宮廷のゲーム
父親のジュルジス二世から、王冠を譲られて一年半、新国王ジュルジス三世の国政は、順調に運んでいるかに見えた。だが、ある日、アンドーラ海軍の艦隊から、メエーネに行っていたはずの先王のジュルジス二世が、行方不明になったという知らせが飛び込んでくる。その知らせの内容は驚く事実を告げていた。 しかし、荒れ狂う海に先国王の捜索は難航し、先王不在のまま国王のジュルジス三世は自身も出席する閣僚会議を開こうとするが、王太后のエレーヌも出席を言い出し…
アンドーラ王立陸軍士官学校のアンドーラ王国の平民出身者の入学許可は、次の項目を満たす者に、与えるものとする。
114歳上、20歳以下の心身共に健全な男子であること。
2保護者たる近親者が、アンドーラ王国法典の兵役法のおける規定の、兵役を果たしていること。
3アンドーラ王国の、欽定憲章による、爵位を認証されている当事者の規定の文書による推薦があること。
4規定の学科科目が、規定の水準に達していること。
5規定の馬術、剣術及び、弓術あるいは、槍術のいずれかを規定の水準に達していること。
6規定の面接試問で、礼儀作法、その他の水準が、規定の水準に達していること。
付記
以上の、6項目に達することができず、入学を不許可となった者については、次年度の、1〜6 の項目に対する再試験は、初回から、5回を限度とする。
アンドーラ王国陸軍士官学校入学許可法より
「捜索は、続行していますよ、母上」
膝の上のセシーネ王女をあやしながら、母の詰問に、のんびりとアンドーラ国王ジュルジ三世は答えた。ジュルジ三世の母のエレーヌ王太后はそののんびりした息子の態度にある疑念を確信した。王太后の夫、アンドーラの前国王ジュルジ二世は、メエーネから帰国途中、船上から「竜」に浚われて行方不明になったという報を受けても息子のジュルジ三世は動じなかった。竜に浚われたなどという戯言をこの聡明でアンドーラ国内外に知られる王太后の自分が信じるとでもいうのだろうか。
「お前が、本気で探しているかどうか、怪しいものだわ」
「どういう意味です?」国王は、娘を乳母のユーリンに渡し立ち上がった。王太后は
「ぐるになって、父上をかばうのね」と詰った。
「誰の父上ですか?」
「無論、お前たちの父上です。どういう魂胆なの?」
「いい加減にしてほしいですな、王太后」
兄の国王のその言い方に、弟のヘンダース王子は、ぎょっとなった。国王は、相変わらずのんびりした声で
「申し訳ありませんが、会議があるので、これで、失礼します」
「ちょっと、待ちなさい」
「ああ、会議には、王太后は、出席なさらなくても結構です。何しろ、部屋が狭いのでね。君は、出席したまえ、ヘンダース大尉」と弟のヘンダース王子の方にあごをしゃっくった。ヘンダース大尉は、あわてて立ち上がり、兄の国王に海軍式の敬礼をした。
「なかなか、さまになってきたじゃないか?」と敬礼を返しながら国王は歩き始め、弟に
「もう少し、軍に残るか?」と声を掛けた。ヘンダース大尉が、兄に返事をしようとしたら、
「待ちなさい。話は終わっていないわ」と王太后が叫んだ。その大声にセシーネ王女が泣き始めた。歩みを止め、国王は振り返り、今度は、乳母に王女を連れて行けと命じた。セシーネを抱いた乳母のユーリンが小声で姫さま大丈夫ですよと、泣きじゃくるセシーネをなだめながら、立ち去った。国王は、ため息を漏らした。
「母上、お気持ちはわかりますが、とにかく、捜索は、ちゃんとやっていますよ。それじゃ、失礼します」
「会議には、わたくしも、出ます」と王太后はキッパリと言い切った。
「だったら、どうぞ。気晴らしにはなるでしょう」
王太后が、出席を熱望した会議の議題は、先王の捜索のそれではなく、別の議題だった。彼女は、憮然としたまま、退席も出来ず、無言のまま椅子に腰掛けていた。
国王は、ヘンダース陸軍元帥の意見を求めた。彼は国王の曾祖母メレディス女王の二番目の王子で、国王の大叔父にあたり、その「軍略の才」は長年アンドーラ国軍を国内無敵な強軍に育てた功労者でもある。
「陛下、これの申し上げたことにも、一理あると思われんじゃ。これで、平民の意識も変わってくるじゃろ」
「その点、ですね。ヘンダース大尉は?」と国王は、今度は、弟の意見を求めた。末席にいたヘンダース第二王子は、いきなりの指名に少し慌てたが、予め、会議の議題に関しては「予習」があった。
「僕は、いえ、自分は、貴族の反応が心配です」とそつなく答えられた。
「面白いじゃないか。どう出るか、楽しみだ」と国王は、にやりとした。ヘンダース元帥も、にやと笑った。突然、王太后が、会議の議題の主旨に気がつき、口を挟んだ
「わたくしは、反対です」
国王はのんびりとした口振りで、王太后、まだ決まった訳ではありませんと、天井を仰いだ。ヘンダース元帥が
「陛下、よろしいか?」
国王が頷いた。ヘンダース元帥は、
「王子自ら、兵役義務を果たしておるというのに、貴族どもの中には、それをすり抜けようと、あれやこれやと画策しおる。いっそ、兵役義務を果たさぬものは」と言って、両手を胸の辺りで、パンと打ち合わせた。それを見た国王が、声を出して笑った。ヘンダース大尉は、ぞっとした。強気な兄の国王と、老いてなお好戦的な元帥で、これからどうなることやらと。国王は
「まぁ、懲役刑で、十分でしょう、とりあえずは」
二人のヘンダースが、懲役刑?異口同音に言った。また、国王が、笑った。王太后が、こんな時によく笑えるわねと言うと、ヘンダース元帥が、咳払いをした。国王は
「失礼しました。母上。そんなに、父上のことがご心配なら、メエーネの大使にでも、お目に掛かってみたら、いかがです?」
王太后が、メエーネなんてとつぶやくと、国王は
「のんびりした、良いところだそうですよ」
ヘンダース元帥が、話題を戻した
「陛下、懲役刑とは?」
国王に、代わって、法務卿が説明し始めた。
「懲役刑とは、かつての、貴族法にあった刑罰の一つで」
ヘンダース元帥が、そのぐらい知っておるわいとつぶやいた。国王が、法務卿、手短にと口を挟んだ。法務卿のイーサン・カンバール子爵は、椅子に腰掛けたまま、国王に一礼して、話を続けた。
「つまり、陛下は、囚人を監獄に入れて、それを養うために税を使うのは、如何なのかとお考えのようで」
「法務卿は、反対か?」と国王。
「懲役刑のことで御座いましょうか?陛下」
「その件も、少し、急ぎたい。多少の金子を払うというのは、どうだろうな」
「囚人に、で御座いますか?陛下」と法務卿。
国王が、ヘンダース元帥を、チラッと見て、椅子の肘掛けを右手でトントンと叩いた。再び、まずこの件を片づけようと早口で言い、
「何か、貴族たちをなだめる方法はないものか?誰でもよい、発言を許す」
ヘンダース大尉は、国王がこの議題にすでに承諾をしたのわかった。だが、国王の求める貴族たちをなだめる方法は、残念ながら思い浮かばなかった。
「陛下、よろしでしょうか?」
口を挟んだのは、国王に議題の提案した陸軍参謀長のガナッシュ・ラシュール大佐だった。
「発言を許す。いちいち断らずとも、よいぞ、余が、誰でもよいと申したなら」
「ハッ、それでは、申し上げます。平民の入学許可には、貴族の推薦を要するようになさったら如何でしょう」
ヘンダース元帥が、右の手の平で自分の頬をピチャリと打つと、
「ガナッシュ、なかなか、いいぞ。ただ、儂は、推薦はできんな」と笑った。国王も、声に出さずに笑った。国務卿のニーベル・カルチェラ伯爵がお厳しいですなと、ヘンダース元帥に言うと、国王が
「そうではないんだ、国務卿。元帥は、自分は王族だとおっしゃているのさ。なあ、元帥閣下」
ヘンダース元帥が、再び、笑った。ガナッシュ・ラシュール大佐が
「陛下、これは、王家の方々を含めてのことで御座います」
「だが、もう一捻りが欲しい」と、再び、肘掛けを、トントンと国王は叩いた。
ヘンダース大尉は、ふと、妙案が浮かんだ。
「陛下、よろしいでしょうか?」思わず、大声になった。国王は、目をパチパチと瞬きをしながら、弟を見て
「いちいち断らずとも、よいと申したはずだ。聞いていなかったのか?いいから、さっさと言え」最後の言葉はやはり、国王は早口になった。
「陛下、この貴族の推薦に関しては、制限を設けたら、如何でしょう?」
「制限?」と国王
「はい、貴族の中で、爵位を頂いている者だけに限っては、如何でしょう?」
「何故、そんなことを思いついた、ん?」と国王は、今度は、腕を組んだ。次弟は、うつむいた。
名付け親のヘンダース元帥が、
「陛下、これは、なかなかの妙案に、思えるんじゃか」
国王は笑って、
「だからさ。悔しいですからね」
「陛下、こうしたら、如何かな?爵位持ちで、なお、且つ、兵役義務をきちんと果たした者に限ると」
と発言したヘンダース元帥をじっと見て、国王は、よし、決めたとこれまた早口で言った。そして、おもむろに
「貴族の推薦は、そういたそう。あと、王族も同様で、いいかな。それとも爵位のある者はできん方がいいかな、どうかな?元帥」
元帥は、笑い出した
「陛下は、よく、儂の性分を御存じゃ」
国王も笑い出した。王太后が、怒り出した。
「いい加減にして頂戴」
国王は、王太后をキッとにらんだ。ジュルジ三世の弟のヘンダースは、その時の、兄の目つきを一生忘れられなかった。
国王は、氷のように冷たい声で、
「余は、先ほど王太后に、退出を勧めなんだか?」
「やはり、お疲れのようじゃ、王太后は。軍の話なぞ、女には無理じゃ、気苦労ばっかりでな」とヘンダース元帥。
「陛下、よろしいでしょうか?」と、いたたまれずに、ヘンダース大尉は、国王の許可を求めた。
「ヘンディ。何度言えば、解るんだ?こんな簡単なことも解らないのに、よく、ああいうことを思いついたな。君の頭の中は、どうなっているか知りたいもんだ。ヘンダース大尉の発言を許す」
「陛下、母上は、お疲れのようです。王宮まで、お送りたいのですが」
「その扉まで、十分だ。ヘンディ」と冷たく国王が言ったとたん、ヘンダース大尉は、立ち上がり、
「では、陛下のご命令とあらば」と答えると、向かいの席にいる母親のところに早足で、近づいた。
