汚れてでも
裕也と付き合ってからの一年は、本当にあっという間やった。
勉強もサークルも、どれもそこそこに頑張って、でも頑張りすぎはしない。
講義が終われば裕也と会って、ご飯を食べて、くだらん話をして、たまには喧嘩もして、また仲直りして。
毎日が、驚くくらい楽しかった。
必死に頑張っていないうちを、裕也は愛してくれた。
うちも裕也を愛おしいと思っていたし、そんな裕也の隣にいる今の自分のことも、少しずつ好きになれていた。
「和紗、俺ホストになろうと思う」
裕也が四年、うちが二年になった年のクリスマス。
単位取得と卒論提出が終わった慰労会も兼ねての二人きりの小さなパーティの途中で、裕也は急にそう言った。
OBが店を開くらしく、オープニングスタッフとして誘われている。
年明けから働き始めるつもりだと、裕也は少し緊張した顔で話した。
一月末には秋学期の期末試験もある。
教授やゼミ生の前での口問だって控えている。
そんな時期に?
一瞬、頭が真っ白になった。
反対しなきゃ、という考えも浮かんだ。
でも、その言葉は口から出てこなかった。
裕也は、ありのままのうちを受け入れてくれた。
正しくなくても、頑張ってなくても、そのままのうちでいていいんやと思わせてくれた。
だったら、うちも裕也の気持ちを、そのまま受け入れんかったらフェアやない。
そう思った。
「……そっか」
「怒らんの?」
「びっくりはしたけど」
そう言うと、裕也は目に見えて力を抜いた。
振られるかもしれんと思って、ずっと言い出せんかったらしい。
恩のあるOBに頼み込まれて、断ることもできず、でもうちにどう言えばいいか分からなくて、ずっと悩んでいたのだと話すうちに、裕也は泣き出した。
うちは、泣き止むまで裕也を抱きしめていた。
「和紗、俺、必ずナンバーワンになるから」
泣き腫らした目のまま、鼻をすすりながら裕也が言った。
「俺がナンバーワンになったら、結婚してくれ。返事は、その時に聞かせて」
なんて締まらんプロポーズやろうと思った。
でも、その締まらなさが、いかにも裕也らしくて、うちは笑ってしまった。
それからの裕也は、本当によく頑張った。
大学で学んだ行動経済学をどう応用するか。
専門外の心理学にまで手を広げて、文献やレポートを読み漁り、うちを相手に接客の練習をした。
表情の作り方、声の出し方、間の取り方、視線の置き方、姿勢。
ノンバーバルコミュニケーションだとか、傾聴だとか、そんな言葉を口にしながら、ストアカや講座にも手を出していた。
店で働き始めてからはもっとすごかった。
接客した客の名前、見た目、好きな話題、使った金額、機嫌の波まで、全部ノートに書いていた。
出勤前には鏡の前で笑顔を練習して、ノートを読み返して、それから店へ向かう。
裕也は本気やった。
でも、努力がそのまま結果になる世界でもなかった。
知識は増えていくのに、実際の接客ではうまく活かせない。
思うように売上が伸びない。
ランキングも上がらない。
裕也は焦り始めた。
もともと酒は強い方やったのに、酔い潰れて帰ってくることが増えた。
二日酔いのまま出勤して、疲れた顔で帰ってきて、そのまま寝落ちする。
たまの休みに二人でいても、ぼんやりしている時間が増えて、話しかけても返事が遅いことがあった。
見ていて苦しかった。
うちは、裕也が働き始めた頃から、裕也の部屋へご飯を作りに行ったり、片付けをしたり、そういう生活の手伝いはしていた。
けれど、目標のためにここまで擦り減っていく裕也を見ていると、それだけでは全然足りない気がした。
もっと役に立ちたかった。
もっと支えたかった。
うちはアルバイトを増やした。
単位を取るための勉強も、今までみたいに適当に流さず、短時間で片づけるようにした。
圧縮して空いた時間を、ほとんど全部働くことに使った。
そうやって得たお金で、裕也を指名した。
親の仕送りを裕也のために使うのは、何となく嫌やった。
親から与えられたお金で裕也を支えるのは、うちが選んでる感じがせんかったから。
うちが指名するようになって、裕也の売上は少しずつ上向いた。
でも、学生のアルバイトで稼げる額なんて、やっぱり限度があった。
もっと。
もっと裕也の役に立ちたい。
悩んだ末に、うちはキャバクラで働き始めた。
最初の一か月で、収入は四倍以上になった。
仕事用のメイク道具や衣装、カバンを揃えて、それ以外はほとんど全部、裕也を指名する金に変えた。
