逃げた先
高校卒業に合わせて、うちは東京の大学へ進学した。
両親には、若いうちは東京で就職して、日本の中心で働いてみたい、と言った。
そのためには大企業への就職に有利な大学へ行きたい、と。
政財界との繋がりが強いと噂される東京の私立大学を志望したのも、そういう建前があれば、お父さんたちも納得すると思ったからやった。
実際、成績の面で困ることはなかった。
もともと集中力も体力もあったし、授業は真面目に受けていた。
受験勉強も、やるべきことをやればちゃんと結果は出た。
だから、東京の大学を選んだことに、表向き何の問題もなかった。
でも、本音は違った。
伊織から離れたかった。
伊織の憧れの視線は、最初の頃は心地よかった。
自分が誰かの目標で、光で、ヒーローでいられるのは誇らしかった。
けれど、何年経っても伊織は変わらずに、きらきらした目でうちを見つめてきた。
伊織の前では、いつでも「正しくて、強い和紗ちゃん」でいなければならない気がした。
少しでも弱いところを見せたら終わる気がした。
少しでも格好悪いところを見せたら、何かが壊れてしまう気がした。
息苦しかった。
負担やった。
東京へ出れば、そういう目から逃げられる。
うちはきっと、少しは楽になれる。
そう思っていた。
大学へ通うために上京して、一人暮らしが始まると、うちはびっくりするくらい何もする気が起きなくなった。
うちのことを知っている人が誰もいない環境は、「正しい子」であることをうちに求めなかった。
誰も、礼儀正しいねとも、しっかりしてるねとも、強いねとも言わない。
それは楽なはずやったのに、同時に、うちの中身を急に空っぽにした。
何となく講義を受けて、何となく家に帰って寝る。
授業が終わってもそのまま真っすぐ帰って、狭いワンルームの部屋で一人きりになる。
道着もない、畳の匂いも、線香の匂いもしない部屋は、妙に広く感じられた。
最初の頃こそ焦っていた。
このままじゃあかん、ちゃんとしなきゃ、何か見つけなきゃと思った。
でも、一か月もすると、その空っぽさにも慣れてしまった。
大学生活が日常になって、気持ちも少しずつ落ち着いてくると、今度は身体を動かしていないことに違和感を覚え始めた。
足りないのは、たぶん気力やなくて、長年染みついた習慣の方やったんやと思う。
それでも、少林寺拳法に戻る気だけはまったく起きなかった。
道場へ戻れば、また昔の自分に引き戻される気がした。
正しくて、強くて、頑張れる和紗ちゃんに。
そんな時、取っている講義が同じ子に誘われて、フットサルサークルへ入った。
真剣に勝ち負けを競うというより、飲み会や旅行みたいなイベントをみんなでゆるく楽しむサークルやった。
拳法みたいに、正しさも、強さも、背負わなくていい空気が少し楽だった。
ある日、そのサークルの飲み会に誘われた。
それまで、お酒はずっと断っていた。
十八やし、まだ飲まへん、と。
周りがどれだけ飲んでいても、うちはうちやと思っていた。
二十歳になるまでは、ちゃんと守るつもりやった。
その日も、ノンアルコールのカクテルを頼んだ。
でも、ひと口飲んだ瞬間、うちはすぐに気づいた。
これ、ノンアルやない。
たぶん注文を間違えられたんやと思う。
でも、その時にはもう遅かった。
飲酒をしてしまったと分かった瞬間、胸の奥がざわっとした。
法律を破ってしまった。
してはいけないことをしてしまった。
それなのに、同時に、別の感情もあった。
少しだけ高揚していた。
正しくないことをしてしまった、という事実が、なぜかうちの胸を軽くした。
何となく、自分をずっと縛っていた鎖が一本だけ切れたような気がした。
そのあとは早かった。
「どうせ一口飲んじゃったら同じだよ」
先輩にそう笑われて、うちは抗えなかった。
どうせもう正しくはない。
だったら、今さら守っても同じや。
そんなふうに、自分で自分を甘やかした。
次に目を覚ました時、鈍い頭痛と喉の渇きがあった。
知らない天井が見えた。
飛び起きて周りを見渡す。
ホテルの部屋やった。
すぐ隣には、飲み会でお酒を勧めてきた先輩が裸で寝ていた。
自分の身体に目をやると、うちも裸だった。
下腹部に、嫌な違和感が残っていた。
その瞬間、何かがすとんと落ちた気がした。
ああ、もう戻れへんのや。
もう、前みたいな自分には戻れない。
正しい和紗ちゃんには、戻れない。
そう思った途端、涙が溢れた。
うちは何に対して泣いているのか、自分でもよく分からなかった。
痛かったからかもしれん。
汚れてしまった気がしたからかもしれん。
それとも、もう「正しい子」に戻れないと分かってしまったからかもしれん。
泣き始めたうちに気づいて、隣で寝ていた先輩が飛び起きた。
先輩は裕也さんというらしかった。
裕也さんは、嗚咽を漏らして泣くうちを見て、目に見えて慌てていた。
「もしかして痛かった? 俺も初めてだったから、下手だったらごめん」
「酔った勢いはあったけど、一目惚れだったんだ。ずっと好きだったんだ」
「俺にちゃんと責任取らせてほしい」
かなり慌てていたんやと思う。
言っていることはどれも少しずつずれていて、慰めとしては頓珍漢やった。
でも、その頓珍漢さが、かえってうちを少しだけ落ち着かせた。
もしここで、正しいことを並べ立てられていたら、もっと苦しかったかもしれん。
叱られたり、諭されたり、泣かんでもええやろと困られたりしたら、たぶんうちはもっと壊れていた。
うちが泣いていた理由は、いつの間にか少し変わっていた。
裕也さんは、「正しい子」じゃなくなったうちしか知らない。
頑張ってる和紗ちゃんやなくて、だらしなく酔って、泣いて、取り返しのつかないことをしてしまったうちしか知らない。
そんなうちを好きだと言った。
受け入れると言った。
頑張っていない、そのままのうちでも、ここにいてええと言われたような気がした。
それは、安堵と背徳感が混ざったような、甘い感情やった。
「……責任、取ってくれるんですか?」
そう聞いた時、自分でも声が少し甘えているのが分かった。
「もちろんだよ! むしろ俺に取らせてほしいんだ!」
裕也さんの口から出る「責任」という言葉は、ひどく軽かった。
泣いただけであたふたする姿も、正直、頼りなかった。
伊織みたいな眩しさも、お父さんみたいな強さも、何もなかった。
でも、それがよかった。
ちゃんとしていない。
強くもない。
正しくもない。
そんな人が、正しくないうちをそのまま好きだと言ってくれた。
うち、もう頑張らんでもええんや。
そう思ってしまった。
泣き止んだあと、二人でシャワーを浴びて、服を着てホテルを出た。
裕也さんは家まで送ってくれた。
順番がむちゃくちゃになってごめん、と何度も謝りながら、連絡先を交換して、あらためて自己紹介をしてくれた。
「また一緒に遊びに行こう。今度は普通にデートしようよ」
そう言って、笑顔で手を振りながら帰っていく。
何度も振り返るその姿は、頼りないのに、どこか可笑しかった。
うちはその背中を見送りながら、初めて肩から力が抜けた気がした。