王太后を会議の席から、引っ張りだすと、ヘンダース大尉は、後でお話があります、母上と、王太后にささやいた。そして、会議室の外に立っていた近衛兵に、王太后を王宮まで送るように頼むと会議の席に戻った。彼の心中は、穏やかとは、到底言い難かった。おまけに、涙を浮かべてる母の姿なぞ、見たくはなかった。
会議室の中では、まだ、会議が続いていた。ヘンダース大尉は、自分の席に戻った。そこは、国王の席から、遠い末席だった。
「お厳しいですなぁ、陛下」と国務卿が言うと
「何しろ、王族だからな、余は」と片方の眉を上げ、
「済まんなぁ。貴族の諸君。ただ、爵位持ちの苦労も、よく解る」と国王は、席に着いている者たちを見回し、ため息をついた。
「元帥閣下、わたしは、冷たいですかね?」と国王は、ヘンダース元帥に尋ねた。
「いや、こういった時は、この方がいいじゃ」
「じゃ、取りまとめましょうか、異存がある者は、存分に申せ」と国王は、再び、会議に出席している顔ぶれを見た。国務卿が、提督のご意見は、と尋ねた。海軍提督のネクター・ハウゼルは、
「異存は、御座らんが、海軍にも、こういった参謀が欲しいで御座るよ」
ヘンダース元帥が、
「欲しがっていると、ますます、やれんわい。儂は、意地悪じゃからのう」
提督が、笑い出した。つられて、国王も、笑いだし、
「提督は、せいぜい、船でも、ねだるんだな」
「頂けんるで御座るか、陛下」
「そなたには、やらん、提督。なにしろ、余は、けちん坊だからな。自分の船が欲しかったら、余から自分で買ってくれ。安くしてやろう、提督にはな。他の奴には、高く売ってやる。それで思い出した。その前に、一応、決を採ろう。いや、その前に爵位がなくても、閣僚に席を連ねておる者にも、推薦状を書く許可を与えるいうのは?一度、席を連ねた者で、余の勘気を蒙って辞めた者以外は。わたしのいっていることが解るか、諸君?」
「それは、なかなか、よろしいのではないかのう?提督」
「何故、我が輩にお尋ねなさる?元帥」
「なにしろ、儂も船が、欲しいんじゃ。ボロ船を一隻、陛下に、こっそりおぬしが買う振りをして、譲ってくれんかのう?どうじゃろう、提督」
「陛下の御前で、そんな商談には、応じられぬで御座るよ、元帥閣下」
「やはり、無理か、けちくさいのう」
提督が、吹き出した。国王が笑いながら、ヘンダース元帥に、わたしとどっちが、けちかなと尋ねた。
「儂も、けちくさいので、お答えできん、申し訳ござらん、陛下」とヘンダース元帥は謝った。国王は、元帥と提督の笑い声が収まるのを待って
「異存は、ないのか?諸君」と今度は、目だけで、見回した。
「なければ、勅命と思え、もう、反逆は許さない、よいな」と、一転して、厳しい声で言った。
ヘンダース大尉は、その、一転二転する、兄の機嫌を計りかねていた。若い国王は、どちらなのか?機嫌がいいのか、悪いのか……
「しかし、こうお厳しくては、折角の提案が…」と、国務卿が、隣の席のヘンダース元帥の同意を求めた。
国王は、誰もいない正面から、国務卿に視線を移し、どこが厳しい?と尋ねた。ヘンダース大尉には、先ほどより、厳しさが、薄れたように聞こえた。
何しろ、国王は、まだ、若かった。国務卿には、その若さを補うためにわざと、厳格に振る舞っているように思えてならなかった。先ほどの、母親の王太后に対する国王の態度は、彼には、信じがたかった。国王は、決して、冷血な人物ではないことをよく知っていたし、玉座に座ってからも、それは、変わらなかった。やはり、先王の、不在が大きなと考えつつ、行方不明ではなく不在だと自分に言い聞かせていた。国務卿は、陛下と呼びかけてから、諭すように話し始めた。
「この提案の、重要な主旨は、平民にも、陸軍士官の道を開くところに御座います。元帥閣下の仰せの通り、平民たちは、陛下の、平民への、この場合、ご配慮とでも申し上げておきますが、この、ご配慮に感謝し、陛下に忠誠を尽くす士官となりましょう。しかし、こう、お厳しくては、貴族の、而も、爵位を戴いている者が、家名を大事に思って、推薦を躊躇し、結局、一人も、平民が軍学校に入学できないということになりかねません。ですから」
ここで、国王が、笑い出した。国務卿は、驚いて
「陛下?」
「甘いな、国務卿、わたしなんかより、ずうっと甘い」
「ですから、陛下、少しお厳しいと、申し上げたのですが…」
「違う、違うんだ、国務卿」と、国王は、首を振りつつ
「わたしだったら、推薦した、平民の、そうだ、この際だ、貴族にも、推薦がいるようにしよう。その推薦した者が、不埒なことしたら、自分は知らないと惚けるな。まあ、馬鹿な息子が、あるいは、馬鹿な弟でもよい、そいつが勝手に、自分の名を騙ったとしらを切り通すさ」と国王は、肩をすくめた。
国務卿は、「あ」という顔をした。ヘンダース大尉は、「馬鹿な弟」と言った時、兄が、チラッと自分を見たような気がした。ヘンダース元帥は、ニヤッと笑って
「馬鹿な息子も、弟も、おらなんだら?陛下」と、わざと国王に尋ねた。国王は、すました顔で
「馬鹿な、父親のせいにでもしとくさ」
「父親が、死んでからの、推薦でもかのう?陛下」
国王は、椅子の背もたれに寄りかかりながら、
「その時は、馬鹿な父親が、世話になった平民の息子とでも言っておきましょう。ああ、貴族もあったな」
海軍提督が、よう、そこまで、思いつかれて御座るよと感嘆した。提督の息子と呼んでもいい年齢の国王は、ニャッと、提督に、今日の余は、冴えてるか?と尋ねた。提督も、ニャッとして
「陛下、いやいや、冴えているどころか、ご威光に、光り輝いておられて御座るよ」と、若い国王の深慮に安堵した提督は、いつもの調子を完全に取り戻した。
「本当に、眩しい限りで御座るよ」
国王は、少し照れながら
「提督、そう、ベンチャラを言うところを見ると」
「おわかりか、そう、魂胆が、あるで御座る。陛下、少しご無心がな」と提督。そこへ、元帥も加わった。
「やはり、ボロ船かのう、提督」
「いやいや、元帥閣下、ボロ船では困るで御座るよ。やはり、ここは、国王陛下のご威光のように、光り輝くような、ピッカピカの戦船が、欲しいで御座るよ」
大蔵卿のパウエル・ブルックナー伯爵は、咳払いをした。彼は、元帥と提督が、このように、互いをからかい始めると、キリがないのをよく知っていた。大概は、若い国王が、自分は若いから気が短いとか言って止めに入る。からかい合いが口げんかになり、終いには、陸軍と海軍の戦争騒ぎになると、大蔵卿は、この日に限っては、少しだけ憂慮していた。彼は、王国の重鎮の二人が、決闘だと言い合っているのを目撃したことがあった。大蔵卿は、剣の腕に自信は無論なかったが、やむなく、止めに入った。他に、若い腕の立ちそうな兵卒も士官も、近くにいなかったからでもある。ところが、止めに入ったとたん、逆に元帥と提督の二人に無粋だと詰られた。両軍の志気を高めるためだと。それ以来、止めに入ったことは、ほとんどなかった。閣議で、自分も加わって、言葉の遣り取りをするコツを身につけた。適当なところで、国王が、てきぱきと指示を出し始め、それで決着が付く。大蔵卿は即位して間もない国王のその明敏さに舌を巻いていた。ところが、今日に限って肝心の国王自身が…。それに、提督も…、まずいぞ。
「大蔵卿、金は、どの程度あるかな?」と国王が尋ねた。話題が変わって、ホッとしたが、
「陛下、どの程度と、仰せられても、金山の埋蔵量までは、お答えしかねます。何しろ、掘ってみないとわからんのが実のところで…、国庫の金の残量なら、すぐお答えできますが」
「掘ってみんと、わからぬか。海も同様だな」と国王はつぶやいた。ため息をつき、
「提督、ピッカピカの戦船は、あきらめろ。父上が見つかったら、金で、ピッカピカに光る戦船を造ってやろうとしたが、無理だ。大蔵卿は、提督自身で、金を掘れと申すであろうからな。残念じゃ」
「陛下、提督は、始めっから諦めて御座るよ。何しろ、金は、重う御座る。なぁ、提督」と元帥が提督の口まねをしながら言った。大蔵卿はじめ、何人かヒヤリとした。
一方、ヘンダース大尉は、「以外」だった。実際、御前閣議に出ろいわれたのは、初めてだった。国王が出席しない閣議には、提督に頼み込んでのぞかしてもらったことがあったが、その閣議の後、提督にここでは何も決まらないと教えてもらった。重要なことは、何一つ決まらないと。父王と違って、若い国王は、かなり細かい点まで、国王自身で決定していくと。先王の不在のためか、あるいは、勿論、そのための捜索のための会議だとばかり思ってた。御前会議には、出たかった。こんな形でなくと、ヘンダース大尉は思った。こんな形ではなければ、さっきの自分の提言も、誇りに思えたろう。しかし、何だろう、兄上は、いつもああなのだろうか……。
「陛下、金は、よう延びるので御座るよ。うーすく、うーすく延ばせば、よいので御座る。」と提督は、手で、うーすく、うーすくと延ばす動作をしながら、
「ピッカピカの戦船が欲しいで御座るよ。是非とも」と最後は、力を込めて、提督は言った。
「夜目にも、光って、眩しいであろうな。夜襲には、ちと、不便かもしれん。その点を、提督は、よく考えておくように。自分でなくてもよいぞ。元帥は、最近は、自分で考えずに他の頭で考えたことを自分で考えたと思ってしまうこともあるそうだ。さて」と国王は、息をついた。
「さあぁて、困ってしもうた。ピッカピカの戦船も欲しいで御座るが、よーく考えて、いい知恵を出してくれる頭も欲しいで御座るよ。困ったで御座る。両方では、ご無心が過ぎような」と提督は、こちらも、元帥の口まねを入れながらも、最後は、困った、困ったと、ぼやいた。
「ヘンダース大尉!」
国王の大声にヘンダース大尉は、飛び上がりそうになった。
「今の、議案は何であったか?ぼんやり、するな」と兄は、弟を叱った。続いて、
「法務卿、今の議案に、決をとろう」
「では、ご異存のある方は、ご起立願います」と法務卿。怪訝そうな国王は
「どうして、賛同が、起立では、ないのか」
「何、元帥閣下に、ご起立願うは、いかがと存じまして」
「儂を、年寄り扱いは、無用じゃ。何しろ、孫もまだおらんぞ」
「左様で御座るよ。我が輩も、起立しないと、踏んでのことで御座ろうな。失敬だぞ」
法務卿は、のろのろ立ち上がった。元帥と提督が、それぞれ、まだ、若いのに遅いと、叱咤した。ヘンダース大尉は、法務卿の起立に驚いた。彼は、平民の味方と聞いていたのに違ったか?