その頃にはもう、裕也は同伴やアフターで他の女と過ごす時間が増えていた。
でも、うちが裕也と同伴やアフターをすれば、少なくともその時間は他の女に取られずに済む。
裕也と一緒にいられる。
少しでも休ませてあげられる。
そう思えば、頑張れた。
裕也にも固定客が増えて、太客と呼ばれるような客もつき始めた。
よりお金を落とす客に時間をかけるのは当然や。
裕也と過ごす時間を確保するには、うちもそれに見合うだけの金を使わなあかん。
キャバクラでそこそこ売れても、大学のことを考えると、週三日、一日五時間が限界やった。
それでは、裕也を支える一番の女にはなれなかった。
うちはキャバクラの時間を減らして、パパ活アプリを始めた。
食事。
買い物。
水族館。
最初のうちは、そういうデートだけで、キャバクラ以上の金がもらえた。
もちろん抵抗はあった。
でも、裕也と一緒に勉強した知識を実践しているうちに、だんだん感覚が変わっていった。
腕を組んで胸を押し当てる。
隣に座って肩を密着させる。
下から媚びた目で見上げる。
太ももにそっと手を置く。
そういう仕草ひとつで、相手の反応が変わる。
払う金が変わる。
会話の温度が変わる。
気づけば、うちはそれをどこか冷静に眺めていた。
臨床試験でもしているみたいに。
正しさではなく、効果で物事を測る自分がいた。
抵抗が薄れるほど、収入は増えた。
月に一、二度なら、裕也を丸ごと指名して「うちのもの」にできるくらいにはなった。
裕也のランキングも、どんどん上がっていった。
「ほんまに和紗のおかげや。俺のために頑張ってくれてありがとう。約束、ちゃんと守れるように頑張るからな」
裕也が、すごく嬉しそうに笑った。
その顔を見ると、全部報われた気がした。
もっと。
もっと役に立ちたい。
もっと支えたい。
三年の秋になる頃には、うちはもう大学にほとんど行かなくなっていた。
それでも、まだ裕也のエースにはなれなかった。
「和紗ちゃんと最後までできないなら、今日で終わりにしようと思うんだけど。応えてくれるかな?」
パパの一人が、そう言った。
この人が切れたら、次の太客が見つかるまで、裕也に使える金が一気に減る。
そう思った瞬間には頷いていた。
迷いは短かった。
この頃にはもう、裕也も太客と枕をすることがあった。
うち以外の女を抱くこともあったし、家に帰ってこない夜も増えていた。
裕也のためやから。
そう言い聞かせて、初めて裕也以外の男に抱かれた。
一度逸脱すると、そこから先の変化は早かった。
うちはキャバクラを辞めて、ソープとデリヘルで働くようになった。
パパ活も並行して続けた。
不思議やった。
裕也以外の男に抱かれることは、思っていたほど不快ではなかった。
男たちが渡してくる金で裕也を支えられる。
そう思うと、金をくれる相手に感謝すらできた。
少しでも気持ちよくなってほしい、気分よく金を落とし続けてほしいと思った。
その頃にはもう、何が正しくて、何が間違っているのかなんて、どうでもよくなりかけていた。
ただ、裕也の役に立てる自分でいたかった。
そしてついに、うちは裕也のエースになった。
成人男性の平均年収を軽く超える収入を、毎月稼いでいた。
その大半を裕也に使っていた。
自分のしていることが正しいなんて、さすがに思わん。
それでも、裕也のためにここまで頑張っている自分のことが、うちは好きやった。
誰かに褒められるからじゃない。
誰かの期待に応えるからじゃない。
これは、うちが自分で選んだ現実やった。
当然のように留年した。
このままでは親元に請求書が届いた時点で全部バレる。
どうしようかと頭を悩ませていた時、伊織が突然、うちの前に現れた。
三年で、見違えるほど変わっていた。
自信に満ちた強さが眩しかった。
そして三年前と変わらない、きらきらした目でうちを見ていた。
懐かしかった。
嬉しかった。
でも、それ以上に怖かった。
昔の「正しい和紗ちゃん」の感覚が、無理やり引きずり出されるような気がした。
今の「私」を、丸ごと否定されるような恐怖があった。
伊織と話していると、「私」が「うち」になってしまう。
演じているのか、戻っているのか、自分でも分からなくなる。
違和感があるのに、どこか安心もしてしまう。
伊織の話に相槌を打ちながら、うちはずっと落ち着かなかった。
そこへ、伊織が言った。
両親が心配している、と。
一瞬で、懐かしい「うち」の気分が、現実の「私」へ引き戻された。
留年。
学費。
親への説明。
