4話:外縁
暑さで目が覚めた。
まぶたの裏が熱い。息を吸うと、空気が乾いて喉に刺さる。
布の影の中にいても、昼は容赦なく迫ってくる。
グレイスはゆっくり体を起こし、ベールの位置を直した。
砂の匂いが濃い。風が変わった。熱を運ぶ風だ。
すぐそばに、ラズが伏せている。
艶のある黒い毛並みに、緑の線が淡く流れていた。瞳だけが、眠らずこちらを見ている。
「……おはよう、ラズ」
『ああ』
それだけで十分だった。
見張っていたのだと、言われなくても分かる。
「ありがとう。……起こしてくれてもよかったのに」
『眠れと言った。我が見ていた。問題はない』
短い返事。無駄がない。
グレイスは小さく息を吐いて、頷いた。
「……分かった」
そして、ラズを見た。
「ラズは……どうして、ここに?」
ラズはしばらく黙っていた。
考えているというより、言うべき部分だけを切り取っている沈黙だった。
『追っていた』
「何を」
『魔物だ。砂漠を荒らすもの』
短い説明なのに、嫌な重さがある。
「……もう倒したの?」
『倒した』
誇らない。ただ事実として言う。
『北で戦えば、被害が出る』
その一言で意図が見えた。
人里から引き離すために、南へ追い立てた。
『南へ追った。南で仕留めた』
「それで……こんなところまで」
『戻るつもりだった』
ラズの瞳の緑が、ほんの少しだけ揺れた。
『だが、乾きの牙を受けた』
言葉が淡々としているのに、喉の痛みが伝わる。
『勝っても奪われる。熱が残る。喉が裂ける』
グレイスは口元を押さえた。
水分を奪う性質の魔物。倒しても、代償が残る。
「……水場まで辿り着けなかった」
『そうだ』
否定しない。
『我は死にたくない。だから水を探した』
グレイスは水筒を取り出し、キャップを外して一口飲む。
喉がほどける。胸の痛みが少し引いた。
ラズはそれを見て、短く言った。
『お前の水に気づいた』
グレイスは頷いた。
だから、あの夜明けに辿り着いた。
「教えて。人がいるのは北でいい?」
『北だ。道がある』
即答。
グレイスはトランクの留め具を確かめ、布を張り直す。
次に動く時間を計るために、風を読む。
そのときラズが、低く言った。
『動くな』
短い命令。だが、声の温度が変わった。
「……何か来る?」
ラズの耳が、わずかに動く。
『砂嵐だ。昼前に来る』
グレイスは岩陰の外を覗いた。
遠くの空が、薄く霞んでいる。光の揺らぎが厚みを増していた。
「……本当に来る」
『尾根に乗れば終わる』
『今日は動かぬ。日が落ちてから北へ行く』
グレイスは息を吐き、頷いた。
「分かった」
ラズの尻尾が一度だけ動く。
『よい』
それだけ。
風が熱を帯び、砂の音が増えていく。
砂漠が唸り始めた。
グレイスは布の影に身を縮め、杖を握った。
隣でラズが伏せ、艶のある黒い体で風を遮る。
砂嵐は避ける。
避けた先に、人がいる。
砂嵐が来る前に、身を守る準備だけ整える。
グレイスは影の内側に寄り、ベールを深く被った。トランクは砂を被らない向きに倒す。
ラズは伏せたまま、目だけで外を見ている。
風の匂いが、また変わった。
乾いた熱が濃くなり、砂の粒が頬に当たり始める。
「来た」
グレイスが呟くと、ラズは短く返した。
『まだだ。前触れ』
前触れでも十分に嫌だ。
砂が耳の奥に入りそうで、ベールをさらに深く被る。
砂嵐は、音から先に来た。
遠くの低い唸りが、地面を伝って近づき、やがて空そのものが鳴り始める。
視界が薄くなる。
輪郭が溶けて、空と地面の境目が曖昧になる。
グレイスは背中を丸め、布の影の中で膝を抱えた。
呼吸は浅く。口を開かない。
吸いすぎれば砂を噛む。
水筒に触れたくなる。喉が欲しがる。
けれど、ここで飲めば逆に砂が入る。濡れた口元に砂が貼り付く。
だから、飲まない。
ただ耐える。
ラズの体が、少しだけ動いた。
伏せたまま、グレイスと風の間に自分を差し込む。
艶のある黒い毛並みが壁になる。
『顔を下げろ』
短い指示。
グレイスは頷き、ベールの内側に顔を収める。
砂が布を叩く音が増えた。布が揺れる。結び目が軋む。
――ほどけるな。
グレイスは杖を砂に突き、支点を押さえた。
ナイフで布紐を締め直したい。だが今は動くと砂を招く。
時間が、伸びる。
砂嵐の中では、何分経ったか分からない。
ただ、呼吸の数だけが増えていく。
ラズが一度だけ、低く唸った。
唸りは威嚇じゃない。
布が揺れている。風向きが変わった。
『……弱まる』
その言葉の通り、音の密度が少し下がった。
空の唸りが遠ざかる。
グレイスは顔を上げる。
まだ視界は白い。だが、完全な壁ではなくなっている。
「今は?」
『まだ動くな。砂が残る』
ラズは即答した。
その判断が、ありがたい。グレイスが一人なら「もう行ける」と勘違いして動いていたかもしれない。
