ラシュール伯爵家 上の巻
アンドーラのチェンバース王朝の貴族を列挙すれば、最初には、やはり「新貴族の雄」ラシュール伯爵家を取り上げたい。ジュルジス三世の治世で陸軍元帥と大蔵大臣を拝命した史実は、やはり特筆すべきことだろう。また、三代目当主ミゲル二世もその研究が、アンドーラの農業に与えた影響も功績として挙げたい。
アンドーラ王国の”新貴族”ラシュール伯爵家の血脈をたどると、ルンバートン家にたどり着く。初代伯爵のミゲルは、ラシュール・ルンバートン侯爵の次男にあたる。
ヘンダース王の下で、騎士団長を拝命したラシュール・ルンバートンは、一族をあげて、ヘンダース王の旗の下で、ヘンダース王の一人娘メレディス王女の王位継承を認めない貴族たちと戦い数々の武功をあげた歴戦の戦士だった。その武功によって、ラシュール・ルンバートンは、伯爵位から候爵位に引き上げられるのだが、ミゲル・ラシュールの功績は武勇ではなく、むしろ、2歳年下の弟アルキスとともにメレディス王女の国王即位に関しての法典の改訂にその手腕を発揮したことが大きい。
騎士見習いだったミゲルは、メレディス王女の利発さと戦いの中でも動じない気構えに君主としての資質を感じ取り、何故、公爵たちが即位に反対するのかその理由がわからなかった。この疑問をミゲルは大胆にもヘンダース王に問いただしたのである。
「陛下、何故、公爵たちは、王女さまの即位に反対するのでしょう」
「これ、ミゲル、陛下の御前ぞ。控えろ」と騎士団長の父親がたしなめた。当時の風習では騎士見習いが、国王の身の回りの世話をすることとなっていた。近習ともなれば、自ずと国王を身近な存在として接することが多い。自然と口の聞き方も、親しくなる。ミゲルのこの問いにのヘンダース王は答えた。
「それは、メレディスが王女であって王子ではないからじゃ」
「それだけの理由でございますか」とミゲルは、腑に落ちなかった。
「そうじゃ、公爵たちは、国王に何が必要なのか、わかっておらんのじゃ。学者たちもわかっておらん」
「ならば、学者たちを説得すればよろしいのですか」と今度はミゲルの弟でやはり騎士見習いのアルキスが口を挟んだ。
「それが、できるかのう、アルキス。学者たちには剣での脅しは通用せん」と騎士見習いの二人にヘンダース王は、特に期待はしていなかった。
当時の学者たちの牙城「大学」は、聖徒教会の影響が大きかった。聖徒教会では、福音教会ほどではないにしろ、女性の地位を低く扱う傾向があった。ミゲルとアルキスは剣を駕ペンに持ち替えて、メレディス王女の即位のために別な戦いを始めることとなった。しかし、当初、年若い二人の学識は、字の読み書きができる程度だった。結局、学者たちの反対理由に法的根拠がないことを見つけるのには、十数年の年月を必要とする。その間にミゲルとアルキスは騎士の認証をあきらめ、そのかわりに学位を取得することになる。
そして、ヘンダース王はミゲルとアルキスの報告を待たずにメレディス女王の戴冠式を強行する。それと同時に公爵位を継いだジュルジス・チェンバースと結婚をさせ、ジュルジス・チェンバースを宰相に任じる。しかし、メレディス女王の戴冠を認めない貴族たちをヘンダース王は、武力を持って制するが、その正統性をミゲルとアルキスが、法典で裏付ける結果となった。この功績によって、ミゲルとアルキスに爵位を授けることになったが、この授与にあたって、ヘンダース王とメレディス女王は、二人にそれぞれ子爵位を授けるよりも、ミゲルに伯爵位を授け、その相続権をアルキスにも認めるという変則的な方法をとった。それには、諸説があるが、二つの家に分けるよりも、一つの家で二人力を合わせて伯爵家をもり立てて欲しいというヘンダース王の配慮であったといわれている。家名の「ラシュール」は、二人の父親の名前に由来する。宮廷に戻ったミゲルに対し、アルキスは、メレディス女王の設立した王立大学に残り、学者としての道を進むこととなった。
即位したメレディス女王とその夫君である宰相は、貴族たちの”領地替え”を頻繁に行った。”領地替え”で前王朝以来の貴族たちは先祖伝来の土地を離れ、新たに貴族の称号を与えられたものには自身の領地を与えられることとなった。その”領地替え”の嵐がやむと、今度は”領地施政法”を制定し、貴族の領地の治め方が従来通りに行かなくなったことを、爵位を授けられた”領主”たちは、思い知ることになる。
その中でもラシュール伯爵家は、当主であるミゲルが法を学んだことにより、またアルキスの助言もあって、その苦難を乗り越えた。そして、ミゲルにはすでに跡継ぎの男子が生まれており、ラシュール伯爵家の存続が約束されていた。そして、最終的にラシュール伯爵家の領地となったのは、メレディス女王の次男ヘンダース王子の初陣の戦場であった。”領地替え”をこばむスレイト伯爵に王国軍は、大軍でその城壁を囲み、スレイト伯爵家の一族の投降を待った。その投降は、スレイト伯爵家を子爵位に落とし、より狭い領地をあたられる結果となった。そして、スレイト一族の居城は解体され、新たに"領主館”を建設する。その建設に当たって、メレディス女王は、”領主館建設法”を制定し、古い城を解体し爵位に応じた”領主館”を持つようにそれぞれの領主たちに命じた。”領主館”の建設には、王都移転に伴い設立された「工部省」がことに当たった。その”領主館”にラシュール伯爵家が、移り住むのは、ミゲルに二人目の孫息子が生まれてからである。国王はメレディス女王の王太子ジュルジス一世の治世となっていた。ジュルジス一世は、国王のご機嫌を取り結ぼうと宮廷にうろうろしている貴族たちを領地に赴き領地を治めることに専念するようにとそれぞれの領地に追い払った。
前王朝から続いている貴族たちから、”新貴族”と侮蔑されるヘンダース王以降の貴族の称号を授けられたものたちに属するラシュール伯爵家が、”領主館”に移住してまず、困ったのは、領主館に何もなかったことである。前領主のスレイト家は、その”領地替え”の際に一族の主だった者とともに、領主として領地を治めるのに必要な人材・器材をすべて持ち去ってしまったのである。残ったのは貧しい小作人とやはり小作人の小作人頭とスレイトという地名だけだった。小作料は入ってくるものも、税収が見込まれる領地ではなかった。建物はあるものの家具・調度もない”領主館”で、ラシュール伯爵家は、自給自足の生活を始めることを余儀なくされた。
物資や人手を集めるのに助力をしてくれたのは、ミゲルとアルキスの実家であるルンバートン家ではなく、メレディス女王の夫ジュルジス・チェンバース公爵の弟のハンナン・サイデール侯爵であった。ハンナンは、王都になる以前の領主のチェンバー公爵の息子らしく、王都の事情に詳しかった。領主館にのこり、新領主として領地を見回りながら領民たちの暮らしぶりを視察していたミゲルに代って、ミゲルの世子であるカイウスが王都を走り回り、必要な物資や職人たちを領地へ運ぶ役を引き受け、アルキスは、王立大学で教鞭をとることで、家計を助けた。
新しい領主に警戒をしていた領民たちにラシュール伯爵家を受けいれるきっかけとなったのは、領地にある聖徒教会のピクルウス・ゲキュール司教の存在だった。ゲキュール司教は、貧しい領民たちの中へ入り、自ら畑を耕し、乳牛を飼い、その収穫物を領民の子供たちに分け与えていた。そして、病人がでれば、その治療も施した。ゲキュール司教のこの修道僧のような暮らしぶりが聖徒教会の「自然派」の起源だといわれている。このゲキュール司教の無私の姿にミゲルを始めとするラシュール伯爵家の人々は感銘を受け、貧しい領民たちの生活水準を上げようと、一家に一羽ずつの鶏の雛を与え、それを育てることを領民たちに奨励した。肉など口にしたことがない貧しい小作人であった大部分の領民たちに、雄なら、その肉を食し、雌なら卵を産ますことを教えた。
そして、貧しい領地に恵みをもたらしたのが、レンバー川を挟んで、領地を治めているカルチェラ伯爵家の世子ニーベルの提案だった。それはレンバー川に遡上する鮭の孵化場を造営する計画だった。秋に産卵のためにレンバー川に上がって来る鮭をせき止めて捕え産卵と孵化をさせ、春になったらその稚魚を放流するというニーベルの提案にミゲルは、孵化場よりもそこで捕獲できる鮭の成魚の方に興味を持った。鮭の捕獲と産卵までの作業は、多くの人手を必要とする。夜を徹して行う作業にミゲルとニーベルは貧しい領民たちを動員した。作業に従事した領民には腹を割いて卵巣を取り出した鮭の成魚を分け与えた。だが、多くの成魚は塩漬けにされ、王都に運ばれた。貧しい伯爵領にとって、大事な収入源となった。そして、ニーベルは、大胆にもジュルジス一世に嘆願し、下流の領主たちの鮭の捕獲数の制限を願い出た。人工的に鮭を孵化させるというニーベルの話に興味を持った国王は、カルチェラ伯爵家とラシュール伯爵家のレンバー川の鮭漁の優先権を認める布告を発表した。
しかし、上流に鮭が遡上しなくなった結果、思わぬ被害を被ることになる。冬眠を控えて餌をあさる熊が山からおりてきて、孵化場を襲うことがしばしば起こった。そこで、カルチェラ伯爵家と力を合わせての熊退治が、領主としての重要な職務となった。しとめた熊は、解体され、その肉も領民たちの大事な食料源となった。
こうして、領民たちの生活を向上させようとするラシュール伯爵家の姿勢は領民たちに前領主のスレイト家との違いを感じさせる。小作料を搾取するだけのスレイト家に対して、ラシュール伯爵家は、領民たちの中に入り、その暮らしをよくしようとしているように領民たちには映った。この善政の背景には、領民たちが貧しいままでは、税収を得られないという領主側の計算もあった。