国王は、驚きもせず
「法務卿、意見があるのか?」
法務卿は、はい、陛下と言って、また、腰掛けた
「推薦状を書く際の、金品の遣り取りに御座います」
「気がついたか?でも、許そう。どっか安いところを捜すさ。そういうものであろう、平民たちは、結構、利口ものがおるぞ。それを、捜し当てずに、何の士官ぞ。無能な士官は、無用じゃ」
「陛下、もう、一つ、御座います。貴族が、自分の父親、あるいは、兄の推薦状ではない場合いかがいたしましょう?」
法務卿の指摘に、国王は、さてと小声で、言ってから、声を張り上げ
「確か、面接試験があったな。試問か、まぁ、どちらでもよい、名は何とでも。その時に尋ねれば、よかろう、事情はな。その後、父または兄に、確かめればよかろう。一応で、よい。親兄弟と上手くやっていけぬ者が、上官と上手くやっていけるかどうか、余には、疑問ではあるが。後、なんぞ、あるか?法務卿」
「いえ、特には、御座いません。陛下」
「特にはか?」
「やはり、陛下、施行してみませんと」
「相変わらず、慎重じゃな。だが、施行してみんとわからぬぞ。後は、追々、手直しをしながら、な」
「まるで、ボロ船で御座るな、これは。まるで、どこぞかの船で御座るよ。陛下」
「その話は、また、後で、勅命の用意を。式部卿」
「畏まりました。あっと、一つ、思い出しました。各種、式典の式次第は、如何致しましょう?」
「遅い!!」国王が怒鳴った。彼は、式部卿のエンリコ・レンゼイ子爵に、手厳しかった。肘掛けを、トントンとやりながら
「何をしておった、そなたは?それとも、武官の、式典には、興味がなかったか?そなたの息子とでも相談いたせ。それとも、元帥が、何も、そなたにいわなんだというのか?余の出ない閣議では、居眠りでもしておおったか?」
青くなったり、赤くなったりした式部卿がやっと
「陛下、それがしの申し上げ方、悪う御座いました。まことに、申し訳、御座いません。陛下、勅命を発布する際の、式次第で御座います。肝心の平民が、おらんようではと気がつきまして。陛下」
「この際だ、平民も、貴族院に呼べばよかろう。これは、貴族の推挙というか、共の者も、入ってよいとすればよかろう。どうせ。ガラガラじゃ」
「仰せの通りで、陛下」と、気を取り直して式部卿が、張り切って言った。彼には、別の腹案があった。若い国王に、無能だとは、思われたくなかった。
「法務卿、何か、妙案がないかな?ホントに、貴族院は、陛下の仰せの通り、ガラガラじゃ」
「さあ、すぐには」
「法を守らせるには、法を知らねば、ならんじゃろう。提督ではないが、困った、困ったじゃ。おわかりじゃろう」
「式部卿、失礼ですが、男子なら、兵役の時に、多少の教育は、できます。出過ぎたことを申し上げまして」と思いがけず、陸軍参謀長が、法務卿をかばった。式部卿は、鼻白んで、若い陸軍参謀長に詰め寄った。
「ならば、女たちは?」
すると、国王が、クスクスと笑い、式部卿は、また、赤くなった。やりすぎたか?
だが、国王は、機嫌良さそうに、さっきのきつい口調ではなく、ゆったりと
「なぁ、式部卿、男という生き物は、どうしようもないぞ。女の気を引こうと、あれこれするものだぞ。どうであろうな。多分、あれこれ、えらそうに、色々教えたりするものじゃ。女の方も同様じゃ。後は、子が生まれたら、親が、ちゃんと教えればよい。大丈夫じゃ。問題は、貴族院じゃが、平民が押し掛けるようになれば、あわてて、くるじゃろう。特に、爵位持ちは、な」と、最後に、ヘンダース大尉には不気味に思える、笑い方をした。式部卿も笑みを浮かべた。国務卿が、では、これは、御裁可があったということで、よろしいですなと念を押した。
会議は次の議題に移った。
ヘンダース大尉は、王宮の廊下を歩いていた。前後には、近衛兵。そして、ヘンダース海軍大尉を挟むように元帥と提督。実に、居心地が悪かった。陸軍元帥は、名付け親である特権を行使して、しきりに陸軍に誘った。王位継承者の一員として、視察ではなく、陸軍の制服を着ろと盛んに勧めた。
むろん、それは、試しに着てみたことは、ある。当時の王太子の2歳上の兄が勧めたからだ。その後、兄はこういった。
「陸は、今、一つ、似わんな、海にいたせ」
万事がこうだった。なんでも、兄は、彼に命じた。遊んでいる時も。そんな時、よく、元帥は彼をかばってくれたものだった。だが、ある時を境に、それが、ぷっつりとなくなり、裏切り者呼ばわりされた。最初は、訳がわからず半べそをかき、
「兄上のせいです。父上には、何度も、お願いしました。でも、兄上が、海にも、ヘンダースがいれば、海軍も、強軍なると、それで…、仕方なかったんです。本当です。信じて下さい」
「ふん、上手い言い訳じゃのう、この裏切り者、もう、面倒はみんぞ。提督に頼め」
そんな訳だった。しかし、もう、大人だ。兄は、最近、次弟の自分にしっかりしてくれと盛んいった。君がしっかりしないと、末弟が見習うと、だけ。末弟のランセルは、やんちゃ盛りだった。まるで、この事態を察したかのように。しかし…
海軍大尉は、元帥に諦めて下さい、ランセルでもお誘い下さいと、キッパリと断った。案の定、元帥は不機嫌になった。
「わからんやつじゃ。両方学べば、少しは、陛下に、大きい面が出来るというのに」
ヘンダース大尉は、オヤッと思った、兄君じゃない、陛下だ。
提督が、
「折角の、頭になりそうなものを、引き抜こうとしても、そうは、いかぬで御座るよ」
「ならば、よけい、欲しうなった」
「入れ物だけでも、御座るか?」
きついなと、ヘンダースは思った。名付け親の大叔父のような軍略の才は、あまりない、とわかっていた。
「入れ物だけでもよいんじゃ、中身は、もうあるんじゃ。そうだ、ただとは申さぬ。金を堀りに行ってやろう、それで、どうじゃ、ん」
「こっち、だって、入れ物だけでも、必要で、御座るよ」
しばらく、このやりとりは、続いた。ついに、元帥が、
「陛下に、おねだりをいたすのでそれで、きまりじゃ。この話は、終いじゃ」とうち切った。元帥は、今度は、深刻そうに
「王太后も、困ったものようのう。気丈な女だと、思っておったが、すっかり、動転してな」
「無理も御座らぬ。まことに、申し訳なく、あわす顔が、御座らぬ」
「そなたのせいではなかろう。あれは、山道を歩いていて、石が、頭の上に落ちてきたようなものじゃ。致し方あるまいて」
「それが、どうも」首を振り振り、提督がため息をついた。
「それが、いかんのじゃ。返って、いかん。別な疑いが」
ヘンダースは、口をつぐんでいようと思っていたが、思わず、別な疑い?元帥は、何をご存じなのか?いや、疑いか、相変わらずの頭の切れ具合だ。
「女、やっかいじゃろ」
ヘンダースは、驚いた。あの、謹厳実直な父上が?まさか。
提督は、笑い出した。ヘンダースは、少し、不愉快になった。提督は、女性に関しては実におおらかで、その辺りが、ヘンダースには、もう少し、厳しくしてもと思うところだった。
