2話:砂漠で生存開始
光が消えた瞬間、肺に熱が流れ込んだ。
砂が喉に刺さる。息を吸うだけで痛い。
視界の端で地平線が揺れている。蜃気楼。――分かっているのに、足が止まりそうになる。
グレイス=ソフィア=リヴェルノートは、反射で口元をベールで覆った。
布越しの呼吸は苦しい。それでも砂を噛むよりマシだ。
膝をついた砂が、熱い。
そこにいるだけで体力が奪われる。
「……ここは、だめ」
声が掠れた。自分の声が、乾いて聞こえる。
トランクの取っ手を掴む。革が熱を持っていて手のひらがじり、と痛む。
放り出したくなる衝動を堪えて、立ち上がった。
周囲を見回す。
砂、砂、砂。どこも同じ色で、同じ明るさ。
――影。
頭の中に言葉だけが落ちる。
考えたというより、身体がそう言った。
少し遠く、砂丘の斜面に小さな黒い帯が見えた。
風で削れた岩の出っ張り。ほんのわずかな陰影。
あそこまで。
グレイスは走らない。走ったら汗が出る。
でも止まったら焼かれる。
歩幅を大きくして、早歩きで進む。
トランクが砂に取られて、引っかかる。腕が引かれる。
斜面に差しかかると、砂が足を滑らせる。
一歩踏み外し、膝が沈む。熱で布が薄く焦げるような感覚がした。
怖い。
遅れたら終わる、という怖さが背中に張り付く。
それでも、グレイスは手を前に出して体を起こし、また進む。
指先が震えている。自分で分かるほどに。
岩の影に滑り込んだ瞬間、世界が少しだけ優しくなった。
直射が消えるだけで、息が戻る。
グレイスは岩に背を預け、トランクを足元へ落とした。
肩が上下する。胸が痛い。
――落ち着け。
水は作れる。氷も作れる。
それでも、今ここで無闇に使えば、あとで詰む。
魔法は逃げ道じゃない。体力と同じで、管理するものだ。
グレイスはベールの隙間から息を整えた。
砂の匂い。乾いた風。遠くの熱。
まず、生き残る。
そのために――次の一歩を決める。
岩陰は狭い。けれど、狭いからいい。
風が少し弱まり、砂が顔に当たる回数が減る。
グレイスはベールをずらし、短く息を吐いた。
喉がひりつく。胸がまだ痛い。鼓動がうるさい。
――焦るな。焦っても砂漠は変わらない。
トランクの留め具に指をかける。金具が熱い。
爪先で一度叩いてから、ゆっくり開けた。
携行食の包み。布。細身の木杖。短いナイフ。
そして水筒。封がしてある。満タンの重みが手の中にある。
その重さだけで、少しだけ安心が戻りそうになって、すぐに押し戻した。
安心は緩みになる。緩めた瞬間に、次の判断が遅れる。
グレイスは水筒をトランクの奥へ戻す。
次に杖を取り出す。
木目が淡く流れていて、握った指が自然に収まる。軽い。
道具として、手に馴染む。
ナイフは腰へ。
見せるためじゃない。切るための位置。
ここで一息ついた瞬間、身体が勝手に水を求めた。
喉が鳴りそうになる。
――飲むな。今じゃない。
飲めば楽になる。けれど、楽になった分だけ、その後が怖くなる。
次にいつ陰があるか分からない。次にいつ動けるか分からない。
グレイスは視線を落とし、指先に魔力を集めた。
水は作れる。氷も作れる。
ただ、作るたびに魔力は削れる。削れた魔力は、すぐには戻らない。
追放の直後は特に、乱れやすい。体力が落ちれば、魔法も雑になる。
だから――最小でいい。
彼女は指先に、米粒ほどの氷片を作った。
白い霜が、指の腹に乗る。
それを舌の上に置く。
すぐに溶けて、喉の奥へ落ちる。たったそれだけ。
でも、渇きの暴走が少し止まる。
“飲みたい”が“生きたい”に戻る。
グレイスは息を整え、岩陰の外を覗いた。
砂漠の光は凶器だ。
陰から出た瞬間、全身を叩かれる。
今日、やることは多くない。
多くないほうがいい。
まず、この陰を“使える陰”にする。
グレイスは布を取り出し、岩の出っ張りと杖を使って張った。
布の端を結び、風で煽られないように低く。
日除けを“延長”するだけで、陰の面積が少し増える。
その作業で汗が出そうになった。
すぐに手を止め、肩の力を抜く。
――今は、無理をしない。
次に、身体を冷やす。
氷を作って抱えるほどの余裕はない。
だから、冷気を薄く流すだけ。
グレイスは胸元にそっと魔力を通し、ドレスの内側に冷たい層を作った。
肌に触れないぎりぎりの場所を、冷気が滑る。
熱が少し引く。
汗が止まる。
それだけで、今日の生存確率が上がる。
彼女は岩陰に座り、膝を抱えた。
目を閉じない。眠らない。
眠ったら、体が緩む。緩んだら、砂漠は奪う。
時間が、やけに遅い。
風が変わる。
砂の音が強くなったり弱くなったりする。
遠くで何かが鳴く声が一度だけ聞こえた。
それが魔物か獣かは分からない。
分からないなら、近づかない。こちらも動かない。
グレイスは杖を傍に置き、ナイフの位置を確かめた。
何かが来たら、戦うのではなく、まずは守る。距離を作る。
日が傾き始めた頃、空気が少しだけ変わった。
熱が薄くなる。光が刺さらなくなる。
――動ける。今しかない。
グレイスはベールを深く被り、トランクの取っ手を握った。
夜は冷える。冷えるなら、歩ける。汗も減る。体力の消耗が段違いだ。
目印は、星と風。
昼に見た岩の帯を背に、風が一定に抜ける方向へ進む。
足音は砂に吸われる。世界が静かすぎて、自分の呼吸だけが大きい。
水は作れる。氷も作れる。
けれど、暗闇で無闇に魔力を使えば、判断が鈍る。
しばらく歩くと、地面の感触が変わった。
砂が深くない。小石が混じり、足が沈みにくい。
ここなら、少し休める。
グレイスは布を低く張り、風を背に受ける形で身を縮めた。
眠らない。目を閉じない。
ただ、呼吸を整えて、脈を落とす。
グレイスは水筒を取り出し、封を外した。
冷たすぎない温度の水を一口飲む。
喉がほどける。胸の痛みが少し引いた。
生きている感覚が、ようやく戻ってくる。
休む時間は短くていい。
夜を全部寝床にしたら、移動できる距離が減る。
空の色が、少しずつ変わり始めた。
東が薄く白む。
グレイスは立ち上がる。
明け方も移動の時間だ。日が上がる前に、次の“昼の陰”を確保する。
彼女は歩き出した。
砂漠の冷たい空気が頬を撫でる。
それでも、昼よりずっと優しい。