ラシュール伯爵家が領民たちの信頼を勝ち得た頃、国王は国民男子全員に徴兵義務を課した。この最初の徴兵に応じたラシュール伯爵家の対応は今でも、語りぐさになっている。大多数の領主が、無装備で領民を送り出したのに比べ、ラシュール伯爵家は当主の孫のミゲル二世に率いられた平民の男たち全員に弓矢か槍の武器を持たせて革靴を履かせ革で出来た胸当てをつけさせていた。当時の農民が裸足か、木靴だったのが、革靴は高価でなかなか手に入らないものの一つだった。この用意周到なラシュール伯爵家に陸軍元帥という新しい役職に就いた国王の弟のヘンダース王子は当然注目した。特に、16歳のミゲル二世は、どこで手に入れたのか国軍で装備させていた「当世甲冑」を装着していた。
ラシュール伯爵家の対応には、理由がある。それは「熊退治」だった。このために領民たちに武装をさせていた。”新貴族”であるラシュール伯爵家には、むろん一族の人数も少なく「熊退治」には領民たちの協力が不可欠であった。
ラシュール伯爵家の領民たちの武装の訳を尋ねたヘンダース王子にミゲル二世はハキハキと答え、これからは「熊退治」は、王国軍に任すようにといったヘンダース王子の言葉にミゲル二世は、それは、領民たちの大事な食料を奪うことになると答えた。そして、熊の毛皮は、熊退治の時に活躍した領民たちに順番に与えており、それは、寒い冬を過ごすのに貴重な防寒具であった。結局、「熊退治」は王国軍と領民たちの協同作業ということになった。そして、ミゲル二世に率いられていた領民たちは、何よりも「熊退治」という実戦の経験があった。武器を持ったことのない平民たちが多い中で、ラシュール伯爵領のものたちは、特出していた。無論対岸のカルチェラ伯爵家の方も同様である。ただ、ヘンダース王子の目を引いたのは、ミゲル二世の騎射の腕前であった。これは、ラシュール家というよりもルンバートン家に伝わっていた技術で、ヘンダース王子は、ラシュール家が元騎士団長のルンバートン家の出身ということを思い出し、また、自身の初陣が、旧スレイト領のラシュール伯爵領での勝利であったことをも、ヘンダース王子のミゲル二世を取り立てる要因にもなった。ヘンダース王子はミゲル二世を軍の中枢である参謀本部へ配属する。ミゲル二世は、武術だけではなく、頭脳も明晰で、ヘンダース王子を喜ばした。ミゲル二世を手元に置きたがったヘンダース王子だったが、兄の国王ジュルジス一世にやがて伯爵家を継ぐミゲル二世を領主を継ぐための準備をさせるようにとの忠告に泣く泣く領地へと帰すことになるが、ヘンダース王子のミゲル二世への”寵”は終生変わることなく続いた。
領地へ帰館したミゲル二世は、領地を治めるために何が必要か、模索を始める。それは、法律の知識だったり、人の機微を理解することだったり、様々な素養が必要だった。その中でミゲル二世が選んだのは農業だった。最初は小作人頭から、様々な知識を得るが、小作人頭のそれは、長年の経験と言い伝えによるものだと気づいたミゲル二世は、祖父と父親を説得して王立大学で博物学を学ぶ許可を得る。当時の大叔父のアルキスが、大学で教鞭をとっていたのは法学部で、博物学部は、道楽学問といわれ、やや偏狭な趣味を持った者の学問と見なされていた。ミゲル二世は農業の研究をしたかったが、当時の王立大学には「農学部」がなく、やむ得ない選択だった。だが、後になって振り返ってみると博物学の知識は決して無駄にはならなかった。
ミゲル二世の大学進学とほぼ同時期にミゲル二世の弟ガナッシュが、設立されたばかりの陸軍士官学校へ入学をし、首席こそ逃がすものの次席という優秀な成績で卒業をし、父親のカイウスを喜ばす。だが、この吉報は、ラシュール家の当主ミゲルの耳には、届かなかった。孫のガナッシュが士官学校の入学して半年が経った頃、ラシュール伯爵家初代当主ミゲル・ラシュールは、あの世へ旅立ち、伯爵の爵位は長男のカイウスが継ぐことになった。温厚で、実務的な二代目当主として、叔父のアルキスの力を借りながら、カイウスは、国王からの課題であった領内法を制定する。
そして、初代当主ミゲルの不在を埋めるようにミゲル二世に男子が誕生する。この男子には、”ヘンディ殿下”ことヘンダース王子が、名付け親を買って出て、ヘンダースと名付けられた。ただ、王家を慮って普段は「ダース」と呼ばれていた。父親のミゲル二世は、大学での勉学と研究に忙しかったが、特に熱心に取り組んだのは、人の排泄物を農作物の肥料にするという伯爵家の跡取りには、少し似つかわしくないといわれそうな研究であった。その研究は大学を卒業しても、続けられ、その研究のため、ミゲルは、アンドーラ王国中を巡って研鑽を重ねる。これまで、農業を学術的に研究をした者は、皆無で、自然とミゲルが教えを請うのは、各領地の経験豊かな作物頭などの身分的にはそう高くない者が多かった。それでも、やはり研究熱心な作物頭はいるもので、若いミゲルの熱意に打たれ進んで自分の経験からの助言をする者もいたし、逆にミゲルの言葉に耳を傾けることもあった。しかし、大部分の領主は、ミゲルの研究を変人扱いする者が大多数だった。だが、ミゲルが変人扱いはされても軽んじてみられなかったのは、その武術の技量に因る。貴族社会の必修科目の「狩り」でミゲルは、見事な弓術の腕前を披露する。そして、陸軍の参謀本部に配属された経験から、陸軍の幹部将校たちに顔が利いたこともあって、陸軍へも影響力を発揮した。それは、弟のガナッシュの”功”でもあった。
軍学校を次席で卒業したガナッシュは、配属の師団が替わるごとに順調に階級を上げていった。ガナッシュはそれに驕ることなくまた、伯爵家の次男だという身分をひけらかすこともなく、直属の上官たちに受けはよかった。そして、配属が替わる度に駐屯地を尋ねて来る兄を上官に引き合わせ、そして、軍区の領主たちにも引き合わせた。人脈も貴族社会では、一つの財産である。そして、ラシュール伯爵家が、ヘンダース王の最後の騎士団長を勤めたルンバートン侯爵家につながっているということが、ガナッシュを武運に導いていた。ガナッシュの曾祖父の最後の騎士団長は人望もよかったので、騎士団が国軍に変貌をしていく間、国軍に残った将軍たちのガナッシュへの心証は良かった。だが、肝心の陸軍元帥のヘンダース王子の受けは兄のミゲルに比べて今一つだった。それでも、ガナッシュの戦略面での師団内での実績は認めていた。
ガナッシュ・ラシュールが、そのヘンダース陸軍元帥の後継者としての軍略家の片鱗を見せたのは、ジュルジス二世の退位のきっかけとなった「ゲンガスル戦役」の作戦立案を担ったときだった。チェンバース王朝にとって最後の国内戦と呼ばれるその戦役で、ガナッシュは作戦参謀として、完璧な包囲戦を計画した。しかし、持久戦になるかと思われたゲンガスル戦役は、ゲンガスル公爵の自決という思いもかけない形での終結にガナッシュの気持ちは晴れなかった。それでも、作戦立案に功績があったとして、統合参謀本部の副参謀長へと昇進している。だが、ヘンダース陸軍元帥も後世の歴史家たちも、ガナッシュの知謀を評価するのは、新国王となったジュルジス三世の知己を得て、陸軍の改革案を上奏してからの功を挙げる時が多い。その改革案の代表的なものが、王立陸軍士官学校入学許可法の制定に寄与したことだろう。その法によって、従来、貴族にしか許されなかった士官学校への入学の道が平民にも開かれたのである。
だが、国王ジュルジス三世のガナッシュ・ラシュールへの評価は、将兵階級授与式を式典らしく整えたことだろう。儀式好きな国王らしい評価といってよい。
一方、兄のミゲルは、地道な研究を重ね、排泄物の肥料化に成功する。その肥料に今までの農作法よりも格段と優れた利点を見いだしたミゲルは、まず、自分の受け継ぐべき領地の農地にその肥料を撒いた。そして、その結果を見ると、領地の農民たちにも勧め、やがて、他の領地の農民たちにも指導を行った。その成果がアンドーラ国王ジュルジス三世の耳に入るのは、ミゲルが、王立大学の博物学の教授となってからである。
研究者というものはしばしば周囲の人間から変人扱いされることがあるが、ミゲルもそのご多分に漏れず、変人扱いをよりによってその息子から受けたのである。だが、その息子ダースこと、ヘンダースは、その幼さから父親の熱心な農業への取り組みを理解できなかった。伯爵家の主な収入源は領地にかけた領地税であるべきであるとミゲルは考えていた。初代のミゲル伯爵以下の伯爵家の尽力で、ラシュール伯爵領の領民たちは、小作人から自作農へと徐々に切り変わっていった。それでも、まだ、領地税の税収は、それほどではなかった。むろん豊かな税収を得るためには、農業の奨励が、必然である。ミゲルの研究は、その武器になる研究である。それをミゲルは当然のようにまだ幼い息子ヘンダースにも仕込もうと農作業を手伝わせていた。それは、自分が伯爵家の跡取りの孫息子だと理解していたダースのとっては、信じがたいことであった。特に何よりも、堪え難い苦痛だったのが、熟成させた排泄物の熟成度を確かめるためにそれを舌を使って確かめることだった。父親が自分になめさせるものの原料を知っていたダースにとってそれは、拷問にも近いことだった。だが、研究熱心な父親は、息子の拒絶反応に気がついていなかった。
いろいろと知恵をしぼってダース少年がたどり着いたのは「王立陸軍士官学校こと軍学校の入学の志願」だった。この意志をダースは父親ではなく、その上位に位置する「お館さま」の祖父に伝えた。温厚で知られる二代目当主は、孫息子の志望動機に気がつかず「それなら、ミゲルに武術を教えてもらうのが、いいだろう。ガナッシュもミゲルに教わって軍学校に入ったのだからな」といって、孫息子の、変わり者の父親から離れたいという願いには気がつかてはいなかった。ダースは、結局父親の監視の目から逃れられなかった。しかし、一番イヤだった、排泄物をなめるという行為からは、逃れることが出来たのである。そして、武術にも秀でた父親を、他の貴族たち同様に見直すことになる。