「イヤイヤ、それで、合点がいって御座るよ」
「でも、そっちの方がやっかいじゃ」
「確かに、そうで御座ろうが、これも、まさしく、困った」
確かにと、元帥も、同意し、厳しい口調で
「しかし、情けは無用じゃ。ここは、お国のために、やるべきことをやるべきじゃ」
さようで御座るなと提督が、同意した。
ヘンダースは、息をそっと吐き出した。三人、いや、正確に言えば、二人半で、王太后をなだめる作戦を練った。ヘンダースは自分は、もう大人だとは思っていたが、女性に関しては、まだまだ、自分は半人前ぐらいは、わかっていた。ないしろ、経験がまるでなかった、深い意味での。ましては、軍略に関しては…
王太后は、自分の居間に使っている部屋で、刺繍をしていた。ヘンダースには、母が、めっきり老け込んでいるように思え、胸が痛くなった。
「母上、元帥閣下と提督閣下をお連れしました。お目通りを、願っておられます」
刺繍台の布から、目を上げると、王太后は、冷たい声で
「お前は、あの裏切り者を閣下と呼ぶのね」と、また、刺繍に戻った。
この方が泣かれる方よりがいいとヘンダースは思った。
王太后は刺繍をほどいていた。しばらくして、黙って立ったままの息子を見て、
「わかったわ、通しなさい」
元帥と提督の二人が、宮廷流(武官たちは、文官の高位に対するお辞儀を侮蔑を込めてそう呼んでいた)に王太后に、お辞儀をした。何故なのかは、後で、ヘンダースにも、はっきりとわかった。その時は、まだ、自覚が足らなかった。
王太后は、刺繍に気が向いて、二人に気がつかない振りをした。元帥が
「王太后、提督が、そなたに、ご説明したいと、申しましてな。なにしろ、ことは重大じゃ。いわゆる、例の軍事機密というのが、あるぐらい、聡明な王太后にはおわかりじゃろう?お人払いをお願い申し上げたいのじゃ。さもないと、この提督は、梃子でも動かぬ困った奴なのじゃ」
王太后は、聞こえない振りをした。ヘンダースが暗い声で
「母上、提督閣下の、ご説明を伺った方が、よろしいかと。おつらいでしょうが、ですが、一縷の望みはあります、母上、お願いです」演技でなく、本当に暗い気持ちだった。
「なぁ、エレーヌ、今日しか、話は聞けんのじゃぞ、こいつは、けちくさい男でな」
王太后は、やっと、顔を上げた。ふと、立ち上がろうかと迷った。二人の大男に見下されるのが、いやだった。ここは、譲歩した。立っても同じだと気づいた。
「わかりました、元帥。ちょっと、糸が解れて直していたとこなの。途中で止めると、よけい解れて。キルマなに、ぼんやりしているの、元帥に椅子をお持ちして」と、伺候していた女官長に命じた。
ヘンダースは、少し、ホッとした。女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人が、又、他の侍女に同じことを命じた。
「エレーヌ、年寄り扱いは、願い下げじゃ」
侍女たちが、走り回り、椅子を持ってきた。キルマが、
「国母さま、どの辺りが」
「キルマ、どうしたの?気が利かないこと。いつものお前らしくありませんよ。わかるけど、取り乱したりしたら、見苦しいだけです」と、王太后は、キッパリとして、こことここと指図した。侍女たちが、指示通りに椅子を置いた。
「さあ、ヘンディ伯父さま、お掛けになって。これじゃ、話しづらいわ。ヘンダース、お前もお掛けなさい」優しい声でいった。ヘンダースは勧められるままに腰掛けようかと、ふと、元帥を見た。目配せがあった。
「失礼します、両閣下。もう、くたくただ」と、椅子にドタリと座り込んだ。実際、くたびれ果てていた、身も心も。頭が疲れ果てていなければと、ヘンダースは、願った。老ヘンダースは、腰掛けなかった。
「座り込む前に、もう一仕事、あるんじゃ、だらしないぞ、いい若いモンが」
一仕事かと、それで済めばいいがと、ヘンダースは思った
「陸軍元帥閣下、このところ、海は、忙しかったですかね。いいなぁ、陸は、楽そうで」
「ならば、陸に、来い。たっぷり可愛がってやるぞ」
「そんな手には乗りませんよ。そう手は、ランセルでも、使って下さい。あいつなら、苦もなく釣り上げられる。一仕事ってそれですか?」と、ヘンダースは頭を掻きながら、風呂は入りてぇとつぶやいた。お行儀が悪いと、王太后は、息子をたしなめた。
老ヘンダースは、何、ぐずぐず、しておるんじゃと、女官長のキルマを見ると、王太后が
「本当に、お前らしくありませんよ、侍女たちを下がらせなさい。お前もです」
キルマは、国母さまと抗議した
「わたくしは、国母さまがお休みになるまで、お側を離れるわけには参りません」
「お前の気遣いは、うれしいけど、大丈夫、お前こそ、参ってしまうわ。今日は、下がって休みなさい。ランセルとメレディスの様子も確かめて、あの子たちの方がお前を必要としているかも、しれないわ」
いつもの、母上だと、ヘンダースは、思った。キルマに、休めといいながら、別の用を言いつけている。これは、手強い。キルマは、すかさず、
「お二人も、お呼びしたら、如何でしょう、国母さま」
ヘンダースは、お前も、聞きたいんだろう、キルマ、父上が、本当は、女と雲隠れしたかどうか知りたいのだろうと、思った。王太后は、ゆっくり、首を振った
「いえ、あの子たちには、わたくしから、話します。メレディスが泣いてないか確かめて、叱ってはだめよ。お願いよ」
ヘンダースは、口を挟んだ、
「キルマ、さっさとやれ。だから、女はだめなんだ。早くしろ!」と最後は、怒鳴った。
キルマも粘った。骨張ったその顔を怒りで赤くし
「お留守の間、国母さまに何か御座いましたら、叱れます」
「誰にだ?父上にか?そう願いたいもだけど。その前に、その職を解かれるかもしれんぞ、陛下にな」
「わたくしは、陛下から、全幅のご信頼を得ています。殿下のその言葉、よく覚えておきます」
「ふん、全幅のご信頼も、あてには、できんぞ。今は、どなたが、玉璽をお持ちか、よーく考えてみるんだな」
キルマは、青ざめた。
ヘンダース陸軍元帥の一仕事は、保留のままだった。彼は、急がなかった。椅子の腰掛けたいと思わなかった。内心では、この口うるさい女官長をどう扱うかと、名付け子の手腕を期待していた。ベンダル海軍提督も、同様のようだった。ここはお手並み拝見とばかり、のんびりと構えていた。
ここで育った自分と違って、滅多に訪れない王家の私的な住居である王宮の、しかも王太后の居室は、初めてだったはずだ。提督は、物珍しそうに辺りを眺めていた。のんびりじゃぞと、元帥は自分に言い聞かせていた。
立ち直ったかに見えた女官長のキルマは、うろたえていた。今じゃと、元帥は、ヘンダースに目配せしたが、彼は気がつかず、キルマを睨み付けていた。まだ、若いのうと元帥は思った。だが、自分が、年老いたとは、思ってなかった。もう、若くないだけじゃ。国王は、年齢からいって若かったが、一瞬のうちに、老練していた。年齢だけでは、計りきりない何かかあるのじゃろうか?
