻衣であった。
ソファーの前にある、正方形の古めかしい炬燵用テーブル。
麻衣はそこに広げたA3サイズの冊子に向かって、眉間に皺を寄せてにらめっこしていた。
楽譜である。
麻衣は両手にドラムスティックを握りしめて、一心不乱に自分のモモをリズミカルに叩いている。
彼女はこんな華奢で小柄な体型でありながら、なんと俺の所属するバンド【スカイハイ】のドラマーなのだ。
部屋のほぼ中央にそそり立つマイクスタンドに向かって、シャウトする先輩。
俺はその後ろを通って、部屋の奥に位置するソファーの一角に進む。
そして肩の荷を下ろしながら、麻衣を挟んで腰かけた。
そこでやっと気付いた麻衣が、ニコッと可愛らしい笑顔で迎えてくれた。
こちらもそれに応えるように微笑を浮かべる。
俺はひと息ついたところで、肩から下ろした荷、ソフトケースのジッパーを開けて中身を取り出した。
首に六角レンチで弦を固定するナットのある、ロック式トレモロユニット。
弦をロックする事で調律が狂いにくいと云われるこの方式のギターは、演奏中にチューニング出来ない、俺のような人間には有り難い代物だ。
「…………!」
麻衣が何か言ったようだが、ちょうどエレキギターのキャッチーなフレーズに耳を傾けていた為、聞き取る事が出来なかった。
ん? と耳を少し麻衣の方に寄せて傾聴する。
すると、麻衣の唇が耳に当たりそうな位置まで近付いてきて、俺の鼓膜を微細に振動させた。
「練習はしてきた?」
俺は大袈裟に頷いて返事をする。
麻衣が続けて耳元で声を張った。
「どうしよう。
私ここの繋ぎが出来ないんだけど」
と、スコアのその部分を指し示しながら不安を口にする。
今度はこちらが彼女の耳元に口を近付け、こう言った。
「大丈夫。ヒロが見てくれる約束してるから」
その言葉に安堵したのか、麻衣は少し顔に笑みを浮かべてから、ソファーに背中を預け埋もれた。
次の瞬間、俺は思わず息を呑んでしまった。
急に視界が開けたせいで、麻衣の隣に居た未來ちゃんと目が合ってしまったのだ。
ドキンと心臓が大きく跳ね上がった。
秘め事を悟られまいと、俺はとっさに目を泳がせたのだが。
どういうつもりなのか、彼女は麻衣越しに俺の膝に手をついてきたのだ。
ここで告白しておく。
俺こと松浦純平は、二十歳を目前に控えた大学二回生。
そして、童貞だ。
だからといって恋愛経験がゼロという訳ではなく、高校時分の三年間に、二人の女子と付き合った経験はある。
だがある理由が原因で、ひと月もしない内に別れてしまったのだ。
代替物、良心の呵責、覚めない恋の病。原因は俺にある。
高校に入学したその日に一目惚れした、あの子の事が忘れられなかったのだ。
何度も告白し、同じ回数だけ振られた。
それでも諦めきれない。
仲間の一人が大人になったのを知った時、無性に焦った。
このままじゃ取り残されると妙な脅迫観念に駆られた俺は、ある時荒療治にでた。
ちょっと可愛いな、と思う子と付き合ってみたり。
不思議なもので、本命の気持ちはからっきし判らないのに、他の子のそれはかなりの精度で見抜けてしまうのだ。
つまりは、惚れる恋より惚れられる恋、という訳だ。
そうやって――表現は誠に失礼だが――適当な相手を見つけてカップルの体裁を取り繕う。
だが俺は、ことある毎に相手の気を揉ませるような言動を繰り返してしまう為、遂には愛想を尽かされるのだ。
ちなみに別れ文句は二度とも同じ。
『わたし達って、付き合ってるのかな?』
だから、童貞である。
――そんな綺麗な身体の俺が、香坂未來を目の前にして一体何を言いたいかというと。
ボディタッチは駄目だと思うのだ。
どうして女の子はこうやって膝の上に手を置いたり、ちょっとからかうと背中を叩いてきたりするのか。
それが一体どれだけの勘違いを生んでいると思っているのだ。
それで舞い上がって告白なんてしちゃって。
「は? ムリ」
なんて言われてみろ。
下手すりゃ再起不能ものだ。
ましてこっちは童貞なのだから、罠にかかる可能性は特大だ。
だから、からかってるのなら止めてくれ。
恐らくは惚けていたであろう俺を見ながら、彼女はそのぽってり唇を何事か動かした。
俺は、先程と同じように耳を寄せて傾聴する。
彼女も身を乗り出すように、前屈みになって俺の側面に顔を近付けてきた。
この爆音の中、誰もがごく自然にとる行動ではあったのだが、俺は焦った。
美の女神アフロディーテとも思しきその美顔が、何の躊躇もなく迫ってくるのだから、その危険度は俺にとって、マックス振り切り以外の何物でもなかった。
「――一通り出来るようになった、純クン?」
俺の耳に女神の甘い吐息がかかる。
彼女の口から発せられた、鼻にかかったようなソプラノの美声が鼓膜を揺らし、内耳を突き破り、脳髄を駆け巡った。
その破壊力たるや、大恐竜時代を一撃の下に葬り去った、超巨大隕石の如くだ。
俺の脳みそは瞬時に蒸発し、女神の啓示が空っぽになったドーム状の頭蓋内を木霊した。
それは快感だった。むしろ快楽だった。
麻薬にも似た、甘美な禁断の誘い。
出来ればずっとこうしていたい。
一瞬そう思ったが、俺は先の問いに首を縦に動かして肯定の意を伝えた。
その返事に、前屈みになっていた故の上目遣いで俺を見つめる未來ちゃんは、口角をしなる弓のように柔らかくつり上げた。
可愛い。その可愛さは、掛け値なしの本物だ。
だけど、この時の俺は知らなかった。
彼女にそんな悪癖があっただなんて。
香坂未來。
俺はこの笑顔と、銀河の妖精も裸足で逃げ出す、ソプラノの美声を併せ持つ女神に恋をした。
一目惚れだった。