ダース少年のいささか動機が不純な軍学校志願も意外なところで、賛同者が出た。名付け親のヘンダース陸軍元帥である。ヘンダース陸軍元帥は、名付け子が軍学校の入学を志望していると聞きつけると農業の研究に多忙な父親のミゲルに替わって伯爵領の巡回にやって来る陸軍の駐屯地の師団の士官たちにダースの訓練を命じるという、名付け子にいささか甘いところを見せた。
これで、やっと父親から逃れられると思ったダース少年だったが、父親は、陸軍の士官、特に軍学校出身者になぜだか、顔が利いた。武術の上達ぶりを確かめるといって、しばしば領主館の中庭で、ダースの力量を確認した。そして、父親のミゲルは、ダースにとって、屈辱的な行動に出る。それは、ラシュール伯爵家以外の領民の少年たちに軍学校志願を募り、その少年たちに武術訓練を施すという、自分の身分をわかっているダースには信じがたいことであった。そして、息子のダースに領主館の掃除を命じるという、ダースの気位を萎えさせる名人でもあった。
良好とはいえない父子関係を修復したのは、ダースが成人してからであるが、修復前にその関係をもっと、複雑にしたのが叔父のガナッシュであった。ダースにとって陸軍士官のガナッシュは、あこがれの存在であった。アンドーラの多くの少年たちにとっても、同様であった。転属の報告のために領主館に立ち寄った叔父は、ダースが軍学校志望だと聞くと「それは、賛成出来かねますね」とダースの希望を打ち砕く発言をした。
「ダースは、やがて、伯爵家を継ぐのですよ。軍学校は、一生、軍服を着るものがいくところです。爵位持ちの跡取り息子がいくべきところでは、ありませんよ」
「まあ、”ヘンディ殿下”のお考えもあるしな。殿下は、ダースの軍学校志望を喜んで下さったよ、ガナス」
「殿下閣下のお考えは、お考えとしても、陸軍は、殿下閣下のお考えだけで、動いている訳ではないですよ、兄上」とガナッシュはヘンダース陸軍元帥を”殿下閣下”と称した。これも、兄弟でもヘンダース陸軍元帥に対する姿勢がうかがえる。
「ガナス、ちょっと、不遜じゃないか。ダースの前で」
「まあ、ダースが名付け親に恥をかかすようなことにならなきゃいいですけどね」
「そうならないようにガナスからも、何かいってやってくれ。掃除をいやがるんでね」
「ほう、それでは、ますます、軍学校は無理だな。いいかい、ダース、軍学校では、一回生は掃除当番もあるんだ。無論、便所掃除もあるぞ」
叔父の言葉にダースは耳を疑った。掃除が嫌いとは、言えなくなった。それは、家僕の仕事のはずだった。それでも、父親の研究の手伝いよりは、ましだった。
父親への反発は、ダースの武術の訓練にもあらわれた。ダースは、父親の得意な弓術ではなく貴族らしい剣術を熱心に取り組んだ。それに領民総出で「熊狩り」や「鹿狩り」を行う風習があるラシュール伯爵領では領民たちも弓術や槍術の心得があった。剣術は、領民たち範疇ではなかった。そして、陸軍でも、剣術が必要とされるのは、下士官以上だった。
そして、駐屯地の士官たちは、ダースに武術だけではなく学科も学ぶようにと助言をしてくれた。特に算術はかなり、重要視されると教えてくれた。
この軍学校への受験対策が、その後のダースの人生に大きく影響を及ぼすことになる。
しかし、世の中は「戦争」の噂で騒然としていた。温厚で知られるジュルジス二世が、ゲンガスル公爵に領地替えを命じ、それを拒んだゲンガスル公爵と王国軍との間に不穏な動きがあると王都に行っていた祖父のカイウスが心配し始めた。「戦争」の噂で、ダースの軍学校への入学を考え直してみたらどうかとカイウス伯爵は、いい出した。
「ガナッシュは、陛下に差し上げたつもりでおるが、ダースはこの伯爵家を継がなくてはならないしな。どうしたものかな」
「父さん、どのみち兵役はありますから、同じ事ですよ。まあ、”ヘンディ殿下”にちょっと伺ってみましょうか」
「そうだな、そうしてくれるか。ミゲル」と陸軍に籍をおかずとも陸軍に顔が聞く長男がたよりのカイウス・ラシュール伯爵であった。
だが、結局、戦火の火ぶたはきって落とされることになる。その戦役の包囲作戦の戦略を練ったのが、次男のガナッシュだと聞いて、カイウスは、誇りに思えてその援護射撃に出た。前線ではなく、後方で補給部隊を指揮をしている次男坊のために食料を届けるという、王国軍への協力姿勢をとることで、国王とその叔父のヘンダース陸軍元帥の心証を良くしておこうという、いささか王家におもねった行動をカイウスは選択をする。ただ、無償ではない。食料の代金は、しっかりと支払ってもらった。これは、国王ジュルジス二世の方針だった。食料などの補給品の代金を払わないと、それは、略奪行為にとられかねない。
ダースは、戦争のせいで、自分の軍学校志望が、かなえられないのではないかと心配だった。叔父が、戦争に行くのは、不安ではなかった。祖父の話では、補給部隊といって後方であまり危険な任務ではないと知っていた。
一方、レンバー川を挟んで領地を隣接しているカルチェラ伯爵家との共同作業の鮭の孵化と稚魚の養殖・放流は、その当初の目論み通りに両伯爵家に恵みをもたらしていた。無論ダースも、その収穫作業を手伝わされたが、排泄物をなめさせられる行為よりは、ずっとましだった。
この、収穫した鮭を塩漬けにして薫製にしたものが、王国軍の大事な食料として尊重された。そして、ミゲルの指導で格段の収穫量を増やした小麦も王国軍へ売り渡された。この食料を戦線の後方に輸送するのを、カイウスは、自身で戦線の後方まで領民たちを指揮をして運んでいった。これは、伯爵領を巡回するの担当の師団に委託をしてもよかったが、それでは、次男のガナッシュの手柄にはならない。
だが、この労苦が、カイウスの寿命を縮めることになる。
温厚な二代目当主は、領民たちに慕われていた。特に、安価な価格で小作地を小作人たちに売り渡したことで、領民たちに感謝されていた。無論、それには領民たちの知らない領主側の事情もある。ジュルジス二世は、爵位を持っている領主たちに領地領有法という法で、領地率という政策を推進した。それは、各領主たちが、所有できる領地内の農地の割合を制限するという領主たちの弱体化を図る国策であった。無論抜け道はある。当主以外の一族に土地を所有させるという手段もあった。だが、一族の少ないラシュール家では、それも、多くの土地を分け与えるものも多くはなかった。
この領地領有法はジュルジス一世の時代に制定されていた法ではあったが、実際の施行は、なかなかはかどらなかった。それを優柔不断だという噂のジュルジス二世が王国軍の軍勢を背景に強行とも思える手段で押し進めていた。それは、表向き最新の測量技術で土地の測量を王国軍がするという、一見無害な施策だった。測量によって明らかになった土地の所有権の居所を国は、見逃さなかった。領地領有法違反の土地は、国が押収するという脅しに領地領有法の遵守は進んだ。
この政策は、各貴族家の当主の権限を軽減するという当初の目的は達せられるように思えたが、むしろ、土地を分け与えるものを選別するという別な権限が生まれた。それでも、土地を分け与えられて経済的に独立を計った領主以外の貴族たちは国王への忠誠度が増したといってよいだろう。
ラシュール伯爵家では、伯爵家の叙位の時の事情から、初代当主の弟のアルキスはかなり広大な土地を所有していた。ただ、アルキスの家系もそれほど子だくさんというほどではなかった。それでも、カイウスは将来を見込んで、新たな農地を開墾をして増やしていった。この農地の所有者には、次男のガナッシュを始め陸軍に籍を置く士官たちに開墾の費用をいくらか負担をするという条件で、分け与えられた。これは、陸軍に定年制を設けた国策を知ったカイウスが、定年で退役をする士官たちの老後の生活の場として提供するという、いささか、息の長い計画であった。
ガナッシュが、指摘した通り、軍学校志望者は、貴族出身者でも、当主から血縁が遠いものが多かった。ガナッシュの伯爵家の次男と言う身分は同期生の中でも最高位に属する。退役士官たちには、老後の安住の地としてラシュール伯爵領は、かなり、楽しみな土地柄といってよかった。それは、「熊狩り」や「鹿狩り」という、軍人出身者には、自慢の武術を披露できる場があったし、”新貴族”の家柄は、気さくな家風といわれていた。ミゲルの研究も、軍人たちには、馬や牛・羊の排泄物が、肥料や燃料として有効に用いられるのに比べ、人間の排泄物は、始末に困るものであったが、それを肥料として有効に用いることは、大勢で暮らす駐屯地では、歓迎された。
人間の排泄物が有効な肥料であるという評判は、農民たちより、駐屯地の軍人たちに広まっていた。各駐屯地でも、莫大な食料費を節約するため、多少の農作が行われていた。そして、各地で行われたいた開墾は、農民の手を借りるより、各軍区の師団に依頼をする領主が多かった。師団にも兵卒は農民出身者が多かったし、組織だってことに取り組む師団の方が、様々な面倒がなかった。各領主たちは、領地を治めるのに十分な人手がある訳でもなかった。自然と国をたよりにする。そこに国王の権威が増す余地があった。
様々なラシュール伯爵家の陸軍に対する一種の優遇処置は、陸軍に歓迎されていた。従って、ダースの軍学校志望は、駐屯地の士官たちに好意の目で見られていた。考えてみれば、軍人たちが、定年を迎えるということは、戦争の場が少なくなって来ているという平和な時代がやって来たということでもある。しかし、最後の国内戦は「ゲンガスル」で行われるのであるが、それは、ヘンダース王の時代に比べれば、軍人たちの活躍の場は多くはなかった。ゲンガスル公爵の居城を取り囲んだとき、すでに勝敗の決着はついていた。ゲンガスル城は、一月も持たずにゲンガスル公爵自ら火を放ち落城をする。