一方、王太后も、二番目の息子の成長振りを、眺めていた。キルマ風情をあしらえず、王子と言えるかしら?それよりも、あの、裏切り者の提督を始末しなければ。王太后は、作戦を練り始めていた。まず、わたしにつまずかせるのはどうかしら、それとも、泣きながら許しを請うというには?それは無理よ、いくら何でも。
ヘンダースは、詰めに入っていた。
「キルマ、君は、陛下の御勘気を買うようなことをしているのに気が付かないのか?陛下の信の厚い、まさに、君のいう、全幅のご信頼を得ている海軍提督に足止めを食わせているいるんだぜ。提督閣下は、お忙しいんだ。わからんか、早く、ここから、出ていけ!」
王太后は、息子の“陛下の全幅のご信頼”という言葉に気がついた。まぁ何てこと!あの子も、裏切ったのね、父親の肩を持つなんて、けがわらしい。おまけに、それが国王だなんて、なげかわしいわ。陛下なんて呼ぶものですかこれは、一つ、まず、手足をもぎ取るのよ。あの、女にだらしないと言う噂のある提督を、追っ払ってやるわ。待って、あせちゃだめ。
キルマは、動かなかった。たとえ、職を辞す羽目になっても、おつりがくる話を聞かない内にこの場を去る気には到底なれなかった。彼女は、確信していた。舌なめずるような気分でいた。これまで、この女に、這い蹲ってきた甲斐があるというものだ。あの噂は本当だった。先王は、この女を捨て、何もかも捨てて、別な女のところへ走り去った。いえ、まさに、飛んでいった。ついに来るのだ、この女に勝つ勝利の時が。
ヘンダース元帥は、少し、失望した。まぁ、仕方がないじゃろ。名付け子に甘いとは思ったが、国王のような切れ味を見せられたら、かなわん。一人で十分じゃ。こっちの方は、加勢がいるなら、いつでも駆け付けてやろう。しかし、これで、文官のしぶとさがわかったじゃろうて。女でも、官は、官じゃ、鼻がきかんでは、長と名の付く職にはありつけん。
王太后も、気がついていた。まぁ、わたしが泣き叫ぶと思っているの?キルマ。お前の前で?そんなことわたしがすると思って?笑って、どんなに、あいつが無能だったかいってやるわ、いえ、それは、駄目。毅然していってやる、少し、遊びたかっただけだと。
ヘンダースも、気がついていた。何だ、逆だったか?もう一度、勝負だ。兄上に負けたくない。たった一人もおまけに女風情を扱えなかったら、元帥が、がっかりする。いや、女と侮った自分が、愚かだった。
ヘンダースは、笑い出した。王太后は、突然笑い出した二番目の息子の真意を測りかね、この大事な時期に何て不謹慎なと睨んだ。キルマは、ますます確信を深めていった。絶対的な確証をつかんでやると心に誓った。
「キルマ、まさかあの噂を信じちゃいないだろうな」
「あの噂と申しますと?」と、キルマの目が、一瞬光った。
しめた、食らいついてきた。ヘンダースは、何気ないように続けた。
「竜じゃなくて女さ」と肩をすくめ、
「まぁ、竜の話も、結構面白いと思ったけど、女の話は、もっと面白かったな、よく出来ちゃいるけど」
「ヘンダース。不謹慎ですよ」と王太后が思わず口を挟んだ。ヘンダースはすかさず謝った
「申し訳ありません、母上。でも、真相は、竜巻ですよ」
「竜巻?竜巻って何なの」
「今、ご説明しますよ。アンドーラでは、滅多にお目にかかれない、気象現象です。こんな風にくるくると風が舞い上がるんです」と指をくるくると回した。
「よく解らないわ、ヘンダース」
「ぼくだって、よく解りませんよ」と、ぶっきらぼうにいった。
ヘンダース元帥は、名付け子の加勢に出た。
「インジャーラの、奥地のカルジャラ辺りでは、よく起きる現象でな、儂は、家一軒丸ごと持ち上げられるのを見たことがあるんじゃ」と、“竜巻”について説明し始めた。
“竜巻”について説明し終わると、ヘンダース元帥は、キルマ女官長に、この話をメレディス王女とランセル王子に伝えるようにと命じ、キルマをおぱらった。キルマは、侍女たちを引き連れ、王太后の居室を出ていった。王太后は、感謝の目をヘンダース元帥に向けた。ヘンダースは、改めて名付け親に感嘆した。しかし、まだ終わっちゃいない。これからだ。
ヘンダース元帥は、キルマが出ていった扉をもう一度、開け、廊下に聞き耳を立ている者がいないかどうか確かめると、王太后のそばに戻った。
王太后は、まだ、納得していなかった。竜巻に巻き込まれ、先王が海の上に投げ出されたというのは、竜にさらわれたという話より、信憑性がある。だが、許せないのは、海に投げ出された先王を探し出しもせず、のこのこ船が戻ってきたという事実だった。王太后は、別の疑いを持っていた。先王の存在が、じゃまになった国王が、先王の暗殺をもくろみ、それが、真実だとしたら、なおいっそう許せなかった。共犯者は、この提督なのは疑う余地もない。先王は、まんまと、新国王の罠にかかり、提督の手で、抹殺されたのだ。遺体の捜索すら、拒否するのは、その証拠をつかませないためだ。息子の国王の専従振りに、王太后は、壁壁していた。
王太后が、戻ってきたヘンダース元帥に甘ったるい声で、椅子を勧めると、元帥は、居室をうろついていた提督を手招きし、
「そなたも、掛けたらどうじゃ?それでは、ゆっくり話もできん」
王太后は、近づいてきた大男の海軍提督に身震いを悟られないように固い声で、
「お前には、椅子を勧めていませんよ。今すぐ、辞任状をわたしに差し出し、ここから、いえ、アンドーラから、出ていきなさい」
ヘンダースがのんきな声で
「母上、何をおっしゃているんですか?提督閣下は、辞任なんてなさりませんよ」
「お前は、黙っていなさい。なにもわかちゃいないですから、それともわかっていっているの?」と矛先をもう一人の息子にむけた。
「わかっていらっしゃないのは、母上の方ですよ。お掛けになりませんか?提督閣下」
「わたしは、許しませんよ、この裏切り者を。この裏切り者をお前は、閣下と呼ぶのね!」
「落ち着いてください、母上。といっても無理ですかね、こんな状況では。本当にお掛けになりませんか?閣下」
ここで、それまで無言だった提督が口を開いた。
「拙者は、立っていた方が楽で御座るよ」
「そうですか。ならば、ご随意に。すいません、だらしなくて。母上には、僕から、ご説明しましょうか?両閣下」
「お前の説明なんて聞きたくもありませんよ。お前は、この裏切り者にまんまとだまされているのよ。それとも、お前も裏切ったの?父上を」
ヘンダースは、相変わらずのんきそうな声で
「誰も、裏切っちゃいませんよ。だから、ご説明しますよ。これからが、本題です。例の軍事機密という奴で」
王太后は、“軍事機密”という言葉に、まんまとひっかった。王太后は、政治が好きだった。そのためにいろいろと勉強もした。一人息子だった先王は、どちらかというと、義務として王位につき、義務として国政に従事した。先王は、自分の王妃のエレーヌにも王妃の義務として国政の参画を求め、しばしば、その意見を求めた。意見を求められた王太后は、恥をかかないように、政治について勉強もした。無論、それには、軍政についても、同様だった。アンドーラでは当時、軍の再編成を手がけていた。国民男子全員に、兵役義務を課し、貴族には私兵を持つことを禁じていた。エムガム公爵の一人娘だった、エレーヌは、半ば政略結婚によって王太子妃として王家に嫁ぎ、今日にいたっている。政略結婚とはいえ、エレーヌは、夫を愛していた。夫のジュルジス二世も、同様だと信じていた。だから、夫が愛人の元へ出奔したという話は、にわかに信じがたかった。むしろ、これまた政治好きの息子のジュルジス三世が、父親を退位に追い込み実権を握ろうとした方が納得できた。事実、新国王は、自分を会議室から追い出し、父親の探索より別なことに熱中しているではないか。エレーヌ自身は、自分の政治的能力を決して疑わなかった。夫は、しばしば妻の助言を尊重・感謝し、自分の欠点をしばしば嘆いた。余にもそのような、知恵があったらなと。だが、息子は、彼女の助言など無用とばかりに、母親の自分すら追い出しに掛かった。これぐらいで負けてたまるかと、王太后は、気を取り戻しつつあった。彼女は、夢見ていた、先王に替わり摂政としてまだ若い新国王の元で政治の実権を握ることを。
だが、“軍事機密”は、彼女の予想を遙かに上回った。今や、椅子に腰掛けた海軍提督は、王太后の質問にこう答えた。
「そこで御座るよ、王太后。海軍の補強は、迅速に、且つ、確実に行わなくては。だが、心配は無用で御座る。陛下が妙案を出された」
王太后の関心は、もはや、夫の探索より、息子のその政治能力に移っていた。老練な提督に“妙案”とまで言わしめた、それに。しかし、頑迷な提督は、彼女にはうち明けなかった。再び、怒りにとらわれた王太后は、
「あの子には、わたくしの助言が、必要です。いいなさい」
「それには、陛下のご許可必要で御座るよ、王太后」
「だったら、今すぐ、その許可をもらってきなさい、今すぐ、直ちに」
わかり申したといって、海軍提督は、王太后の居室を出ていった。
バタンと閉められた扉から、ヘンダース元帥に視線を移した王太后は、声を和らげ、元帥に尋ねた。
「ヘンディ叔父さまは、ご存じなの?」
「聞いちゃいるが、それは、偽物じゃろうて。煙幕を張るのが上手いからのう、提督は」
ヘンダース陸軍元帥は、本来の重要作戦に取りかかった。この作戦の重要な主目的は、何かと口を挟みたがる政治好きな王太后に、実権は息子の新国王に移ったと悟らせることだった。元帥の見たところ、新国王の政治的能力は、母親のそれをはるかに上回り、むしろ、王太后の口出しは、諸刃の刃だった。王太后のやり方は、新国王の威厳をずいぶんと損ねていた。所詮、女の知恵などたかがしれている。母君は別じゃが…とヘンダース王子は思った。
「提督は、陛下の許可なんぞ、もらう気は毛頭ないんじゃ。あの男は、女の軍の口出しは、無用で御座ると考えておるんじゃ。陛下も、同様じゃ」