全部、先送りのままやった。
はぐらかそうとした。
でも伊織は、思ったよりしつこく聞いてきた。
だから、少しだけ意地悪がしたくなった。
「彼氏がおるんよ」
伊織の前で、「正しい和紗ちゃん」やなくて、「今の私」でいたいと思った。
裕也のことを話すのには少し罪悪感もあった。
けれど、それ以上に、妙な開放感があった。
惚気けるみたいに、あれこれ喋ってしまった。
途中で、伊織の反応が薄くなったのに気づいた。
顔を見ると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
昔、家まで迎えに行った時みたいに。
「伊織、顔色悪いよ」
「大丈夫? なんか、ほんまに真っ青やよ」
気がつくと、うちは伊織に近づいて、その手を握っていた。
体格差のせいで、自然と覗き込むみたいな格好になる。
伊織の拳は大きくて、硬い拳ダコができていた。
触れた肌の下の身体は強く、しなやかで、ずっと鍛錬を積み重ねてきたのが分かる。
逃げ出した「うち」の幻影を、伊織はまっすぐ追いかけ続けていたんやと思った。
胸の奥がざわっとした。
惹かれていたのに。
格好悪いところを見せられなくて、自分から離れたくせに。
そんな昔の気持ちが、今さら浮き上がりそうになった。
両親への口止めを頼んだあと、伊織とは二日に一回くらいの頻度で会うようになった。
伊織の前では、強いうちでいられた。
嫌で逃げたはずなのに、何故かそれは心地よかった。
時々、「私」として身につけた癖が出てしまうこともあった。
上目遣い。
甘えた声。
距離の詰め方。
でも伊織は嫌がる様子を見せなかった。
今の「私」を否定されへんことに、うちはひどく安堵していた。
伊織と会いながら、店の客やパパに奉仕して、裕也の店に行く。
そんな生活を続けていたある日、お父さんから電話が鳴り続けた。
今までは出なければそのうち止んで、メールでやり取りすることが多かった。
でも、その日は違った。
出るまで、ずっと鳴り続けた。
電話に出ると、お父さんは強い怒りを滲ませながら説明を求めた。
うちは、正直に話した。
たぶん、伊織がうちを否定しなかったからやと思う。
どこかで、一縷の望みを持ってしまったんやろう。
でも結果は、悲惨やった。
お父さんは「私」を完全に否定した。
電話の向こうでは、お母さんの啜り泣く声が聞こえた。
「私」のなにもかもを否定して、「うち」に戻そうとするその声を聞きながら、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
電話を切ったあと、うちは伊織を公園に呼び出した。
伊織は、すぐに来てくれた。
うちは心の中に溜まっていた澱を吐き出すみたいに、ずっと喋り続けた。
伊織は否定しなかった。
それが、余計に苦しかった。
「でも伊織とはまた、こうやって話したいんやけどさ」
思わず、本音が漏れた。
伊織との関係を切って、「うち」を完全に失ってしまうのは、何となく嫌やった。
「新しく住むとことか連絡先とか、お父さんたちには知らんってことにしといてくれへん?」
いつものうちらしく、明るく頼んだつもりやった。
でも、伊織は真っ直ぐうちを見て言った。
「和紗さん、無理しとるやろ」
その一言で、「うち」の仮面は剥がれた。
「私」に押し込めていたものも、
「うち」に押し込めていたものも、
全部が一気に溢れ出した。
気がついたら、怒鳴っていた。
泣いていた。
今まで裕也のためやと押し込めてきた感情まで、何もかも吐き出していた。
突然、視界が暗くなった。
柔らかいのに、固い。
温かい。
伊織に抱きしめられているのだと分かるまで、一瞬かかった。
その瞬間、張り詰めていたものが全部切れた。
うちはわんわん泣いた。
懐かしかった。
安心した。
ずっとこうしていたいと思ってしまった。
でも、それは今まで必死に生きてきた「私」を否定することでもあった。
このまま伊織に寄りかかってしまったら、「私」はきっとまた「うち」に戻ってしまう。
それの何が悪いのか、うまく説明はできへんかった。
でも、嫌やと思ってしまった。
だから、離れた。
「もし伊織が彼氏だったら、こんな思いせんで済んだんやろうけどね」
それは未練で、諦めで、どうしようもなく遅すぎた本音でもあった。
「うまくいかんもんやね」
うちはもう、伊織に相応しい和紗ちゃんじゃない。
だから、戻らない。
伊織に背を向けて、うちは『私』の人生を歩く覚悟を決めた。