しかし、ラシュール伯爵家では、思わぬところで死者が出る。包囲作戦をとる王国軍に食料を運ぶ指揮を執っていたカイウス・ラシュール伯爵が、帰り道で落馬をして、そのまま、息を引き取ることになるのである。
思いもかけない訃報は、次男のガナッシュから、長男のミゲルに伝えられる。ミゲルは、悔いていた。研究にかまけて、食料移送を父親任せにしていたことを一族の大叔父のアルキスの息子のセイクに責められる。確かに、馬術はミゲルの方が長けていた。なれぬ道を行った為に落馬をしたのだと、知って、ガナッシュも、悔いていた。陸軍の補給品なら、自分が引き取りにくれば、よかったと。
そして、ダースも優しかった祖父の死に悲しみに暮れていた。だが、当主の死を悼んでいる時ではなかった。代替わりの手続きが、必要となって来る。当主のお館様となったミゲルは、父の従弟のセイクを法定代理人に指定し、領地の施政の体制を整える。
だが、セイクは就任に当たっていくつか条件をつける。伯爵家としての最終決定はミゲルがすること、決裁書類には目を通すことなど、お館様としての最低限のことは、ミゲルがすることを約束させた。それは、国王の方針にもかなっていた。
そして、弟のガナッシュも、ある提案をする。それは、資格を持った医師を雇うことであった。今まで、ピクルウス・ゲキュール司教の影響で、病人の治療は、聖徒教会の司祭が行っていたが、やはり、伯爵家として、従医を置くべきだと。それは、ミゲルの一人息子のヘンダースが、まだ、兵役を終えていないという後継の不安材料の一つを考えての提案だった。ミゲルはまだ、若く、身体も壮健だったが、それでも病に倒れない保障はなかった。そして法定代理人のセイクの健康状態も十分な注意を払う必要があった。
だが、結局、従医が見つかるのはダースが成人して結婚をしてからのことになる。その時代から、医師不足は、アンドーラの課題であった。
世子となったダースの危ぶまれた軍学校志望は、弔問に訪れた名付け親のヘンダース陸軍元帥によって、推奨される。ヘンダース陸軍元帥は、名付け子の父親のミゲルを寵愛していた。それは、排泄物の研究という風変わりな研究をしていても変わらなかった。しかし、伯爵となったミゲルを手元に置くことは出来なかった。その代わりに名付け親としての特権を行使して、その息子を手元に置きたいとヘンダース陸軍元帥は、考えていた。幸いに名付け子も頭脳は明晰で、特に算術の計算能力は高いものが見られた。武術も、駐屯地の士官に鍛えられて、合格水準まで、来ていた。
しかし、ラシュール伯爵家も代替わりなら、王家もジュルジス二世の退位という波乱が起きていた。そして、宰相という重責を担っていたニーベル・カルチェラ伯爵の辞職という国政に大きな空席が出来ていた。結局、ジュルジス二世は、王太子に王冠を譲り、その新国王ジュルジス三世の下でニーベルも国務卿という新しい役職に就くことになる。ニーベルは、ジュルジス一世から三代続けて国政の重職につくことになった。噂では、王太后の勘気を被っての降格人事といわれたが、新国王のジュルジス三世の信頼は厚く、新国王なりの政治的判断で、宰相職を廃止したのだった。
そして、ラシュール伯爵家でもガナッシュが、かねてからの念願の陸軍統合本部の副参謀長という席に座る。ここで、ガナッシュは新国王の知己を得て、陸軍の改革案に力量を発揮する。ジュルジス三世は、国軍の強化を考えていて、それは、各領主たちに許されていた武器の製造の禁止という領主たちの私兵化を根本的に排除する国策であった。そのために各領主たちの武器の所有数を制限するという、徹底したものだった。
この国策に、ラシュール伯爵家では、初代の時期に苦労して集めた武器職人を国軍に徴収されるという、痛手を被るのであるが、三代目当主となったミゲルは、それでも王家に逆らうような考えを持つこともなく従順に武器職人の徴収に応じた。この国策に弟のガナッシュが、関わっていることもミゲルは気がついていた。”新貴族”のラシュール伯爵家としては、ガナッシュの昇進を期待をしていた。
新国王の貴族への締め付けは、戦火を交えたゲンガスル公爵家に対する厳しい処置にも如実にあらわれていた。ゲンガスル公爵家は身分を平民に落とされ、僻地へ移住という、いわば流刑に近い処分を申し渡される。ゲンガスル公爵家に加勢した貴族たちも同罪であった。この厳しい処分に貴族たちは震え上がるが、一方で、爵位をもつものの年一度の謁見や爵位を継ぐものの謁見の義務化という、新たな国策に貴族たちは、首を傾げた。この謁見の義務化は、爵位が国王が授けるものであるという認識を貴族たちに植えさせる制度だった。
気さくな前国王のジュルジス二世時代の謁見と違って、新国王の下での謁見は礼儀作法を重んじていた。謁見が式典らしく整えられていった。それは、平和の時代の始まりでもあった。平和は、国民たちに農地での実りをもたらす。そして、順調な天候が続いたおかげで各地での豊作の知らせに若い新国王は安堵の思いをする。
そして、ラシュール伯爵家の世子のダースも、希望通り陸軍士官学校に入学をする。その前に、国王の謁見をすまして、伯爵家の跡継ぎであることを盤石のものにした。軍学校での生活は、ダースにとって甘くはなかった。すでに、各貴族の家では、軍学校の入学対策をたてている家が多かった。特に、”新貴族”より名門貴族の家の子弟は、下士官や兵卒での兵役を過ごすことに誇りが許さなかった。
ダースの叔父のガナッシュの考えとは別に、貴族の意識は、平民出身の士官を歓迎してはいなかった。そのため、各領主の子弟の軍学校への入学対策は怠りなく、各家では、専属の教師を雇い、武術や学科の指導を受けさすという風潮が出来つつあった。当然、入学試験の水準は上がる。ダースの入学時の成績は中程度で、次席で卒業した叔父の成績よりは、見劣りがした。入学してからも研鑽努力はしたものの結局、ダースは、二回生で希望の参謀組の班には、入ることが出来なかった。それでも、算術に関しては非凡なところを見せて、学科組の計算班で副班長に命じられる。
この班に所属したことが、卒業後のダースの配属先を決定する要因となる。それは、制服組と呼ばれている士官の中で、経理を担当する主計係という、いささか不本意な役職であった。父親のミゲルは、名付け親の意向がどこまで、反映されているのかわからなかったが、失意の息子に陸軍では主計官出身の将官もいると慰めたが、ダースの落胆は大きかった。しかし、その経歴が、後のダースの進路を決める一因となったのである。
一方、ダースの叔父のガナッシュの方は、将官への昇進を決定されていた。後は、国王ジュルジス三世の裁可を待ち「任官式」を執り行うだけだった。その「任官式」の前に、ガナッシュは、甥の配属先の駐屯地をたずねることにした。それは、甥の上官への引き回しという昇進の後押しではなく、叱責をするためだった。ガナッシュには、甥の軍学校志望が、貴族にありがちな平民のように兵卒や下士官での階級では、気位が許せないという見栄のための受験のように思えてならなかった。”新貴族”も代を重ねるごとに、階級意識が出て来る。そのせいではないかと推測していた。まさか、父親の研究の手伝いがいやで、軍学校志望したとは、さすがに切れ者のガナッシュにも想像がつかなかった。
案の定、駐屯地でダースは不満顔で過ごしていた。しかし、あこがれの叔父の訪問にダースは喜び、自分の不遇を訴えた。
「あきれたな」と叔父は冷たく突き放した。ここにも甘さがあるとガナッシュは思った。
「制服組の大切さをわかってないようだな。制服組の支えがあるから、師団はやっていけるのだぞ」
「そりゃ、制服組でも参謀なら、わかりますが、経理を担当する主計係では、なかなか昇進の機会がありません」
「参謀だって?笑わせるな。軍学校で参謀組に入ってもいない奴に軍略の何がわかる。それにな、これは覚えておけ。金勘定も出来ないものに陛下が軍を動かす許可をお出しになるはずがない。そんなこともわからないのか」
「確かに参謀組ではありませんが、戦略も戦術も授業でありました」
参謀長の経歴もあるガナッシュはせせら笑った。
「軍学校での知識ぐらいで、作戦がかけるか。まあ、こういう私も昔、兄上に大笑いをされたときがあったけどな」と軍学校時代を思い出してガナッシュはいくらか、苦笑いをした。ふと、ここでダースの名付け親のヘンダース陸軍元帥を思った。ダースのこの人事は将来、参謀本部へ呼び戻す布石ではないかと思った。自分も軍学校の二回生では参謀組の戦略班の班長だったが、最初の任務は参謀本部ではなく駐屯地に赴き、軍学校式の歩兵訓練を施した記憶がある。
「それほど、いうのなら、軍略の才があるかみてやろう。カメルニア将棋を持ってこい」とガナッシュは、ダースに引導を渡すつもりだった。カメルニア将棋とは当時の武官の間で流行っていた古代将棋で、ガナッシュはその将棋の名手だった。
何回か対戦をするとダースの腕前が大したことがないことがわかった。無論、手心を加えるつもりはガナッシュにはなかった。徹底的といってもいいほどにぶちのめした。あっけない敗北にダースは悔しがり、もう一つ手合わせと粘ったが
「もういい、やはりな、お前には軍略の才はない。殿下閣下にもそう申し上げておこう」とガナッシュは、甥の名付け親ヘンダース陸軍元帥を「殿下閣下」と呼んでいた。王子殿下でもあり、陸軍元帥閣下でもあるという意味である。
「武術もみてやろう」と今度は、軽甲冑と呼ばれる制服組に支給される簡単な胸当てとすね当てと兜を装着させると訓練場に引っ張り出した。当然、軽騎兵も重騎兵の経験もあり、将官昇進を控えているガナッシュとは、武術の技量の差は、歴然とあったが、特にガナッシュをがっかりさせたのは、ダースの弓術の騎射の的に当てる確率の低さだった。名手ミゲルの息子とは信じがたい有様だった。
「こんなことでは、殿下閣下に鹿狩りにさえ連れて行っていただけないぞ」と陸軍恒例の第十二軍区での「鹿狩り」への参加は無理だとダースに宣告した。