ヘンダース元帥の言葉は、王太后に衝撃を与えた。彼女は、知っていた、軍を握る者が、国政の実権を握ることを。それ故、メレディス女王の時世以来、アンドーラでは貴族たちの私兵を禁じ、国軍を強化してきた。しかし、国王と王妃たる自分のこれまでの苦労はいったい何だったのか、エレーヌは自分なりにアンドーラの王家たるチェンバース家の権力を確実なものとするために心血を注いできた。その苦労がこれではわからないではないか。
エレーヌ王太后の表情を見守っていた陸軍元帥は、王太后への同情を禁じ得なかった。だが、ヘンダース陸軍元帥の見たところ王太后の軍略に対する理解度は、赤子のそれに等しかった。政治的な能力も、もはや、新国王の国政に関するその指針では、もはや時代遅れの感をぬぐい得なかった。儂自身にも言えるかもしれないと、元帥はふと思った。だが、まだお国のため役に立つことはまだまだありそうじゃ。
「エレーヌ、表立っての助言は、陛下の威光を傷つけるだけじゃ。むしろ、気になるのは、王太子の教育じゃ。王妃にまかせてよろしいんじゃろか?」
意外なヘンダース元帥の指摘に、再び、王太后は衝撃を受けた。まはや、彼女は、落城寸前だった。口ではああいうものの、夫のジュルジス二世の政治能力は、決して無能ではなかった。堅実さが、なりよりの取り柄だった。無論、自分の方が、上だが。
「勿論、気づいていましたわ、ヘンディ叔父さま。あの子には、無理です。ですが、エドワーズは、わたしになつこうとしません。ミニーは、エドワーズを甘やかすばかりで、躾らしい躾もできない有様で」
ヘンダース元帥は、最後の“掃討作戦”に取りかかった。作戦通り、王太后は、“王太子の教育”に落ち延びていった。
元帥は、ここで駄目を押した。
「冷静なエレーヌが、取り乱すとは珍しい。お体の具合はどうじゃ?」
「無論大丈夫ですわ、ご心配かけたなら、謝りますわ、ヘンディ叔父さま」
儂が、心配しているのは…と言いかけ、元帥は、思わずこれから口に出すことに顔を思わず赤らめた。
ヘンダース元帥の、思いも掛けぬ指摘に王太后も、顔を赤らめ否定した。
「それは、ありませんわ」とむしろキッパリした口調だった。
「それは、残念じゃ」
「残念?」とけげんそうに、王太后は眉をひそめた。
「なにしろ、エレーヌはまだ、お若い。孫がいるとは、信じられんほどじゃ」
「お上手ね」と王太后は、つやのある目つきで、元帥を軽く睨んだ。
ヘンダース元帥が、王太后の居室を出ていくと、王太后は、居眠りしていた二番目の息子を揺さぶって起こした。ヘンダースは、のびをしながら立ち上がった。
「僕は、風呂でも入って休むとしますよ。なにしろ、このところ、不眠不休の有様で」
王太后は、そうしなさいと愛する二番目の息子に慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。息子も、微笑みを返し
「キルマを呼び戻しましょうか?」
「いえ、いいわ。しばらく一人になりたいの」
そうですかと再び、心配そうな表情を浮かべたヘンダースに王太后は、気丈な振りをした。
「わたくしは、大丈夫です。心配なのは、お前の体調の方です、ちゃんと食べているの?」
ヘンダース海軍大尉が、最後の振り返った時、母親の王太后は、再び、刺繍に取りかかっていた。王宮の廊下を国王の執務室に向かいながら、名付け親のえげつなさに驚いていた。寝たふりは、母親の王太后には、ばれなかったようだ。しかし、王太后の懐妊とは、ヘンディ大叔父もやるもんだなと、つくづく驚嘆した。
一人きりになった王太后は、身を揉むようにして泣きじゃくり始めていた。事態は、急変した。夫と二人三脚で王国の国政に携わってきた時代は、過ぎた。しかし、まだ望みはまだある、“王太子の教育”という切り札が。
女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人は、メレディス王女のところへも、ランセル王子のところへもいかなかった。彼女は、王家に仕え出世する者の必須科目の権謀術に長けていた。彼女の考えでは、まず王家に仕えるには、“鼻が利く”ことが最低条件だった。誰が、権力を握り、王家を動かしているのか知らなければ、使い物にならなかった。骨張った顔と同様、骨張ったその鍵鼻を懸命にうごめかせた。今や、権力は、一点に集中しつつあった。目指すのは、ここのみ。後は、その若い男にどう取り入るかだ。権力と玉璽を握っているその男に。
その部屋は、以前の官房長の執務室だった。新国王は、即位すると、国王の執務室を会議室に模様替えし、より狭いその部屋に移っていた。だが、無論、十分な“威光”を照らすだけの広さと、風格はあった。その部屋に近づくにつれ、キルマには、プンプン臭った、権力とそれに伴う、甘い汁が。
だが、問題はあった。新国王に、キルマ自身は、“受け”があまり良くなかった。キルマは、懸命に計算し直した。答えは、案外、簡単に出た。答えは“王妃”だった。遠い異国から嫁いだミンセイヤ王妃に国王は夢中だった。若くて精力的な国王は、昼間は、国政にその精力を傾け、夜は、いわずとしれたことにその精力を使っていた。これは使えるとキルマは思っていた。
国王の執務室の前の廊下で、キルマは立ち止まり、国王の夕食が、運び出されるのを待った。素早く、部屋に入り込むと、大きな机の前の若い国王に向き合った。国王は、いぶかしげに彼女に見た。キルマは、なめらかに陛下と挨拶をした。国王は軽く頷き、何のようかと尋ねた、口を閉じたまま鋭い視線を送ることによって。キルマは、再び、軽くお辞儀をしながら陛下、お話が御座いますと口火を切った。
国王の執務室を出る時、キルマは、何枚かの切り札を手にしていた。後は、それをどう使うかだ。だが、今はそれを使う気にはなれなかった。王太后の居室で手にした、これも重要な切り札を先に切るべき位は、このゲームの初歩だった。キルマは、早速、取りかかった。
疲れを知らない海軍提督は、王宮をあとにし、海軍の本営本部に向かっていた。海軍の中枢は、宮殿から、一旦、王都に出て、数々の船でにぎわうチェンダー港の西はずれにあった。近衛兵の一人に渡された自分の馬の手綱をつかむと、愛馬にまたがった。提督は、船も愛したが、馬にも目がなかった。ヘンダース陸軍元帥から、大枚をはたいて購入したその馬は、大柄な提督の体を苦にも掛けず、海軍の本営本部のある、港の西、提督の館にその脚を動かし始めた。
提督の気がかりは幾つかあったが、一番やっかいなのは何だろうと思いを提督は思いをめぐらした。百戦錬磨の提督に弱点があるとすれば、それは、女性だった。新国王が即位するまで、それは、しばしば彼を悩ませた。ある意味で賢明といえる彼は、海上に逃げた。海に出れば、彼は無敵だった。父親の代から、築き上げたアンドーラ王国海軍は、他の神髄を許さなかった。しかし、それさえも今は、揺らぎ始めていた。
皮肉なことに一番の強敵が、年若い国王によって討ち果たされようとしていた。これで、王太后の海軍の干渉は、なくなるだろう。国王と王太后の確執は、もはや確実となった。だが、それは自分の出る幕ではない。新国王は、王太后の“軍”への干渉を嫌っていた。ヘンダース陸軍元帥ほど海軍提督は王太后と接した経験はなかったが、海軍提督は、新国王に同情の念を禁じ得なかった。
「全く、女という者は、いつまでも息子を子供扱いしたがるもので御座る。大人になっていることを認めたがらない者で御座るよ。母親がいつまでも出しゃばるようでは、いつまでも、女王の時代ではないで御座る」
提督の右隣で、やはり馬を進めていた、提督副官のサンジュム少将が同意した。
「やはり、国母さまは、お冠で?」
「王太后なんぞ、怖くはないぞ、サンジュム。むしろ、気がかりは、陛下の海軍へのご信頼であるぞ。一ヶ月以内に艦隊を再編し、先王陛下の捜索に出航せねば」
サンジュム少将は、顔を引き締めた。
ヘンダース海軍大尉は、廊下で、ヘンダース陸軍元帥に追いついた。
「見事でしたね。ヘンディ叔父上」
こともなげに、名付け親のヘンダース元帥は、眉を上げて見せた。
「やっかいのは、これからじゃろうて。エレーヌは、昔から政治が好きじゃった。じゃが、時代は替わった。それすら、気がついておらんのじゃ。好きじゃから、巧みとはいえんのじゃ。これが、一番やっかいじゃ」
「それは、どういう意味です?」
元帥は、名付け子に説明して見せた。名付け子は、確認した。
「つまり、兄上は、母上を排除したがっておられると?」
「完全には、なかなかできんじゃろうて。じわり、じわりと持久戦じゃな。後、そなたにも一応、一言いっておく」
その一言が、ヘンダースには、痛かった。わかってはいるもののそれは、彼の誇りをいたく傷つけた。兄への劣等感を増幅した。キルマ一人を扱えない自分と違って、兄は、年長の閣僚たちを見事に牛耳っていた。それに比べて自分の無力さが、つくづく情けなかった。
「僕は、これからどうしたら良いでしょうかね?叔父上」
そこで、元帥は、意外なことをいった。
ヘンダースは、とまいどいながら、名付け親と国王の執務室に向かった。
国王は、自分の執務室で、読書に精を出していた。王宮に戻ろうかとも思ったが、王妃は、まだ、王太子のエドワーズを寝かしつけている頃だと知っていた。メエーネ帰りの父親から贈られた懐中時計でそのことを確認し、再び、読書に戻った。
扉の向こうで、ノックが聞こえた。国王は、読書から注意をそちらに向けた。
「入れ」
執務室に、近衛兵が入ってきた。近衛兵は、敬礼すると
「失礼いたします。ヘンダース陸軍元帥閣下とヘンダース海軍大尉殿が、陛下に、お目通りを願っておられます」
「よし、通せ」
「ハッ」と敬礼し、近衛兵はきびきびと回れ右をし、開けたままの扉に向かった。
両ヘンダースが、入室した。二人は、新国王に、直立不動の姿勢で、敬礼をした。国王は、椅子から、立ち上がりもせず腰掛けたまま、敬礼を二人に横柄に返した。その態度に、国王の弟は、いたく自尊心を傷けられた。自分はともかく、大叔父に向かってあの態度とは。だが、大叔父は、無頓着に