しばらくして、風の粒が小さくなる。
布に当たる音が、刺さる音から擦れる音へ変わる。
『……今だ』
ラズが言った。
『日が落ちる。北へ行く』
グレイスは息を吐き、布を畳んだ。
砂で重くなっている。払う時間はない。後で落とす。
トランクの取っ手を握り直し、立つ。
足元の砂が、さっきより柔らかい。嵐が地形を少し変えた。
「北……道は見える?」
『見えぬ。だが匂いはある』
ラズが先に歩き出す。
黒い体が砂の上を滑るように進み、緑の線が暗がりに淡く残る。
グレイスはその後ろをついていく。
歩幅を合わせる。走らない。止まらない。
夕暮れが近づき、空の色が赤くなる。
嵐の後の砂漠は、静かすぎて不気味だった。
やがて、風の匂いが変わった。
乾きの中に、わずかな湿りが混ざる。
土の匂い。
人の匂い。
煙の匂い。
グレイスは喉が鳴るのを堪え、前を見た。
「……人、いる」
『いる』
ラズの返事は短い。
『外縁だ。まだ王都ではない』
「それでいい」
砂丘を越えた先に、点のような灯りが見えた。
炎が揺れている。
柵の影がある。人の形が動いている。
サンドリア王国の外縁。
境の見張り。あるいは、干上がりかけたオアシスの番。
グレイスは足を止め、ベールを整えた。
ドレスの裾を軽くまとめ直し、背筋を伸ばす。
ラズが隣に並ぶ。
艶のある黒が、夜の砂漠に溶ける。
『……行くのか』
「行く」
グレイスは静かに言った。
「ここで立ち止まれば、また砂漠に戻るだけ」
灯りへ向けて、一歩踏み出した。
サンドリア王国の外縁。
境の見張り。あるいは、干上がりかけたオアシスの番。
グレイスは足を止め、ベールを整えた。
ドレスの裾を軽くまとめ直し、背筋を伸ばす。
灯りのそばで、槍を持った影が動いた。
こちらを見た気配がある。すぐに輪郭が固まる。人だ。複数。
そして――警戒している。
当然だ。
砂漠の夜に近づく影は、盗賊か魔物か、よほどの間抜けにしか見えない。
グレイスは両手を見える位置に置いた。
杖は握ったままでもいい。隠すより、堂々としていた方が誤解が少ない。
ラズが隣に並ぶ。
艶のある黒が、夜の砂漠に溶ける。緑の線だけが淡く残る。
『……行くのか』
「行く」
グレイスは静かに言った。
「ここで立ち止まれば、また砂漠に戻るだけ」
灯りへ向けて、一歩踏み出す。
すぐに声が飛んだ。
「止まれ!」
男の声。若くない。
槍の先がこちらを向く。もう一本、もう一本。
背後からも足音が増えた。囲いに入れる気だ。
グレイスは止まった。
止まるのは負けじゃない。話を通すための手順だ。
「旅の者です」
自分の声が、乾いているのが分かる。
それでも言葉は落ち着いて出た。
「砂嵐を避けてきました。行き場がありません。……ここで暮らす場所を探しています」
見張りの男が眉をひそめる。
「暮らす?」
疑いの色が濃くなるのは当然だ。
砂漠を越えてきた女が、貴族の服で、従魔を連れている。
男の視線がラズに落ちた。
槍の穂先が一瞬、揺れる。
「……そいつは何だ」
グレイスは答えを急がない。
余計な説明は、余計な疑いを生む。
「私の従魔です」
男が一歩引いた。
周囲の気配が一段硬くなる。
ラズが低く喉を鳴らした。
威嚇ではない。呼吸の音に近い。
それでも、槍を持つ手がわずかに固くなる。
グレイスはラズを見ずに言った。
「……大丈夫。下がって」
ラズは動かない。動かないことが、約束を守っている証になる。
見張りの男が、慎重に言った。
「ここはサンドリアだ。王都へ続く道は、勝手に通せない」
「分かっています」
グレイスは頷いた。
「案内か、判断できる者を呼んでください。私は交渉がしたい」
男が眉を寄せる。
「交渉?」
「ええ」
グレイスは杖を少しだけ持ち上げた。脅しに見えない角度で。
「水と、道と、規則について。――あなたたちの国が困っているなら、私にもできることがあります」
一瞬、沈黙が落ちた。
槍の先が下がりかけて、すぐに戻る。
男は迷っている。
見知らぬ女。貴族の服。従魔。
怪しさは揃っている。だが、目の前の女は怯えていない。逃げもしない。
見張りの男が、短く言った。
「……待て」
背後へ合図が飛ぶ。走る足音。
誰かが王都へ知らせに行った。
グレイスはその場に立ったまま、風の匂いを吸った。
砂嵐の残り香。乾き。――そして、わずかな湿り。
サンドリアは、もう限界に近い。
だからここで、道を開くしかない。
ラズの念が落ちる。
『……落ち着け。焦るな』
「焦ってない」
グレイスは小さく返した。
「ただ、遅れたくない」
見張りの男がこちらを見たまま、ぼそりと言う。
「……王都は今、揉めてる。水が減ってるからな」
その一言で、答えが見えた。
ここから先は砂漠じゃない。
――人の問題だ。
グレイスは背筋を伸ばし、灯りの手前で足を止めた。