その「鹿狩り」は、陸軍が、一種の軍事訓練の名目で執り行う年中行事の一つで、それには、各師団から、優秀な軽騎兵が選抜され、参加を許される。その参加は、軽騎兵にとって名誉と、射止めた獲物によって「報酬」が支払われるという実益もかねた垂涎の行事であった。そして、陸軍以外では、第十二軍区に領地を持つ領主たちとヘンダース陸軍元帥の息子のレオナルド・チェンバース公爵やお気に入りのミゲル・ラシュール伯爵も招かれ、見事な弓術を披露していた。その「狩り」では、まれに他の獲物を仕留める時もあったが、群れをなして疾走する鹿を相手に多少のケガ人も出る危険な「狩り」でもあった。
ともかく、ガナッシュは、当初の目的通りにダースの引導を渡すことにした。
「そんなことでは、昇進はむずかしいな。どのみち、お前は、武官に向いてない。兵役義務期間が終わったら、軍服を脱げ」
ダースは、叔父の言葉に耳を疑った。確かに「軍学校」へ入学する時もあまり、賛成はしてくれなかった。しかし、せっかく「軍学校」を卒業したのに二年での兵役で終わるということはどういうことを意味するかダースは、よくわかっていた。それは、父親の元へ戻るということである。そして、また、あの研究の手伝いをしなくてはいけないということである。ダースは絶望感に苛まれた。確かに「軍学校」への志望動機は、父親の研究の手伝いをするのが嫌だというやや不順な動機であったが、やはり、いつしか、叔父のように武官で栄達をしたいと願うようになっていた。それは、野心ともいえた。そして、その野心の炎をなおさら、燃やす言葉を叔父はダースに告げる。
「来月の定例謁見の時に俺の”任官式”がある。師団に休暇を取って、お前も出席してくれ」
それは、叔父のガナッシュの将官昇進を意味していた。アンドーラでは、将官は貴族の爵位と同列に扱われる。准将は子爵と、少将は伯爵とそして中将は侯爵と同じといった風である。その時点まで、平民出身の将官はいなかったが、平民でも貴族と同等ということで、紋章こそ許されなかったが、平民法で禁止されていた平民の「絹」の着用が許されることになる。これは、三親等までが適用される。この場合アンドーラでは孫までがその範疇に入るが、やはり、王国の臣下としての位を極めたといってよいだろう。
無論、特権もあれば、当然、義務も発生する。特にジュルジス三世の治世になって「国王謁見」を重要視する傾向になって、新年の「新年祝賀謁見」は、必ず参列をする義務を課していた。「国王謁見」は、毎月それぞれ決まった日に行われているが、それには、各師団長となった陸軍の将官は、任地の地理的な事情も加味し毎月の謁見は、義務ではなかったが、それでも、王都に近い駐屯地に駐在する師団長は参列をするようには心がけていた。その他、各種の国王主催の行事の出席が求められていた。当然、妻帯者は夫人同伴である。
その「新年祝賀謁見」には、今年はダースも出席をしていた。それは、父親のミゲルから、任地へ向かう時に申し渡された一種の義務であった。その理由は、国王ジュルジュス三世の下で初代国務卿を務めたニーベル・カルチェラ伯爵の助言もあって、王都に比較的近い領地であったラシュール伯爵家では、毎月の謁見や各行事にはマメに出席をしていた。確かにジュルジス三世の治世になって改正された「領地相続法」では、十二歳以上のもので「国王謁見」をしていないものは、その相続を認めないと定められていた。それは、最低限、一回でその相続の資格は得ることになるが、国王に従順なミゲルは、やはり、ダースも年一度の謁見をするべきだと考えたのである。無論、伯爵であるミゲルにも年一度の謁見が国王から課せられた最低限の義務であった。
ダースは、そのとき始めて武官として出世した叔父を妬ましく思えた。祝意を述べることもなくただ、
「わかりました。出席します」とだけ答えるのがやっとだった。そして、駐屯地を後にする叔父を見送ることもなかった。
一方、ラシュール伯爵家の当主ミゲルは、将官昇進に必要な「国王面接」という初めて国王ジュルジス三世と挨拶以外の言葉を交わす名誉というべき立場になって、弟の昇進を知ることになる。その知らせは、まず、不意に領主館を訪れたヘンダース陸軍元帥から、聞かされる。
「しかしな、ミゲル、ガナッシュの将官昇進は、儂一存で決められない。国王陛下のご裁可が必要なんじゃ」と”ヘンディ殿下”は、申し訳なそうな表情をした。そして、その昇進は、本人だけでなく、一族の長や妻まで、国王が面接をして、決定されるという。
「ともかく、鋭いお方だからなあ。ガナッシュのことは、お気に召しているのか、それとも、生意気な奴だと思っているのかよくわからん」とヘンダース陸軍元帥は、国王とガナッシュの微妙な関係を知っているだけにこの人事には、一抹の不安を覚えていた。
その不安は、的中する。ミゲルに伴って、国王の執務室に入室し、アンドーラの最高権力者に敬礼をしたヘンダース陸軍元帥に国王は、椅子に腰掛けたまま返礼するという国王の権威をまず、見せつけた。メレディス女王の次男で王位継承権も持つという陸軍の長に国王は皮肉たっぷりな口調で
「あなたは、席を外して下さい、”ヘンディ殿下”。あなたのお気に入りをいじめたりはしませんから」
「これは、困ったことじゃなあ」とヘンダース陸軍元帥は応じたが、ミゲルは、年長で、血統からいえば国王の大叔父にあたる”ヘンディ殿下”が、国王におもねるような態度を取ったことが驚きだった。このミゲルから見てもこの年下の男はどんな権力を持っているのだろうと、初めて身近で見た国王にミゲルは動揺していた。
ヘンダース陸軍元帥が、退出すると、意外なことに国王は「その椅子にかけて下さい」と机の前にある椅子を指し示した。ミゲルが躊躇しているとさらに
「上から見下ろされるのは好きでないのでね。掛けて下さい」と年下の国王は以外に丁寧だった。”ヘンディ殿下”には、横柄だったにとミゲルは思ったが、ここは、素直に従った。
対面する国王は、書類に目を通しながら、
「えーと、ラシュール伯爵家は元々、ルンバートン侯爵家の出なのですね。その辺りの事情は説明は無用です。えーと、初代は、学位をお持ちだったのですね。法学ですか?」と質問をした。
「はい、そうでございます、陛下」と失礼がないようのと答えると
「あ、その、陛下は、この部屋では、いちいち、付けないでよろしい。陛下といわれると、時々、うんざりするのでね。あなたも,時々、回りのものから、"殿”、いかがいたしましょうとかたずねられてうんざりすることは、ないですか?」
これも質問だろうかと思いながらもミゲルは「我が家は”お館さま”です」と訂正した。その答えに国王は驚いたことに笑い出したのである。
「やっぱり、ご兄弟ですね。ガナスも私に遠慮というものがない。必要な意見ははっきりいいますからね」と国王は、弟をガナッシュではなく、ガナスと友人たちのように呼んだことにミゲルはまた驚いた。
「では,”お館さま”も学位をお持ちだとか?」と若干からかっているような口調である。
「はい、博物学で、博士号をいただいております」
「博物学とは、変わっていますね」と国王は今度はさりげなかった。
「はい、やはり、農業は大事だと思いまして」とここで、ミゲルは、自分の研究が、弟の出世に差し障るのではないかと危惧しはじめた。自分の研究がかなり、人の理解を得るのがむずかしいのはよくわかっていた。
「それでは、植物学ですか」
「いえ、博士号は、動物学の方です」
「そうですか」とだけいうと国王は再び書類に目を落とした。ミゲルは、自分の研究へ興味を示さない国王に幾分、安堵と残念さの混じった複雑な思いを抱いた。
「ご子息は、名付け親は、あの”ヘンディ殿下”ですか?」と話題は息子のダースへと変わった。
「はい、名誉なことです」とミゲルがいうと、国王は少し眉を上げた。
「そして、軍学校を卒業して今は准尉ですか」
「はい」とだけ答えた。
「うーん、これは申し上げた方がいいでしょう。私は、爵位持ちや爵位の跡継ぎの将官は認めません。ガナスも爵位に近いのでどうかとは思ったのですが、まあ、あなたの”ヘンディ殿下”に苦言をいえる将官も必要でしょうからね。まあ、あなたのご子息には将官昇進の見込みはないといってあげて下さい。これは、本人の資質と能力が、問題なのではなく、領主と師団長は相容れないと思って下さい。確かに海軍には侯爵で少将という肩書きの者もいるが、彼を将官に任官したのは私ではないのでね。それに海軍だったので、甲冑を脱ぐようにはいわなかった。確かに文官の閣僚は全員爵位持ちですが、これは問題ではない。問題は師団を預かる者が領地を持っているということなのですよ。それは、何故だかわかりますか?」
「さあ、二つの役目は無理だということでしょうか?」
「それよりも、政治的に問題がある。私がなぜ、領地武器法を制定したか、それは、領主の「私兵化」をふせぐためです。領主は、大きな収入を領地から得ている。その資金で師団長が、部下たちを買収して私兵となるのを避けたいですからね。まあ、金で動く軍が、強兵かどうか意見の分かれるところですが、兵卒たちには、有り難いでしょう、給料はそれほど多くはないですからね。ともかくご子息には、陸軍での出世は、佐官それも中佐どまりだといってやって下さい。後は、精々、結婚して子供を持ち、ガナスが爵位を継ぐようなことにならないように。万一、そんなことになったら、ガナスには甲冑を脱いでもらいます」
「それは、退官ということでしょうか」と国王の思惑に戸惑いながら、ミゲルは、国王がガナッシュの将官昇進を認めないのではないかと心配になった。
「ええ、そうです」とさらりと国王はいった。
「それと、あなたは、まだ、富裕税は払ってないのですね」国王はいきなり質問の矛先を変えた。ちなみに「富裕税」とは収入が多い者が支払う国税で、それは「税は、金を持っている者から取り立てろ」というジュルジス二世の考えで、考案された国税だった。