「陛下、おじゃまでなかったじゃろうか?」
大きなどっしりとした机を挟んで、背もたれに寄りかかったまま国王は、首を横に振った。
「いや、別に大した用はないんです。王宮に戻ろうかとも思っていたところで。夕食をすまされましたか?」
兄の言葉に、ヘンダースは、空腹を思い出した。腹ぺこでくたびれ果て、おまけにその誇りまで奪われそうになっていた。
2才違いの兄と自分とはどこが違うのだろう?王位についている者と、そうでない者の違いは?地位ではなく、ヘンダースの関心事は、その“能力の違い”にあった。大叔父は、それが夕食はまだじゃと国王に答えながら、名付け子に椅子を持ってくるように示唆した。
国王の執務室の大きな机を挟んで、国王に向かい合って腰掛けながら、元帥は、年若い最高権力者に立ち向かった。
「夕食よりも、大事な話が、あるんじゃ」
最高権力者は、王国の実力者を無言で見つめた。
「王太后にも困ったものじゃ。未だに国王が、どなたか気づいておらん」
即位して、1年半たった国王は、声を立てずに笑った。
「母上は、わたしが頼りないとでも?」
「母親は、いつまでも子供が大人になったことを認めたがらないものじゃ」
王太后の二番目の息子は、自分の椅子を捜して腰掛けた。一番目の息子は、それを批判がましく横目で見、大叔父に注意を向けた。考え込むような表情で、右手の人差し指を自分の下唇にあてがった。
「それで?」
「それなんじゃが」と元帥は、甥子にある提案をした。
今度は、組んだ両手を頭の後ろにまわしながら、ヘンダースの兄は弟に
「君はどうなんだ?ヘンディ」と尋ねた。弟のヘンディは、大叔父のからかっているような視線が気になった。顔が赤くなっているのが、わかっていた。
「僕は、まだ早いと思います」
兄の国王は、フンと鼻で笑って、王子の自覚がないな、君は、とだけつぶやくようにいった。年若い方のヘンダース王子は、鼻白んだ。王子としての年期が入っていたヘンダース王子の方は、自分には、手に入らなかった王冠と玉璽を手にした青年に、陛下。いいじゃろか?と尋ねた。尋ねられた青年国王は、鼻で、フフンと笑うと、ヘンディには意見がなさそうですから、と大叔父を促した。
「儂には、遅きに期した感があるのじゃが、陛下には、すでに、手を打たれたじゃろか?」
それが、全くと言って国王は、肩をすくませた。
「肝心のこいつにその自覚がないもですから、手の打ちようにもありませんよ。まあ、こちらで、勝手に決めるしかないでしょうね。甥の結婚相手がすでに、目星が突き掛かっているというのに、こいつときたら、どうしようもない」
“こいつ”のヘンダースには、何もかも初耳だった。甥に王太子にすでに結婚の縁談があるというのは。今日一日は、さんざんな日だった。自分が情けなくなる、海軍で“大尉”の肩書きを手にした代償として支払ったものは、あまりにも大きい。だが、老獪なその名付け親も同様だった。自分が、権力から遠のくのは、目に見えていた。だが、まだ、見込みはある。
「王太子の縁談とは、初耳じゃな?」
権力を一手にした最高権力者は事も無げに、まだ、何も決まっていませんよとサラリとかわし、王太子の叔父である未婚のヘンダース王子の縁談に話題を振り向けた。
「こうなったら、大叔父上にお願いするしかないでしょうね。名付け親でもありますし、父上の不在中でもありますが…」
大叔父は、遠のいた権力が少し戻ってくるのを感じ取った。
「こいつには、儂から、よく言い聞かせよう。とことん話し合ってな。それはそうと話は、もう一つあるんじゃ」
アンドーラの最高権力者は、“鷹揚”だった。次弟のヘンダース王子の縁談話を、その名付け親に委託するくらい他愛もない。どのみち、王家にあるものの結婚には“国王”の玉璽が必要だった。それは、すでに彼が手にしっかりと握られていた。玉璽を握った今、アンドーラ王国の実力者に敬意を払っても悪くない。何しろ、彼は、有能だった。
アンドーラの実力者は自信を取り戻した。まだ、老いぼれるには、早すぎる。まだ、自分には、孫がいない。肝心の一人息子も、王家の一員としての自覚がなかった。この発見にもう一枚、手に入れた切り札を実力者である彼は、しっかりと懐深くしまい込んだ。最高権力者は、また、実力者の大叔父を促した。
最高権力者でもなく、実力者でもない(実力は少しはあると思っていたが、それも今は揺らいでいた)この会談の最年少者は、空腹と、疲労感と、脱力感と必死にたかっていた。会談の最年長者は、果敢にも最高権力者に立ち向かった。
「王太子には、縁談よりも、重要なことがある」
実力と権力を兼ね添えた国王は、三度、促した。無言で、両手をその頭の後ろに当てたまま軽く頷くことによって。大叔父は、そろそろと切り出した。
「王太子には、そろそろ、きちんとした躾が必要じゃ、陛下には、何かお考えがおありか?」
王太子の父親は、首を横に振り、実力者に抜き打ちを掛けた。
「大叔父上、エドワーズに王太子呼ばわりは、早すぎます。王太子の自覚もないのに。そう呼んでも、エドワーズは、自分の名前が、また一つ増えた位にしか思わないでしょうね。ああ、女官長のキルマにもその点、念を押しておきました」
抜き打ちを掛けられた数々の武勇伝の持ち主は、転び掛けてもめげなかった。別なしかも、有効な武器を手に入れた。これは、使える。だが、使うのは国王ではなく、違う相手だ。彼女は、かなり弱っていた。逃げていった“王太子の教育”まで、すでに国王の手が回っていた。こっちの戦も、激戦になるじゃろう。儂も、一太刀加わろう。
「なんと呼ぼうと王太子は、王太子じゃ。あの坊やのいない時には、そう呼ぶ。じゃが、男の教育は、女手に任すのは考えもじゃぞ」
「勿論、その通りです。キルマに命じたのは、侍従を推挙してくれと言ったまでです。女官長と上手くやっていけないようでは、ミニーが、ウロウロするばかりです。あれは、迷うばかりで」と、最高権力者は優しい笑みを浮かべた。実力者は、また一つ、武器を手に入れた。これも使える。かなり、強力じゃ。国王にも使えるほど。
「王妃は、体調はどうじゃ?」
国王の顔が、少し曇った。この話題に触れて欲しくなかった。王妃は、王女の出産で、かなり深手の傷を負っていた。心と体の両方に。だが、めげている場合ではない。
「体調は、悪くないです。ミニーには、エドワーズとよく遊んでくれと言ってやりました。エドワーズには、まだ、母親の愛情が必要です。後、何か?」
「陛下には、女の口出しは、あまり感心しないと思っているとばかり思っていたんじゃが」
「ミニーは、余計な口出しなんかしませんよ。ただ、エドワーズを遊ばせるのが上手なだけで、わたしもエドワーズの相手になってやろうかと思うのですが、このところ、忙しくて」
「そうじゃな。今日も大変な一日じゃった。しかし、“王太子の教育”は、おろそかにはできん。一日の遅れが取り返しのつかないことになるんじゃ。ここで、気になるのは……」
国王の大叔父は、十分満足な手応えを感じ取って席を立った。まだまだ、儂も捨てたモンじゃない。“王太子の教育”は、乱戦模様だったが、国王はそれをすでに抜け出し、大叔父の自分の実力をかなり認めて参戦を許可した。これじゃなくては、戦好きの元帥は、宮廷の目に見えない戦も好きだった。儂に任せれば、良いんじゃ、“陛下”。
一方、海軍に籍を置いたためか、手綱さばきが今一つのヘンダース海軍大尉は、疲労もあってか“馬”から、振り落とされそうだった。第一、行く手には、数々の強敵が待ち受けていた。再び、ぼんやりと、兄と自分の違いについて考え始めていた。
兄は、立ち上がった。苦戦を強いられている弟に優しい“手”を差し伸べた。
「ヘンディ、わたしもそろそろ、王宮にもどるぞ。君は、どうする?」
弟は、陰謀権術の渦巻く王宮に戻りたくはなかった。海軍の戦船に乗って、時化にでも遭った方がまだましだ。だが、自分も王子だった。一介の海軍大尉ではなかった。
「兄上、僕も戻りますよ。もう、くたくただ」と、弱味を見せることが勝機に繋がることを信じて、彼も立ち上がった。海上の戦と違って、この戦には、別の戦略が必要になってくる。最高権力者の余裕を見せて国王は次弟に笑いかけた。
「まぁ、海軍は、忙しかったからな。この際、思い切って、辞表をだすか?」
情け容赦のない兄の、一太刀に弟は、助け船を名付け親に求めた。しかし、名付け親も、彼に助太刀どころか、打撃を与えた。
「そろそろ、潮時じゃな」
「何ですって?叔父上まで。この大事な時期に、海軍を離れるなんて、できませんよ」
「今すぐとまではもうさん。時期を見計らってのことじゃ。坊主」
「時期についても、大叔父上の意見を伺いたいものですね。この時期に王子とは、どうあるべきかよくご存じでしょうから。こいつの、自覚を促してからでも遅くない」
国王に、何度も“こいつ”呼ばわりされた、“自覚”のない王子は、二の句が継げなかった。“自覚”の十分な王子は、
「何、こいつもそれほど自覚がない訳じゃないんじゃ。ただ、提督にこき使われて、疲れているだけじゃ」
「それなら、いいですけど。ともかくお願いしますよ。ヘンディにはお手柔らかに」
アンドーラ王国海軍大尉でもある、ヘンダース王子は、なかなか、立ち直れなかった。せめての救いは、足取りがヨロヨロしないだけだった。一方、彼の兄である国王は、余裕綽々だった。
「ヘンディ、母上のご様子は?」
考える余裕もなく、ヘンディは反射的にこういった。
「落ち着いているように、思えます」
「そう見せるだけの余裕は、まだあるのか。まずは、一安心ところか」
無謀にもヘンダースは、疲労困憊のまま“力”の勝る兄に立ち向かっていった。冷たい言いぐさの国王に、ムッとしながら
「どこが、一安心なんですか?父上の行方もわからないというのに。兄上は、心配じゃないんですか?」