「はい、まあ、もう少ししたら、富裕税も払えるようになるでしょう。豊作だといいのですが」
「まあ、私も期待してますよ。一人でも多くの人が富裕税を払えるようになることを。さあ、これで面接は終わります。退室してよろしい」と国王は突然、面接の終了を告げた。ミゲルはこの面接が「吉」と出たのか「凶」と出たのか国王の表情からは、それを推測するのは無理だった。
国王の執務室を退出すると”ヘンディ殿下”が、廊下で待っていた。
「どうじゃった?」と心配そうにたずねた。
「さあ、よかったのか、悪かったのかわかりません、殿下。ただ、ガナッシュが、私の弟だということが、問題なのと」というと”ヘンディ殿下”は「それのどこが問題なのじゃ」と不機嫌になった。
「つまり、爵位に近いということで、爵位と将官は、両立しないということで」
「何をいう海軍には侯爵の少将もおるぞ」
「それは、陛下が任命なされたことではないのと、海軍だから大目に見ているということのようです。それで、ダースは、精々中佐止まりだと申されておられました。それより早く結婚をして子供を持てと」
「うーん、そうか、わかった」と”ヘンディ殿下”は、あることを思いつく。
この”ヘンディ殿下”は、軍事面では天才といってもよかったが、甲冑を脱ぐといささか問題の多い人物だった。それを”魅力”と思うかどうかで”ヘンディ殿下”を慕うか、要注意人物として避けるか対応が別れるところである。ミゲルは前者の方で、”ヘンディ殿下”と呼んで慕っていた。無論、”ヘンディ殿下”の方もミゲルはお気に入りの一人だった。息子の名付け親を買って出たのもミゲルがお気に入りだからであった。
しかし、ミゲルの心配は杞憂に終わる。ガナッシュの将官昇進の正式な決定をミゲルは旅先の駐屯地で聞かされる。これは、将官昇進の「任官式」は、全ての将官、退役した者も含めて出席をするので、伝令が駐屯地に駐在する師団長にもやって来る。陸軍の伝令網は、郵便制度のなかった当時では、唯一の組織だった連絡網だった。
一方、ラシュール伯爵家の領主館にも陸軍の伝令によって、吉報を届けられていた。当主の留守を預かる法定代理人のセレクは、その知らせをまず、先代未亡人のギルダと共に先代の墓に報告をする。そして、旅先のミゲルの下に馬に乗れる家僕の一人をつかわすことにした。ミゲルの行き先はもちろん聞いておく習慣だった。そして、軍区の師団長も領主館に祝いにやって来たが、肝心の当主が留守なので祝意はガナッシュの母親の先代未亡人が、代りに受けることになった。ギルダはこの知らせをどんなにか亡き夫が、楽しみに待っていたか知っていた。ともかく、ラシュール伯爵家は、三代目で、一族から将官を輩出することになる。元々は、武門の出身であるラシュール伯爵家にとって、面目躍如といったところである。
王立陸軍士官学校の卒業生が、初めて将官に昇進する「任官式」は、謁見の間で無事終了し、ここにガナッシュ・ラシュール准将の誕生となった。そして、ヘンダース陸軍元帥の邸宅で祝賀会が催された。それには、ラシュール伯爵家の一族の者の他、陸軍の各師団長やラシュール伯爵家に縁のあるルンバートン侯爵をはじめとする貴族たちが出席した。
無論、ラシュール伯爵家の跡取り息子ダース准尉も制服で出席をした。ダースは叔父がまぶしかった。「任官式」での将官甲冑から制服に着替えたガナッシュの胸にはこれまでの功績を示す「勲章」が輝いていた。ラシュール伯爵家で、叙勲を受けたのは、先代カイウスとガナッシュだけである。ただ、カイウスの叙勲は、死後に遺贈されたものである。元来ならば、その死は「事故死」であったが、「ゲンガスル戦役」の軍需物資を移送中とあって「戦死」の扱いを受けたのである。先王ジュルジス二世の配慮であった。
国王主催の晩餐会などと違って、主催者のヘンダース陸軍元帥の人柄を反映してか、その祝賀会は、ざっくばらんな形式張らない雰囲気で、出席者は自由に席を離れて思い思いに歓談していた。ルンバートン侯爵家を継いだばかりのビクトル・ルンバートン侯爵は、酒の力も借りて、ラシュール伯爵家の領主館に飾ってあるメレディス女王から贈られたたラシュール・ルンバートンの騎士団長の甲冑の返却をいい出した。
「我が家には、ろくな甲冑がないのですよ。領地武器法の制定を知っていれば、返してもらったものを」
「ならば、ご自分の家から、将官を出しなされ」と前国務卿のニーベル・カルチェラ伯爵。武官に出仕もしていないビクトル・ルンバートン侯爵にやや批判的だった。
「それなら、我がルンバートン家のホルス大佐は、どうですかな」とビクトル・ランバートン侯爵は、一族の者に期待をかけていた。
「ホルス大佐は、軍学校ですかな」とニーベルは、軍学校の卒業生にルンバートン侯爵家の出身者の名前が、あったか思い出そうとしていた。
「いえ、兵役についた当時は、軍学校はなかったですからな。ああ、ホルスの息子のルッセルトは軍学校ですがね」
「まあ、今回のガナッシュの昇進の祝いだと思って、あの甲冑はあきらめるのですな」とニーベルは、諭した。
別なところでは、別な会話が生まれていた。その日の主役のガナッシュの兄のミゲルとガナッシュの親友のカルバス・ファンタール大佐は、軍学校時代からミゲルを兄とも慕い親交があったが、妙な縁で、ある兄弟の名付け親同士という共通項で、ますます、親しさを深めていた。カルバスは、軍学校の卒業時の成績はカルバスが首席、ガナッシュは次席という結果だったが、実際に任務に就くと上官や周囲に恵まれたガナッシュの方がカルバスより早く昇進をしていた。しかし、カルバスはそれを妬むこともなく、心底、ガナッシュの昇進を喜んでいた。自身もガナッシュを追いかけるように昇進をし、今は、本営本部の軍務局長という制服組の要職に就くことが決まっていた。
「なあ、カルバスから、ダースに制服組でも腐ることはないといってやってくれないか」
「まあ、若いうちは、甲冑を着けたがるものですよ。兄さん」とカルバスは、ミゲルを「兄さん」と呼んでいたし、先代のカイウス・ラシュール伯爵に勧められてラシュール伯爵領に土地もすでに購入していた。そして、駐屯地に向かうであろうガナッシュに代り、王都での勤務になったカルバスは、ガナッシュが王都に購入した邸宅に住む予定になっていた。
そこへ、”ヘンディ殿下”が、割り込んで来た。
「ちょっと、ミゲル、ダースのことで、いいことを思いついたんじゃ」といたずらっ子のような表情の”ヘンディ殿下”
「何でしょう。”ヘンディ殿下”。いいことって?」とミゲルは、ひょっとして息子のダースの配属替えではないかと思ったが、”ヘンディ殿下”は「ちょっと、耳を貸せ、ミゲル」と手招きをする。その言葉に従い”ヘンディ殿下”の口元に耳を寄せたミゲルに”ヘンディ殿下”は意表をつく話を持ちかけた。
「どうじゃ?なかなかいい話じゃろ」と幾分得意げであった。
内緒話に半ば仲間はずれにされたカルバスが「何です、兄さん」とその話の内容を聞きたがった。カルバスは、ミゲル兄さんが、殿下閣下、つまり、王子でもあり陸軍元帥でもある”ヘンディ殿下”のお気に入りであることは十分承知していたし、自分が陸軍の最高権力者に特にご贔屓でもなく、かといって疎んじられている訳でもなく公正な評価をして、もらっていると思っていた。
実は、ミゲルとカルバスが名付け親になった兄弟は、”ヘンディ殿下”自身が名付け親を申し出たのであるが、その兄弟の祖父は、素っ気なく「平民の子に王様の名前はどうかと思いますね。それにもう名前は決めているので、お気持ちだけ頂きます」と初孫の名をミゲルとして、後からミゲル・ラシュールに事後承諾となったが、二番目の孫の時も「伯爵さまの弟に王様の名前はいけませんや」と再び断ったという気骨ある人物だった。”ヘンディ殿下”は「儂も次男だぞ」といったが、「この子は次男の次男の次男ですから」といって取り合わなかった。そして、ようやくその人物の長男に孫息子が生まれるとようやく名付け親を承知してくれた。身分からいうと礼儀をわきまえてないようだったが、ヘンダース陸軍元帥は喜び、長男の長男の名付け親になったことで、ミゲルとカルバスとヘンダース陸軍元帥と三つ巴の妙な関係が、出来ていた。カルバスは当初、ヘンダース陸軍元帥の申し出を断ったことは知らずに名付け親を喜んで引き受けた。ちなみにこれも事後承諾であった。
”ヘンディ殿下”のいい話とはダースの縁談であった。それも、相手は名門中の名門、ヘンダース王の母親の生家ミンツ侯爵家である。ミンツ家は元々公爵家であったが、後継を巡って争い、相続権もあったヘンダース王が、調停に入り、自身の相続権は主張せず、従弟のミハイル・ミンツの相続を認める代りに公爵家から侯爵家に格下げし、もう一方の係争者サンダス・ミンツには、新たに伯爵位を叙位することで一旦は決着がついたが、ヘンダース王の調停に不満を持ったサンダス伯爵はメレディス女王の即位に反対をし、その結果、爵位を下げるという処遇を受け、かのゲンガスル戦役にも不満を持った一族の者がゲンガスル公爵に組するという、いわばチェンバース王家には、到底優遇されることはない状態になっている。一方、ミハイル・ミンツ侯爵家の方は、メレディス女王の戴冠式にも列席をし、ここ何代かは、裁判官として任官しているというまあ、チェンバース王家には「いい子」の侯爵家であった。このいわば、明暗を分けたミンツ家からの縁組みは、ある意味で、サンダス子爵家という「敵」を作ることになるのではとミゲルは少し、気がかりだった。しかし,”ヘンディ殿下”の口利きであるということは、正当な理由がなければ断れない。
どのみち、メレディス女王以降、貴族の爵位の相続権を明記した「結婚契約書」は、国王の同意書が必要となって来る。国王の同意書のない「結婚契約書」による相続は、認められない。ミゲルは息子にはもう少し、身軽な相手との縁組みを考えていた。確かに、これまで、ラシュール伯爵家の当主の結婚相手はすべて侯爵家であったが、ミンツ侯爵家とは、格が違う。ちょっと気が張る相手であった。
ミゲルは、やはりここはカルバスに耳打ちをして「ダースの縁談だよ」といった。カルバスは、複雑な表情を浮かべているミゲルを見て、これは難しい相手なのだと悟った。
しかし、ここは、”ヘンディ殿下”である。電光石火の動きを見せる。つまり、本人の名付け子に「ダース、いい話があるぞ。近う参れ」といいながらも自分でダースに近づいた。その辺は”ヘンディ殿下”の「愛嬌」ではあった。
「何でしょう、閣下」とダースは名付け親を「閣下」と呼んだ。父親のミゲルのように”ヘンディ殿下”ともまた、叔父のガナッシュのように「殿下閣下」とも呼ばずに軍学校で教わった通りに”気をつけ”の体勢になりながら、ダースは、その時、自分の陸軍での処遇について何か改善の処置がなされるのではないかと期待を持った。
「そなたは、ミゲルの跡取りじゃ。そのことは、わかっておるか」と”ヘンディ殿下”。この言葉にダースは、まさか、父親の研究の手伝いをしろといわれるのかと不安になった。ただ、唾を飲み込み頷くのがやっとだった。
「もう一人の海軍のヘンディが、ようやく、結婚を決めてしてくれてやれやれじゃ。しかし、ラシュール伯爵家には、ミゲルの息子はそなたしかおらん。そこで、儂は、そなたにいい結婚相手を捜してきたたということじゃ」とここで,”ヘンディ殿下”は「花婿」の顔色をうかがった。ダースは、驚きよりも「きょとん」としていた。
「ともかく、ここに花嫁が来ておる。何しろ、国母さまの下で”行儀見習い”をしておって、今日が”初謁見”じゃ。ガナッシュの任官式が”初謁見”とは、奇遇じゃのう」と”ヘンディ殿下”は、高位にある貴族の結婚の順序を無視した行動に出ようとしていた。貴族のそれも爵位持ちともなれば、結婚はまず、当主同志の共通のそれなりの人物が間に入って、下話を持って行く。そうしたやり取りが何度かあった後に当主がまず、結婚を承諾する。その後、互いの条件を出し合った「結婚契約書」を交わす段取りとなる。その他にも、すでに婚姻をした姻戚にも承諾を得る必要がある。本人たちが会うのは、結婚式の当日ということぐらいはよくある話であった。そうした「手続き」を無視するような”ヘンディ殿下”はこうした縁談話には最も不適切な人物であった。ここにその非常識を諌める人物がいた。前国務卿のニーベル・カルチェラ伯爵である。二代に渡り国王の下で「宰相」を務めた国家の重鎮は、”ヘンディ殿下”の暴走を食い止めに入った。しかし、カルチェラ伯爵家も婚姻によってラシュール伯爵家とは縁戚となっていた。
「”ヘンディ殿下”、そういった話はこの祝賀会の席には相応しくないのでは、ないですか」
「何を申す、ニーベル。この席は、ナスタチアの”初謁見”の祝いの席でもあるのじゃぞ。その席で縁談話が出ないようでは、嫁ぎ先をどうやって見つけるというのじゃ。いいか、ナスタチアの母親のイライザは、ドリソン侯爵家の出じゃ。ここが、肝要なところよ」
「”ヘンディ殿下”、どこが肝要なのです?ドリソン侯爵家は、確かに家筋の確かな家柄ですが」とさすがのニーベルも、”ヘンディ殿下”の話に興味を持った。
「ドリソン侯爵家から嫁いだ女子は、皆、子宝に恵まれているということじゃ。それも一人や二人ではないぞ」と”ヘンディ殿下は、世襲制の爵位持ちという身分で、正しく肝要な点を強調した。確かにラシュール伯爵家では、初代の弟アルキスの家系にも相続権があるが、それでも、古くから続く”名門貴族”の家系に比べると、いささか心もとない。そして、ニーベルは、つい最近発表された、国王の次弟で”ヘンディ殿下”のもう一人の名付け子ヘンダース王子の婚約の相手は、パスケール侯爵令嬢のアンジェラだったが、アンジェラの母親であるパスケール侯爵夫人も、ドリソン侯爵家の出身であることを思い出した。名門でなおかつ王子の妃と従妹にあたるという身分が、”新貴族”であるラシュール伯爵家の水に合うのであろうかと一抹の不安を覚えた。
「きょとん」としていたダースは、気を取り直し”ヘンディ殿下”の縁談話に父親がどの程度、承知している話なのであろうと気になった。その”ヘンディ殿下”に耳打ちされたラシュール伯爵家当主ミゲルは、さっそくこの祝賀会の主役のガナッシュにこの話を打ち明けていた。
「やはり、”ヘンディ殿下”のお引き合わせでは、断れないな」
「あちらが、断るかもしれませんよ、兄上」とガナッシュは冷静だった。
「しかし、いきなり本人を紹介するのは、殿下閣下らしいですね」といささか”ヘンディ殿下”に逆らえない兄にガナッシュは少し歯痒かった。
そこへ、ダースとニーベルを従えた”ヘンディ殿下”がやって来て「ミゲル、ちょうどいい、ミンツ侯爵を紹介しよう」といい出した。「どこにおるのかな。ともかくそなたを紹介しろとせっつくのじゃ」
ドロリゴ・ミンツ侯爵は、”ヘンディ殿下”の長男レオナルド・チェンバース公爵と歓談をしていた。ミゲルは、この祝賀会の出席者で顔なじみのない者は、主役のガナッシュの知己のある人物だと思っていた。”ヘンディ殿下”一行が近づくと「どうなさったのです。父上」とレオナルドが、不審そうに一行の顔ぶれを見回した。
「そなたの出る幕ではないわ、レオ」と息子を一蹴すると「ミゲル、こちらが、ドロリゴ・ミンツ侯爵じゃ」と”ヘンディ殿下”は、ちょっと礼儀作法を無視した紹介の仕方をした。アンドーラの礼儀では、まず、紹介をするのは高位の者に下位の者を引き合わせるのが、通例だった。この場合ドロリゴ・ミンツ侯爵にミゲル・ラシュール伯爵を紹介するのが礼儀に適っていた。しかし、それを咎める者はいなかった。”ヘンディ殿下”の横紙破りは、周知の事実だった。ドリンゴ・ミンツ侯爵は、”ヘンディ殿下の無作法を特に咎める気配も見せずに引き合わせがすむと
「お目にかかりたかったのですよ。ラシュール伯爵。我が家の作物頭から、いろいろ聞きましてね。随分、あなたからご助言をいただいたとか。おかげで、わが領地は豊作ですよ。あの独創的な肥料はかなり農地に有効ですね。かなり、収穫量が違うと作物頭が申しておりました。やはり、一度お目にかかって、お礼を申し上げたかった」とにこやかだった。
「”青の間”へ伺えば、よかったのですが、やはり、お引き合わせはヘンダース陸軍元帥閣下の方がよいといわれましてね」とミンツ侯爵は気さくな態度だった。ちなみに”青の間”は宮殿における伯爵家の控え室である。謁見などの行事の際、宮殿では、それぞれ階級にあった控え室で自分の順番を待つことになっていた。
ミゲルは、自分の研究がこの名門貴族のミンツ侯爵に「独創的」と称され、幾分かの評価されたことに安堵の思いだった。自分の研究が風変わりなのは重々承知していた。農地の改良に熱心な作物頭には、受けいられても、身分のある者は、眉をひそめることも経験から知っていた。そして、ダースはこの名門貴族のミンツ侯爵が、父親の研究を「礼をいいたい」とまで高く評価しているのに意外な思いだった。
「お礼だなんてとんでもない。ミンツ侯爵。豊作は、天候とあなたの作物頭が熱心だったおかげですよ」とミゲルは、当たり障りのない答えを返した。
「ミゲルはこういう奴なのじゃ、ミンツ侯爵。手柄話をしようとしない」と”ヘンディ殿下”。彼もミゲルの研究で恩恵を被っていた。僻地の第二十軍区では、かなり陸軍の手で開墾が進み、陸軍はかなりな大きな農地を所有している地主でもあった。
「そして、こっちが儂の名付け子のダースじゃ、ミンツ侯爵」
ここでダースは、陸軍式に敬礼をして「ミンツ侯爵閣下」といった。ダースは、叔父のガナッシュほどではないが、名付け親の引きで階級を上げること甘く夢見ていた。それは、簡単に打ち破られる。ミンツ侯爵は、ダースの制服の肩章でダースの階級をいい当てて「ダース准尉」といった。
「そうなんじゃ、ダースはまだ、准尉なのじゃ。まあ、どこまで階級を上げられるか心配ではあるが、ダースにはもう一つ大事なお役目がある」
「ほう,なんですか、閣下」とさりげなくミンツ侯爵は、たずねた。
「それは、ミゲルに孫の顔を見せてやることじゃ。それを見ないうちは儂は、死んでも死にきれん」
この言葉にダースは思わず赤面した。
「だから、ほれ、そなたの娘のナスタチアの協力が必要なんじゃ」といささか強引な”ヘンディ殿下”と思われたが、ミンツ侯爵は、笑顔で応じた。
「ラシュール伯爵のご子息なら、こちらから、願ったり叶ったりです。是非、家のじゃじゃ馬娘をもらってやって下さい」
「じゃじゃ馬娘?」とダースは、聞き返した。
「ええ、馬を乗り回すのでね。さすがに王宮に”行儀見習い”に上がってからはそんなこともしなくなりましたが」
そこで、さすがに性急な話にミゲルはさりげなく話題を変えた。
「そういえば、我が家の娘もそろそろ王宮に”行儀見習い”に伺わせようかと思っているのですが、何しろ領地育ちで、田舎者ですから、うまく勤まるかどうか」とミゲルは、一人娘のミネルーネを思った。ガナッシュの「任官式」にも出たがっていたが、まだ,”初謁見”もまだだったのと、風邪をひいて、王都へ来るのが無理だったので、泣く泣く同行をあきらめたのである。
「まあ、女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人は少し、口やかましいですが、国母さまはお優しいですよ。むしろ、王都育ちは目端は利くのが、どうも信用ならないと仰せられて。まあ、今は、大体が領地で子供を育てる方が多いのではないですか」とミンツ侯爵は、無難な対応である。
そこへ、ラシュール伯爵家の法定代理人のセイクが、やって来た。カルバスが「ダースに縁談がある」と耳打ちしたのである。