兄は、軽く受け流した。
「そりゃ、心配さ。でも、気を揉んでいてもしょうがない。今は、目の前の問題を一つ一つ片づけないとな。君は、十分な休息が必要だ。風呂にでも入って、ゆっくり休め。昨日は、ベットで休んだか?」
ともかく、兄の言いつけに従うことにした。逆らう気力さえ彼には残されていなかった。ともかく、兄が冷たいのか暖かいのかよく訳がわからなかった。
自分にあてがわれている王子にふさわしい居室で、暖かい湯船につかり侍従に背中を洗ってもらいながら、ヘンダースは、頭の中を整理しようとした。
まず、今日一日でかなりの情報が手に入った。彼自身が、斥候になって集めたものだ。かなり、信憑性があった。信頼の置ける情報無しで戦略を立てるのは、己の戦力を過信する愚か者だけだ。
まず、名実ともに最高権力者になった兄の新国王について、彼なりに分析してみた。国王は、国王より年長の百戦錬磨の閣僚にかなり、うまく立ち回っていた。だが、実際のところ、その重臣たちをどの程度把握しているのか、皆目検討がつかなかった。なにしろ、“御前会議”に出席を許されたのは、初めてのことだった。この事実が、彼を励ましていた。たとえ、それが、母の王太后をなだめるためでも。でも、国王は、王太后を追い出した後も、彼の会議への出席を求めたではないか。まて、そうじゃない。母上が、会議への出席を言い出す前じゃなかったか?よし、一歩前進だ。母上よりも風上に居ることを確信した。
母の王太后については、余りその戦力を認められなかった。もう、風前の灯火だった。しかも、その拠り所の“王太子の教育”という武器については、すでに、キルマという防御があった。キルマは、国王の鎧となって、王太后の攻撃を和らげるだろう。それが、キルマにとって新国王の“全幅の信頼を”得るかなり有効な手段だった。キルマはかなり、手強かった。これも、有力な情報だった。もう一度、王太后の情報を分析した。
侍従に手を借りながら、湯船から出たヘンダースは、情報分析を中断した。疲労した頭で、戦略を練っても、ろくな手は思いつかなかった。下手な手を打つより、ここは、戦力の建て直しを計った方が賢明というものだった。彼の唯一の戦力である、その若い肉体を休ませることにまず取りかかった。まずは、補給が大事だ。侍従に、遅い夕食を命じた。
ヘンダースの若い肉体は、その補給を十分受けると、まず頭脳が、盛んに動き出した。まずは、アンドーラ王国という船の“舵”を握っているのは、兄の国王に間違いなかった。だが、順風満帆とはいえなかった。彼の見たところ、兄は、それでも上手く“舵”を取っていた。逆風を諸ともせず、目的地に突き進んでいるように思えた。最初の目的地は、勿論、“権力の移譲”だった。目的地は近かった。一番、じゃまになる二人の父である先王が、行方を眩ませていた。“竜”に浚われて。
キルマ女官長は、“札”を配り終わると、王太后の夕食を乗せた盆を運ぶ侍女を従え、新たにこのゲームのテーブルで、最も得意な、王太后の居室に向かった。自信はあった。何しろ彼女には、国王というかなり強力な後ろ盾があった。話のわかる“坊や”だった。国王は、かなりの信頼を彼女に示した。大事な“王太子の教育”ということで、率直な相談を受けた。
「君には、息子がいるんだろう?キルマ」
「はい、陛下。一人おります」
「ならば、心強い。余にも息子が一人おる」
「はい、陛下。王太子殿下のことで何か、ご心配なことでも」
「王太子と呼ぶには、まだ早い。余は、正式な立太子礼が、すむまでは、エドワーズを王太子とは、呼んで欲しくない」
「はい、陛下。賢明なご処置だと存じます」
キルマは、それから、“切り札”を数枚手に入れた。しかし、彼女は、気がつかなかった。自分自身が、国王にゲームの“駒”にされているのを。
ゲームの名手、アンドーラ王国新国王ジュルジ三世は、ゲーム自体は好きでなかった。だが、必要となれば、何でもやった。非情なくらいにあらゆる“手”を打った。今や風雲急を告げていた。母の元でも寄ろうかと考えたが、止めた。そこには“忠実”な女官長キルマが向かっているはずだった。
キルマは、分かり易かった。“餌”を投げつけてやると、食らいついてきた。獰猛な食肉獣のような表情を浮かべてキルマはむさぼり、国王は冷静にそれを観察した。観察し終わると、彼は新たな“手”を打った。キルマはその“罠”には、あまり気がつかないようだった。“獲物”に夢中で。
その後、今度は、大叔父と弟の二人のヘンダースに会った。若い方のヘンダースは、疲労困憊し、年老いたヘンダースは、意気軒昂だった。大叔父は、ゲームを楽しんでいた。だが、国王は、ゲームを楽しむことはできなかった。何しろ、アンドーラ王国の“未来”が、掛かっていた。賭けるにはあまりにも高すぎる“賭け金”だった。もっと、安い“賭け金”を彼は、手にして、老獪な大叔父に投げ出した。弟の将来という安い“賭け金”を大叔父は、それを値踏みして、満足そうなうなり声をあげた。そして、もう一つ、“賭け金”を要求してきた。だが、見せるだけだ。これはかなり高い“賭け金”だった。
国王は、妥協はしなかった。高い“賭け金”をちらつかせることによって、ゲームは、有利に進んだ。元来良心的な愛情深い性分の国王は、大叔父の満足そうな表情に何時になったら、自分もゲームを楽しむことができるのだろうかと思った。しかし、一生できそうにもない。彼は、傍観者ではあり得なかった。
国王は、気が重い足を王宮の最も心安らぎ、そして最も心痛む場所へと向けた。愛情豊かな彼が、その愛情を最も気兼ねなく表現できるその場所へと。
王太后は、泣くだけ泣くとすっきりした気分で、自分の置かれている立場を振り返ることができた。彼女は、アンドーラ王国の、王太后で、先王の妻で、国王の母で、二人の王子と一人の王女の母であった。おまけに孫に当たる王太子と生まれたばかりの王女の祖母でもあった。この中で、重要なのは、最近まで、先王の妻という立場だった。だが、状況は変わった。今は、何が重要なのか皆目検討がつかなかった。彼女は、途方に暮れていた。そこに、キルマが現れた。
キルマは、骨張った顔に、王太后には不気味に思える微笑みを浮かべながら、夕食を乗せた盆を乗せた侍女を従え、王太后に近づくと慇懃に挨拶した。
「国母さま。夕食をお持ちいたしましました。なにか、召し上がりませんと」
キルマの言葉に、王太后は、ハッとなった。“国母”。そう、わたしは、このアンドーラ王国の母だわ。この発見に女官長に優しい微笑みを返しながら、
「そうね、キルマ。何か戴くわ。遅くなってしまったけど、無論、お前のせいではありませんよ、キルマ、お前は、今日、いつもの気がきているお前じゃなかった。こんな時ですもの、仕方がありません。お前は、もう夕食は済んだの?キルマ。お前こそ何か食べないと」
「いえ、まだで御座います。国母さま。国母さまが、きちんと召し上がるまでは、わたくしは、食事などのどを通りそうに御座いません」
そりゃ通りにくいはずよ、お前の細すぎるのどでは。第一、お前はアンドーラの“国母”を子供扱いしていることさえ気がつかない、鈍い女なんだから。しかし、心の中とは裏腹に、優しく声を出した。
「キルマ、それだったら、いっしょに食べましょう。一人の食事は今は、つらいわ。お前といっしょにおしゃべりをしながらだと気が紛れるわ。キルマ、そうしましょう」
王太后の気の弱い言葉に、キルマは、心躍った。
「わたくしは、国母さまのお言いつけ通りにいたします。いつでも」と、キルマは、盆をテーブルに置いた侍女に自分の夕食を運ぶように命じ、王太后の出方を待った。王太后は、動かなかった。キルマも動かなかった。キルマは侍女が、お辞儀をして出ていくのを目で追った。その侍女には、キルマはすでに“糸”をつけていた。ある秘密を知ることによって。
散らかった刺繍の糸を片づけながら、キルマはこう思った。どうしてこの女は、だらしないの?このわたしが一番我慢できないのは、このだらしなさよ。このだらしなさが、この女の不幸を呼ぶのよ。
「キルマ、刺繍は、しばらく休むわ。こう糸がこんががっていては。やはり不器用なのかしら?」
王太后の再びの気の弱い言葉に、キルマは、心を躍らせながらも、
「国母さま、国母さまは不器用なんかじゃ、御座いません」
「いいのよ。慰めてくれなくても。何でもかんでも器用にこなすものは、滅多にいませんよ。ところで、ランセルとメレディスはどうだった?」
“忠実”なキルマは、王太后に報告した。重要な“切り札”は、王太后の産んだ子供ではなく、年若い“王妃”が産んだ孫の王太子だった。キルマはそれを王太后に見せびらかすような真似はしなかった。まだ、早い。
「竜巻だなんて、信じられる?キルマ」
「国母さま、わたくしには、何ともお答えしかねます。お気持ちはお察しいたしますが、気の利いた言葉が思い浮かびません。申し訳御座いません、国母さま」
「いいのよ、お前が何も言わなくてもそばにいてくれるだけでも、慰めになるわ。こんな時こそ、友人の存在が、有り難いものなの。お前は、わたしの親友だということを忘れなで欲しいわ、キルマ」
「もったいない、国母さま」と、キルマは言いながら、王太后の真意を推し量った。
王太后は、キルマの“国母さま”という言葉に酔っていた。“国母”と言う称号は、これまでアンドーラ王国にはなかった。夫のジュルジス二世が、息子の王太子に早過ぎる譲位を決めた時、当時の王太子によって、考案されたものだった。その出典には、多少不愉快だったが……。今は、その言葉が彼女の心の支えとなっていた。なんて気が利くのかしら?あの子は。こうなる事態を予想していたのかしら?いえ、そんなはずは、ないわ。わたしが産んだ子でもの。わたしが産んだ?そうよ、わたしは、国王の母親よ。これは何よりも、確かなこと。妻を裏切ったかもしれない夫よりも、確実に彼女に忠実ではないか、何しろ、“王妃”の座を追われた母親に贈り物したのだから。