「お館さま、こちらは、どちらさまでいらっしゃいますか?」と見かけない顔にセイクは、これが、縁談の相手だと察知していた。セイクはラシュール伯爵家の姻戚の承諾を得る算段は自分の役割だと心得ていた。
そして、その場の最高実力者が「これは、アルキスの息子ではないか」とわざとらしい応対をした。
「こちらは、ラシュール伯爵家の法定代理人でな、ミゲルの片腕というよりお目付役じゃ、何しろミゲルは研究室に入るとなかなか出て来んのでな。それを引っ張り出すのがこのセイクの役目じゃ」と今度が、順序を間違わなかった。
「セイク、こちらは、ミンツ侯爵。ダースの縁談のお相手の家の当主だ」
引き合わされた二人が礼儀通りにしかし用心深く挨拶を交わすと早速、セイクが苦言を申し述べた。
「殿下の御前ですが、若には、結婚よりも大事なことがあります」とセイクはダースを「若」と呼んで、日頃から、世子であることの自覚を促していた。
ミゲルは少し、苦い顔をした。セイクがこの縁談に内心賛成しないのはわかっていた。だが、ここは”ヘンディ殿下”の紹介である。無下に断る訳にもいかないと、ミゲルは考えていた。だが、それにかまわずセイクは言葉を続けた。
「若には、兵役の義務期間が終わったら、軍服を脱いでもらいます」
「そうだな、まあ、どうしたものだろう」とミゲルの反応は曖昧だった。
「ガナスの話では、若には武官としての気構えがまるでないといっていましたよ。まあ。一年経っても、まだ准尉ということなら、やはり、ここはあきらめが肝要です」とセイクの辛辣な言葉にダースは、屈辱と悔しさが、体中を巡るのが感じられた。軍服を脱くということは、領地へ帰るということである。それは、また、父親の研究の手伝いという苦行が待っているということである。
「若には大学へ行っていただきます」というセイクのきっぱりとした言葉にダースは、やはり、あの研究の手伝いかと絶望的になったダースだが、セイクの次の提案でダースは苦行から救われるのである。
「お館さまには、申し訳ないが、若が学ぶのは法科ですからね。こういっては、何ですが、いつまでも私を当てにしないでいただきたい。アルキスも、あの通り分けていただいた土地の面倒を見るので手一杯ですし、やはり、法律に詳しいものが必要です」というセイクの思いがけない提言にダースは、今まで父親の研究から逃れるだけだった自身の将来の展望をかいま見る。
「どう思われますか、殿下、若には武官として見込みはありますか?」とセイクは最後は名付け親に質問を投げかけた。名付け親は、
「うーん、どうじゃろか。儂にもよくわからん」と首をひねった”ヘンディ殿下”である。ここでミゲルは、息子に”引導”を渡す。ここまでミゲルは息子がガナッシュのように武官での栄達を望んでいるとばかり思っていた。まさか、自分の研究を嫌ってのこととは思ってもいなかったのである。だが、この国の最高権力者の国王は、ダースの陸軍での昇進を望んでいないと知った今、身の引き時だと決断した。
「セイクのいうことも一理ある。お前は、大学へ進学する準備をしなさい。無論、進むのは法科だ。それなら、バルックスが、いろいろ助言してくれるだろう」とミゲルは、ガナッシュの妻マリーゼの次兄のバッルクス・スタバインの名を出した。バッルクスは、王立大学で法学部の教授をしていた。ここにも先達のものは、いた。が、ダースの未来はあの苦行から、逃れられるのであろうか。
そして、このやり取りを聞いていたミンツ侯爵からもおもがけない提言をもらうことになる。
「法科でしたら、私も多少、受験のお手伝いが出来るのと思いますよ。私も法科出身ですから」とこの言葉に真意はラシュール伯爵家には、まだ、伝わっていない。ミンツ侯爵家には、やはり「家の事情」というものがあった。一族の多くの男子が法を学び、裁判官という官位についていたミンツ侯爵家だったが、ここへ来て若い者たちの軍学校志望が増えて来た。ここに陸軍に顔がきき、将官を輩出した家柄と昵懇になっても悪くないという計算があった。
このミンツ侯爵の言葉に”ヘンディ殿下”は、脈があると察した。ここで、速攻に出た。
「そなたの娘子はどこにいる?」
ミンツ侯爵の長女ナスタチア侯爵令嬢は、その時、自分の縁談話が出ているのにも気がつきもせず、また、その縁談話の相手の家族とも知らずにヘンダース陸軍元帥の長男の妻のフェリシア・チェンバース公爵夫人の引き合わせで、ミゲルの母のギルダと妻のセシリアと歓談していた。
「何しろ、ラシュール伯爵家では初めての女の子ですからね、育てるにも気をつかいますわ。伯爵は私の時を参考にすればいいといってくれますが、それでもねえ。まあ、お母さまの実家からついて来た侍女がいてくれますけど、私の方は、何だか頼りない侍女でしてね。やはり、伯爵が王宮に”行儀見習い”に出した方がいいのではないかと。いかがですか、王宮での”行儀見習い”は」
その返事はナスタチアの母親のイライザ・ミンツ侯爵夫人が答えた。
「やはり、領主館にいるとわががまがでますからね、国母さまには、厳しくしつけていただきたいとおねがいしましたの。でも、どうにか”初謁見"を無事すまされて、ヤレヤレですわ」とイライザもにこやかだった。イライザは、この祝賀会の主役が自分の娘のナスタチアではなく「任官式」を終えたガナッシュ・ラシュール准将であり、ナスタチアの”初謁見”は添え物であることには気がついていた。そして、”女の勘”で、この祝賀会の出席者に娘の縁談話の相手の家の者がいるのではないかと推測していた。
その縁談の相手を引き連れて”ヘンディ殿下”が女たちの輪にやって来た。
「おお、おった、おった」と声を出した”ヘンディ殿下”にその女たちの輪が、一斉に高位に対する「礼」をする。アンドーラでは女性は、左足を少し後ろに引き膝を曲げ、腰を落とすこれが貴族での女性の礼儀とされていた。
「まずは、このアンドーラの美しい花々を紹介しよう」と”ヘンディ殿下”は、女性軍に賛辞を贈った。この辺が、無骨一辺倒ではない王宮で育った王子である。なかなか女性の扱いは手馴れたものである。
互いの紹介がすむと、ダースはその中で一番若い、妹と同じ年頃の少女が自分の縁談の相手だと推測した。その少女は、美しかったが、ダースにははにかんだような笑みを浮かべただけだった。
だが、”ヘンディ殿下”は、とどめを刺すように「やっぱり、ダースとナスタチアは、お似合いじゃ」といささか性急に二人を結びつけようとする。ここで、父親の性分を知り抜いている息子のレオナルド・チェンバース公爵が「ここは、ご婦人たちのお話の邪魔をしたようですね。男は男同士、あちらで葉巻でもいかがですか、タジールからいい葉巻が手に入ったのですよ」と男たちを別室へ案内をする。
そこで、ダースの将来を決定する大学進学と縁談と二つの要素が、検討されることになった。ダースは初めての葉巻に咳き込みながら、これもメエーネ産のウィスキーを初めて口にする。これをセイクは幾分咎めるような目つきで見たが、何も言わなかった。しかし、自分の人生なのにダースの発言権はなかった。そして、これからダースの波乱の人生が待っていようとは、誰も予想しなかったのである。
参考文献
ガナッシュ・ラシュール著「回顧録・アンドーラの旗の下に」
ヘンダース・ラシュール著「自叙伝・アンドーラの土に帰る」
ラシュール伯爵家の主な年表
アンドーラ歴 587年 初代ミゲル出生
589年 アルキス出生
591年 ミゲル騎士見習いとしてヘンダース王の下へ出仕
593年 アルキス騎士見習いとしてヘンダース王の下へ出仕
600年 ミゲル・アルキス、大学で法典集を調べ始める
605年 ミゲル、ミネルーネ・クットハスと結婚
クットハス侯爵家から支援を受ける。
607年 ミゲル長男カイウス出生
613年 ミゲル・アルキス、法典で、メレディス女王の正統性を証明する記 載を発見
614年 ミゲル・アルキス、王立大学で法学の学士位を取得
619年 メレディス女王、アルキスの相続権を含めた形で、ミゲルに伯爵位 を叙位。
父親の名、ラシュールを家名とする
620年 アルキス、メルビ・ハウゼンと結婚
622年 アルキス王立大学で法学の博士位を取得
625年 アルキス長男セイク出生
627年 カイウス、ギルダ・リバンドルと結婚
アルキス王立大学で准教授に就任
628年 カイウス長男ミゲル出生
635年 ジュルジス一世、スレイト伯爵に領地替えを命じる
637年 領地替えを拒否するスレイト伯爵領にヘンダース王子の指揮の下、 王国軍進攻。
スレイト平原でスレイト軍を撃破、スレイト城も落城。王国軍の勝 利に終わる。
640年 カイウス次男ガナッシュ出生
641年 旧スレイト領が、ラシュール伯爵領となる
642年 アルキス、王立大学法学部教授へ昇進
643年 伯爵領に移住
645年 カルチェラ伯爵家と合同で鮭の人工孵化と稚魚の養殖を始める
646年 セイク、コリーヌ・カルチェラと結婚
647年 兵役制度に伴い、徴集に応じた領民男子をミゲル二世が王都へ引率 する
650年 セイクの長男アルキス二世出生
651年 ミゲル二世、兵役を除隊
652年 ミゲル二世、セシリア・パウドウスと結婚
654年 ガナッシュ、王立士官学校に入学
初代当主ミゲル死去
655年 ミゲル二世、王立大学博学部へ入学
656年 ミゲル二世長男ヘンダース出生
ガナッシュ、次席の成績で王立士官学校卒業
657年 アルキス死去
659年 ミゲル、王立大学、卒業。博学部学士位を取得
663年 ガナッシュ、マリーゼ・スタバインと結婚
664年 ガナッシュ長男カイウス出生
665年 二代目当主カイウス死去
669年 ヘンダース王立士官学校へ入学
672年 ガナッシュ陸軍准将に任官
家系図画像 http://6811.mitemin.net/i55981/